【三】
エイプリールフールであるその日の朝早く、六時前に千草は母に起こされた。補聴器を付けろと急かされ、はめ込むと、母は言う。
「里桜ちゃんが、居なくなったんだって。千草、何か知らない?」
「え?」
「この間遊びに行った子よね?今、その子のお母さんから電話があって」
千草は慌てて携帯電話を開く。けれど、森さんからの連絡は来ていなかった。
「…メールは、来ていないけど…」
そう、と母はため息をつく。
「書き置きがあったんですって。家出しますって。無事だといいけどねえ」
森さんの母に電話をしてくると、言って母は千草の部屋を出ていった。千草はぼうっともう一度携帯電話を見る。
(…家出…)
昨日の森さんのふくれっ面が思い浮かぶ。
――凄いねえ、さすが千草ちゃん。
留守番を褒めていた彼女。凄くないよ、と千草は思わず呟く。
(家出の方が、よっぽど凄いよ)
千草は、ほう、とため息をつくと階下に行く。リビングの埃を被った電話機で、母は何かを話している。眉間の皺は大げさなほど寄っている。
「――ええ、お役に立てずにすみません。本当に、大丈夫だと良いですねえ。――え?今からですか?」
千草はそれを横目で見ながら、ダイニングテーブルに座った。父はまた不在で、兄は新聞を読んでいた。千草に気づくと、何か飲む?と問う。
「ホットミルクが、鍋にあるよ」
「――あ、じゃあそれ飲む」
うん、と頷いて兄はコンロの前に立つ。ふと、千草は森さんの兄を思い出す。同じ習い事をしていたと言っていた。兄は彼を覚えているだろうか。しかしそれを問う前に、母が千草の名を呼ぶ。
「とりあえずお母さん、カフェに行ってくる。――千草も、来てくれない?森さんの、お母さんが、話が聞きたい、って」
「話…?」
「里桜ちゃんと、話したこととか、聞きたいんだって。ほら、三日間ぐらいお邪魔してたでしょう?」
「…でも、そんなに話なんて…」
「とにかく、少し来て話してあげて。憔悴しちゃって、可哀相なぐらいなの。ご飯は、カフェで食べればいいから。ほら、着替えて」
ね、と母は言って千草の腕を取る。
「あ、でも…ホットミルク…」
言いかけた千草に兄は笑いかける。気にするな、と言った風に右手を軽く挙げた。
母は物干しにかかっていたシャツワンピースを千草に投げるようにして渡す。着替えて、ともう一度言う。千草はため息をついて、洗面所で渡されたワンピースに着替えた。少し生乾きの匂いがする。違うものに着替えたかったが、これ以上母を苛々させるのも嫌だった。顔を洗って歯を磨くと、母に急かされるようにして家を出る。
歩きながら、こんな状況なのに久しぶりに母と一緒に外を歩いていることが嬉しく思える。まだ早い朝の空気は少し冷たくて気持ちが良い。
カフェに着くと、まだオープン前の店内に森さんの母と兄が居た。
「――ごめんなさい、朝早くに」
森さんの母は疲れ切ったような顔をしていた。父が人数分のコーヒーを運んでくる。机の上には既にパンやマフィンなどが乗っていた。食べな、と母に言われて千草はマフィンを口に運ぶ。
おばさんは、ぽつりぽつりと話し始める。千草のため、というよりは疲れて、といった風にゆっくり言葉を選ぶように話す。
「昨日の夜遅く、十時頃に里桜と一緒に病院から戻ってきたんです。ああ、義母が階段から落ちて骨折しまして。入院先の病院であれこれ手続きをしたり、義母の家の片付けをしていたら遅くなってしまって。帰ってくると、里桜も疲れていたみたいで…お風呂も入らずに部屋に行ってしまったんです。私もちょっと疲れていたので、十一時には布団に入りました。その前に里桜の部屋を見たときには、里桜は居たと思うんです。――亮太郎は次の日朝が早いというので、早めに…寝たのよね?」
うん、と森さんのお兄さんは頷いた。
「友達と、朝から出かけるつもりで。だったんで、里桜達が帰って来てすぐに、早めに寝ました。えーと、十時過ぎぐらい、かな」
「…失礼ですが、ご主人は?」
母の問いに、おばさんは俯いた。
「――昨日は、出張で」
そうですか、と母は言い、おばさんは一枚の便せんを取り出した。
「…里桜の、残した手紙です」
千草はマフィンを咀嚼しながら、それを見る。パステルカラーの可愛い便せんに、薄い水色のラメ入りペンで文字が書かれている。
『家出します。探さないで下さい。けいさつに連絡したら、ぜったいに帰りません。里桜は、とっても おこっています。だれも、里桜のことを、大切に思ってくれないのが許せません。千草ちゃんの、おうちの子になりたいです』
「…はあ」
何処か茫然と母が呟く。
「何に怒っているのか、分からないんです。――確かに、義母はちょっと里桜に辛く当たるところもあって。…その、耳が聞こえないというのが気にくわないみたいで。それで、折り合いは悪かったんです。なので、なるべく義母の病室には入れないようにしていたんですが…」
千草は数回その「置き手紙」を見て、そしてコーヒーを啜った。何処か子供じみた手紙に思える。
(だいたい、大切に思ってくれない…なんて、そんなこと無いよね)
綺麗な部屋に、溢れる手作りのものの数々。優しい家族。それは千草の持っていないもので。
(――何で、うちの子になりたいんだろ?)
