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loiter  作者: コトヤトコ
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【二】

 電車に乗って、少し遠くに行こうと兄は言った。千草が頷くと、兄はにこにこと笑った。

 精一杯のお洒落をしたつもりだったが、兄と並ぶと自分の服装がいかに子供っぽいかが分かる。白い鍵編みのカーディガンに、薄紫の七分袖ワンピース。鍵のモチーフがついたロングネックレス。白いスニーカーと、ベージュのショルダーバッグ。

(よく考えたらカーディガンとスニーカーって昨日と同じだった…。この間買ったサンダルの方が良かったかな…。でも、途中で足痛くなったら嫌だし…)

 ちらりと兄を見る。彼は、グレーのカットソーにデニムというシンプルな装いだった。茶色いレザーのボディバッグが、大人っぽい。

 兄が連れて行ったのは、電車を二回ほど乗り換えて降りた駅の高架下にある小さな店が並ぶ通りだった。硝子細工、革製品、陶芸品、服屋。一つ一つの店はこじんまりとしていて、中には工房を兼ねているような場所もある。客足はあまり多くはないけれど、冷やかしでは無さそうな客が、一つの店に二組ぐらいはいる。その中の一つの、アクセサリーショップで、兄は足を止めた。その小さな店に躊躇わずに足を踏み入れる。そこには、客は居なかった。中に居た店員と思しき女の人が顔を上げて、そして驚いたように固まった。彼女は、何かを呟きながら、兄と千草の方へと向かってくる。

「…?」

 何を話しているのかは、早口すぎて分からなかった。女性は、四十前後の綺麗な人だった。髪は前髪も含めて全てまとめてお団子にしてある。華奢な体つきで、草木染めのような淡い若草色のワンピースを着ていた。耳元のピアスが、柔らかく揺れる。兄は何度か頷いて話すと、千草に視線を移した。

「千草。僕の、母さん。――この子が、千草。妹だよ」

 ぽかんと千草は兄と女性を見比べる。女性はようやく、ふ、と肩の力を抜いた。そして、千草に頭を下げる。

「さわだ、ゆかりです。千草ちゃん、はじめまして」

 千草はつられるように頭を下げた。

「――…星園、千草です」

 彼女はどのぐらいの間、星園、と名乗っていたのだろう。星園という姓を得て五年の千草と、どちらが長くだろう。ふわり、とゆかりさんは笑って、それから横にあった可愛いメモ帳に字を記した。

『いらっしゃいませ。いつも道哉と仲良くしてくれて、ありがとう』

 彼女の字はとても流麗だった。レースやビジューがプリントされたメモ帳は、こんな一瞬のために使うのはもったいないぐらいのもので。そしてふと、千草は気づく。彼女は千草の障害のことを知っている。話したのは誰だろう。父か、兄か。

「ゆかりさんは、アクセサリー作家、なんだ。ここにあるのは、全部、ゆかりさんの、作品。――千草に、買ってあげたくて」

 そう言って兄はどこか優しい顔でディスプレイされている商品を眺めた。千草も商品を見る。指輪。ネックレス。ブレスレット。ピアス。イヤリング。ブローチ。バッグチャームに、携帯ストラップ。デザインは様々だ。星やハートといったオーソドックスなものから、果物や動物を象ったものや、アルファベット、幾何学模様。天然石がはめ込まれているものから、樹脂で固めてあるものまで、様々だった。

 良ければどうぞ、とゆかりさんが小さなパンフレットを渡してくれた。後ろには、モチーフの意味が書かれていた。星は希望。鍵は幸運。王冠は成功。クマは貯蓄。林檎は喜び。

 ちらりとゆかりさんを見る。不意に、兄の、道哉と言う名は彼女が付けたのかもしれないと思った。凛とした彼女のたたずまいは、素朴なのにとても綺麗で。ミチヤという響きが彼女の口から飛び出るのは、とても自然なことに思えた。ゆかりさんと兄は何か会話をしていた。兄が何かを言い、ゆかりさんはゆったりと頷く。そして、時々笑う。

 千草はパンフレットに目を落とす。作家プロフィールには『佐和田紫』と書かれていた。ムラサキと書いてユカリと読む。そういえばそんな漫画のキャラクターがいたな、と思い出す。一九××年三月三日生まれ。R芸術大学卒業。N社でアクセサリー及び雑貨デザイナーとして勤務した後、二○××年独立。現在はwebショップや、路面店でアクセサリーを販売する傍ら、雑誌や広告、テレビドラマなどでもオリジナルデザインを発表している――。

(二○××年独立…)

 その年は、丁度五年前。つまり兄と千草が家族になった時で。何故彼女は父と別れたのだろう。しかも、兄を置いて。彼女が彼らを置いていったとき、兄は何歳だったのだろう。

 トントン、と肩を叩かれて千草は顔を上げる。兄がこちらをのぞき込んで問う。

「千草の、好きな色は何色?」

 え、と千草は目を瞬かせる。そして、ううん、と天井を睨んだ。好きな色。千草はどちらかと言えば淡い色が好きだ。優しいペールトーンやパールホワイトのような、包み込むような色。けれども、それをどう表現したらいいだろう。

 悩みながらきょろきょろと商品を見ていると、にこにこと微笑むゆかりさんが見えた。

「一つには、絞れないよねえ」

 彼女はゆっくりと言葉を紡ぎながら、ええとね、と幾つかの商品を手に取る。そしてまた美しいメモ帳に美しい字で文字を連ねる。

『どんな服にもあわせやすい、シンプルなものがいいと思うの。学校は、アクセサリー禁止?』

 千草が頷くと、そっか、という風に彼女は首を傾げ、キーリングや携帯ストラップを手に取る。

 千草は兄を見る。彼は熱心に、壁に貼られた紙を見ていた。ちら、と彼に倣う。その紙には『指輪をはめる、指の意味』と書かれている。その下には両手を広げた絵が描いてあって、指先に吹き出しでコメントが書いてあった。右手の親指は「指導者の指」人差し指は「集中力」中指は「直感力」――。兄は何かをゆかりさんに言う。口の動きが上手く読み取れずに、千草は眉根を寄せる。ゆかりさんはぽかんとした顔して、そして困ったように笑った。それから、レジの奥から沢山の輪のついたキーホルダーのようなものを持ってきた。リングゲージ、というのだと兄は言う。指輪のサイズを測るものだと。ゆかりさんは丁寧な手つきで、リングゲージを千草の左手の小指にはめた。幾つかをはめて、丁度良いサイズを測る。

 千草は目を瞬かせて、兄を見た。指輪を買うということだろうか。千草は、ネックレスやブレスレットのたぐいは持っていたが(とはいえ雑貨屋で買う数百円程度のものだけれど)指輪は持っていなかった。うんと幼い頃にはビーズで出来たものや、プラスチックで出来たようなものを持っていた気がしたけれど、何処かへ行ってしまった。特別な理由は無い(と思う)が、何となく手に取りにくいものでもあった。

