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loiter  作者: コトヤトコ
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【四】

 兄が出て行ってから三日間を、千草はまた時間を無為に過ごして潰した。その間に生理は終わり、いつも通りの下着を身につけている。小花模様の、綿の下着。

(濃い、春休みだったな…)

 こんなにも外出をした長期休みは初めてだった。こんなに、気分が浮き沈みをしたのも。

 今日からは、また学校が始まる。始業式、と書かれたカレンダーの白さが目に痛い。

 森さんからは、結局メールはぱたりと来なくなっていた。彼女の家出の原因が千草だと思われて、接触を禁じられているのかもしれないし、森さんが体調を崩しているのかもしれないし、単純に忘れられているのかもしれない。理由を確かめるほどの執着は、千草には無かった。

 兄には、一度だけメールをした。今までありがとうという、ただそれだけのメール。けれど返信はなかった。

――困ったときは、兄ちゃんに、メールするんだよ。どんな時間でも、良い。授業中でも、忙しくても、寝ていても、絶対に、兄ちゃんは、千草の所に、行くから。

(…困ってるよ。お兄ちゃん。私、とても困ってる)

 ぎゅう、と千草は両手で自分を抱きしめる。

(――お兄ちゃんが居なくて、困ってる)

 けれども、最後の枷を外したのは、きっと自分で。

(お兄ちゃんはきっと、傷ついたんだ)

 絶対に変わらないと、誓ったのに。兄の告白のあとに、立ち上がれなかった自分。

――たぶん、俺は…燕じゃなくて――きっと…。

 千草は目を伏せる。燕かどうかを問うた幼い頃の千草。彼女を呪いたい気持ちがわき上がる。

 通学用の斜めかけ鞄(電車通学なので、ランドセルはやめたほうがいい、と父が言いこちらになった)と上履きなどを入れたトートバッグをちらりと見て、目をそらす。

(ずっと、変わらなければ良かったのに。ずっと春休みで、ずっとお兄ちゃんが家に居て。ずっと二人で留守番をして。――ずっと、そのままで良かったのに)

 無意味な空想をしながら、千草は、指輪を撫でる。結び目を、何度も。



 久しぶりの学校は、クラス替えもなく担任替えもなく二週間の空白を感じさせなかった。つまりそれは、千草に話しかけてくる人間はいないということで。

 始業式の後、簡単な挨拶と連絡事項を伝えた担任は、ぐるりと皆を見回して言う。

「今日は、明日行われる入学式の準備をします」

 男子は体育館で椅子の準備、女子は一年生の教室に行って机の上に道具箱や教科書類を並べてきて下さい――。

 千草は一番前の席でその言葉を聞く。大丈夫か、というように担任がちらりと視線をよこした。千草は小さく頷く。やっぱりサボれば良かった、という気持ちが僅かにちらつく。

 指輪は外して、マカロンストラップの中に入れている。携帯電話に付けたそれを持っていきたかったが、校内での携帯電話の使用は禁止されている。

 クラスメイトは、わざわざだれも話しかけては来ない。千草はのろのろと女子の後をついて一階へ向かう。一年三組の教室を目指す途中の廊下で、森さんを見つけた。

(――…元気そうだ)

 彼女は、同じ「ことばときこえの教室」の佐藤果歩と何かを楽しげに手話で話していた。

(『果歩ちゃんは悪口ばっかりでつまらない』って言ってたのに)

 面白くない気持ちになって、千草は目をそらす。一年三組の教室ではクラスの女の子達が、何かを早口で話してはしゃいでいる。そのうちの一人が、こちらに気づいて近寄ってきた。

「あ、千草ちゃん。えーと、この、袋、を、机に、配ってくれる?分かる?つぅ・くぅ・えっ」

 千草は頷き、彼女の差し出したキーホルダーが沢山入った箱を受け取る。

「一人、ひとつ、ね。ひ・と・つ・ず・つ」

 うん、と千草は答えて頷く。彼女はほっとしたように息を吐いて、クラスメイトの輪の中に戻っていった。お疲れ、偉いね、伝わって良かったね。そんな風に言われているのかもしれない。千草は目をそらして、机の上にキーホルダーの入った袋を一つずつ置いていく。

 一年生用の机と椅子は、とても小さかった。兄と出会ったときの千草はこんなに小さなものに座っていたのだろうか。兄が、守ろうとしてくれた千草は。

(いつの間にか、私はこんなに大きくなってた)

 不意に、頬の上のあたりが熱くなる。もしかしたらそこが、涙の産まれる場所なのかもしれない。慌てて上を向くと、残りの袋を置いていく。

 置きながら、千草は思う。

 兄を解放しなくてはいけなかったのだ。ずっとずっと、守ってくれた兄を。こんなに、大きくなったのに。いつまでも、この椅子に座っていられると思っていてしまった。

(――…お兄ちゃん、ごめんね)

 あの時の道哉と同じ、小学校六年生になったのに。泣いて騒いで甘えていた自分。

 全てのキーホルダーを配り終えると、箱を教卓に置いた。ぱ、とそれを先程千草に配るように指示した女子が奪うように取った。

「お疲れ様」

 にっこり笑った彼女は、箱を抱えて教室を出て行く。いつの間にか教室には四人ほどしか残っていなかった。彼女たちも、そろそろ出ていこうとしようか、という雰囲気を醸し出している。そのうちの一人が、千草を見て、何処かごまかすような笑みを浮かべた。彼女はええと、と言ってから黒板の隅に字を書く。

『教室、もどっていいと思うよ』

 ありがとう、と千草は小さな声で言う。彼女は、うん、と答えて黒板消しでその字を消した。

 彼女たちの後ろを歩きながら、千草は六年三組の教室を目指す。今度は、森さんとは会わなかった。



 学校を出て、ようやくほっと息を吐く。駅に向かう途中で、マカロンストラップから指輪を取り出してはめる。

 歩きながら、担任の顔を思い出した。

――えー、では、明日は、まず一年生を教室に迎えに行きます。そして、こういった花を付けてあげて下さい。そして、手を繋いで体育館に行きます。今年度の一年三組は、全部で三十二人です。で、うちのクラスは三十四人なので、二人余りますね。…余った二人は先生の手伝いをして下さい。まあ、他のクラスとか、あとはうちのクラスでも欠席者が出たら、そっちを手伝ってもらう事もあると思いますが…。

 多分、明日の千草は一年生の教室には行かない。

(まあ、一年生もその親も困るよね。耳が聞こえない子が担当じゃ)

 まあね、と千草はだれにともなく頷く。

(明日は学校サボろ。久しぶりにゲームでもしようかなあ…)

 あまり千草はゲームの類が好きではないのだけれど、家にある本や漫画はもう飽きてしまっている。どうにか、時間を潰す方法を考えながら、駅の改札をくぐって、電車を待つ。あの学校で電車通学をしているのは千草ぐらいだった。だれにも会わないという確証が、千草の心をほぐす。指輪を見て、そして深くため息をついた。

(…お兄ちゃんに、会いたいな)

