光のまたたき
しろい吐息がこの町の景色をなぞり、泡となって消えてゆく。冬。その白さはぼやけながら、空気に溶け込んでいなくなった。ああ、また一つ滅びる。
「ねえ、みて。陽が暮れはじめているよ」
「あ、ほんとうだ。綺麗ねえ」
夕暮れどき、ここにいる私と親友のふたり。私たちだけの目を通して、映し出される世界はあまりに聡明で、触れることのできないヘヴンみたいだった。
決して、綺麗だけでは片づけられない渋谷という街に降り立ったけれど、思っていたより優しい。
きっと、空が澄んでいるから。雲は透明になって、陽の光をありったけ降り注ぐから。
橙色の太陽は、はるか遠くまでその手を伸ばし、下へといくほど淡い桃色に染めた。
「はあ、本当によかったね。上京してきて」
「うん。あんな息の詰まるとこ、捨ててきて正解だった」
「うん、大丈夫かな」
「なに言っているの。これからでしょ」
「そうだね」
そう、たった数時間前まで、田舎にいたはずの私たち。ずっと二人で手を繋ぎながら、もらったお金で新幹線に乗り、ここまでやってきた。
もう手元を束縛するものはなくて、少なくとも家族という錘はかなたへ沈んだ。
はじめまして、これからの未来。
きず
十一月。今日は、いつもより暖かい陽気のはずなのに、私の居るところは凍りついていた。
「だから、あんたがまた借金を抱えてきて、どうするのって聞いているのよ」
「うるせえな」
どごっという鈍くて重みのある音がリビングを揺らす。またか。たったいま、家庭内で暴力が蔓延する。その苦い空気は私の肺を汚していき、いつしか呼吸が浅くなる。
父がパチンコを繰り返し、母は途方に暮れる。けれど、母も経済力がないために家からは出られず、父との喧騒に明け暮れてばかりだ。
いつになったら私は救われるだろうか。名もない誰かの温もりを、途方もなく深い闇の中であてもなく掴もうとしている。でも、きりがない。
「どっちもいい加減にしてよ」
私はもみ合っている両親と冷たい視線を交わす。
「じゃあ、あなたからも何とか言って、借金やめさせてよ」
「はあ、近所迷惑だよ」
「困るのはママじゃないのよ、あなた、もう今年で受験生なのに、大学に進学するためのお金もないじゃない」
「はいはい、そりゃ、私のバイト代も全額ここにつぎ込んでいるようじゃあね」
ほんとうに、聞いてあきれる。この家には自分の部屋はおろか、寝るところの仕切りさえない。いつものように、トイレと風呂場が両用になった、古くて狭い水場に引きこもる。こうして私を囲う雑念を遮断する。下水道の嫌な臭いは鼻から舌へと広がり、まずい味までしてきた。
父の借金だって私が肩代わりしているというのに、きっと母は自身が高卒であったからだろう、私の進学について口出ししてくる。ならば、私の毎月のバイト代だって大切にすればいい。
私は軽く身支度をすると、玄関先で所々が千切れたシューズを履いて扉を開ける。そのとたん、からっとした芳ばしい空気があふれ出し、昼間の鮮明な明かりが目の裏を擦った。
「どこ行くの」
「ちょっと外行くだけ」
私は問いかける母に背中で答える。
「はあ、ほら見なさいよ。あの子すら、ああなるじゃない。あんたが父親としてしっかりしないせいでしょう」
「ああ、なんだと。俺が何したんだってんだ」
「なによ、その言い草」
どこかに出かけていく私は誰にも構われず、いつしか透けて存在を失いそうだった。そのままアパートの階段を下りていくと、靴音は響き渡りながら二人の言い合いは遠のいていった。
ぐんぐんと風を切って歩きながら、たむろできる場所を探す。
おぼこい子どもと手を繋いで、スーパーの袋をたずさえながら、帰路へ向かう人もいる。はたまた背丈が不釣り合いなわりに、歩幅がぴったりなカップルも。私のとなりを何食わぬ顔で、ただ過ぎていく人たちは幸せだろうか。私と違って。