 ゆかりさんが一旦レジの奥へと行き、兄は微笑む。

「今、サイズにあうの、出してもらうから」

 千草は小さく頷く。兄に、指輪を買ってもらう。それは一般的なものなのだろうか。例えば女友達から、或いは母や姉妹から、であればあまり違和感を感じないような気もする。

(でも、小指だし)

 左手薬指であればそれは、兄から買って貰うべき指ではない気がするけれど、小指であればさほど意味は無いだろう。兄が見ていた紙にも書いてあった。――左手薬指に指輪をはめると、幸せが逃げない、と。

 ゆかりさんは、十個ほどの指輪を並べてくれた。ハートモチーフ。星と月が並んでいるもの。シンプルなひねりデザイン。一粒の石が乗ったもの。猫のシルエットのもの。

 そのうちの一つを、兄が摘むように取る。そして、千草の指にゆっくりとはめた。

「…うん。いいね」

 細い線で作られた、リボンモチーフだった。どう?と兄に問われて、千草は小さく頷く。ピンクゴールド色の、華奢な指輪。今までにつけたアクセサリーの中で、たぶん一番高価で、一番繊細で、一番美しい指輪。

 兄は頷くと、ボディバッグから財布を取り出しレジに行く。何か言ったゆかりさんに首を横に振って、札を出した。恐らくゆかりさんは、お金は払わなくていいと言って、兄は、いや払うよ、と言ったのだと思う。

 ゆかりさんは小さな紙袋に、パンフレット、品質保証書などをまとめて入れた。それから、レジの下の棚から、小さなストラップを取り出した。直径五センチ程の丸いものの側面にファスナーが着いている。彼女は例の美しいメモ帳にまた文字を書く。

『マカロンストラップって言って、中にものが入れられるの。学校では指輪は駄目でしょう?学校ではこれに指輪を入れてね』

 淡い紫色の、マカロンストラップを千草の手のひらに乗せる。千草の今日着ていたワンピースにあわせてくれたのだろうか。

「ありがとう御座います」

 礼を言うと、ゆかりさんはにっこりと笑った。

「また来てね。道哉と…それから、治朗くんを宜しくね」

 ゆっくりと、口を動かして彼女は言う。今まで、父を治朗くん、と呼ぶ人は居なかった。酷く、違和感を覚える。

 そして、ゆかりさんは今度は兄に顔を向け、何かを話そうとして、そして口をつぐんだ。彼女は笑顔を作り、いらっしゃいませ、と言う。振り返ると、ふわふわの髪の女性が入ってきたところだった。

「じゃあ、行くよ」

 兄はそう言って、ゆかりさんに少し笑う。ゆかりさんは頷いて、そして「ありがとうございました」と言った。行こう、と兄に言われて千草は彼に続く。小さくゆかりさんに頭を下げると、彼女は静かにもう一度「ありがとうございました」と言った。

 店を出ると、昼ご飯を食べよう、と兄は言い近くのファミリーレストランに入った。時計を見ると、時刻はまだ十一時過ぎで、さほど店内は混んでいなかった。

「何、食べたい?」

 千草はじいっとメニューを見る。ファミリーレストランに来たのは、何年ぶりだろう。散々悩んだ末に、シーフードドリアにする。兄は頷いて、店員にオーダーをする。

「飲み物、何が良い?」

 ドリンクバーコーナーを指さしながら兄が問う。コーラ、と答えると兄は頷いて立ち上がった。

 一人になった席で、千草は左手を目の前にかざす。細くて貧相な指にはまる、綺麗な指輪。そっと触れると、細い金属の感触がする。リボンの紐部分を引っ張れば、解けてしまうのではないかと思うぐらい、その指輪は繊細で、そして儚く見える。

 兄は両手にカップを持って戻ってきた。千草の前にコーラを置く。彼自身はアイスコーヒーのようだ。ミルクとガムシロップを入れて、マドラーでかき混ぜる。

「おにいちゃん、ありがとう」

 言うと兄は首を傾げ、コーラを見て、ああ、と言った。

「おかわりしたかったら、また言って」

 千草はきょとんとして、それから首を振った。違う、と言う。

「あの…指輪、ありがとう」

 今度は逆に兄がきょとんとした顔をして、それから笑った。

「どういたしまして」

 そう言うとストローでアイスコーヒーを啜る。千草は視線を落として、机上に載せた指を見る。細いリボン。そういえば、リボンのモチーフの意味は、なんだっただろうか。



 その後は、ふらふらと二人で街をさまよい歩いた。駅の近くの商業ビルに入って、雑貨を見たり、ファストファッションの店でお互いの洋服を見たりした。兄は時々「欲しい?」と問うたけれど、千草は首を横に振った。指輪があればそれで十分だった。逆に何かお礼をした方が良いのだろうか、と考えて兄の好きそうなものを見たけれど、特に兄は興味が無さそうだった。

 千草は何度も、左手に視線をやる。壊れていないだろうか。なくしていないだろうか。不安を越えて、逆にそれが幸福だとも思う。

 夕方になった頃、帰ろう、と兄に言われて電車に乗った。帰りの電車は、少し混んでいた。千草を席に座らせ、兄はその前に立つ。下から見上げると、兄の表情はよく分からない。兄は、スマートフォンを弄っていた。ゲームをしているのだろうか。或いは誰かと会話を。

(でも、いいや)

 千草は左手の小指に、右手で触れる。彼が誰と繋がっていても構わないと思った。

(だって、指輪を買って貰ったんだもん)

 八千五百円の指輪だった。相場はよく知らないが、小学生の千草に買うには、あまりに高い金額だと思う。高校生の兄にとって、それが高いのか安いのかはよく分からない。そもそもお小遣いをいくら貰っているのかもよく分からない。(ちなみに千草は八百円だ)

でも決して、彼にとって激安でどうでも良い金ではないはずだ。それを、千草のために支払ってくれたことが、ただただ嬉しかった。子供扱いをされていない気がして、嬉しかった。勿論三百円の指輪だって、買ってもらえれば嬉しい。値段で相手の気持ちを測るようなそんな酷い妹じゃない。でも。

(嬉しかった)

 無意識に頬が緩む。兄はスマートフォンから目を話さない。下から仰ぎ見る彼は、とても大きくて大人っぽくて、でも、その無防備な姿が、どこか可愛いと思った。



 翌日、兄は出かけると言った。ごめんな、と言って彼は千草の頭を撫でる。今日の朝は両親が揃っていて、二人とも穏やかにコーヒー(インスタントだ)を飲んでいた。やがて、父と兄が二人で殆ど同時に家を出る。母はもう少し遅れてから行くと言っていた。ダイニングテーブルには母と千草が残される。