 昼間の電車は、空いていた。空いている座席に腰掛けようとして、千草はその人に気づいた。

 あ、と思わず声が漏れていた。その人も、すぐに千草に気づく。

 久しぶり、とその人は笑みを零した。元気だった、と。千草は頷く。そして、ドアにもたれかかるようにして立っていたその人の側へ行く。

 車内は空いているけれど、数人の人がいる。なるべく小さな声を出すように努力しながら、千草は言う。

「この間は…えっと、ジュースごちそうさまでした」

 うん、と言って森さんのお兄さんは更に笑みを強めた。くしゃり、とした笑顔が酷く眩しい。

 不意に千草は、頬が赤くなるのを感じた。

(もう、お母さんが変なこと言うから…)

 どうしたの、と彼に問われ、千草は慌てて首を横に振る。

 彼の通う高校は、千草の小学校から三駅のぼり方面に行ったところにあると言った。ゆっくりと労るように、彼は話す。

「今日は、始業式だったから、早くてさ。あ、そっちもか」

 はい、と千草は頷く。不思議な感じがした。兄と同い年の、けれど兄ではない男の人と電車で並んで腰掛けている。

「部活は、無いんですか?」

 問うと彼は頷いた。

「午後から、自主練はあるんだけど。今日はお袋が、病院に行くから。里桜の面倒、見なくちゃいけなくて」

 そうですか、と千草は答える。彼は、他愛のない話を続ける。お袋が、千草ちゃんのトコのカフェのコーヒーを気に入ったみたいだよ。そう言えばこの間地震があったけど、大丈夫だった?来週からテストなんだ。

「――あ、やべ」

 え、と問うと電車のドアが閉まるところだった。丁度その駅は、お兄さんの降りる駅で。

「――やっちゃった。時々やるんだよね、乗り過ごし」

 何処か恥ずかしそうにはにかむ彼に、千草も自然と笑顔になる。

「私も、この間やりました」

 初めてお兄さんと会った日。結婚のことを、考えていたとき。ぼうっとして乗り過ごした。不意に、兄の顔が思い浮かぶ。

 次の駅で、二人は降車する。じゃあ、と反対方面のホームに向かおうとして、お兄さんは首を傾げた。

「――元気、無いね?」

「え?」

「何かあった?」

「…いえ…あの、何も…」

 不意に、頬骨の上が揺らぐ感触がした。いけない、と思ったけれど既に遅く。声に、水分が混じる。

「――私、何も…」

 言いかけた千草に、お兄さんは優しく笑う。

「お茶でも、飲まない?この間のお礼に、奢るよ」



 いつか森さんを見つけたファミリーレストランに、お兄さんは連れて行ってくれた。まだ十一時台だったけれど、そこは八割方の席が埋まっていた。

「何か、食べる?」

 千草は首を横に振る。家に帰れば、母の作った何かがあるはずだった。そう、と彼は頷いて何かを店員にオーダーする。

「ドリンクバー、持ってくるよ。何が良い?」

「あ…じゃあ、コーラ…」

 言うと彼は頷いて、ドリンクバーコーナーへ行く。千草は左手の薬指を見つめた。兄と、同じ会話をしたことを思い出す。

 コーラのガラスコップが二つ置かれる。一方を千草の方に差し出す。彼は何も聞かなかった。ただ、静かに言う。

「君たちが思ってるほど、高校生っていうのは大人じゃないんだよ」

 千草はぼうっとお兄さんを見つめる。うん、と彼は頷いた。

 不意に、目の前にショートケーキが置かれた。顔を上げると、笑顔の店員と目が合う。食べなよ、と彼は言う。千草はそれを口に運びながら、彼の言葉を脳内で反芻する。

「――…どうして」

 呟くと彼は、笑った。どこか困ったような、心配そうな、そんな顔で。

「…うん、ごめん。実はお袋経由で、ちょっと聞いちゃったんだ。よく、君のご両親の、トコの、カフェに行ってるみたいで」

 そう言って彼は笑う。

「…所詮、まだ高校生なんて、子供なんだよ。勿論、立派に自立している人だって、いるけど…。俺だって、まだまだ子供だ。――妹には、かっこつけるけどね」

 千草は頷いて、そして問う。

「妹…里桜ちゃんに、もし、嫌なことされたら…許せますか」

 当たり前じゃん、と彼は言う。

「家族だもん。例え、物理的に離れようと、絶対に切れない存在だよ。どんなに喧嘩しても、泣かされても。だって、家族だから」



 翌日、朝起きてすぐに休みたいと申し出ると、母は僅かに曇った顔を見せた。

「…体調、悪いの?」

「そう言う訳じゃ無いけど…。今日は…入学式だけだし」

 昔は、体調が悪いと嘘をついたこともあったが、今は余計な嘘はつかない。素直に言うと母はため息をついた。

「来週はちゃんと行きなさいよ」

 その言葉で千草は今日が金曜日なのだと気づく。指輪をはめると、心が凪いでいくのを感じた。

 森さんは、学校に行ったのだろうか。彼女は今日、新入生に何をしてあげるのだろう。ふと、彼女の兄が頭に浮かんだ。――彼は昨日、ミサンガを付けていただろうか。

 がば、と千草は起き上がる。残りの糸を入れた箱を、どこにしまっただろうか。

 それは、机の上に置きっぱなしになっていた。何日も目にしていた場所なのに、目に止まらなかったのは何故なのだろう。上に積まれた漫画を下ろして、蓋を開ける。

(黒と、緑)

 信念と、優しさ。千草は、糸の端を掴むと、別の糸と絡めていく。

(お兄ちゃん)

 千草は心の中で、呼びかける。

(お兄ちゃんの願いは、何ですか)

 少しずつ、ミサンガが長くなっていく。不意に、視界がぼやけた。

(お兄ちゃんの、欲しいものは、何ですか)

 ぽとり、と涙がこぼれ落ちた。手のひらに、潰れた水滴が広がる。皮膚を滑り落ちていく、決して染みこんでいかない、水。

 どんなに涙が出ても、手は止まらなかった。無意識でもきちんと、確実にミサンガを編んでいく。

――だって、家族だから。

 森さんのお兄さんの言葉が、補聴器に木霊する。

 千草はミサンガの、最後の始末をする。黒と緑の、V字模様のミサンガ。ぎゅう、と糸を絡ませる。

 ゆっくりと千草は立ち上がる。そして、クロゼットを開けた。

 どれを着ようと、ぼんやりと掛かっている衣服を見つめる。

――千草の好きな色は、何色?