「ママ、僕もう歩いて疲れたー。だっこお」
「ええ、あとちょっとじゃない。今日はグミを買う代わりに、いつもより遠くのスーパーもついていくって言ったよね、もう」
後ろから駄々をこねる男の子と、それに答える悲鳴めいた声が耳をふさぐ。そうか、ありきたりな言い合いって、この程度のものなのだ。きっと日常に溶け込んでいくのだろう。いつかは大切にされていた証になるような、そんな言葉の掛け合い。
それに比べて、私なんて。
そのまま冴えない面持ちと、くすんだ眼で遠くばかりを仰ぐ。周りの景色なんかに目配せもせず、遮っていく。こんな暗い気分で日の当たる外へいると、見知らぬ誰かが羨ましくなってくる。なんだかイライラして、しょうもない。だから、ぴたりと前だけを向く。
その時だった。遠くの真ん中に小さな公園があった。
しばらく、ここにいよう。立ち並んで揺れるブランコにどすんと座る。ちらっと横を覗くと、もう片方にはやけに不揃いなショートヘアの女の子が漕いでいた。同年代っぽいが、こんな子は、私の高校では見かけたことがない。変わった髪型に目が離せずにいると、急にその子は動きを止めて、私と向かい合わせになる。
「えっと」
まずい、なにも考えていないのに。思わず、うめき声が漏れてしまった。急にこちらを向かれても、なにもないけれど、このままでは話すしかない。
「えーと、ここら辺に住んでいる子だよね、たぶん」
「あ、うん」
「う、うん、当たり前か、そんなの。あはは、は~」
一つ一つの動きが怪しげで、なんの規則性もなく口元がうろたえる私のせいで「ぷ」と女の子が笑う。
ざんばらで、先端がとがったり引っ込んだりした毛先を揺らして「くくく」なんて腹を力ませている。そんな雑な身のこなしに不相応な、かわいい笑顔でもったいないと思う。こんな虹でもかかったかのような、大きく羽を伸ばした二重幅なんて、いくらするだろうか。整形しても、まったく同じ瞼を作れるかは別だろう。
「笑いすぎだって」
つかのまに敬語もすっこんだまま、私のツッコミが喉奥から弾けだした。
「ごめんなさい、はは」
「この辺の子なのに、私の高校では見たことないね」
「ああ、まあね。訳あって、学校に行けていないの」
「えっ」
「うちさあ、なんていうのかな、親から虐待されていて。この歳になっても未だに家で、こき使われているの。あ、十八ね」
まっすぐに私を捉えて離さないその子の瞳は、私なんかより何倍もたくましい漆黒を放っていた。
「でさ、いい歳して、ここにやってくる子って、うちと同じなのかなって。ほら、あなたの靴もボロボロだし」
「え」
「さっきね、ようやく父親が昼寝したから、こっそり抜け出してきたんだ。じゃないと、家の中はゴミでぐちゃぐちゃで耐えられないから。この髪型は、いつも珍しそうに色々な人から見て見ぬ振りされるけど、罰なの」
「なんの」
「んー、逆らうことの」
これ以上は問うことができない。聞いてしまってはいけない気がした。この言葉の続きは、
しっかり閉ざしていることに意味がある。
息をつく暇も与えず、ヴェールがはがれていき、私の脳裏へと語られる素性はとても痛ましい。この子は、保っておかなければならない人との距離というものを知らない。いや、というより分からないのだろう。彼女自身が経験してこなかったから。きっと家では教育と称した、すさまじいほど穢れた扱いを受けているのだろう。それがなにかなど、はっきりとした景色はみえなくていい。
それよりも「そんなとこ、さっさと捨てようよ。私と一緒に逃げよう。お互い、家族がクソで、そんなもんなんだから」と叫んでいた。