「昨日は、どこに行ったの?」

 にこにこと母が上機嫌で聞く。千草は一瞬、言葉に詰まった。母から見ると、ゆかりさんは前妻ということになる。彼女に会ったといったら、気を悪くしないだろうか。兄は、母に言っても良いとも悪いとも言っていなかった。どうしよう、と考えを巡らせて、そして無難に答えることにした。

「A駅に、行ったの」

 あら、と母は目を丸くする。

「遠くなかった?」

 大丈夫だった、と千草は答え、左手を差し出した。

「これ、買って貰った」

 母は再び、あら、と言う。

「道哉君に?」

「うん」

「お礼、言った?」

「うん」

 そう、と母は言って、良かったねえと付け加えた。千草は頷いて、温くなったカフェオレを口に含む。母はそれ以上追求はしなかった。安い指輪だと思っているのかもしれない。五百円前後の、子供だましの。

 そうだ、と母は言ってソファに無造作に置いてあった通販カタログを持ってくる。

「千草、そろそろ新しい服、欲しくない? 欲しいのがあったら、丸、つけといて」

 子供向けのカタログを指して、母は言う。うん、と千草は頷いた。

「サイズ、どのぐらいだっけ。一四〇…が、今着てるのよね。一五〇でいいかなあ。だいぶ背、伸びたもんね」

 独り言のように母は言い、そして大人向けのカタログを捲った。最初の方のページの、お洒落っぽいところはぱらぱらと素早く捲ってベーシックコーナーで手を止める。綿混素材のロングTシャツとパーカーのページをじっと見つめる。

 不意に、ゆかりさんの綺麗な色のワンピースを思い出した。こんなカタログには載っていないであろう服。あの通りの誰かが作っているのかもしれない服。彼女はどこで服を買うのだろう。

 母は、カタログを捲っていく。洗濯機でガンガン洗えて、汚れが目立たない色で、破れても惜しくない値段で――。千草は目をそらして、子供向けカタログを捲る。けれどどれもどこか安っぽくてつまらなく見えた。兄のくれた指輪には、そぐわない気がした。ラメのプリントも、チュールのスカートも、合皮の鞄も。

――千草の、好きな色は何色?

 兄の質問に、即答できなかった自分。千草はページを捲る。ゆかりさんの着ていた、淡い若草色を探しながら。



 母は九時頃に出かけていった。彼女は自分が買うものを早々に決めたらしく、カタログの幾つかのページに折り目を付けていた。そっとそれを見る。ダークトーンの綿混カットソー。履き心地の良さそうなストレッチデニム。十足組のお買い得靴下。そして、ブラカップのついたキャミソール。

 千草は深くため息をつく。一人の部屋は、何処かむなしい。シンクには変わらず汚れ物が積んであるし、洗濯物は昨日から干しっぱなしだ。新聞は三部ほどが乱雑にあちらこちらに置かれている。

 携帯が震えているのに気づき、メールを見る。森さんからだった。

『昨日は楽しめた?ちなみに今日は忙しいですか?』

(暇です、って書いたら…遊ぼうって言うのかな)

 森さんの家を思うと、どうしても自分の家と比べてしまう。家なんて、ただの入れ物であるはずだけれど、やはり小綺麗に片付けられて可愛い雑貨が並んでいる家と、埃の溜まる無機質な家とは違う。手作りの好きそうな明るい母親と、弁当を買ってくる地味な母親も。

(森さんのお母さんは、どんな下着を着けてるんだろう)

 少なくとも、母の付けているようなシンプルなものではないような気がした。パステルカラーの可愛いものだろうか。

 どうしようかな、と少し考える。久しぶりに遠出をしたせいで、身体は少し疲れていた。家に居たいような気もする。けれど、ふと左手を見て気分を変えた。

(――自慢、しちゃお)

 そう決めると、メールを打つ。『昨日は楽しかったよ!今日は用事はありません』

 彼女からのメールはすぐに帰ってきた。『また遊びに来てくれない?良ければお昼ご飯も食べていって』

 千草は自室に戻り、クロゼットの扉を開ける。淡いグリーンのカーディガンを出したが、すぐに戻した。ゆかりさんのワンピースとは、色合いも風合いも、ほど遠い。

 変にきらきらしたものは、指輪と合わない気がして、悩んだ末に、シンプルな格好にすることにした。ブラックウオッチチェックのシャツワンピースに、黒いトレンカをあわせる。髪は、変わらず下ろしたままだ。

 カフェに寄り、また森さんの家に行くことを伝えると、母はサラダやラップサンドを持たせてくれた。

「何かあったら、絶対に、連絡しなさいよ。ママでも、道哉君でもいいから」

 分かった、と千草は頷く。気をつけてね、という母に手を振ってカフェを出た。父がカウンターで、軽く頷いたように見えた。彼は千草の指輪に気づいただろうか。その指輪を作ったのが、誰かということにも。

 電車に乗って、一駅。駅にはまた森さんと彼女の母が待っていた。千草ちゃん、と言いながら森さんが走ってくる。

“来てくれてありがとう!”

 にこにこと彼女は言い、車の方向に千草を誘う。森さんは、今日も華やかだった。小花柄のノーカラーブラウスに、サーモンピンクのキュロットスカート。

 千草は頷いて、彼女の後に続いた。はしゃぐ彼女が、どこか鬱陶しい。けれどここに来ることを選択したのは、自分なのだ。深く息を吐き出して、そして彼女に続く。

(家でずっと悶々としているよりは、マシ)

 そう思っても、自室で指輪を眺めていた方が幸せだったのじゃないかという思いが僅かに千草の中に淀む。それを断ち切るようにして、どうにか千草は彼女の母の車に乗り込んだ。森さんはひたすら千草に話しかけてくる。

“今日は家にお兄ちゃんが居るの。部活が午後からなんだって。部活はね、陸上部なの。長距離を走ってるんだ。昔は短距離だったんだけど、高校からは長距離にしたのよ”

 千草は何度か頷く。相づちを打つだけで、森さんは満足するようだ。車が家の車庫に滑り込む。降りてから、そうだ、と彼女はにこにことしながら手を打つ。

“今日、もしよければ一緒にミサンガを作らない?刺繍糸で簡単に作れるの。願い事が叶うんだって。私、何を願おうかな。千草ちゃんは、お願いごと、何かある?”