「千草ちゃん、何か知らない?」
おばさんに問われて、千草は首を横に振った。そして、昨日のメールのことを説明する。
「確か…おやつ食べてる、とか…退屈、とかそういう感じのメールが来てました」
「…それで、千草ちゃんは、なんて返したの?」
ええと、と言ってから千草は思い出す。
(そうだ、お兄ちゃんとおしゃべりしているって嘘をついたんだった…)
一瞬、どうしよう、という気持ちがわき起こる。けれど、それはあくまで一瞬で。
「べつに、普通のことです。お母さんとお兄さんに宜しく、とか…」
小さく呟くと、そう、とおばさんはため息をついた。
「…千草ちゃんのおうちの場所は、知らないはずなのよね。住所も…知らなかったと思うんだけど」
「駅名だけは、話したことがあります」
千草はサンドイッチに手を伸ばす。おばさんは、そう、と言って涙を拭う。
(そんなに、泣くほどのことなのかな)
夜遅く、治安の悪い街で行方不明になったわけではない。幼児が迷子になったわけでもない。
(――留守番が凄いっていうぐらいの子なんだし、夕方までには帰ってくるんじゃないかな)
そう思いながらも、一応千草は幾つかの小学生が行きそうな所を挙げた。図書館。児童会館。駅ビル。駅から送迎バスが出ているショッピングモール。立ち読みが自由に出来る古本屋。
「…どこもまだ、開いてないとは思うんですけど」
一応そう付け加える。そうよね、とおばさんはため息をつく。
「朝からやってるところだと、ファストフード店とか、ファミレスとかかしらねえ」
母がそう言う。
「…この辺は、結構あるんですよ。二四時間営業の所も」
とりあえず、と言ったのはお兄さんだった。
「母さんは一旦帰れよ。もしかしたら家に戻ってくるかもしれないし。――俺、ちょっと今言ってもらったところ、探してみるから」
な、と彼は言い、そして千草と母に頭を下げる。
「朝早くからご迷惑かけて、すいませんでした。たぶん、その辺でうろうろしてると思うんで、ちょっと見てきてみます」
そう言うと彼は財布から二千円を机に置いた。待って、という母に首を横に振る。
「また、里桜が見つかったら改めてお礼に伺います。――ほら、行くぞ母さん」
じゃあ、と言っておばさんとお兄さんは立ち上がる。あの、と千草は口を開いた。
「この辺のお店だったら…私、少し案内できると…思います」
え、と二人は振り返る。
「…昨日、もしかして私がもっと優しいメールを送れたら…森さ――里桜ちゃんも、家出とか、しなかったかも、しれないので」
つっかえつっかえそう言うと、お兄さんは、ふ、と笑った。
「じゃあ、道案内を頼もうかな」
宜しく、と彼は言う。千草は、こくん、と頷いた。
千草ちゃん、と信号を待ちながら森さんのお兄さんは言う。
「里桜が、ほんとにごめんね」
「いいえ。…でも、えと、里桜ちゃん、は…どうして、うちの子になりたいなんて言ったのか…」
千草はため息をつく。
はは、とお兄さんは笑う。
「羨ましい、って言ってたよ。カフェで、両親が働いてる、なんて、お洒落だし。とか。いつも可愛い服着てるし、しかもお兄ちゃんはお出かけに、連れて行ってくれる、優しい人だし…とか、色々、言ってた。最後は、ごめん、って感じだけど」
ぽかんと千草は彼を見る。
「…そんな」
「ん?」
「――…そんなこと、あり得ないのに…。だって、里桜ちゃんのおうちの方が…ずっと、綺麗で…お母さんもずっと家に居て…」
千草の呟きに、お兄さんは苦笑した。そんなもんだよ、と彼は言う。
「隣の芝生は青いってやつかな。無い物ねだりをしてるだけだよ」
千草は俯く。そうなのかな、と心の中で呟く。
(私も…無い物ねだりをしているだけなのかな)
そして、ふと気づく。
(あ…指輪、忘れて来ちゃった…)
急いで出てきたので、補聴器以外のものは全て自宅に置いてきてしまった。携帯電話もハンカチもティッシュも財布も持っていない。急に心細くなって、左手を右手で握りしめる。兄は、千草の部屋に置きっぱなしになっている指輪を見つけただろうか。ずっと付けていると決めたのに。
トントン、と肩を叩かれて千草は顔をあげる。
「…どうしたの?」
は、と見ると歩行者用信号は点滅を始めたところだった。渡り損ねてしまった。
ごめんなさい、と言うとお兄さんは心配そうな顔を向けた。
「大丈夫?具合悪い?」
「いえ――…あの、ちょっと考え事をしていて。ごめんなさい」
「…そう?無理しないでね。体調が悪かったら、すぐ言って」
はい、と千草は頷いて、そしてお兄さんをもう一度見た。
(――優しいな)
やや強面の顔だけれど、笑えばとても優しくなるのを、千草はもう知っている。兄よりもがっちりとした身体。
(この人に抱きしめられたら、どんな風なのかな。痛いのかな)
そう思った自分に、酷く驚く。ぶんぶん、と慌てて首を振った。
「…どうしたの?」
「いっ…いえ!」
森さんが家出中というのに、自分は一体何を考えているのだ。
今度は青信号を逃さず、横断歩道を渡る。
「えっと、ドーナッツ屋さんがあそこの…コンビニの裏にあるんです。確か朝早く…七時ぐらいからやってたと思います」
了解、と亮太郎さんは言う。いつか兄が買ってきてくれたドーナッツを思い出しながら、千草は歩みを進める。
(――…そうだよ。私は、お兄ちゃんが好きなんだもん)
チョコレートの甘いドーナッツ。千草の一番好きなドーナッツを知っている、兄が。そう思っても、けれど、視界の端に入るお兄さんと自分のワンピースが、どうしても気になる。
(どうしよう…変な匂いしないかな…。しかもこれ、初めて会った時に着てた服だし…。もうちょっと春っぽい服にした方が良かったな…。折角、可愛い服着てるって褒めてくれたのに…。あ、違うか、褒めてくれたのは、森さんか。…ああ、そうだ。ちゃんと森さんのこと心配しなくちゃ)
悶々としながら、ドーナッツ屋を覗く。居たのはOL風の女の人が二人と、レジであれこれ注文をしている客が二組だった。
「一応、ちょっと聞いてみる。――ちょっと待ってて」
そう言うとお兄さんは店内に入り、レジの店員に何かを問うた。店員は首を傾げて、何かを答える。お兄さんは頭を下げて、店外の千草の元へと戻ってきた。
「来てないって。――あいつ、甘いもん好きだし、ここかなと思ったんだけどなあ」
そうですか、と千草は答えて次の店の場所を示す。二四時間営業のファーストフードが、道路の反対側にある。看板を指さすと、お兄さんは頷いた。
(――森さんも、ドーナッツ好きなんだ。お兄さんも、森さんの為にドーナッツを買うことがあるのかな…。…じゃなくて!ちゃんと心配しないと…。…ていうか私、何でそんなことばっかり考えてるんだろ?)
落ち着かない気持ちのまま、ファーストフード店に入る。二階席もあるので、そちらも見たが森さんは居なかった。レジ前は数人の客が列を作っている。
「ちょっと、里桜のこと、聞いてくるから、待っててくれる?」
千草は頷くと、入り口付近のスペースで彼を待つ。お兄さんは、きちんとレジ前の列に並んだ。
(話を聞くだけなんだから…別に横から聞いても良いのにな)
けれど、その律儀さに千草は好感を覚える。
(――良い人)
彼の左手首には、やはりミサンガが揺れていた。スマートフォンを弄りながら、お兄さんはため息を漏らす。
(そっか、友達と出かけるって言ってたっけ)
急に森さんに苛立ちを覚える。
(こんなに沢山の人に、迷惑かけて。…何が、許せない、よね)
それと当時に、一つの疑問が首をもたげる。
(――お兄ちゃんは、私が家出をしたら…全ての予定をキャンセルして、探しに来てくれるかな?)