すごく重みのきいた形相をしているのだろう。力みすぎて、眉間が皺寄っているのが自分でもわかる。
「へっ、そんなこと言っても急すぎるよ。どうやるの」
「そんなことは後からいくらだって考えられるよ」
「ええ、無茶だよお」
「ほら、いくよ」
「名前はなんていうの。うちは、ミキ」
「そ、ミキね。私はアイ」
すぐさまミキの腕をつかむと、ぐっと引き連れていく、名ももたず目的もないどこかへ。
この瞬間から、すでに私たちは同じ傷跡を共有して、一緒に膿をすすっていた。怒りなのか決意なのか覚悟なのか、そのどれでも形容しがたい感情と私は何かを誓った。
それこそミキはおろか、私のことも自らの手で救うことを約束したかのように。
おと
ただ勢いに任せて、ミキの腕をとって、強く足を踏みだした時だった。
「あ、あのね、もう一人連れていきたい子がいるの」
「ん、ああ、誰よ」
さっと後ろに目をやると、思い悩むように俯いたミキが、私を全力で引っ張って止めていた。ガリガリにやせ細って、肉付きも何もなく、ちっぽけな角張りだけ残った腕で。めいいっぱい。
「えっとね、うちの弟なの。弟も一緒に連れ出さなきゃ。まずは、家までついてきてくれる」
「弟がいるんだ。それは大事だね、わかった」
「うん、案内するね」
ミキに弟がいることが少し想像つかなかった。なにより、一人で公園にいたから。私はミキの頼りないか細い背中を追って、道を曲がったりまっすぐ行ったりする。そのうち砂利道にさしかかると、質素なアイボリーに壁がベタ塗されたような、こじんまりとしたアパートがある。
「ここがミキの家なのね」
「うん、ちょっと待ってね」
そういうと、わざわざ家の路地裏へ回り込み、せまい物陰から私を手招きする。すかさずついていくと、じめじめした濡れっぽい土が靴底を汚し、せせこましくアパートの壁があった。ここは裏側のせいか、正面からは分からなかった、錆びた正方形の窓が姿をみせている。虫をよけて、雑草の茂みをかき分けると、ミキは「ちょっと今だけ静かにしてて」と目を細める。
何をするのだろうと思うと、ミキは私たちの背丈より数センチほど高い窓ガラスに耳を這わせて、丸めた指先でひそやかにコンコンとつつく。けれど、あまりに微かな音すぎて、近くにいる私ですら空耳だろうかと疑うほどだ。
「なにやっているの」
「いいから」
ミキは私に待てと言わんばかりに手のひらで静止すると、次にギイと内側から窓の片方がずれていく。ゆっくりとすべて開くと、まだ小学生くらいの男の子が顔をのぞかせる。やたら色白で、無垢な雰囲気をしていて、やわらかい口元をきゅっと結んでいる。
その男の子は私と目が合うと、「お姉ちゃん、その人は誰なの」とひそひそ声で尋ねる。まだ声変わりしていない。やや甘いささやきのようだ。
「えっとね、この人はアイっていう、お友達かなあ。ショウもこっちにおいでよ」
「いやだ。外には出たくない」
「うーん、どうしようか。あ、この子が私の弟でショウっていうの」
ミキがショウを連れ出したいという割には、きっぱりショウは拒否しているのが腑に落ちなかった。
「え、ミキどうするの。弟はそこから出るの嫌がっているじゃん」
私が思わず、野太いような声色で聞き出すと、それと同時に「んごお」といびきが響く。こちらからはわずかな寝姿しか確認できないが、ショウのそばに父親らしき、いかつい男が眠っている。それも、ごった返したゴミだらけの布団の上で。黒ずんだタンクトップに毛むくじゃらな肌といった感じの強固そうな人物だった。腕は筋張っていて、やけに厚みがありそうだ。私たちでは、到底かないそうにないと悟る。
「ちょ、とりあえず引き返そう。あそこにいるの、父親でしょ。あんな奴が起きたら、やばいよ」