 千草は、淡いグリーンのカーディガンを手に取る。

(ゆかりさんの、ワンピースとは全く違う)

 手触りも、布の質も、色の深みも。

(でも)

 千草の、好きな色だった。優しくて淡くて、柔らかくて。ふと思い立って、ブラックウオッチチェックのワンピースを探した。ポケットを漁ると、そこにはピンクと赤の、ぐちゃりとした糸の塊が入っていた。歪んだそのミサンガを、手首に巻く。

(私の、願い)

 階下に降りると、髪をとかして歯を磨いた。ダイニングテーブルに置いてあったバターロールを立ったまま全て食べる。うん、と力強く頷く。白いスニーカーに、足を入れる。

(――私の、欲しいものは)

 扉を開ける。外は晴れている。千草は、ゆっくりと駅に向かって歩き出す。カーディガンと、ミサンガの色は明らかにあっていなかった。けれども。

 駅につくと、深呼吸をした。学校と家を結ぶ路線以外の電車に一人で乗るのは、初めてだった。自動券売機の横にあった路線図を睨むように見つめる。指でたどりながら、何度も乗換駅を脳内で復唱する。滑り込んできた電車に乗り込む。時刻は、午後十二時。母が帰宅するまでに、まだ時間は十分にあるはずだった。

(ごめん、お母さん)

 心の中で呟いて、祈るように千草は車内モニターを見つめる。



 乗り換えの駅で多少迷いながらも、A駅に到着したのは午後二時だった。どうにかたどり着けたことに、安堵の息を吐く。きょろきょろとあたりを見回しながら、記憶を頼りに目的地を目指す。財布の中には、千円札が一枚だけになった。帰り道の交通費には足りるが、万が一これが無くなったら、帰れない。

 無意識に鞄を身体の前に持ってくる。心細さが唐突に千草を襲った。兄と二人で歩いたときは、何一つ怖いものなど無かったのに。

(――…大丈夫。大丈夫)

 自分に言い聞かせながら、左手の小指を撫でる。撫でている右手の手首に、赤とピンクのミサンガが揺れる。

 さほど難しい道のりではなかった。その通りは、すぐに見えてくる。深く深呼吸をしてから、千草はその通りに足を踏み入れた。

 ゆっくりと歩きながら、両側の店を一つ一つ見ていく。革小物。ビーズアクセサリー。帆布鞄。そして、一軒の店の前で、千草は足を止め、そして、茫然とそれを見つめた。

 店の中は、明かりも消えていた。暗い、その小さな箱のような店の入り口には一枚の紙が貼ってあった。

『閉店のお知らせ』

 そう、大きく明記されている。足から力が抜けて行くのを感じた。急激に身体が冷えていく。

(――閉店…)

 意を決して、その張り紙の近くへと足を進める。鉛のように、足が重い。

 恐る恐るその字を読む。

『このたび、20××年3月31日をもちまして、閉店させて頂くこととなりました。今後は、webショップRにて委託販売をしていく予定で御座います。(アドレスはパンフレットに載っています)

 宜しければ今後はこちらにて、商品を見て頂ければと思います。

 訪れて下さった全ての皆様に、感謝を申し上げます。デザインW 佐和田紫』

 千草はそれを、幾度も幾度も読む。

(…閉店)

 不意に気配を感じて、そちらに視線を移す。隣の店の人だろうか。店頭ディスプレイを弄りながら、こちらを不審そうに見ているのが分かった。

「――…あの…」

 千草は言って、鞄からメモ帳とペンを取り出す。いつか、父に貰った付録のものだ。それに字を書くと、その人に頭を下げながら渡した。母に習った、“話しかけ方”を思い出しながら。

『私は、よく耳が聞こえません。お時間あったら、筆談で少しだけお話させてもらえませんか』

 その人は面食らった顔をして、そして、こくり、と頷いた。指で丸を作ってくれる。ほ、と千草は息を吐いた。

『このお店の人の、連絡先を知りませんか?』

 その人は眉根を寄せる。それから、少し丸みを帯びた字で、千草の差し出したメモ帳に字を連ねた。

『あなたは、サワダさんと、どういう知り合い?』

 千草は俯く。兄の母です、と言ったところでこの人は納得してくれるだろうか。千草が沈黙をしていると、その人は首を傾げた。更にメモ帳に字を書き入れる。

『小学生?まだ学校は春休みなの?』

 千草は、ええと、と口ごもる。その人は益々不審そうな顔をする。

(…駄目だ、ちゃんとしないと教えてもらえない)

 千草はメモ帳にまた字を書き入れていく。

『私の兄が、ここのお店の人と知り合いなんです。兄と連絡がとれないので、お店の人なら知っているかなと思ったんです』

 その人は眉根を寄せた。

『お兄さんが、行方不明ってこと?それならけいさつに届けた方が早いんじゃないの?』

 どうしよう、と千草は目を伏せる。本当のことを言った方が恐らく怪しまれない。けれど、べらべらと家庭環境を喋るのは何となく良くないようなことにも思える。迷っていると、その人は困ったような顔で千草の方を見ながらこう書いた。

『パンフレットの裏に、ブログのアドレスがあるよ。そこで連絡を取ってみると良いかもしれないよ』

 そのメモ帳を渡すと、その人は張り紙の下にあるパンフレットを千草に渡した。ほら、というように指さされた場所には英数字の羅列――つまりはブログのアドレスが書かれていた。千草はぺこりと頭を下げた。

「あの――ありがとう、ございました」

 言葉を口から漏らすと、その人は、いいえ、と答える。

「連絡、取れると良いね」

 彼女はそう言って、千草に手を振った。千草はもう一度礼を言うと、パンフレットを持って駅の方向に歩き出した。指輪を、縋るように撫でる。

 駅に行く途中、兄と昼食を取ったファミリーレストランの前を通った。ちら、と窓から覗いたが、兄の姿は無かった。

(――…私は、何のためにここに来たんだろう)

 ゆかりさんが閉店をしていたのは誤算だったとはいえ、兄が居る可能性はとても低かったはずで。

 帰ろう、と小さく呟いて千草は改札を抜ける。

 ホームに滑り込んできた電車に、乗り込み、携帯電話を開く。時刻は間もなく三時に近づこうとしていた。ぼんやりと、受信メールを新着順に一通一通眺める。星園道哉、という名を見る度に肋骨の隙間に何かが差し込まれるような気持ちになる。

(…お兄ちゃん)

『鍵とチェーン、開けて~』というメールばかりだった。よく見ると、一番最後に付いている絵文字が全て異なっていた。ふ、と千草は笑みを零す。所々に、森さんからのメールも紛れ込んでいる。そしてまた、兄からのメール。『そこ、動かないで。今から迎えに行くから』

(…そうだ、迎えに来てくれたんだった)

 森さんの家に、初めて行った日。電車が止まって。やや汗ばんだ兄が、走ってきた。思い出すだけで、胸が潰れそうに痛い。泣きたく、なる。

『助かった!ありがとな~!部屋にある漫画読んでていいよ~!』

 あれ、と千草は首を傾げる。これは何のメールだっただろうか。一つ前のメールを、選択する。

『ごめん、俺の部屋の机の上に紙、無い?Tシャツの店なんだけど。そこに書いてある名前と住所、写メって送って!』

(ああ、そうだ…。Tシャツのお店…写真に撮って――…あれ?)

 千草はじっとそのメールを見つめる。鼓動が、いつの間にか早くなっている。母は何と言っていただろう。

(…生徒会の用事は、三学期中に終わってたって言ってた…よね)

 千草はデータフォルダから写真を選択して、それを見つめる。メモ用紙に書かれた字は、何処かで見たような、きれいな字で。

(…S区って――…お兄ちゃんの、学校の近く…?)