 願い事、と千草は口で呟く。

“お願いごとによって、色が違うんだって。赤とかピンクが恋愛で、勉強は青と黄色だったかな?緑が平和、とか優しさ。黒が信念。白が健康。私はオレンジにしようかなあ。楽しいことが起きるんだって。でもやっぱり勉強かなあ”

 森さんはそう言って、ふふふ、と笑い、家のドアを開く。

「ただいまあ」

 口で言うと、千草にどうぞ、と勧める。お邪魔します、と小さな声で言うと家にあがった。

「おかえり」

 リビングルームのソファに座っていた男が、こちらを見て言う。目つきの鋭い人だった。ややがっちりとした身体は、兄とは正反対だ。黒っぽいジャージ姿が、何処か怖い雰囲気を醸し出している。お兄ちゃんだよ、と森さんは手話で千草に伝える。

「お邪魔します」

 もう一度千草が言うと、森さんの兄は、にか、と笑った。想像以上に暖かみのある笑顔だった。彼は手話で千草に話しかける。

“いらっしゃい。ゆっくりしていってね。初めまして。里桜の兄の、亮太郎です”

 千草は、ややぽかんとして彼を見つめ返した。彼の容貌と行動が、全くかみ合わない。けれど一瞬の後に、そんなことはないと知る。聴覚障害の妹が居る。そうなれば、手話を覚えるのは自然の流れだ。確か森さんは先天性の聴覚障害者だと言っていた。だとすれば彼女の兄は十年以上、手話を使って妹とコミュニケーションを取っているはずで。千草はようやく、手を動かす。

“星園千草です。宜しくお願いします”

 それを伝えると、森さんの兄は、眉根を寄せた。ほしぞの、と口元が動いた気がした。彼はまた、手を動かす。

“お兄ちゃんが、居るんだよね?――ああ、里桜に聞いたんだけど。お兄ちゃんの名前、なんて言うの?”

“…道哉、ですけど”

 やや不審に思いながら言うと、彼は何か納得したように頷いた。

“あぁ、やっぱり。――星園くん…道哉くんとは、昔習い事で一緒だったんだよ。”

 え、と気づけば声が漏れていた。

“週に一回のそろばん塾でね。俺は小学校で辞めちゃったけど。懐かしいな。よく覚えてるよ”

 そう手を動かして、彼は小さく呟いた。

「――まあ、色々あったし」

「え?」

 千草の問いに、彼は聞こえた?という風に笑って、それから首を横に傾げた。知らないの、とでも言いたげな顔だ。

 もう、という声を微かに補聴器が拾った。横にいた森さんが手話で彼に言う。

“もうお終いにして、お兄ちゃん。私達二階で遊ぶんだから”

 ああ、とお兄さんは笑った。ごめんごめん、と手で謝る。そして千草に言う。

“ごゆっくり”



 刺繍糸を広げた森さんに、どうする、と問われて千草は迷ってからピンク色を選んだ。彼女が机に広げた雑誌には『恋愛』と書かれている。

“千草ちゃんて、好きな人いるの?”

 白(健康)と水色(勉強)をセレクトした森さんは、目をぱちぱちさせながら問う。

“…秘密”

 千草が答えると、森さんはくすぐったそうに笑った。

“教えて教えて!学校の人?”

“秘密だってば”

 言いながらどこか胸のあたりがふわふわとしてくる気がした。左手の小指に、また視線が行く。それをめざとく見届けた森さんが、あれ、と言った。

“その指輪、可愛いね”

 ありがとう、と千草は言って、ピンク色の糸を撫でる。もう一色使いなよ、と森さんに言われ千草は赤を選んだ。恋愛と、勇気。森さんはますます盛り上がって、嬉しそうに笑った。それを見ていると、千草も不意に嬉しくなる。来るのが面倒だった気持ちや、どこか彼女を鬱陶しく思っていた気持ちもいつの間にか消えていて、浮き足だった気持ちになる。我ながら申し訳ないぐらい(勿論森さんに対してだ)単純だ。

 リボンの指輪と、綺麗な色の刺繍糸が千草の気持ちをほぐす。雑誌を見ながら、森さんと二人で糸を動かしていく。両手を使うので、二人とも無言になる。順々に糸を潜らせて、ピンクと赤を絡ませていく。

(――好きな人)

 不意に、幼い頃に解いたイラストロジックを思い出した。縦と横の数字を素に、黒く塗りつぶしてくと、イラストが浮かび上がる。今の状況は、まさにそれかもしれない。一つ一つの気持ちに色を塗ると、それが浮かび上がる。きっと、この甘い色合いのミサンガと同じ、一つの欠片が。

(私は…お兄ちゃんが好きだ)

 数段分編んだミサンガは、不格好だった。引っ張りが足りなかったのか、よれてV字が歪んでいる。

 ううん、と千草は唸って、ミサンガをテーブルにおいて軽く伸びをした。こちらを見ている森さんと目があう。

“難しいね”

 酷いでしょう、と自分のミサンガを指さすと、森さんは笑った。

“最初はそんなもんだよ。私も初めて作ったのは酷かったもん”

 千草は小さく頷いて、また続きを編み始める。ちら、と見た森さんのミサンガは綺麗な花のような模様が浮き出ていた。

 千草は改めて自分のものを見た。所々間違えていて、赤のラインにピンクが一目だけ浮いていたりする。酷い出来のそれは、自分の気持ちによく酷似しているように思えた。

(――…たぶん、いけないことなんだと思う)

 自分と兄は、家族だ。それ以上でも、それ以下でもない筈だ。そして、両親もそれを望んでいるはずで。

 でも、と刺繍糸を摘みながら思う。

 兄妹は、結婚できない。それは確か、産まれてくる子供に影響する、という話で。だとしたら、義理の兄妹は結婚できるのだろうか。

(結婚?)

 そこまで考えて、不意に手が止まる。もう一度心の中で、結婚と呟き、暫し茫然と、ミサンガを見つめる。

(私は、お兄ちゃんと結婚したいの?)

 そこまで考えて、ふと視線を感じた。森さんが心配そうにこちらを見ている。

“どうしたの?”

 ああ、と千草は無理矢理笑顔を作った。ごめん、と謝る。

“なんでもない。ちょっと…ぼうっとしてた、だけ”

“休憩しようか。そろそろお昼ご飯だよ”

 うん、と頷き立ち上がりながら、千草はミサンガを横目で見た。着けるのも恥ずかしくなるような、歪んでぐちゃぐちゃなミサンガを。



 明日も来られる?と森さんは帰り際に聞いた。千草は一瞬詰まる。

“でも、毎日お邪魔しちゃうと…迷惑になるから”

 そう言ったが彼女は首を横に振った。

“来て欲しいの。明日も遊ぼう?またミサンガを作っても良いし、そうだ。ビーズで何か作っても良いと思うし”

 千草は躊躇する。連日の外出で、少し疲れていた。少し、一人でのんびりしたい気持ちもある。

“ね?お願い。そうだ、明日は一緒にクッキー作ろう?”