兄だけじゃない。母と、父も。
(仕事を…カフェを休んで、探してくれるのかな)
勿論、千草はそこまではしない。子供じゃないのだから。そんなことをしたところで、だれも得をしないことぐらい、分かっている。
ぼうっと見ていると、お兄さんの番が来た。彼は早口で何かを問い、スマートフォンの画面を店員に見せた。店員は、眉根を寄せてそれを見て、首を横に振った。
お兄さんは、何かを注文したらしかった。店員が頷いてレジを打つ。お金を払っている間に、店員は後ろの機械を操作する。
「――お待たせ」
そう言ってお兄さんは、千草に紙コップとストローを渡す。
「オレンジジュースと、コーラどっちが良い?」
「え?あ…どっちでも…。でも…あの」
「迷惑料には足りないと思うけど、少しだけね」
そう言うと彼は、オレンジジュースを千草に渡す。
「あの、ありがとうございます」
言うと彼は笑う。
「どういたしまして。…えーと、後はファミレスだっけ」
「あ、はい。えっと、駅の反対側に、二カ所あるんです」
そっか、とお兄さんは言ってコーラを飲む。
「あと少しだけ、付き合ってくれる?」
はい、と千草は頷く。オレンジジュースの紙コップの表面に、僅かに水滴が浮かび上がる。ふと千草は、昨日聞きそびれたことを思い出す。
「あの――…えっと…」
どう呼びかけて良いか分からず、中途半端な呼びかけになる。しかし彼は気にならないようで、ん、とこちらに視線を向けた。
「あの――…お兄ちゃんの…ことについて…聞きたいんですけど」
「お兄ちゃん?――ああ、星園君?」
こくん、と千草は頷く。
「あの…お兄ちゃんのお父さんと、私のお母さんは五年前に再婚したんです。だから、私、昔のお兄ちゃんのことってよく知らなくて…。あの、色々あったって…その、何があったのか…」
お兄さんは、ぽかん、と千草を見て、それから、ああ、と息を吐いた。
「――そうだったんだ。そっか。ごめん、俺何も知らなくて」
いえ、と千草は言う。謝らないで下さい、とも。
「そんなに、楽しい話じゃ、ないかもしれないんだけど」
「…でも、あの…聞きたい、です」
お兄さんは何かに二度ほど頷くと、口を開いた。
「――俺も、習い事で…ちょっと会うだけだったから、あんまり詳しくは知らないんだけど」
彼はそう前置きをして、ええとね、としゃべり出す。
「…結構キツい…言葉っていうのかな。死ね、とかぶっ殺す、とかそう言うことを、平気で…まあ、いう子だったんだよね。手も、出やすくて、そろばん塾の、女の子とか、叩いて、泣かせてたりして」
「…え?」
酷く動揺した千草の声を拾って、お兄さんは慌てて言葉を紡ぐ。
「――いや、昔の…小学生の時の話だよ?男子なら、多かれ少なかれ、みんなそんな感じだって」
「でも…」
今の穏やかな兄からは、全く想像出来ない。しかも、彼は言葉を選ぶように話した。たぶん、それ以上のことをしているのだというのは、容易に考えられた。
「よくあることだって。今はもう、落ち着いてるんだろ?」
こくん、と千草は頷く。不意に泣き出したくなって、下唇を噛む。昨日つけた傷が、ずくん、と痛む。
「変な話して、ごめんな。でも、ほんと、たいした事じゃないんだって。女の子には、分かんないかもしれないけど、男ってそんなもんなんだよ。ほんと。悪質なリンチとか、そういうんじゃないから」
慌てたように言うお兄さんに、千草は問う。
「…そんな感じの…子だったんですか?あの――お兄さん、も」
「え?あ、俺?いや――…俺はね、そん時は、実は結構太ってて。いじめられっ子だったんだよ。オドオドして…俯いてる感じの」
ふうん、と千草は言う。それも、あまり想像が出来なかった。そして、ふと気づいて問う。
「…お兄ちゃんに、嫌なことされたこと、ありますか?」
お兄さんは、一瞬言葉に詰まる。ああ、そうなんだな、と千草は心の中で呟いた。
「…でもさ。ほんとに、そんなたいした事じゃないんだって。小さい頃の話だしさ。みんな多かれ少なかれ成長とともに、性格って変わっていくもんだし」
「…はい」
小さく千草は呟く。指輪のない左手が寂しかった。
(――お兄ちゃん)
出会ったときに、優しくほほえみかけてくれた兄。
(…私って酷いな。勝手に期待して、勝手に幻滅して)
「本当に、気にしないで」
何度目かになるその言葉を、お兄さんは千草に伝える。
「本当にさ、男の子って、そういうもんだよ。みんなそうやって、悪ぶって…段々大人になってくんだよ。俺も、母親にクソババアって言ったことあるし。小学校の担任の靴箱に蛙入れたことあるし」
「え…」
思わず想像して顔を強ばらせると、彼は笑った。
「男はいつまで経ってもアホなんだよ。今だって大体エロいこととアホなことしか考えてないし」
言いながらお兄さんは、ファミリーレストランの看板を指さした。あれ?と問う。千草が頷くと、彼は扉を開けた。出迎えた店員と何かを話している。
千草は入り口でそれを見ながら、ぼうっと空を見つめた。優しい兄の笑顔が、脳裏に浮かんでは消える。
トントン、と肩を叩かれて千草はそちらを見る。何処かほっとしたような顔のお兄さんが、穏やかに言う。
「…居た」
え、と問い返して店内を見る。彼の後を追いかけて、そして奥まった席にいる森さんを見つけた。彼女はソファ席の隅で体育座りをしていた。壁に身体をもたせかけて、眠っている。
良かったです、と店員が言った。
「――朝の六時ぐらいに来て…一応オーダーは頂いたんですが、それを食べたら寝てしまって。耳が聞こえないようだったので、もう少し待って起きなかったら、警察を呼ぼうかと思っていまして」
そうですか、とお兄さんは言って、頭を下げた。
「本当にご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
千草も横でぺこりと頭を下げた。いえいえ、と店員が言う。
お兄さんは、母親に電話をしてくる、と言って一旦店を出て行った。千草は、森さんの横にそっと座る。
彼女の頬には、涙の乾いた後があった。机の上には、開いたメモ帳が置いてある。――私は耳が聞こえません。朝食セットのAを下さい。ドリンクバーもつけてください。
千草はそっとメモ帳を閉じる。お兄さんがこちらに向かってくるのが見えた。時刻は朝九時を迎えようとしていた。