 母は、学校から近いと言っていた。

(――…Rマンション…四○五号室…)

 いやいや、と千草は首を横に振る。

(違うかもしれないし。大体、そろそろ帰らないと行けないし…お金ももうあんまりないし…)

 うんうん、と自分を納得させるように千草は携帯電話をしまう。そして、ふと鞄の中に入っているパンフレットに目が行く。

(とにかく、明日にでもカフェのパソコンでブログを見てみよ…あ、でもお父さんに見つかったら良くないかな…。図書館のパソコンって小学生でも使えるのかな…)

 ぱら、と何かを誤魔化すようにパンフレットを開いた。ふと、千草はパンフレットの裏面にあるコラムに目を止める。

『アクセサリーのモチーフの意味を、ご存じですか?』

 そう書かれた文字の下には、ボールペンで書いたような簡素なモチーフの絵が書かれている。その横に、意味も書き加えられている。

(あぁ…お店にもあったやつだ…)

『星は希望。鍵は幸運。王冠は成功。クマは貯蓄。林檎は喜び。』

(クマが貯蓄って、何でだろ…なんか可愛いな)

 お金を持っているテディベアを見ながら、ふふ、と笑いながら千草はそれを読んで――そして、目を見開く。

『リボンは、絆。大切な人に贈る、愛の誓い』

 周りのものが、全て止まったかと思った。車窓から見える、風景も。ぽつぽつと乗っている乗客も。空気も。千草の、心臓すらも。

(お兄ちゃん――)

 そして、最後の文字を見てゆっくりと目を瞬かせる。

『デザインW 佐和田紫』

 そこにある社名は、紛れもなくメモのものと同じで。

 丁度電車は駅に滑り込んだところだった。えい、と勢いを付けて電車を降りる。降りたホームでベンチに座り、千草はメモ帳に字を書き込んでいく。それを持って、改札近くの駅員室へと向かった。

 あのう、と声をかけると一人の駅員が、はい、と言いながらこちらに向かってくる。千草は、お願いします、とメモ帳を差し出した。

『私は、耳がよく聞こえません。この住所の場所に行きたいのですが、行き方を、教えてもらえませんか?』

 メモの下には、住所を記している。駅員さんは、うんうんと数度頷いた。少し待っていて下さい、と彼は近くにあった紙に書くと、室内から地図を持ってきた。ページをめくりながら、ああ、と頷く。

 彼はチラシのようだったの裏に、乗り換えを記してくれた。そして、その下に字を付け加える。

『地図、よろしければコピーしましょうか?』

 千草はこくこく、と頷く。彼は背を向けて、奥にあるコピー機に行く。千草はほっと息を吐いた。通学途中以外の駅で駅員室に行ったのは初めてだった。

(優しい人で良かった…)

 彼はコピーした地図の、マンション部分を蛍光ペンで塗って示してくれた。千草は頭を下げる。

「ありがとう、ございました」

 お気を付けて、と駅員さんは言う。千草はもう一度頭を下げると、最初の乗り換え駅を目指すべく、歩みを進めた。



 少しずつ、電車の中は混み始めていた。帰宅する風の中高生や、何処かに出掛けた帰りという風の中年女性達が何かを話して笑い合っている。千草は座席横の手すりにもたれかかりながら、母にメールを送った。

『少し、出掛けています。遅くなるかもしれないけれど、絶対に帰ります。だから心配しないで下さい』

 電車の揺れに身を任せながら、千草は無意識に兄の姿を探している自分に気づく。

(――…居るわけ無いって。お兄ちゃんは今日も学校だし…)

 そこまで思って、千草は、自嘲の笑みを漏らした。

(そっか。学校に行けば良かったのか)

 兄の学校は、千草の家から下り方面に五駅行き、乗り換えて更に三駅。少なくとも、ゆかりさんの店に来るよりはずっと近かったはずで。ああ、と息を吐いて千草は空を見る。けれどそう思いながらも、電車を降りることは出来なかった。

 千草は握りしめた携帯電話のストラップを眺める。

(違うな…私はきっと、ゆかりさんに会いたいんだ)

――あちらのお母さんが、一緒に住みたがっているんですって。

 母の言葉が木霊する。千草は、知りたかったのかもしれない。兄の気持ちを。その為にゆかりさんに会いに行った。

(もしゆかりさんに会ったら、私はなんて言うんだろう)

 お兄ちゃんは、元気ですか。本当にゆかりさんが、お兄ちゃんと住みたいと言ったんですか。どうして離婚したとき、お兄ちゃんを引き取らなかったんですか。

 千草は車内モニターをじっと見つめる。指輪を撫でて、千草はじっと、ドアを見つめた。今日は絶対に、乗り過ごさない。そして今度こそ、扉の前で躊躇わない。空っぽの部屋なんて、もう見たくないのだから。



 駅員さんに教えてもらった駅に着いたときには、夕方の四時を過ぎていた。財布の中は、いよいよ小銭だけになった。自宅まで帰れるかどうかは分からない。母からは心配するメールが届いていた。

(ごめんね、お母さん)

 呟くと、もらった地図を広げる。

(ええと――…東口がここで…目の前にコンビニ…あ、あった)

 少しずつ夕方の空気が満ちている空が、千草に焦りを囁きかける。知らない町は、よそよそしい雰囲気を醸し出している。

(…銀行があって…二つ目の信号を、曲がる…あ、これ…?)

 マンションは、思った以上に大きなものだった。十階以上はあるだろう。横幅も広く、ベランダの数を見る限り、一階に十世帯は入りそうだ。外観はシンプルだけれど綺麗なグレーのタイルが張り巡らされていて、入り口には大理石のようなものが貼られていた。やや気後れしながらも、玄関に足を踏み入れる。そして、そこに備え付けられていた機械を見て、千草は、ああ、と息を吐き出した。オートロックなのだった。番号を押して、相手と会話をして、そして開けてもらう。その存在は知っていたけれど、実際に使うのは初めてだった。機械の表面には、使い方が書かれている。

一、訪問先の番号を押して、呼び出しボタンを押して下さい。二、通話ランプがついたら、解錠を依頼してください。

(――…四○五号室…)

 震える手で、番号を押す。小さなモニターに、数字が表示された。そして、呼び出しボタンを押す。胸が、まるで全力疾走をしたあとのように激しく揺れていた。けれど、通話ランプは付かなかった。

(…あれ…?)

 千草は、呼び出し中ランプをじっと睨む。どうして、と呟いた。

(――…ああ、そうか…)

 不意に千草の瞼が熱くなる。

(…私、通話が出来ないんだった…)

 機械越しでは、相手の声はきっと上手く聞き取れない。だからきっと、この機械は通話ランプを点けてくれないのだ。千草は、マンションを出る。綺麗なエントランスの植え込みを見つめると、それは徐々にぼやけて。食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。

「――…おにいちゃん…」

 左手の小指を見ると、涙を通したせいなのか、指輪はぼやけて千草の瞳に映る。まるでそれは、あの夢のようだった。解けていく錯覚を覚えて、千草はいっそう涙を零す。泣き止まなければこの悪夢は消えないのに、どうしてもそれが出来ない。歪んだその風景は、ただただ、寂しい。

 不意に、何かが聞こえた気がした。補聴器を通して、何かが。ああ、と千草は笑う。幻覚の次は、幻聴か。

「――!」

 その声は、優しくて、柔らかい、世界で一番好きな声。千草は瞳を覆う涙を拭わないまま、そちらを見る。ぼやけた世界に、一番見たかった幻覚が、現れる。

「千草…どうして」

 その言葉と同時に、千草はそれに抱きしめられた。ぐい、と顔が押しつけられて涙が彼の衣服に全て吸い取られていく。強く、きつく、千草を巻き付ける腕は、それでも優しくて。僅かに彼の手が緩み、千草はようやく顔を上げた。水分を失った瞳に、それは映る。