 千草は小さく頷いた。断りづらい雰囲気が流れていた。森さんの後ろでは彼女の母がにこにこと見ている。良かった、と森さんは手放しに喜んだ。

“じゃあ明日、十一時にまた駅でね。そうだ、お土産は気にしないで。手ぶら出来てね”

 おばさんに言われて、千草は頷く。あまり気が進まないまま、彼女たちと別れる。

 今日の電車は、遅延していなかった。空いた車両に乗り込むと、ぼんやり外を見る。

 結婚、と口の中で呟く。結婚とはなんだろう。一緒に暮らすこと。一生側にいると決めること。子供をもうけること。どちらかが死ぬときにどちらかが看取ること。同じお墓に入ること。考えてはみたものの、それを兄と自分がするところは想像出来なかった。それどころか両親がそれをすることも、あまり想像出来ない。一緒に暮らしてはいるけれど、カフェに泊まることも多々ある。一緒に働いてはいるが、それが側にいると言うことなのだろうか。この先例えば二人に子供が生まれるのか。老人になった二人が一緒にいるところも想像は出来なかった。

(そもそも、二人とも二回目の結婚だしね)

 千草はそう思って、こつん、とドアに頭をもたせかける。千草の実の父と母は、どうして結婚をしたのだろうか。二人は千草の考えること(一緒に暮らして、そして最後は同じ墓に入る)をするつもりだったのか。それを言うなら、兄の父とゆかりさんも同様だ。彼らはどうして、離婚をしたのだろう。そしてまた、どうして結婚をしたのか。

 ぼうっと外を見て、そして千草は、ぎょっとする。反射的に車内のモニターを見た。そして、ため息をつく。

(…乗り過ごしちゃった)

 莫迦だなあとため息をついて、次の駅で降りる。逆方面のホームに向かいながら、千草は左手の小指を見た。指輪は変わらず煌めいていて。ワンピースのポケットにはぐちゃぐちゃのミサンガが入っている。

 家の方向に行く電車に乗り込むと、今度は乗り過ごさないようにしっかりと車内モニターを見つめる。

 空には夕焼けが広がっていた。今度は予定通り、家の最寄り駅で降りる。家まで大凡十五分の道のりを歩き出しながら、ふと千草は森さんの兄の言っていたことを思い出す。

――色々、あったし。

 色々、とはどういう意味だろう。何かトラブルでもあったのだろうか。人違いではないだろうか。穏やかで優しい兄に、そんなことをいう人がいるのだろうか。

 カフェに立ち寄ってから行こうか、とふと思って道を一本曲がる。そしてドアを開けようとして、千草は足を止めた。

 店の真ん中で、母が頭を下げていた。

 一人の客が座ったまま、なにかを言っている。――怒っているようにも、見える。母は、深く深く頭を下げている。他に数人いた客は、驚いたような顔で二人を見ている。

 どうしよう、と千草はその光景を硝子越しに見る。ドアを開けて、お母さん、と言おうかと思う。父の姿は見えない。彼はどこにいるのだろう。

 迷っているうちに、客の方が腰を上げた。会計をするのだろうか。荷物と伝票を手に取っている。母が顔を上げると同時に、千草は顔を伏せて足を速めた。何かから、逃げるように。

 どこをどう歩いたのかは覚えていない。気づけば家に辿り着いていた。兄はまだ帰ってきていないようで、家の中は真っ暗だった。鍵とチェーンをかけて、千草は玄関に座り込んだ。

 どうして自分は逃げたのか、どうして母を助けられなかったのか。

 ごめんなさい、と小さく呟くと、涙が溢れた。お母さん、と千草は言葉を吐き出す。お母さん、ごめんなさい。と。

 携帯電話が震える。千草は泣きながらそれを開いて、そして鍵とチェーンを開けた。目の前には、驚いたような表情の兄が居て。千草は更に強く泣いた。どうしたの、と問う兄に、しがみつくようにして泣いた。彼のカーディガンからは微かに汗と煙草の匂いがした気がした。

 兄は、子供のようにわんわんと泣く千草を宥めながら、リビングへ連れて行く。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、千草の目の前に置く。しゃくり上げながらそれを飲み、千草は店で目撃したことをぽつぽつと話した。兄は頷いて、そして千草の頭を撫でた。

「働くってことは、そういうこと、なんだよ。そういう大変なことを、真琴さんは、してるんだ」

「でも…でも、誰も助けて、あげて、なかった…私も…」

「何が原因で、そのお客さんが怒ったのかは…分からないけど、仕方ないことだったのかも、しれないよ?父さんと、真琴さんは、お金を貰って、サービスを提供している。場所とか、食べ物とか、ね。もしも、その提供したものが、お金と不釣り合いだと思ったら、怒るお客さんも、いるかもしれない」

「でも――…」

「大丈夫だよ。真琴さんは、大丈夫」

 千草はまた泣き出す。よしよし、と兄は千草の頭を撫でた。

「びっくりしたんだね。大丈夫だよ。――真琴さんには、言わない方が良い。子供に心配をかけさせるのを、嫌がる人だから。ね」

 兄は穏やかに言って、何度も何度も千草の頭を撫でた。摩擦で髪が燃えてしまうんじゃないかと思うぐらいに。千草は頷く。分かった、と呟く。兄の顔は優しい笑みで溢れていて。

「千草は、優しい子だね」

 兄はそう言って笑った。そんなこと無い、と涙に埋まる千草は心の中で呟く。お兄ちゃんの方がずっと優しい。世界で一番、優しい。



 翌朝、のろのろと、千草はまた行く支度をする。森さんの家に行くのは三度目だ。面倒くさい。という思いが身体を包む。グレーのパーカーワンピースを着る。兄と以前映画を見ていたときに着ていたものだ。道中カフェによって、母に出かけることを告げると、さすがに眉根を寄せた。

「また?毎日行ったら、迷惑じゃないの?」

「…私も行きたくないんだけど、来てっていうから…」

 母はため息をつく。昨夜遅くに帰ってきた母は、疲れている気がした。朝もあまり元気が無く、どこか苛々しているようにも思えた。千草は俯く。

「――嫌だったら、明日は、断りなさいよ?定期も、そろそろ切れるんじゃないの?」

 千草は定期入れを取り出して、印字されている字を見る。

「…まだあるけど」

「切れた、って言っても、良いんじゃない?嘘も方便よ」

 うん、と千草は頷く。そんなことを言ったら、彼女の母は車で自宅まで迎えに来そうだけど。体調が優れないことにしようかな、と思う。実際、毎日出かけているせいなのか、身体が少しだるい。