森さんは、お兄さんの呼びかけで目を覚ました。けれど、まだ眠たいようで机に突っ伏して、ぐったりとしている。十分ほどして、彼女の母がファミリーレストランに走り込んできた。おばさんは何度も森さんの名を呼び、涙を流した。亮太郎さんが周りに「うるさくてすみません」というように頭を下げる。
森さんは、お兄さんにもたれかかるようにして、おばさんの車に乗り込んだ。何度も千草は礼を言われる。
「また改めてお礼に伺います。本当にありがとう。おうちまで、送るわ。乗ってちょうだい」
おばさんに、口で言われたが、千草は首を横に振る。
「――大丈夫です。ちょっと…その、散歩してから帰るので」
そう、と彼女は言って、車を発進させた。
千草はその車を見送って、そして深くため息をついた。まだ朝なのに、酷く疲れていた。
母に森さんが見つかった旨のメールを送ると、家に向かってゆっくりと歩き出す。早く着替えて、指輪をはめたかった。
(…お兄ちゃん)
兄は家に居るだろうか。急に、会いたくなった。森さんのお兄さんの言った小学生の時の兄を、早く塗りつぶしたかった。優しく穏やかな、今の兄で。
いつの間にか歩いていた足は、少しずつ速度を絡めていく。歩幅が、一歩ごとに広がっていく。
走るのは、禁じられている。競歩のようになる。
転がり込むように家の敷地に入って、扉に手をかけて――そしてようやく息をつく。扉には、鍵がかかっていた。そうだ、と気づく。手ぶらで出掛けてしまった。ため息をついて、チャイムを鳴らす。誰もいなければ、一旦カフェに行って鍵を貰わなくてはならない。
扉は、開かなかった。
(…出掛けちゃったのかな)
千草は踵を返して、カフェに向かう。今度は、ゆっくり歩きながら。指輪の無い手を、握りしめながら。
カフェに戻り、母にカプチーノをもらう。昼食用のパンを用意するから少し待っていてと言われ、千草は頷いた。店には三組ほどの客が居る。奥の休憩部屋に入ると、千草はソファに座り込んだ。朝早くに起こされて色々歩き回ったせいか、身体が少しだるく感じる。
(疲れてるのかな…)
昨日考えていた雑誌の購入が、段々どうでも良くなってくる。ぼうっとカプチーノのカップを持って、ソファの前のコーヒーテーブルを眺めた。フリーペーパーやティッシュボックス、リモコンや爪切りまでもが乱雑に置いてある。
「…あれ?」
ふと、クーポン雑誌の下の、タウン誌に目が行った。右上に書いてある地域名は、このあたりのものではなかった。
(何でこんなのがあるんだろう)
そう思いながら、ここからかなり離れた区名の書かれた、その小冊子を手に取る。ぱらぱら、と捲って、そして、中程のページで手を止める。
「――…あ」
そのページの、丁度中段。そこには。
『今月のピックアップ アクセサリー作家 佐和田紫さん
今、女性達に大人気!プレゼントにもおすすめの可愛いアクセショップ。ピーチ四月号を見た、と言った方にオリジナルマカロンストラッププレゼント(先着順)』
顔写真と、数点のアクセサリーの写真。そして、兄と一緒に行った店の地図が書かれていた。
思わずその小冊子を閉じて、ちらりと店内の方を伺った。母はレジで客と何かを話していて、父はランチタイム用にサラダを作っているところだった。
(…だれが、持ってきたんだろ…)
今、カフェでは従業員は雇っていない。父と母二人で切り盛りをしている。母は、ゆかりさんのことを知っているのだろうか。もう一度、先程の記事を見る。
(オリジナルマカロンストラップ…)
それはきっと、あの日ゆかりさんのくれたストラップのことで。千草は、顔写真をじっと見る。どこか、兄と似た目元。
この小冊子をここに置いたままで良いのだろうか、と千草は悶々とする。かといって、一冊だけ持ち帰っても不自然だ。悩んだ末に見なかったことにして、積んである雑誌の一番下に、そのタウン誌を入れた。ちら、と店内の方を伺うと視線に気づいた父がこちらを振り向いた。母はまだ接客中だ。父はは、あ、と何かを思い出したような顔をして、慌ててパンを二つほど持ってこちらに来た。
「疲れただろ。どうする?家に戻るかい?」
いるなら適当にくつろいでも良いよ、と父は言う。千草は迷ってから首を横に振った。身体がだるい。家に帰って少し寝たかった。立ち上がって、父からパンを受け取る。
「じゃあ、これ、鍵とパン――」
言いかけて父は、千草を見て、そして慌てて母を呼びに行った。ぽかんと千草はその後ろ姿を見送る。やがてやってきた母は、にっこりと笑った。
「おめでと。――セイリ、来たのね」
「…え?」
言われて、千草は先程まで座っていたソファを見る。白いファブリックソファに、くっきりとそれが見えた。赤い染み。
おいで、と言われて店のトイレまで歩いて行く。後ろを気にして、おかしな歩き方になった。トイレの個室に二人で入ると、母は洗剤の奥にある小箱を取り出す。
「…私ので悪いんだけど、とりあえずパンツと、ナプキン。使い方…分かる?」
ええと、と千草は呟く。母は手慣れた様子でナプキンの袋を開けて、ショーツに付ける。
「これで、大丈夫。家には、トイレの棚のところに、替えがあるから。ピンクの箱。分かるかな。後、あんたの、クロゼットに、生理用の、パンツがあるから」
「――…うん」
千草は半ば茫然と頷く。行こうか、と母は再び休憩室に千草を連れ戻す。履き替える前の汚れたショーツを、小さなビニール袋に入れて、母は千草のワンピースを、ちら、と見る。
「うーん…濃い色だから、目立たないけど…ちょっと待っててね」
そう言うと母は、黒いカーディガンと、巻きスカートを持ってきた。
「そのワンピ、脱いじゃって。で、キャミの上からでいいから、カーディガン着て…それから、これ巻いていくと良いわ」
どちらも恐らく母の防寒用の衣類で、冬物だった。この時期には少し暑いが、汚れたワンピースで帰るよりはマシだ。休憩所の隅で、千草は着替える。
だいぶ母に身長が近づいてきた、と思ったが、服はやはり大きかった。着替えた、というと母はにこにことして、ソファをぬれタオルで叩いていた。汚れたワンピースを、母は躊躇いなく受け取る。
「洗っておくから、心配しないで」
「うん…」
お腹に手を当てる。授業等で、生理の存在は知っていた。けれど。
「…顔色悪いね。大丈夫?」
「…うん」
「そんな顔しないの。とっても、おめでたいことなのよ。千草が、大人になった、ってことなの。もしお腹痛かったら、キッチンの、戸棚に、薬あるから。場所、分かるよね?」
「うん」