「――…お兄ちゃん」

 兄は、何処か泣き出しそうな顔に見えた。柔らかな髪が、風に揺れる。

「…お兄ちゃん…」

 もう一度呟くと、兄は千草の頭を抱え込むようにまた抱きしめる。煙草の匂いは、しなかった。



 兄は、千草の手を引いてマンションへ入った。慣れた手つきでポケットから鍵を取り出して、先程の機械に入れる。千草はぼんやりと彼を見ていた。兄は、グレーのパーカーに黒いTシャツ、デニムというラフな格好をしていた。手にはコンビニの袋を提げている。中には菓子パンとカップラーメンが見て取れた。デニムの後ろポケットには財布が入っている。エレベーターのボタンを押して、そして繋いだままの手を、ぎゅう、と握りしめた。

「…よく、ここが、分かったね?」

 兄の言葉に、千草は、こくん、と頷く。到着したエレベーターに乗り込みながら、千草は問う。

「――…ここは、ゆかりさんのおうちなの?」

「うん…。そう、だね」

「ゆかりさんは、家にいるの?それとも、お仕事?」

「…え?…あ…うん。えっとね、今日は――…彼氏の家に、居るよ」

 え、と千草は声を上げる。兄は、困ったような笑みを浮かべた。

「そのうち、再婚するみたいだよ。今は、週三ぐらいで行ってる」

「――…一緒に、住みたいんじゃなかったの…?」

「うん…。まあ…色々あって。今すぐ結婚、とは、いかないみたいでね。それまで、って事かな」

 エレベーターは静かに四階に到着する。自然な動作で兄は、部屋に千草を招き入れた。帰った方が良い、とも送る、とも言わずに。

 部屋は、広くて、とても綺麗だった。大きな観葉植物がリビングには置いてある。ソファとコーヒーテーブルに、壁掛けテレビ。ダイニングテーブルは二人がけ。奥にはベッドルームと、大きな机のある部屋があった。不意に足下に何かの感触を感じて、千草は飛び上がる。――猫が一匹、いた。

「…猫…?」

「ゆかりさんのね。ジジっていうんだ」

「…ジジ…」

 うん、と兄は頷いてコンビニの袋をキッチンに無造作に置いた。

「後もう一匹…ミィって言うのも居る。――あぁ居た。あそこだ」

 兄が指を指したところに、確かにそれは居た。棚の上でこちらを睨んでる。

「あいつは人見知りだからね」

 兄は言う。千草は、心の奥底でほっとしている自分に気づく。兄と、二人きりではないという、安心。例えそれが人間でなくても。

「もう、家には帰ってこないの?」

 ぽつりと零した千草の質問に、兄は、やや躊躇ってから、分からない、と答えた。

「…とりあえず、一年間はここに住もうと思ってる。大学は…もしかしたら、ちょっと遠くに行くかもしれない」

「…遠く…?」

 受かればね、と彼は言う。

「…時々は、帰ってくる?」

「――…うん。そのつもりだ」

 そっか、と千草は呟く。うん、と言って彼は、視線をそらす。

「真琴さんに、メールした?」

「…あ、まだ…」

「じゃあ、俺、ちょっと電話するよ。コーヒーでも、飲む?」

 彼はそう言うと、コーヒーメーカーに、粉と水をセットする。ゆかりさんのものなのかもしれない。兄は、スマートフォンを弄って、耳に当てる。あまり大きくない声で、何かを話している。何処かすまなそうな表情で。

 通話を終えると、兄はコーヒーを綺麗な花の絵が描かれたマグカップに注いで、千草の目の前に置いた。千草の分には、牛乳と砂糖も入れる。

 どうして来たのか、とは兄は問わなかった。ただ、千草がコーヒーを飲むのを眺めている。

「――真琴さんが…遅くなる前に、千草を返してやってくれ、って言ってた」

 ぽつりと兄が言葉を零す。千草は、こくん、と頷き、彼を見る。

「――私…お兄ちゃんの、欲しいものを、聞きに来たの」

 兄は、ぽかん、と千草に視線を返す。何度か目を瞬かせる。どういうこと、と視線で問う。

「…いつも…私ばっかり、色んなものをもらってたから…」

 そんな、と彼は呟く。

「…そんなこと、気にしなくて良いのに」

「――…ううん。私…どうしても、お兄ちゃんに、何かしたいの。…あの、あんまり高いものは…買えないかもしれないけど…」

「いや――…そんな…」

 言いかけて兄は沈黙する。自分のマグカップを、じっと見つめる。そして、ゆっくりと顔を上げる。

「――…それを飲んだら、帰った方が良い。送るから」

 千草は下唇を噛む。いつか、血が出た場所。やや厚ぼったくなっている、そこを。

「…嫌だ…」

「千草」

「――嫌だよ…」

 泣くのは、子供みたいだから、嫌だったのに。どうしても涙は溢れて来てしまって。

 千草、と兄の口が動いた。

「帰りな。父さんも、真琴さんも心配してる」

 そう言うと彼は、静かに一言を付け加えた。

「来てくれて、ありがとう。それだけで、俺は、十分だから」



 千草と兄は、改札を抜ける。きっと家まで送ったら帰るのだろうと、そう思った。

(…猫ちゃん達も、居るしね)

 千草には父母が居るけれど、あのマンションにいた二匹には、今は兄しか居ないのだ。

 電車は、酷く混んでいる。揺られながら、兄は千草を庇うようにゆるく抱いていた。鞄の中で、携帯電話が震えているのが分かった。けれど、それには手を触れない。

 電車は、次の駅に到着した。しかし、そこから発車する気配はなかった。千草を抱いていた兄が、眉根を寄せる。周りの乗客も、何処か落ち着かないように天井を睨んでいる。

「――お兄ちゃん?」

 問うと兄は、しっ、と言って人差し指を唇に当てる。ややあって、周りの乗客が突然動き出す。兄も、千草の手を握りしめて、それに倣って下車をした。ホームの端に千草を誘導する。

「…どうしたの?」

「人身事故だって。――…参ったね。金曜日の夜に」

 兄はそう呟いて、混雑を見つめる。

「せめて次の次の駅まで行ければ、乗り換えてどうにか帰れたかもしれないんだけど…歩くとちょっとかかるしな…。ちょっと待ってて。バス検索してみる。それで駄目ならタクシーで――」

 そう言ってスマートフォンを取り出した兄の手を、千草は押さえる。

「…前の駅までだったら、歩ける?」

「え?でも、前の駅だって、乗り換えは…」

「――…帰らなくても、良い」

「千草…?」

 鞄の中で、携帯電話が震えている気がする。もしかしたら、自分の身体が震えているだけなのかもしれないけれど。

「…あの部屋に、一緒に帰りたい」

 兄は目を見開く。でも、と言いかけた彼に、千草は言葉を紡ぐ。

「――…もう少しだけ、一緒にいたい…」

 駅は、混雑を極めていた。何処かに電話をかけているサラリーマン。ため息をつく女の人。駅員に何かを問うている中年女性。兄は、それをちらりと見てから、千草に視線を戻す。困ったような兄の顔は、この上なく幼く見えた。