「そういやちーちゃん、一昨日、道哉と、出かけたんだって?」

 カウンター越しに父が話しかけてくる。うん、と千草は頷く。

「あいつ、ちゃんと面倒見てくれた?嫌なこととかされてない?」

「ううん。…えっと、優しかった。お昼ご飯も、奢ってくれたから」

 千草が答えると、そうかあ、と父は眼を細めた。千草は頷いて、そして左手をさりげなく隠す。

 母は千草にマドレーヌを持たせると、手を振った。千草も手を振りかえして、カフェを出る。

 兄は今日も朝早くから家を出ていた。指輪を撫でる。

 昨日の兄は、ただ千草の頭を撫でただけだった。それ以上のこと――例えば抱きしめる、とかキスをする、とか――は何もしなかった。千草は唇に指を当てる。そうだ、と着ているワンピースを見て思う。この服を着ているときに、はじめてキスをしたのだった。

 兄は自分のことを、どう思っているのだろう。どうしてキスをしたのだろう。ただしてみたかっただけなのか、気まぐれなのか。

 駅の改札を通り、電車を待つ。

(お兄ちゃん…)

 ふと、ミサンガを思い出した。昨日、ワンピースのポケットに入れたまま洗濯カゴに入れてしまった。洗濯をしたら、ぐちゃぐちゃになってしまうかもしれない。

 千草はますます暗い気持ちになって、駅に降り立つ。そして、あれ、と首を傾げた。駅にいたのは、森さんと彼女の兄だった。

“千草ちゃん!”

 森さんがぱたぱたと駆けてくる。

“ごめんね、ママが急に出かけることになって”

 ああ、と千草は頷く。

“じゃあ…今日は帰るね。あ、よければマドレーヌを…”

“大丈夫大丈夫!ママいないけど、家で遊んでて良いって言ってたから。お昼も用意してくれたし、気にしないで遊ぼ!”

 でも、と千草は言う。親の居ない家に勝手に上がり込むのは、抵抗があった。

“大丈夫だよ。お兄ちゃんは居るから。今日は部活、三時からなんだって。だからそれまでだけど。ちょっと歩くけど、良いかな?”

 躊躇う千草に、森さんの兄は軽く笑った。

“良ければどうぞ。――というか、里桜と遊んでやって。朝からトランプしすぎて、俺も疲れてるんだ”

 千草はぐずぐずと二人を見比べて、そしてようやく頷いた。森さんははしゃぎながら千草にあれこれと話しかける。お兄さんは、二人の後ろからゆっくりと歩いてきていた。千草は森さんに適当に相づちを打ちながら、ちら、と後ろを振り返った。聞いてみたいことがあった。兄と、何があったんですか?と。

 けれど、森さんはそんな千草の視線に気づかないようで、ずっと手を動かしている。

“クッキー作ろうって言ってたんだけど、ママがいないから…ごめんね。その代わり、アイスクリームがあるよ。そうだ、ママがどこに行ったかっていうとね。おばあちゃんのおうちに行ったの。おばあちゃんのおうちは、川を越えたあたりなんだ。私、でもおばあちゃん苦手なの。おばあちゃんは、階段踏み外して落っこちちゃったんだって。それで、病院に連れて行くの。お兄ちゃんが部活に行くまでには帰ってくるって言ってるんだけど…どうかなあ。私一人でお留守番したことないから、ちょっと不安。千草ちゃんはお留守番したことある?”

 うん、と頷くと、森さんはへええ、と感嘆の声を上げる。

“凄いねえ、さすが千草ちゃん”

 別に、と思いながら千草は曖昧に頷く。好きで留守番をしている訳じゃない。両親が働いているからやむなく、だ。今更ながらに、来たことに後悔をしている。苛々という感情を通り抜けて、ただただ疲労感が千草を包む。一体どうしてこうなってしまったのだろう。でも元はと言えば、彼女にメールをした自分が悪いのだ。あの時、別の誰かを選んでいたら。でももう遅い。

“それでねえ、ママが買ってきたアイスクリームなんだけど、苺とチョコとメロンがあるの。千草ちゃんは何が好き?”

 森さんのおしゃべりは家についても、ひたすら続く。お兄さんは苦笑する。トントン、と森さんの肩を叩いて言う。

“お湯涌かすけど、何飲む?インスタントコーヒーとかでいい?”

“お兄ちゃんたら。千草ちゃんのママはカフェで働いてるんだよ?そんなの飲まないよ”

 ううん、と千草は首を横に振って、それで良いと言う。

“遠慮しないで、千草ちゃん。――そうだ、ストロベリーティーがあるよ。そっちにしない?”

“…ううん。インスタントコーヒーでいいよ。大丈夫”

 もう、と森さんはふくれっ面をしてみせる。どうぞ、とお兄さんはリビングのコーヒーテーブルにマグカップを載せた。

“ちょっと、部屋に持ってきてよ。お部屋で遊ぶのに…”

 言いかけた森さんに気づかないふりをして、千草はソファに腰掛け、礼を言った。一緒に出されたミルクと砂糖を入れて、ゆっくりと飲む。美味しい、と呟く。森さんは酷く不機嫌な顔で、キャラクターのマグカップを持った。庭を睨むように見ている。

 森さんに隠れるように、お兄さんは小さく手話で千草に謝った。

“あいつ、思い通りにならないとすぐああやってキレるからさ。甘やかされて育ってるんだ。――ごめんな”

 千草は首をぶんぶんと横に振る。森さんのお兄さんは、何処か疲れたような、けれど慈しむような目で妹を見た。とても、優しい目に見えた。

(世の中のお兄ちゃんは、きっとみんな妹に優しいんだ)

 兄だけが特別ではなかった、と不意に思う。もしかしたら兄も、誰かに謝っているのかもしれない。――あんな妹でゴメン、なんて。

 千草がコーヒーを飲み終えると、森さんは部屋に行こう、といって手を取った。ちら、と千草は階下を見る。お兄さんは欠伸をして、スマートフォンを弄っていた。



 昼食をごちそうになり(サンドイッチだった)二時頃に、森さんのお母さんが帰宅した。森さんの部屋に顔を出した彼女は、酷く疲れた顔をしている。お邪魔しています、と千草が頭を下げると、彼女は力なく笑った。

“里桜ちゃん。ママ、もう一回病院に行かなくちゃいけないの。おばあちゃん、入院になっちゃって。亮太郎は部活に行くでしょう。だからね…”

“じゃあ私、千草ちゃんと留守番してるよ!”