私はそうとっさに口を開くと、ちらっとショウに目をやるが、やはり父親のほうを振り返って緊張で固まっていた。その小さな体がまとっている、端の破けたパジャマをぎゅっと手一杯にぎりながら。いま起きてこられては、ミキの弟がかわいそうだ。
「うん、ショウはもうあっちいきな。お姉ちゃんは友達とまた外に行っているから」
ミキはふわっと軽くショウの頭をなでると、そう声をかける。
「ショウくんは一旦しばらくそこにいたほうがいいね。あとで私たちが迎えに来るからね。よし、ミキいこう」
私はまたミキの腕を引っ張ると、走ってアパートから踵を返す。
しばらくしたところの歩道で止まると、はあはあとミキはかがみながら息を切らしていた。
「お父さんはいつも通り、夕方までは、寝ていると思うから。だから、あと数時間のうちに帰れば、問題ないはず」
ミキは華奢な肩を上下させて、途切れながらも話す。
「そうなの」
「うん、アイとうちはこのあと、どうするの」
「うーん、あそこを出ようにも、弟のショウは来てくれないんでしょ」
「うん。ショウは無理な気がする」
「ねえ、どうしてなの」
「ちょっとまって、説明するから」
ミキは道路に面した白いガードレールにもたれる。少し息を整えると、私に「ショウはね、音に過敏なの」と答えた。
「え、音に過敏ってどういうこと。そういう障がいってこと」
「いや、私もよく分からない。病院なんて、ろくに行かせてもらえないし。だけど、一番はじめにこっそりショウと私であそこを抜け出したとき、ショウが泣いちゃったの。耳をふさいでいて、なんだか苦しそうで。特に車とか、それ以外の音もとても大きくて、耐えられないんだって」
「ええ、そうなの。そっか、すごく音に敏感なんだ。どうりで、ショウくんは雑音の多い外には出たがらなかったわけね」
「そういうこと。だから、いくら父親の暴力がひどくても、ずっと引きこもったままなの。でも、それを生かせるときもあるよ。だって、さっきも、うちのあんな小さなノックにも気づいて窓を開けてくれたでしょ。あれは、ショウが音によく反応できるからだと思う。おかげで、いつも父親を起こさずに、静かに家に戻れていたんだよ」
「ああ、なるほど」
わずかな音を拾うことのできる世界は、きっと私たちでは届かないところにあって、ともに理解し合えるかはわからない。それでも、あの子を遠い存在として放したくはなかった。そこに理由なんて、いらない気がした。
いつか閉ざされたところから去り、三人が笑っている日々が訪れることを願う。ただ、ひたすら祈っている。やわらかい風は、走ったばかりの私たちの熱と心を洗った。
もの
私がショウくんをどうしようかと悩んでいるうちに、煮え切らない頭が考えることに限界を迎えそうで、思わず悔しい気持ちになる。もっと、これといった発想力があればいいのに。
ここは私たちの住宅街から外れた、とくに寂れた道路で、もともと田舎であることがくっきりとする。そんな、どうでもいいことに気が散ってきた時だった。
「きゃっ」
とつぜん背中に鈍痛が走り、私はよろける。なんだろう、何かがぶつかった気がした。
その刹那、あーあ誰だよ、とまだ沸点の低いイライラがよぎる。
私は痛みを感じながらも振り返ると「おわっ、すんませんっ」と言い放ちながら、やらかしたといった感じで渋い表情をしている男がいた。
その男は錆びついた自転車を片手に、申し訳なさそうに立っているというより、気まずそうに目をそらす。なんだ、こいつ。ぶつかってきたのは、そっちなのだけど。私はぎゅっと眉をひそめると、失礼しちゃうと思い、腕を組んで仁王立ちをする。
「大丈夫だった」