 駅を出たところで、兄が母に電話をかけた。

「ええ。――…電車が止まって。はい。大丈夫です。うん。はい」

 千草はどうにか背伸びをして彼の口元を見たが、相づちばかりで一体どういう話をしているのかはよく分からない。

 はい、はい、と何度か繰り返して、兄は通話を終わらせた。

「歩ける?疲れてない?」

 兄の問いに、千草は大丈夫、と答える。駅前のタクシー乗り場は、既に長蛇の列だった。

(――あの人達は、少しでも早く帰りたいのかな)

 駅前には漫画喫茶やファミリーレストラン、ファーストフード店などが並んでいる。カプセルホテルや個室ビデオ(何をするところかよく分からないけれど)もある。電車が動くまでそのあたりで時間を潰す、ということはしないのだろうか。高いお金を払って、彼らが求めるところは。

「――千草」

 トントン、と兄が肩を叩く。

「お腹、空いてない?何か、食べて帰る?」

「ううん。まだ大丈夫。――…お兄ちゃんの…家で、食べる」

「じゃ、途中で、何か買って帰ろうか」

「うん」

 行こう、と言って兄が自然に千草の左手を取った。リボンの指輪の付いた小指も、柔らかな兄の手のひらに包まれる。

 あの日、自転車を押す兄の後ろ姿に願ったこと。手を繋ぎたい、という願いはあっという間に叶った。ふと、右の手首に視線をやる。いつの間にか、ミサンガは切れてなくなっていた。

(――…嘘。どこで落としたんだろ…)

 元々編み方が甘かったからだろうか。洗濯をして、糸が弱ってしまったのだろうか。それとも結び方が緩かったのだろうか。先程の満員電車でだろうか。或いは、その前に何処かで?

 兄の手のひらに抱きしめられた左手で、彼の手を抱きしめ返す。

(…私の願いは、叶ったってことなのかな)

 だとしたら、と千草は思う。

(どうかお兄ちゃんの願いも、叶いますように)

 鞄の中に眠る、黒と緑のミサンガを思う。どうか、と千草はもう一度心の中で呟き、そして千草は足を止める。怪訝そうに兄が振り返った。私、と千草は言葉を紡ぐ。

「ごめんね。やっぱり…どうしても聞きたいの。お兄ちゃんの…欲しいもの」

「…俺の」

 兄は戸惑ったような顔をしていて。千草は、不意に胸の奥がクン、と妙に捻れた痛みのようなものを覚える。

「――俺の、欲しいものは…」

 お兄ちゃん、と言って、抱きしめたいような衝動が、その痛みの中から産まれる。

「…俺は――…」

 呟いて、兄は泣きそうな笑みを浮かべた。

「――千草が、幸せであれば…それだけで良いよ」

「嘘」

 思わず呟くと、彼は更に顔を歪ませる。

「嘘じゃないよ」

「…私にはそんなことしかできないと…思うの?」

 千草、と兄は言う。けれど、それ以上は何も言えないようで。

「それはどうして?私が、まだ小学生だから?それとも、私が…障害者だから?妹だから?」

「そんなことない…本当にそう思ってる。俺は、千草の幸せを…」

 絞り出すように、兄は言う。嘘、ともう一度千草は言った。

「――私は、お兄ちゃんのことが、好き」

 思った以上に、大きな声が出た。道行く人が、数人振り返った。

「昔、どんなことをしていても…それも、ちゃんと受け止める。どんなことをしていても、お兄ちゃんは、お兄ちゃんだから」

 兄が再び千草の名を呼ぶ。何人かの人が、足を止めて二人を見ている。

「――お兄ちゃんが、例えば、未成年なのに煙草を吸っててもっ、枕の下にっ…エッチな本隠してても!」

「…ちょ…え?ちぐ――」

「部屋の片付け出来なくてぐちゃぐちゃでも、自転車の後ろに乗せてくれなくても、スマホばっかり弄ってても、つまんない漫画が好きでも…!」

 それでも、と千草は言う。今度は泣かないように、ぎゅ、と拳を握りしめる。

「それでも、私はお兄ちゃんのことが好き。傷つかないし、変わらない。私は、どこにも行かない。――だから」

 言葉を切って、千草は兄を見つめる。

「お兄ちゃんの、欲しいもの教えて。私の出来る限り、あげるから」

 そう言って千草は、鞄からミサンガを取り出す。黒と、緑色。

「これ…えっと、あげる」

 もっと良い言い方はないのか、と自問しつつも、そのミサンガを兄に差し出した。もっとかわいくて、もっと優しい言い方は、と。

「――…これ?」

「ミサンガ、って言って…その、願い事が叶う、お守りなの。これが切れたときには…願いが叶うんだって」

 だから、と千草は言う。街灯の下で見るその色は、深く綺麗で。

「――…私には、こんなことしか、出来ないけど」

 泣くもんか、と千草は瞼に力を入れる。

「私は、ずっと…ずっとずっと、想ってるから」

 兄の、右手首にゆっくりとそれを巻く。

「――お兄ちゃんの、願いが…叶いますようにって」

 ぽとん、と兄の手の甲に水滴が落ちた。

(――…あれ?私…いつの間に泣いて…)

 泣かないと、思ったのに。と顔を上げる。けれど千草の睫毛は濡れていなくて。

(…お兄ちゃん…)

 泣いていたのは、兄だった。彼の瞳に映る街灯の光が、揺れている。千草は兄を、抱きしめる。兄は、身体を少し折り曲げてそれに答えた。頬の横に、兄の髪の毛が揺れる。柔らかな髪。千草はそれを、幾度も撫でた。通行人の視線を、痛いほど感じる。けれど。

――周りの人間なんて気にしなくていいよ。どうせ何もしてくれないんだから。千草のことは、兄ちゃんがよく知ってる。それだけでいいだろう。後の人間なんて、注目されようが無視されようが、どうでもいいだろう。

(…うん。どうでもいいよ。お兄ちゃんが居てくれれば、それで)

「お兄ちゃん。――大丈夫だよ。千草は、どこにも行かないよ」

 こんな小さな声でも、兄の耳は拾ってくれる。

「お兄ちゃん、大好き」

 そして、彼の頭を抱きしめた。

「ずっと、頼っていてごめんね。今度は、私の番。――私が、あなたの燕になるから」



 途中、コンビニエンスストアに寄り、三〇分ほど歩いて再びマンションのドアを開ける。

「疲れただろ。ご飯、先食べよう」

 彼はそう言って、お弁当をレンジに入れて温め、その間に再び母に電話を掛けた。ええ、今家に着きました。大丈夫です。

「お母さん、なんて言ってたの?」

「うん。心配してたよ。千草を宜しく、って何度も言ってた」

 そっか、と千草は答える。

 改めて部屋を見ると、あちらこちらにゆかりさんの気配を感じた。クッション一つとっても、素材にも色にもこだわっているのだということがよく分かる。大きな机のある部屋は、彼女のアトリエのようで、段ボールが山積みになっている。兄の荷物も紛れているのかもしれない。