「しんどかったら、横になってね。寝るとき心配だったら、バスタオルを、腰の所に引いて。――あと、夜用のナプキンを、使っても良いかもしれないよ。同じ箱の中に、ちょっと、大きめのが入ってるから」
「うん…」
「家まで、送ろうか?」
「…ううん。大丈夫。一人で帰れる」
千草の言葉に、母は少し安堵したような顔をする。それに僅かに傷つきながら、千草はカフェを出た。歩きながら、不意に森さんに対する苛立ちが浮かんできた。八つ当たりだ、と思う。けれど、止められなかった。
(…何が、千草ちゃんちの子になりたい、よ。現実なんか、知らないくせに)
無い物ねだりだと、彼女の兄は言っていた。けれど。ビニール袋に入った、シナモンロールとカレーパン。散らかった家。独りぼっちの、家。おかしな感覚が、股の間でする。母のカーディガンとスカートは、暑苦しくて。
(私には、家出なんか出来ない)
だれも探しに来てくれないことが、怖いから。だから。
(――私は、ただ留守番することしか、出来ない)
誰もいない家で、誰かの帰りを待ってることしか、出来ない。
鍵を開けて家に入る。パンをダイニングテーブルにおいて、ふとシンクを見た。食器は全て洗ってある。コンロにあった、牛乳の入っていた小鍋も。あの時兄が火にかけていた牛乳は、どこに行ったのだろう。シンクに流したのか。兄が飲んだのか。
部屋に入ると、母から借りた衣類を脱いで、ゆったりとしたチュニックとレギンスを着る。言われたとおりに、暗い色のバスタオルを腰のあたりに引いて、横になった。補聴器を外して、ベッドサイドの棚に置く。そこには、携帯電話と指輪があった。ほ、と息を吐いて指輪を付ける。何の気無しに携帯電話を開くと、メールが一通来ていた。森さんからだった。今日の礼と詫びの言葉が連ねられている。何となく、彼女の母が送ったのだろうな、と想像する。
千草は携帯電話を閉じると、それを枕の下に入れる。
(――生理かあ…)
横になると、急に実感が涌いてきた。お腹は、まだそんなに痛くなかった。けれど、身体がだるくて重たい。
生理になると、子供が産めるようになる、と授業で習った。子供が産める、ということはつまり性行為が、出来るということなのだろうか。
(――どうしよう…)
生理が来てしまった。また、兄とキスをしたら、今度はそれ以上のことがおこるかもしれない。
悩みつつも、うとうとと千草はまどろむ。窓から入る光が、布団を通して千草の身体を温めていく。柔らかくて、温かい。
布団にくるまりながら、ふと、あのタウン誌を持ってきたのは兄ではないかと思った。あの日、躊躇いなく店までの道を歩いていた兄。彼は何のためにカフェにあの小冊子を置いたのだろう。父に見せるためだろうか。
色んな事を考えながら、千草はいつの間にか眠っていた。
そして、夢を見る。
それは、幼い日の記憶の入り交じった、夢。
幼い千草は、茫然とそれを見上げていた。それは、何か口を大きく開けて叫んでいるように見えた。けれど、千草の耳には、何も聞こえてこなくて。細い腕が、それを抱きしめるように絡みついていた。母の手だ、と千草は思う。お母さんは何をしているんだろう、とも。
(どうしてお母さんは、お父さんをぎゅうってしてるのかな。――どうして、千草をぎゅうってしてくれないのかな)
幼い千草は、そのことが悲しくて悲しくて、ぽろりと涙を零す。
夢の中で、千草はその光景を見ていた。違うよ、と十二歳の千草は、幼い千草に語りかける。母は、父を押さえつけようとしていただけで。千草を、守ろうとしていただけで。けれど幼い千草に、それは理解出来ていない。
(千草を、ぎゅうってして)
違うよ。違うよ。千草。十二歳の千草は何度でも、幼い千草に言う。けれど、幼い千草の耳には、何も届かない。
父の、叫び声も。暴言も。母の涙混じりの声も。
(お母さん、千草を――千草を、ぎゅうってして)
千草は、幼い頃の自分から目をそらす。そして、ふと左手の小指を見た。リボンが、揺れている。まるで、解けるように。
(…どうして)
慌ててそれを押さえようとするが、するりとそれは揺らめいて。
(――やめて)
不意に、何処かから引き上げられるように千草は覚醒する。気づけば、涙がこぼれ落ちていた。
ややあって、千草を覚醒させたのが枕の下の携帯電話の震えだと気づいた。それを開くと、兄からのメールが届いている。
『帰ったよ。チェーン開けて~』
千草は立ち上がって、ベッドと服に汚れがないことを確認する。涙を拭うと、階段をゆっくりと降りる。今日こそ、笑顔で兄を迎えなくてはならない。
「おかえりなさい」
言いながら扉を開けると、兄はどこか、ほっとしたような顔で笑った。
「ただいま」
いつの間にか、時刻は三時の少し前になっていた。食べ損ねたパンを、おやつ代わりに半分ずつして兄と食べる。ダイニングテーブルを挟んで向こう側にいる兄は、カレーパンを咀嚼していた。
少し寝たせいか、身体は少し楽になっていた。
「そうだ。友達は、どうだった?」
ふと兄に問われ、目を瞬かせる。そして、ようやく森さんのことだと思い出す。
「あ…うん。大丈夫だった。えっと、駅前のファミレスに、いた」
「そっか。良かったね」
「うん」
千草は頷いて、シナモンロールをかじる。甘い味が舌先に染みこんでいく。
食事ともおやつともつかない時間を終えると、兄はちょっと部屋に行ってくると言った。
「たまに、部屋も片付けて、掃除機、かけなくちゃいけないからね」
彼は少し笑って言う。千草は、散らかった兄の部屋を思い出して笑みを浮かべた。頑張って、というと兄は頷く。
「あ、そうだ。――これ、読む?新刊買ってきた」
そう言うと兄は鞄から、一冊の漫画本を取り出す。それは、兄が好きな漫画の最新刊で。実はあまり千草の好みではない。けれど、ありがとう、と千草は言う。兄は、笑って右手を軽く挙げた。
ゆっくりとソファに座りながら、千草は漫画を開く。ちら、と指輪を見た。きちんと結ばれたリボンが、そこに光っていた。
翌朝は、昨日にも増して身体がだるかった。お腹も、ずん、と重い。枕をクッション代わりに、千草はベッドヘッドにもたれかかるように座っていた。
「そうなのよね。二日目がしんどいのよね」
母はそう言うと、鎮痛剤を千草に飲むように促した。
「今日はゆっくりして。お腹を温めると、少し良いよ。――そうだ、今カイロを持ってくるね」
こくん、と千草はベッドの上で素直に頷いた。ベッドサイドの棚には、朝ご飯が乗っている。部屋で朝食を取るなんて初めてだった。