隣で唖然としていて、あんぐりと口だけ開けていたミキが、私がまとっている不機嫌そうなオーラを察して心配する。
「うん、大丈夫。あの、ぶつかったのが私だからよかったですけど。はあ、今度から気を付けてくださいね」
こういうやつには、少しわからせてやった方がいいのだ。ふん、ばかめ。
私は白々しく、やや偉そうに注意をする。あんまり言いすぎても、そばにいるミキが居づらくなるのは可哀そうだ。背中はめちゃくちゃ痛いのだが。
「えっと、本当にすんません。今度から気を付けますんで」
「はい、わかりました」
「では」
互いに少し言葉を交わすと、男は猫背気味で私の反応をうかがうように、ぺこぺこしながら去っていく。その時、少し懲りたのか、垂れ下がっていたイヤホンをさっと両耳からとる。なんだよ、そりゃ音楽聞きながら運転していたら、危ないに決まっているじゃん。
「はあー、あぶないあぶない。よかったよ、ぶつかるのがミキじゃなくてさ」
「そうだ、イヤホンだよっ」
「は」
「ショウに耳栓を買ってあげればいいんだっ」
「みみ、せん。ああー、なるほどね、そしたら音を防げるわけね」
ミキと私は、ぱっと見つめ合う。ふたりとも、まるで世紀末のアイディアでも思いついたかのように目を開いている。心なしか、瞳の奥も煌めいている。
「それこそ、あそこにコンビニあるしさ」
「ん」
ミキがあそこ、と指さした先には、道路を数メートル下った端にちらっと売店が佇んでいた。うーん、こんなへんぴなところに構えているお店なんて、品ぞろえに不安が残るが。
「まあ、いっか」
私はつぶやく。
「ん、なあに」
「いや、なんでもない。おっし、ミキと一緒に行くか」
「うんっ」
うみ
私たちは、道路のフェンスに沿って、ぽつりぽつりと歩を進めていく。私たちのいる県は海がすぐ近くにあり、いつでも砂浜が臨めるので綺麗だ。今も、小波の音とともに波打ち際のそばで潮風の流れを受けている。肌寒い。
「ついたー」
「あ、あのね、アイ」
「おん」
「私さ、急に家を抜け出してきたから、お金なにも持ってないんだよね」
「ん、私も金ないわ」
私はミキに言われて、こっちも家を抜け出してきて、一銭もないことにはっとする。ん、やばいのでは。いや、だけど、ここまできて何も得るものがないのはダメだと思ってしまう。だって、ショウくんが待っているのだから。きっと、今も心細いことだろう。
「ねえ、ミキ」
「なあに」
「ショウくんのために、なんでもする覚悟はある」
きつい目つきで、ミキとじっと対面したまま、固唾をのんで返事を待つ。
「うん。わたし、ショウのためになるなら、全力でなんでもするよ」
「わかった。じゃあ、そこで待ってな」
「え、一緒に行かないの」
「とりあえず、そこにいて。私がいいよって言うまでは」
「うん」
うんというミキの返事をしっかりと心の中で受け止めると、コンビニ(といっても、ほぼ色褪せたヴィンテージものの売店)へと入っていく。
私はミキの覚悟を目の当たりにしたのだ。なら、私だって、同じ度量でショウくんを助けることに挑まなきゃ。
数々の商品が陳列されている端っこには、なんの主張もなく二、三個ほど置かれているスイミング用の耳栓があった。これだ。この時ばかりは、海のある土地ならではの品ぞろえに感謝しかなかった。浮き輪なども壁に立てかけられているが、どうでもいい。
ふと「いらっしゃいませ~」と声をかけられる。そんな軽快な挨拶をする、ふくよかなおばさんの店員が通り過ぎていくのを待つ。体格のよい姿が裏へ消えていくのを確認する。
よし、いけ、わたし。
すうっと息を呑むと、耳栓をそっと掴んで、肩にかけたショルダーに素早くしまい込む。それを一切レジに通すことなく。
そのまま、駆け足でお店の自動ドアが開いたと同時に、