 え、と千草は思わず声を漏らす。森さんの母は顔をしかめた。

“でも何時になるか分からないもの。千草ちゃんだって迷惑よ”

“でも”

 森さんの母はため息をつく。

“里桜ちゃんは、ママと一緒に来て”

“嫌!わたしおばあちゃん嫌いだもん!そうだ、じゃあお兄ちゃん部活休んでもらう。それでお兄ちゃんと留守番してる”

 千草は森さんと彼女の母を順々に見比べる。森さんの母は、疲れた顔でため息をついた。

“我が儘言わないで。悪いんだけど千草ちゃん、今日はもう…”

“あ、はい。すみません。お邪魔しました”

 ぺこり、と千草が頭を下げる。おばさんは疲れたように笑った。そして、階段に向かって何かを言う。お兄さんに声をかけたのだと思った。

“…千草ちゃん。一緒に、留守番してよ”

 泣き出しそうになっている森さんに、千草は、ごめんね、と言う。

“遅くなったら…お兄ちゃん達心配するから”

“連絡すればいいじゃない”

 き、と森さんは千草を睨む。たじろいだ千草の肩を、おばさんがトントンと叩いた。

“亮太郎に、駅まで送ってもらうから。…良いかしら。おばさん、急いで病院に向かわなくちゃいけないの”

 はい、と千草は頷いた。

“お邪魔しました。あの――…おばあちゃん、お大事に…”

 そう言うと、彼女はしばしぽかんとした顔をして、そして疲れたように笑った。



 思えば、男の人と二人きりで歩くというのは兄以外では初めてだった。実父とも義父とも出かけたことはあるが、母が一緒だったし、クラスメイトの男子とも二人で歩いたことは記憶にない。

 森さんのお兄さんは、ゆっくりと歩いた。千草にあわせてくれているのかもしれない。彼はそのまま部活に行くと言い、ジャージ姿に大きめの鞄を肩からかけていた。兄よりも背が少し高いように思う。靴のサイズも。ふと、彼は言う。

「千草ちゃんは、もしかして手話より、読唇の方が楽なの?」

「えぇと――はい。家では、あんまり手話を使わないので…」

「…だよね。なんか、口元をよく見ている気がしたから」

「え…あ、そうですか…」

 どう返せばよいかよく分からないまま、千草は口ごもる。そうだ、と彼は言う。

「…なんか、ごめんね」

 唐突に出された言葉に、何がですか、と問うと彼は笑った。

「途中で追い出されたのもそうだし、送るのが俺、っていうのもそうだし、後は、里桜が我が儘だから、それもかな」

 千草はぽかんとして、それから笑った。

「どれも…お兄さんのせいじゃないのに」

 今度は彼がぽかんとして、そして笑った。

「――まあ、そうだね」

 お互いに笑い合いながら、駅までの道を歩く。ふと、彼の左の手首にミサンガが巻かれているのに気づいた。ジャージの袖の隙間から、時折見える、水色と白。あの日、森さんが作っていたものだ。

(――お兄さんに、あげたんだ)

 彼は千草の視線には気づかないようで、そのまま歩いて行く。

 駅までの道のりは、あっという間だった。彼と共に改札を抜ける。彼は上り電車に乗ると言った。千草は逆だ。彼に礼を告げて、千草は下り方面の階段に向かう。数段昇ったところで、あ、と気づいた。

(お兄ちゃんのこと、聞けば良かった)

 慌てて階段を下りたが、彼は既に居なかった。どうしようか一瞬迷って、上り方面の階段を昇る。

 階段の一番上に着いたとき、電車は発車をしている最中だった。ああ、と千草はため息をついて、スピードを上げていくそれを見つめる。遠ざかる電車の窓に、森さんのお兄さんが、見えた気がした。――こちらを、見ていた気がした。



 自宅の最寄り駅に着いたのは、三時前だった。そのまま出口に向かおうとして、千草は足を止める。くるり、と踵を返してファッションビルの方向の出口へと向かう。

 森さんの兄が着けていたミサンガが、脳裏を過ぎった。

(――私も、お兄ちゃんに作りたいな)

 願いが叶う、ミサンガ。兄の願いは何だろう。

(…えーと、勉強、でいいかなあ。来年は大学受験だし…。あれ、でもエスカレーター式、とか言ってたっけ?)

 今更ながらに、兄の学校のことすら知らない自分に気づく。

 ファッションビルの百円ショップで、手芸コーナーを探す。刺繍糸は、十束セットで、モーヴカラーセット、ナチュラルセットなど色別にパッケージングされている。

(すごい、こんなにいっぱい入ってる…。沢山作れそう…)

 そうだ、と千草は思わず手を叩く。

(お父さんとお母さんにも作ろう。――そうだ、そうしよう。色、どうしよう…)

 ええと、と千草は森さんに見せて貰った雑誌を思い浮かべる。

(ピンクだと可愛すぎるかな…赤かなあ。でもお母さん達は今更恋愛はいらないかな。それよりも、健康…だったら白かな。お父さんとお母さんはおそろいでもいいかも。手だとお仕事の時邪魔になるかもしれないから、足用にしようかな)

 ううん、と刺繍糸の前で悩む。

(これにしようかな…ベーシックカラーセット…。オレンジ入ってるし。オレンジと白で希望と健康。うん、お母さん達はコレで良いと思う。お兄ちゃんは――…)

 ううん、と雑誌を思い出す。勉強も考えたが、森さんの兄と同じ配色なのは何か嫌だった。

(――黒がいいかも)

 信念、と確か書いてあった気がする。それから、緑。緑は、優しさと癒しだった筈だ。

 よし、と千草はベーシックカラーセットを手に取る。しかし上手く編めるだろうか、と少し悶々とした気持ちが僅かに盛り上がる。いざとなれば森さんにメールで聞いてみればいいのだろうが、どこか面倒な気持ちにもなる。

(でも、やってみたら出来るかもしれないし)

 レジで会計を済ませて、そしてふと思い立って上階にある本屋へ向かう。

(あ、あった…)

 ミサンガの本を見つける。三種類ほどあったうちの、一番安い本を選んだ。薄いペーパーブックで、五種類の編み方が載っている。五百円。レジに行きかけて、雑誌コーナーで足を止める。

(――この間の…)

 電車が止まった日、兄を待っていた書店で立ち読みしていた雑誌。表紙に、書かれているのはあの時と同じ(当たり前だ)字。『Hなお話特集』。

 続きを読みたかったけれど、この書店では雑誌には全て透明のビニールがかけられていた。とはいえもう一度電車に乗って、わざわざ立ち読みをしに行く程の気持ちにもなれない。

(…買っちゃおっかな)

 年に数回、千草はファッション雑誌を買う。大体は付録目当てだったりするのだけれど、たまにを買っていったところで誰も不審には思わないだろう。

(そうだよ。私はただ、この新学期特集が読みたいだけだもん。そうそう。付録のシールも可愛いし。マリカのインタビューもあるし)

 うんうん、と千草は頷き、そして雑誌に手を伸ばす。

(たまたま、この特集があっただけだもん)

 雑誌に指先が触れようとして――そして、ば、と千草は手を隠す。

 兄が居た気がしたのだ。けれどそこにいたのは、兄と似ても似つかぬ男で。

 千草はため息をついて、ミサンガの本だけをレジに持っていく。お金を払い、そしてようやく家の方向に向かって歩き出す。莫迦みたいだな、と思いながら。

(お兄ちゃんは、エッチなものだけの本を、買ってるのに)