(お兄ちゃんに、変に思われないかな…)
昨夜は、母は十個ほどのおにぎりを買ってきた。そのうちの三つが、赤飯だった。兄に悟られないように赤飯を食べさせたい、という配慮だったのだと思うのだけれど。
(――…バレバレ、だよね)
うう、と千草は毛布に顔を埋める。兄は気づいただろうか。千草が、初潮を迎えたことに。大人に、なったことに。
ややあって母が戻ってくる。カイロと、水筒を携えていた。
「これ、貼るタイプの、カイロだから。これを、お腹に貼って。後は、出来るだけ、暖かい飲み物を飲んだ方が良いから…ジャスミンティー入れてきた」
「うん、ありがとう」
「二日目の方が、量は多いと思うから…こまめにナプキン、替えるのよ」
「うん」
千草が頷くと、母は心配そうな顔を無理矢理笑顔にした。
「そうそう。里桜ちゃんのお兄ちゃんって、格好いいわね。お父さんが、心配してたわよ。ちーちゃんが、好きになったらどうしようって」
「どういうこと?」
「娘を持つ父親は、娘にずうっとお嫁に行かないで、家に居て欲しいものなの」
母はそう言って笑う。ふうん、と千草は首を傾げて、そして身体を折り曲げた。
「お腹、また痛くなってきた…」
「――大丈夫?」
うん、と千草はもう一度頷く。何かあったら連絡をしてね、と言うと母は部屋を出ていった。その姿を見送って、千草は息を吐いた。朝食のクロワッサンをかじる。ぱらぱら、と布団の上にパンくずが落ちる。
今日は、森さんからのメールはなかった。どちらにしても遊ぶ気分ではなかったけれど、全く連絡がないというのも何処か落ち着かない気分になる。
食事を取って、薬を飲んで横になると、少しずつ痛みとだるさが和らいできた。兄は出掛けているのだろうか。トイレに行く途中、彼の部屋の前を通ったけれど扉は閉ざされていて、居るのかどうかは分からなかった。トイレでナプキンの交換をして、また部屋に戻る。今度は横にはならず、箱に入っていた編みかけのミサンガを取り出した。箱を机代わりにして、一目一目、ゆっくりと編んでいく。
(もうすぐ、お母さんのぶんが出来る)
それが終わったら、次は父の分を編もうと決めていた。兄の分は、最後にゆっくり編みたい。
糸を無心に触っていると、色々なことを考えなくてすんだ。
兄のこと。小冊子のこと。森さんのこと。彼女のお兄さんのこと。家のこと。母のこと。血を、流していると言うこと。全てに、蓋を閉めて居られる。
黙々と編んで、お昼頃には母の分が完成した。本を見ながら、最後の始末を行う。
出来た、と呟いて階下に降りる。丁度お昼ご飯の時間だった。
玄関を覗くと、兄のいつも履いている靴が無かった。
(お兄ちゃん、出掛けたんだ…)
千草はダイニングに戻る。机の上には、昨日の残りのおにぎりが三つ、置いてあった。三つともを手に取ると、部屋に戻る。赤飯のおにぎりも、一つ残っていた。
(――おめでと、自分)
めでたいのかどうかは、よく分からなかった。けれど、一応、その言葉を自分に言って口を付ける。
おにぎりを三つ、胃の中に納めると、再び千草は糸を摘む。
父のために、母とおそろいのミサンガを編むために。オレンジと、白。希望と健康の、お守りを。
翌日の朝に、母は千草に何か欲しいものは無いかと問うた。聞けば、森さんの母が昨夜カフェに訪れ、礼だと言って商品券を渡したのだそうだ。
(…欲しいもの…)
分からない、と答えると母は困ったように笑った。
「まあ体調もまだ本調子じゃないみたいだしね。ゆっくり考えて」
頷いて千草は、両親に完成したミサンガを渡した。父も母も大げさなほど喜んでくれた。二人で足首に付けあって、また、ばたばたと家を出て行く。
生理も三日目になると、身体は少し楽になっていた。朝食後、久しぶりにパジャマを脱ぐ。とりあえず、と着たベージュのワンピースは、いつの間にか丈が短くなっていた。膝丈だったはずなのに、座ると太股が少し見える。
(結構お気に入りだったのになあ…)
レギンスを下に重ねて履いて、机に座る。
よし、と息を吐いて兄の分のミサンガを編み始める。黒と、緑。
ゆっくり丁寧に、一目一目を、間違えないように。
五センチほど出来たところで、気配を感じた。顔を上げると部屋の入り口に、兄が居た。慌てて箱に糸をしまって、千草は笑みを作る。
「どうしたの?」
「――…ちょっと、話をしてもいい?」
千草は戸惑いつつも頷く。兄からそんな風に話しかけてきたことは、覚えている限りはなかった。兄に言われ、千草は階段を下りる。
彼は千草にカフェオレを入れてくれた。ダイニングテーブルに向き合うように座る。そして彼は、口を開く。言葉を選ぶように、口を開いては閉じる。やがて、その口から音が漏れる。
「俺ね、…引っ越そう、と思ってるんだ」
「――え?…えっと、だれと?」
どういうことだろう、と千草は兄を見る。引越す。ええと、と千草は首を傾げる。それは、家族での引越しと言うことだろうか。もっとカフェに近いところに引っ越すのだろうか。或いは、カフェの奥の部屋で暮らすということか。けれど兄は「俺」と言った。「みんな」ではなく。
「俺、一人で。この家を、出て行こうと思ってる」
「…え?」
問い返しながら、千草はいつの間にか、口元が震えているのが分かった。笑みのような形になる。
「…今日って、エイプリルフール?」
違う、と兄は笑わずに言う。
「――千草には、悪いと、思う。でも、学校から帰ってきたら…カフェの方に居れば、寂しくないだろ?」
「…待って。あの――」
彼は一体、何を言っているのだろう、と千草は思う。兄のこんな真剣な顔は、初めて見た気がする。――ああ、と千草は思う。もしかしたらこの人は、兄ではないのかもしれない。兄に似た、誰かかもしれない。だって、千草の兄はいつも優しげに微笑んでいる人なのだから。
「新学期からは、ゆかりさんの所から、高校に通うつもりなんだ」
「…ゆかりさんの所…え?でも――…どうして?」
千草の、小さな独り言のような呟きに、兄は少しだけ笑った。
「ごめんね。千草」
「――嫌だ…」
「父さんと、真琴さんにはこれから話す。…千草には、先に、言っておこうと思って」
「…やだ…やだっ…」
「大丈夫だよ。千草にも、友達が出来たんだろ?もうすぐ学校も始まるし」
やだ、と千草は子供のように繰り返す。友達なんていらない。学校なんて、行かなくて良い。
――それでいいだろ?