「あなたっ、待ちなさいっ」
と大きく張り上げた女性特有の甲高い声が響く。
その声の主は後ろから私に走って寄ってくると、私の腕をぐっと握り、この場に留まるほかなかった。ああ、まずい。はっとして後ろを見ると、さっき、すれ違ったおばさんの店員がいる。もういなくなったと勘違いしていた。これから先を想像すると、心臓がはねた。
でも、もう、いっか。ミキには外にいてもらっていて、害がないだろうし、これ以上失うものなどない。あーあ、ショウくんだけは助けたかったな。
そう深い絶望感を噛み締める。
「ちょっと、こちらに来なさい。きちんと話をしましょう」
私は店員のおばさんに裏部屋へと連れられて、ぶすっと返事もせずに、窓の外に顔を向ける。
すぐそばにある海辺は、波に反射される光がきらきらとまばゆくて、とても美しい。私もそんな風にみんなを照らしながら、明るい景色へと導けたらいいのに。それこそ、海という楽園はすぐ隣で鼓動を放っているのに、実は遠い存在でしかない。だからこそ、憧れる。これ以外のヘヴンはあるのだろうか。
かね
「で。これは万引きよね。どうして、こんなことしたの」
おばさんの前でふてくされながら、私の前にぽつんとある耳栓にだけ注視する。
「はあ。あなた、自分が何したか分かっているの。でも、大した物を盗む気もなかったのでしょう。こんな耳栓なんて」
こんな耳栓、なんて言うな。私たちには何より大事なもので、あんたにとって、ちっぽけでもショウのために望みをかけていたのだから。いつのまにか、おばさんを真っ向から睨んでいた。
「まったく。あなたのご家族に電話しますからね。番号を教えてちょうだい。それか警察に行くかのどちらかよ」
「いやだ」
はあっと、おばさんは再度、ため息をつく。
「あのねえ、あなたの将来のためを思って、まだ警察沙汰にせず済ませようとしているのよ」
「別にいい。警察になんて、既に世話になっているし」
そう、父親の暴力や親の喧嘩から逃げるために、夜中だって家を飛び出すことがある。そこでよく補導されるのだ。ミキなんて、暴力のみならず、自由に出歩くことすらままならないのだから、よっぽど酷い。おばさんは、やや沈黙したあと、静かな声で問う。
「もしかして、家の人に頼りたくない理由でもあるの」
「なんで、そんなこと聞くわけ。別に」
「もう、いいわ。この耳栓ならあげるから。帰りなさい」
「え」
「家庭内で、なにか良くないことがあることぐらい、分かるわよ。じゃなきゃ、今頃こんなところで万引きなんてしないでしょう」
思わず、唖然としてしまった。誰かに、それも大嫌いでしかなかった大人に、自分を受け入れてもらったことなどなくて。唐突に感情が沸き上がった。
この時ばかりは、なぜか涙をこぼして「たすけて」と訴えていた。震えながら泣いている私の手を、おばさんは握ってくれた。はじめて、包み込まれる手のひらの暖かさを知った。人って、こんなにぬくもりに溢れていたんだ。
「おねがい、友達のことも助けて」
「その子は、どこにいるの」
「いま、このお店のあたりにいる。外で、私を待ってる」
涙を拭いながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「落ち着いてね。あのね、まず、家庭内でどんな扱いを受けているか。そこから教えてほしいの」
その後、私はミキを呼び出すと二人して、家庭のことや万引きに至った理由からショウくんだけは助けたいことを説明した。私たちは泣きじゃくる。そして、改めて、ミキはもっと色々な暴力を受けていることが分かった。腕まくりをすると、痛々しい痣が滲んでいた。