 兄と向かい合ってお弁当を食べる。猫は、部屋の隅で兄が準備したキャットフードを食べていた。

 食事を終えて、兄は風呂にお湯を張った。先に入っていいよ、と彼は言い自分のスエットを千草に渡す。

「…さすがにでかいか。一応、ウエストは、紐で絞れるんだけど…。ちょっと待って、今、ゆかりさんの――」

 言いかけた兄の腕を千草は掴む。

「大丈夫。これで、いい」

「そう?」

 うん、と千草は頷く。下着はまた同じものになってしまうが、仕方がない。コンビニでちらりと見たけれど、どれも大人向けだった。子供が緊急に宿泊する等というシチュエーションはあまりないのだろう。

 お風呂は、一軒家の千草の家と同じぐらいの広さがあった。但し、こちらの方が綺麗で新しい感じがする。モノトーンを基調にシルバーの金具が所々で光る。お風呂にあったシャンプー類は、かわいい色使いだった。そっと匂いを嗅ぐと、甘い匂いが鼻孔を擽る。千草は湯船の中で、自分の身体を見下ろす。

(…やっぱり、色気はないよね)

 初潮を迎えたからといって、急激に胸が大きくなったり胴がくびれたりすることはなかった。いつも通りの、子供の身体。それでも、乳首の周りには少しぴりぴりとした感じがする。

 そして、ふと気づく。

(――…二人っきり)

 今までも、家で二人でいることは多々あったが、必ず夜になると両親のどちらか――大抵母だったが――が帰宅する。それに、寝る部屋は別々だった。けれども今夜は。

(…寝室は、一つしかないし…)

 リビングのソファはデザイン性の高いもので、横になって眠る、というタイプのものではなかった。どうしよう、と千草は頬を押さえる。いつか読んだ雑誌の「エッチなお話特集」が脳裏に浮かぶ。

(…ああ、ちゃんと読んでおけば良かった…。どうしよう、どうしたら良いんだろう…。あ、そうだちゃんと避妊しないと…)

 殆ど膨らんでいない胸を抱きしめるように、千草は湯船に顔をつける。

(――…どうしよう…。同じパンツだし…良いのかな…でも…)

 とりあえず、念入りに身体を洗う。髪の毛も同様にして、兄のスエットを着た。袖も裾も長くて、何重にもそれを折る。ウエストは紐をきつく絞ると、酷くおかしなシルエットになった。

(…色気どころじゃない…)

 半分ほどが曇った洗面所の鏡を見て、ため息をつく。

 ため息をつきつつ、洗面所を出ると入れ替わりに兄も風呂へと向かった。

 借りたドライヤーで髪の毛を乾かしてから、ソファに座った千草は再びため息をつく。ふと視線を感じて顔を上げると、猫がこちらを見ていた。人見知りだというミィは異物を見るように千草を見つめている。

「そんなに見ないでよ」

 思わず呟くと、棚の上でミィは更に強く千草を睨んだ。もう一匹の猫、ジジの方は千草に興味がないようでソファの隅でごろごろと気持ちよさそうに寝ている。

 ふと思い立って、鞄のなかの携帯電話を開いた。母から数通メールが来ている。

『今どの辺ですか?なるべく早く帰っておいでね』

『夜ご飯、準備したよ。一旦お店に戻るけどすぐに帰ってくるね。帰ったらメールしてね』

『何時頃帰る予定かな?遅くならないようにね』

『道哉君とまだ一緒だよね?今、どの辺?』

(…ごめん、お母さん)

 必ず帰るとメールをしたのに、と思いながら、ぱたん、と携帯電話を閉じる。ふと顔を上げると、兄が居た。ドライヤーで八割方乾かした髪。紺色の薄手の長袖Tシャツと、黒いイージーパンツ姿。

「千草は、こっちのベッド使って良いから」

「…え?」

 兄は寝室を示して言う。

「…お兄ちゃんは?」

「俺は納戸で、布団、敷いて寝るから」

「え…?」

「え?」

 お互いに、ぽかんとした顔で首を傾げあう。

(――…え?あれ?一緒に寝るんじゃ…)

 そこまで考えて、千草は急に顔が熱くなるのを感じた。

(ああ…私の莫迦莫迦…そりゃそうだよ…大体こんな色気のない格好の私に、お兄ちゃんがムラムラするわけ無いし…ああどうしよう…顔赤いかも…恥ずかしい…莫迦みたい。なんか私、一人だけエッチなこと考えてるみたいだし…ああ、ほんとうに…)

 トントン、と肩を叩かれる。顔を上げると、兄のふわりとした笑みが見えた。

「――何か飲む?」

 問われて千草は頷いた。兄は笑顔のまま、キッチンへ行く。

(あー…もう、恥ずかしい…)

 棚の上からミィが、冷たい視線を送ってくる。

(分かってますよ。莫迦ですよーだ)

 べえ、と舌を心の中で出すと、千草はソファの上で体育座りをする。優しいスエットの感触が、千草を包む。

 ややあって、兄が運んできたココアを、二人でソファに並んで飲む。猫たちは、自分の持ち場を離れようとはしなかった。壁掛けテレビの真っ黒な画面に、二人が映る。微妙な沈黙が、ソファの周りを包む。テレビのリモコンが目の前にあるけれど、それに手を伸ばすタイミングも分からない。千草はそこから目をそらして、そして兄の顔を見た。