「…ったのに」
千草の呟きに、兄は眉根を寄せる。
「言ったのにぃ…」
千草はしゃくり上げる。
「――やだよ、お兄ちゃん…やだ…どこにも、行かないで…」
ごめん、と兄は呟く。それは、いつか繰り返した言葉で。
――男はいつまで経ってもアホなんだよ。今だって大体エロいこととアホなことしか考えてないし。
不意に、森さんのお兄さんの言葉が耳に過ぎった。
「私、何でもする…」
「え?」
問い返した兄に、睨み付けるように千草は言葉を絞り出す。
「エッチなことでも、何でもする…何でもするから…行かないで…。ずっと、千草の側にいて…」
「千草、そんなこと言っちゃ駄目――」
「行かないでえっ…」
うわあん、と子供のように千草は泣き声を上げる。泣き出した千草を、兄はずっと見ていた。座ったまま、千草には触れずに。
「千草、聞いて」
トントン、とダイニングテーブルを、彼が叩く。僅かな振動で、千草は顔を上げた。静かに兄は言う。
「――俺は、千草のことが、何より大事なんだ」
しゃくり上げながら、千草は兄を見る。他人のように見える兄の真剣な眼差しは、けれどやはり兄で。
「千草にも、そう思って欲しいと――思ってた」
千草は茫然と彼を見る。胸のあたりが、ぎゅう、と苦しい。私、と言いかけた千草の言葉を、兄は遮る。
「でも、それじゃ、やっぱり駄目なんだ」
「どうして…?」
ふ、と兄は笑んだ。いつもの、大好きな兄の笑顔だった。
「千草には、これから沢山の出会いがある」
「そんなの――」
「これから、沢山友達を作って、彼氏も作って、そして、幸せになって欲しい」
千草は茫然と、兄を見る。
「――千草が、俺のことを慕ってくれるのは嬉しいけど、でも、それ以上に、世界を広げて欲しいんだ」
「お兄ちゃ――」
「ずっと、縛り付けてて、ごめんな」
嫌、と千草は呟く。
「…だれにも、渡したくないと思ってた。一生、俺が守ろうと思ってた。――でも、やっぱりそれじゃ駄目だ」
「――駄目じゃない…。それでいいよ。私、お兄ちゃんに、そうして欲しい…!」
兄は笑顔のまま、口を開く。
「俺は、千草が思っているような人間じゃ無い。ずるくて、駄目な男だから」
「…どういう事?」
兄は首をゆっくりと振る。千草は彼をじっと見つめた。ここで聞かなければ、絶対に後悔するという妙な確証があった。
「もし…お兄ちゃんが…私の知らないお兄ちゃんだっていうんなら…ちゃんと知りたい」
「――でも」
「絶対に、私は変わらない。だから、教えて」
それは、幼子のする約束のようなもので。薄っぺらな「絶対」。幼い頃に、沢山の言葉を、何も気にせず口にした。一生のお願い。それと、同義に聞こえる。けれど、兄は頷いた。分かった、と彼は言う。ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始める。
「俺はね、千草。…いじめっ子だったんだ。――…沢山の人を、傷つけた」
千草は、静かに頷く。森さんのお兄さんの言葉が蘇る。
――色々あったし。
「俺の学校にも、“きこえの教室”に通ってた子もいて。その子にも、酷いことを沢山言ったし、酷いことを沢山した」
「…どうして…」
「理由はあるけど…でも、そんなのは俺の問題だ。俺が、弱くて、そして、卑怯だった。だから、いじめた。言い訳はしない。俺が悪かった」
言って、兄は少し息を漏らす。
「いや、ごめん。ちゃんと話すって、言ったしね。うん。話す。…単純な話。俺が問題を起こせば、母親――ゆかりさんが、来てくれるから。ただ、それだけだったんだ」
「…ゆかりさん?」
「――…あの頃、ゆかりさんは忙しくてね。まあ、恥ずかしいけど…子供なりに考えた結果だった。悪いことをすれば、親が呼び出される。怒ってるけど、泣かれるけど、けど、ゆかりさんが…俺が寝る前までに帰ってくるには、それしか方法が無かった」
兄は、千草に、疲れた笑みを見せた。
「習い事、学校、近所の公園。とにかく、色んな場所で色んな事をした。スーパーやコンビニで万引きをしたのだって、一度や二度じゃない。…でも、段々とゆかりさんが来る回数は減ってきて、代わりに、親父が来る回数の方が増えてきた。――で、ある日突然言われた。もう、ゆかりさんは帰ってこない、って」
「…帰ってこない…」
千草の呟きに、兄は頷いた。
「――まあ、要はこんな不出来な息子は要りません、てことだね」
「そんな…」
酷い、と言いかけた千草に、兄は首を横に振る。
「仕方ない。それだけのことを、俺はしたんだから。というより、それぐらいですむなんて、逆に申し訳ないぐらいだ」
兄はマグカップを睨んで、そして、顔を上げた。
「その時は…四年生、だったかな。俺は親父に引き取られた。そして、行ける限りの全ての所に、謝りに連れて行かれた。半分以上の家には、玄関にも入れなかったな。――でも、仕方ないと思った。どれだけ酷いことをしたかは、自分が一番分かってる」
千草、と彼は言う。
「…初めて会った時、絶対に、君を…幸せにしようと思ってた」
そう言って彼は、目元を少し笑ませた。
「罪滅ぼし、ってやつだったかもしれない。でも、本気で、そう思ってた」
「――…私が、可哀相な子だったから…?」
父親から、虐待を受けていたから。耳が聞こえないから。両親が離婚をしたから。
しかし、兄は首を横に振った。
「あの時、千草は何と言ったか…覚えてる?」
え、と千草は問い返す。兄は、静かに言う。
「――あなたが燕さん?って聞いた」
「…え?」
「親指姫が、好きなんだって真琴さんが言ってた。燕は、大嫌いなモグラの家から…花の王子様の元に運んでくれる存在…って言ってた。俺は…それで良いと思ってた。いつか千草が幸せになるとき、手助けが出来れば…それで」
兄は言って、そして目を伏せる。
「でも――…俺は結局、自分のことだけだ。千草を、傷つけた。――ほんとに、ごめん」
「私、傷ついてなんて…」
「結局、俺は子供の頃から…何も変わってない。自分が、少しでも満たされれば…周りの事なんて、考えられなくなる。――たぶん、俺は…燕じゃなくて――きっと…」
言って兄はうなだれる。千草は、兄の顔を凝視した。彼の声は段々と小さくなっていって、口の開きも僅かになっていく。うまく、聞き取れない。彼は、不意に顔を上げて、そしてきっぱりと言う。
「――春休みのうちに、俺はこの家を出て行く。もう、決めたことだから。千草も、元気で」
そう言って兄は立ち上がった。待って、という言葉は喉につかえて上手く外に出て行かなかった。裸足の足が、冷たくなっていく。
胸の奥には、沢山の言葉が絡まり合っている。兄に言うべき言葉と、過去に浴びた言葉達が。遙か昔の、記憶が蘇る。
――何で耳に変なの付けてんのぉ?
