踏んではいけない
踏んではいけない
私の実家はとにかく大きかった。
門を抜けて、しばらく歩き、母屋に着くと上がり框があった。
夏、サンダルで足が砂だらけになった日なんかは、祖母が井戸からブリキのバケツに水を汲んできてくれた。上がり框に座らせてもらい、その冷たい水で足を洗ってから、家の中にあがるのだった。
玄関をあがってすぐ右に、お茶の間があった。大きな掘りごたつのある、広いお茶の間だった。
「唐傘天井」と言う、まるで唐傘を広げたのを内側から見上げているような、特殊な装飾の天井を持っている部屋だった。
今日は、このお茶の間や玄関、上がり框について話したい。
熱い夜だった。私はまだ小学校の低学年だった。
お茶の間から出て、お台所に行こうとした。
お茶の間から廊下に出る時、つい襖の敷居を踏んでしまった。
その途端に真上から、水が「バシャーッ!」と降ってきた。
瞬間、
(これはにんげんじゃない。)
と理解した。
私の首から背中にかけては水に濡れて、あっという間に体が冷えた。
玄関や上がり框の方が、暗く闇を持っていた。とてもじゃないが、そちらを振り向くことが出来ない。
私の上方、後方、それから左側は、絶対に向きたくない。
お台所のある方へ、明るい方へと私は小走りに向かった…
お台所には、ダディがいた。
一生懸命に説明して、一緒にお茶の間の襖を見てもらった。
結果、襖も敷居も全く濡れていなかった。
私の背中だけがびしょびしょだった。
「大丈夫。うちにそんな悪いものはいないよ。」
と言ってくれたが、私は怖かった。
数日後、今度は私はお台所でぼーっとしていた。
私は体が弱かったので、外で遊ぶことはあまりたくさんは出来なかった。家の中で遊んだり、家の中から庭を眺めることが多かったのだ。
お台所の真ん前の床の間は、襖が開け放たれて、ずっと向こうの縁側までよく見えた。
真夏の日差しが、庭の松を貫いていた。
と、その瞬間、いきなり手前の床の間の襖が、「タァンッ!」とひとりでに閉まった。
閉まる力が強すぎたのか、反動で跳ね返り、細く開いたほどだった。
私は驚いて、声が出なかった。
(にんげんじゃない。)
とだけ、思った。
もちろん、床の間には家族は誰もいなかった。
ダディにまた言ってみた。でもやはり、
「大丈夫。うちには悪いものはいないよ。」
と言う。
本当は、私は、分かっていたのだ。
畳の縁や襖の敷居を踏むくせがなかなか直らない、私が悪かったってこと。
私が、何かに怒られたってこと…
それ以来、私は和室に入る時は、畳の縁や襖の敷居は、絶対に踏まないようになった。