おばさんは、ただ頷くだけで、なんだか胸の奥がくすぐったい。一通り話し終わると「まずは、三人で弟さんを迎えに行きましょう」と投げかけられたので、ミキの家に戻る。今度はおばさんも一緒に。
ゴミだらけでミキの寝る場もない部屋、腐敗臭、同じくガリガリにやせ細った痣だらけのショウくん、そのどれもが厳しい現実を物語っている。
ミキの父親はまだ眠っていて、煩くいびきをかいている。ショウくんに手を伸ばすと、もらった耳栓を両耳にはめてあげる。すると、だいぶ音へのストレスが緩和されるようで「こっちに来れるかな」と聞くと、こくっと頷いた。
かすかに「おいで」といって、抱きかかえたショウくんは、どんなに過酷な環境にあっても幼いせいか柔らかい肌をしていた。
ショウくんだって、こんなに可愛いのに。なんで、あんな親なのだろうと虚しくて、しょうがなかった。私たちだって、もっときちんとした教育を受けて、温かい居場所さえあれば変わっただろうか。そんなの、未知数な可能性でしかなかった。そう、数ある分岐点のなかで、生まれる環境だけは選べなかった。
そっとショウくんの小さな背中をなでると、ぎゅっと私の袖を握り返してくれた。
「ねえ、二人とも、今から私たちについてきて」
おばさんは言う。
「え、はい」
「はい」
ミキと私は交代してショウくんを抱っこしながら、ある所へたどり着く。それは、こんな田舎の県内でも主要な駅だった。目的がよく分からない。
おばさんは立ち止まると、
「あのね、よく聞きなさい。あなたたちに、百万円をあげます。それで、どこか遠い、誰も知らない土地へといきなさい。そして、そこで働いて、私たちのことなど忘れなさい。いい、誰にも左右されることのない、自分たちの人生を歩みなさい」
と力強く語る。その表情には、一点の曇りもなく、揺るがない決意を感じる。
「え、でも」
「いいの。金なんか、返さなくたって、いいのよ。他のことを考えることはよしなさい。これは、あなたたちへ私が勝手に抱いた情です。私だってねえ、うんと若いころは父親から逃げ出すために、そこらへんにいたおじさんから金借りてまでここに来たのよ」
どうりで、尽くしてくれるのか。重なるものがあったのかもしれない。
「あなたたちを束縛する人がまた連絡することもないよう、警察にきちんと報告しておきます。あなたたちは、自らの意思で家出したということにしておけばいい。弟さんのことも、ちゃんと幸せにしてね」
ははっと笑う、おばさんの笑顔はとても素敵だった。いや、色眼鏡はあるかもしれないが、なにより夕焼けのオレンジ色の光をまとっていたのだ。
「ありがとうざいます」
「ええ、いってらっしゃい」
いってきます。
ありがとう、未だ名前も知らない、にこっと笑うおばさんへ。この日を境に、ミキと私とショウくんは、確かに解放されたのだ。ありがとう、いってらっしゃい、いってきます、おはよう、こんにちは、こんばんは。はじめて、挨拶が私たちの背中を押してくれた。
夕日に立ち向かうように、ミキと私は手を繋いで、東京を目指した。とても軽やかな一歩を踏み出していった。
あい
新幹線に乗ってからは、東京に着くまでの数時間をミキとのおしゃべりで過ごした。東京なら、どんな仕事でもありそうだけど、どうするとか。ショウくんは、ミキの膝の上で眠っていた。すうすうと寝息を立てて、かわいい。これも耳栓のおかげだ。
そのまま、ショウくんをおんぶして、電車に乗り換える。
「あ、もう渋谷だって」
「うわ、本当だ。降りよ」
「やばい」
改札を出てから、地上へと昇る。
ふわっと夕焼けの色彩が、人々を覆う。橙色の焼けたような空は、冬の寒さに露わになる吐息と同化していく。はあーと吹くと、ぼやけた白さは蒸発していった。
はじめまして。これからを形作るこの土地へ、心からそう呟いた。