――しゃべり方きもーい。ちぇんちぇえ、だってぇ。
――何で千草ちゃんのおうちって、パパがいないの?
(駄目、追いかけないと…。お兄ちゃんに、大丈夫だよって言わないと――)
――あの子怖いよね。知ってる?殺人者の小説読んでるの。やばいんじゃないの?
――良いよねえ。障害者ってさ。あたしも耳が聞こえなくなったら、マラソン大会サボれるのになあ。
――触んなよ!俺まで耳が聞こえなくなる!
言った人間の顔が、全て兄の顔に重なっていく。
千草はそのまま、ダイニングテーブルに突っ伏した。どうして、と呟く。指輪のリボンを指で触って確かめる。固い感触。
(――大丈夫。解けていない。まだ、大丈夫…)
けれどそれを何度確かめても、やはりあの夢がちらつく。一本の紐になって逃げていった、リボンが。
帰宅した母に起こされて、千草は初めて自分が眠っていたことに気づいた。
「こんな所で寝て…。風邪、引くわよ?――…どうしたの?」
問うてから母は、ああ、と目をそらしてため息をついた。
「道哉君に、聞いたのね?」
千草はぼんやりと母を見て、そして問う。
「…おかあさん、知ってたの…?」
こくん、と彼女は頷く。どうして、と言いかけた千草に首を振ってみせる。どこか言い訳めくように、言葉を繋げた。
「――先週、聞いたわ。あちらのお母さんが、一緒に住みたがっているんですって。とはいえ、戸籍上は変わらないみたいね。ただ、住むところが変わるっていうだけで。まあ…向こうの方が、学校にも近いしね。…治朗さんも、それで良いって言うし…」
「でもそんなの、酷いよ!どうして止めなかったの!」
千草の叫びに、母は目をそらす。
(お母さん達には、これから話すって…言ってたのに…)
じわ、と涙がまたこみ上げる。
「――…一応、私は止めたんだけど…。治朗さんと…その、前の奥さんと道哉君で決めたっていうからね。…私にはそれ以上は言えないわ。だって…」
母はそこまで言って、口をつぐむ。千草は下唇を噛む。少しずつふさがりつつある傷口が、酷く憎たらしい。母は、困ったように笑った。
「それに、引っ越し費用も、自分で出すって。その為に、バイトしてたって言うしね」
「…バイト?」
あら、と母は言う。
「あなた、知らなかったの?…だって毎日出掛けていったじゃない」
「――生徒会の、用事だって…」
「…それは全部三学期中に終わったって、聞いたけど」
「そう…なの…?」
母は、何処か気の毒そうな顔を見せて頷いた。
「――…私、何も知らなかった…」
呟くと、母は小さく頷く。
「道哉君、優しいからね」
千草も小さく頷く。
「でも別に、一生会えなくなる訳じゃないし…。――それからね、土日は、お母さん、お仕事を休むことにしたから」
「――え?」
「アルバイトを、雇うことにしたの。実はね、雑誌にうちが載ることになって。売り上げも上がりそうだから、少し人を増やそうって話になったの」
「――雑誌…?」
「うん。お父さん、ここのところ、新商品とかいっぱい出して、頑張ってたからね。タウン誌だけど、かなり集客効果、あるんだって」
ふふ、と母は笑って、そして千草に笑いかける。
「千草、今まで寂しい思い、させてごめんね。土日は、何処かに一緒に行こう。お洋服を見に行ったり、映画に行くのも、いいね。お菓子を作ったり、部屋の掃除も、ちょっと頑張らなくちゃね」
ね、と母は言った。千草はそんな母を、見つめる。
夢に、見ていたものが広がる。例えばそれは、森さんの、家。綺麗な部屋と、一緒に居てくれる母親。
けれど、と千草は俯く。夢に見た世界。そこに、一番にて欲しい人は、居ない。
「…お兄ちゃんは、いつ、引っ越すの?」
問うと母は、眉根を寄せた。
「――今日、引っ越すって言ってたけど…」
千草は、ば、と立ち上がる。母が止めたかどうかは分からない。慌てて階段を昇る。
兄の部屋のドアノブを、躊躇わずに回す。ドアが開く。そして、そこには。
「嘘…」
家具だけが、あった。パイプベッドの上は、マットレスだけが乗っていて、散らばっていた服は一着もない。漫画が入っていた棚も、空っぽで。
ああ、と千草はそこに座り込んで、ようやく理解する。鶴の恩返しで、若者が扉を開けた理由。浦島太郎が、宝箱を開けた理由。それは。
(空っぽでないことを、確かめるため…)
いつの間に、兄は荷物をまとめていたのだろう。千草が壁に頬を押し当てている間に?千草はそっとマットレスの、枕の乗っていたであろう場所に視線をやる。半裸の少女が表紙の本は、そこにはもう無い。彼はあれを、捨てたのだろうか。あるいは、持っていったのか。千草は、それに何一つ気づかなかった。聞こえない耳を呪いかけて、それが見当違いであることに気づく。
呪うべきは、臆病な自分。
(――おにい、ちゃん…)
千草は蹲って涙を流す。いつの間にか来ていた母が、背中を撫でてくれた。嗚咽は止まらなかった。