「お兄ちゃん」

「…ん?」

 声をかけると、兄は首を傾げて千草を見る。それは、初めて出会ったときから、変わらない仕草。笑んだ弓なりの、瞳。

「本当に、ここで暮らすの?」

 少し躊躇ってから、うん、と兄は頷く。

「もう、一緒には、暮らせないの?」

「…とりあえず、一年。受験もあるし、ここで暮らすよ。で、大学に受かったら…そっちで、一人暮らしをすることに、なると思う」

「…うん」

「――それで、大学を卒業したら」

 言葉を切って、兄はテレビの暗い画面を見つめる。そして、千草に視線を戻した。

「そしたら、帰るよ」

「…帰る…?」

「うん。だから…最短で、五年。五年経ったら、帰る」

「…あの家に?」

「うん」

 言って兄は、少し笑んだ。

「五年後に、会えるのを、楽しみに、してる」

 五年後、と千草は呟く。それは、千草が今の兄と同い年になる年で。

「それまでに、千草は沢山のことを、経験して欲しい。友達を、沢山作って。彼氏も、作って。勉強も、遊びも、色んな事を」

「…うん」

「帰って来たときに、沢山の話を聞くのを、楽しみにしてる」

「お兄ちゃんは、寂しく無い…?」

 兄は笑んで、頷く。

「大丈夫。千草に、沢山のものを貰ったから」

 彼は言って、ココアを飲む。千草はそれに倣う。飲み干したカップを、テーブルに載せる。

「待ってるね」

 小さく呟くと、兄が僅かに驚いた顔をして見せた。

「…待ってる。あの家で」

 お洒落でも綺麗でも無い、あの家で。

「――妹として。待ってる。彼女、出来たら…連れて来てね」

 声が、震える。泣くもんか、と両手を握りしめる。

「…明日から、待ってる。だから――…」

 水分が瞼に熱を伝える。

「今日だけは…」

 それを誤魔化すかのように、千草はソファの上で膝立ちをする。

 二度目のキスは、甘い、ココアの味がした。兄の両腕が、千草を包む。

――家族だもん。例え、物理的に離れようと、絶対に切れない存在だよ。どんなに喧嘩しても、泣かされても。だって、家族だから。

 森さんのお兄さんの言葉が、脳内で蘇る。ゆっくりと唇を離して、千草は言葉を紡ぐ。

「…五年後、絶対に…帰ってきてね…?」

 兄は頷いて、千草の頭を撫でる。胸がじわりと水分を含むように重たくなった。涙の製造場所は、もしかしたらここなのかもしれない。

 ソファの奥で寝ていたジジが、いつの間にか目を覚ましている。

 ふわ、と思わず欠伸が漏れた。こんな時なのに、と千草は恥じる。兄は軽く笑って、寝ようか、と言う。

「…お兄ちゃんは…」

「大丈夫。寝るまで、側に居てあげるから」

 おいで、と兄は言って寝室に千草を促す。

 ゆかりさんのベッドは、少し大きめだった。千草一人を横にならせ、兄は横の椅子に腰掛けた。

 補聴器を外す。もう、兄の声は聞こえない。薄暗い部屋の中で、兄を見つめる。

「…エッチなこと、しても、良いよ」

 千草の言葉に、兄は笑って首を横に振った。

「私…大丈夫だから」

 再び彼は首を横に振る。

「…私とじゃ、したくない?」

 兄は困ったように笑って、ゆっくりと手を動かした。両手を曲げながら、ゆっくり挙げる。

“大人”

 続いて、手のひらを上に上げて、胸の前で交差させる。

“なる”

 彼はゆっくりと、たどたどしく、手を動かす。千草は、それを茫然と見ていた。

“までは”

“駄目”

「…おに、いちゃん…?」

“君が”

“とても”

“大切”

“だから”

 そこまでをすると、兄は、笑う。

「…何で…手話…」

 もう、目の前は何も見えなかった。暗い部屋も、兄も、全てを水滴が覆い隠す。兄は優しく、千草の頭を撫でる。先程千草がしたことと、同様に。

 聞こえるはずのない兄の声が、どこからか聞こえた気がした。



 不意に、頭を撫でていた手が止まった。それと同時に、まどろみから引き上げられるように千草も瞳を開く。

 千草は目をこすって、兄を見つめる。兄は「ちょっと待ってて」と口で言うと寝室を出て行った。

 ややあって、リビングの電気が点けられる。千草は迷ってから、補聴器をつけて、そちらに向かう。ああ、と兄がこちらを見る。

「お迎えですよ。お嬢様」

「え?」

 チャイムの音が微かに聞こえる。はいはい、と言いながら兄は玄関に向かう。千草はそれに続いて、そして思わず声を上げる。

「…あれ?」

 そこにいたのは、両親だった。母は、顔をしかめている。

「…あれ、じゃないでしょっ。心配させてっ!」

 父は千草の姿を見て、安心したような笑みを浮かべている。

「――…あれ?お父さん…え?何で…お店は?」

 父は穏やかに笑って、「臨時休業」と言う。

「え…でも…」

 二人は、遠慮無く、といった風に室内に入ってくる。母がため息をついた。

「全くもう!無断外泊なんて!小学生なのに…!」

「無断じゃないよ…お兄ちゃんが…」

「あんたは、連絡してないでしょうが」

 千草は目をそらす。

「でも、あの――…」

 ぐい、と母が無理矢理千草の顔を自分の方に向けた。

「ごめんなさい、は?」

「…ごめん、なさい」

「全く…っ。学校サボって、電車で家出なんてして!」

 まあまあ、とたしなめたのは父だった。

「ちーちゃんが、無事で、良かったよ」

「――…もう、電車動いてたの?」

 千草の問いに母が首を横に振る。

「レンタカーよ。もー大変だったんだから。免許証忘れて一旦家に取りに戻るし、途中の道は間違えるし!」

「…だれが?」

「治朗さんが!」

 母は頬を膨らませる。

「明日で良いんじゃない?って言ったんだけどね。ちーちゃんに何かあったら、どうしよう、って。道哉が、ちーちゃんを襲ってたらどうしよう、って言うもんだから」

「…襲うって…」

 千草はちらりと兄の方を見る。兄は気まずそうに笑った。

「道哉君は、そんなことしない、って言ったんだけどね。心配で心配で、しょうがないって言ってたわ」

 で、と声を上げたのは父だった。

「…お前は、何もしてないよな?」

 兄は両手を挙げて、苦笑する。

「――誓って、何も」

 くるり、と父は千草の方に向き直る。

「大丈夫だよな?ちーちゃんは。道哉のアホが、何もしてないよな?」

 千草は笑って、そして頷いた。

「何にもないよ。お兄ちゃんが、ちょっと泣いただけ」

「泣…?」

「千草!」

 兄が顔を赤くして声を上げる。父母が、驚いたように顔を見合わせる。そして、さて、と父は言う。

「…帰ろう、ちーちゃん」

 母が気遣わしげに兄を見る。兄は、静かに頭を下げた。

「今日は心配かけて、すみませんでした。千草、元気でね」

 千草は、こくん、と頷く。時計を見ると、時刻は十二時を回っていた。

(――…もう、魔法の時間はお終い)

 既に、「明日」は始まっている。

 千草は、にっこりと笑ってみせる。

「お兄ちゃん、勉強頑張ってね!」

 兄も、頷く。

「千草も。早く彼氏作りなよ」

「お兄ちゃんこそ。結婚式には呼んでね?」

 母が、何処か泣き出しそうな顔で父の方を見る。

「――…治朗さん、ちょっと車、取ってきましょ。千草は着替えてからおいで」

「え?あ――あぁ」

「ちょっと離れたパーキングに停めてあるの。取ってくるから、千草、着替えたら降りておいでね」

 うん、と千草は頷いて、洗面所に行く。畳んであったカーディガンを手に取った。するりと兄のスエットを脱ぐ。柔らかい、肌触り。

 着替え終えると、兄に服を返し鞄を手に取る。

 じゃあ、と言って千草は靴を履く。

「――お兄ちゃん、ありがとう」

 うん、と兄は頷く。

――宜しく、千草。

 あの時と、同じ笑み。彼は言う。

「千草。――またね」

 うん、と頷いて、千草は扉を閉める。

 不意に、分厚い扉の向こう――そこで、嗚咽が漏れた気がした。

 千草の耳には、聞こえるはずのない、細い、泣き声。

 千草は扉の前に座り込んで、口元を手で覆う。千草の、どんな声でも拾ってくれる彼に聞こえないように。

(――お兄ちゃん…)

 いつでも、呼べば振り返ってくれた彼に、聞こえないように。

 千草は立ち上がる。

(…待ってる。五年間)

 指輪を撫でて、そうしてぺたりと扉に頬を当てる。

(大好き…)

 扉の向こうからは、何も聞こえなかった。

 けれども、僅かにぬくもりを覚えて。

 そうして、千草はゆっくりと歩みを進める。暗いマンションの廊下を、踏みしめる。

 今日から、少しでも一人で立てるように。

 映画は、一人で見る。学校はサボらない。友達にも、話しかけてみる。母と、服を買いに行く。今度会ったら、森さんのお兄さんから、メールアドレスを、聞く。

 マンションを出ると、車が止まっている。振り返らずに、千草はそちらへ向かって歩く。

 背後で、自動ドアが閉まる気配がした。

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