 ごまかしも言い訳もきかないようなものを、買っているのに。

 千草は帰路を歩いて行く。今日は、カフェには寄らなかった。真っ直ぐに、家を目指す。



 帰宅すると、森さんからメールが届いていた。

『今日はごめんね。いま病院の休憩ルームでおやつ食べてます。ママに漫画を買って貰ったけど、ほんとに退屈。千草ちゃんは何してるの?』

 めんどくさ、と千草は無意識に呟き、そして慌てて辺りを見回す。家には誰もいない。少し悩んで、そしてメールを打つ。

『今日はありがとう。お母さんとお兄さんに宜しく伝えて下さい。私は今、お兄ちゃんとおしゃべりしてます』

 嘘だった。でも、何もしていないと答えるのも何処か癪だった。少し待ったけれど、森さんからのメールは返ってこなかった。ため息をついて、買ってきた刺繍糸と本を広げた。

(どうしようかな…この間と同じV字にしようかな…)

 糸を取り出しながら、ぼんやりと考える。そして、ふと辺りを見回した。散らかった部屋。フローリングの隅には埃が溜まっている。不意に泣きたい気持ちになった。

 突然、その衝動は襲ってくる。

(…羨ましい)

 明るい部屋。手作りのおやつ。手話を使える兄。ただ病院に行ったというだけで、疲れて見えた森さんの母親。お客さんに怒られて、疲れていて、それでも毎日仕事に行く、千草の母。

――凄いねえ、さすが千草ちゃん。

 凄くなんて無い、と下唇をかみしめる。留守番なんて、したくない。私だって、と千草は歯に力を込める。唇の弾力が、それを押しとどめる。

(――一人になんて、なりたくない)

 もっと綺麗な部屋に住みたい。母と一緒に、何かを作りたい。一緒に買い物に行きたい。

(お母さん…)

 母が他人に頭を下げている所なんて、見たくなかった。唇が、遂に歯に負けて僅かに血を滲ませた。涙が零れる。涙と血の入り交じった、おかしな味が舌先に届く。

 携帯電話が震える。兄だ。刺繍糸と本を、鞄にしまう。

 千草は泣いたまま、ドアを開いた。外は、いつの間にか雨が降っていたらしい。髪を濡らした兄は、昨日のようにまた驚いた顔をしていて。

 千草は裸足で三和土に降りて、そして、兄に抱きつく。今日は、煙草の匂いはしなかった。お兄ちゃん、と千草は声を出す。どうしたの、と兄が耳元で問うた。千草は答えずに、兄の背に腕を回した。お兄ちゃん、ともう一度言う。

 言葉が、無意識にこぼれ落ちた。

「――お兄ちゃん。千草を、一人にしないで」

 刹那、身体がふわりと包まれた。兄が、抱きしめていてくれているのだと分かる。兄の手は何処か硬く、強くて。頭を撫でていてくれたそれと同じとは思えなかった。顔が兄の鳩尾のあたりに押しつけられている。

(――あ…血が…ついちゃう…)

 慌てて顔をそらすと、兄がこちらを見ているのが分かった。彼は自らの右手を千草の背から唇に移動させて、どうしたの、と問う。傷口が、ずきん、と痛む。千草は答えずに、首を横に振った。

 兄は千草を抱え上げると、玄関からリビングへと運ぶ。

「…重くない?」

 問うと、彼は少し笑った。

「軽いよ、千草は」

 そう言ってから兄は、三度目になる問いを口にする。

「――何かあった?」

 千草は急に恥ずかしくなる。自分のしたことが、酷く子供じみたものに思える。ううんと首を横に振る。

「…何も、ない」

 小さく言うと、兄は、うん、と頷く。

「何も…無いんだけど…」

 言いながらまた、涙が溢れてくる。今まで、ずっと平気だったことが、どうして平気じゃなくなってくるのだろう。一人の留守番も、カタログで服を選ぶことも、夕飯がお弁当なことも、ずっとずっと前から同じだった。それが当たり前の日常だった。でも、今、その一つ一つが、酷く苦しい。森さんの家になんて、行かなければ良かった。綺麗な部屋と手作りの小物の数々。そして彼女の兄。何一つ、見なければ良かった。そうすれば、千草はきっとこの家の中で幸せに時間を食いつぶして、兄の帰りを待てたのに。

「…お兄ちゃん…」

 左手を、彼に伸ばす。小指の指輪が、光る。不意に、兄が何処か苦しそうな顔をした。

「――…お兄ちゃん?」

「千草、ちょっと…待って。ごめん。ほんとに」

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

「…ごめん、待ってて。ちょっと、我慢出来なくなる」

 立ち上がろうとした兄の腕を、縋るようにして千草は掴む。

 鮮やかに過去が蘇る。ちょっと待って、休ませて、という母に纏わり付いていた自分。お母さん大丈夫、千草が元気にしてあげるよ。面白い歌歌ってあげる。ぎゅうってしてあげる。だからお母さん、笑って――。自分がやっていることは、あの時と同じで。でも、どうしても、止められない。独りぼっちになるのが、怖い。

「ごめんなさい、私――あの、お兄ちゃんを、困らせるつもりは、無くて――ん」

 もう一度、兄が千草を抱きしめる。再び押しつけられた彼の胸は、激しい鼓動を奏でていて。何かを、兄が耳元で囁いた気がした。吐息が、頬にかかる。千草はどうにか顔を動かして、彼の顔を仰ぎ見た。兄は、じっと千草を見ている。ゆっくりと、彼は言葉を紡ぐ。

「違う。千草は、悪くない。――俺が、悪い。ほんとに、ごめん」

 何が、と千草は問う。

「――…ほんと、ごめん」

 言いながら兄は、強く千草を抱きしめる。それは恐らく、兄が妹にする動作では無くて。どこか、すがりつくような。

「――千草」

 唇から声が漏れる。

「…ごめん、ほんとに」

 そう言うと、兄の身体が離れる。千草はその場にすとんと座り込んだ。

「お兄ちゃん…私――」

 兄は顔を歪ませる。

「――…ごめん。俺、本当に…」

「…何に、謝ってるの?」

 千草の問いに、兄は顔をゆっくりと向けた。

「…兄として」

 ぽつりと彼は呟く。蛍光灯の明かりの下で、彼の顔は酷く疲れているように見える。

「よく、分かんない…」

 千草が言うと、兄はその疲れた顔で笑った。いつか母が見せた笑顔と、似ている気がして。

「――ちょっと、シャワー浴びてくる」

 彼はそう言うと立ち上がる。お兄ちゃん、と千草は小さく呟く。外を見る。雨は、少しずつ強くなってきていた。



 シャワーを浴びた兄は、その後は何事もなかったかのように振る舞った。夜には母が帰宅し、保存用コンテナに入ったおかずを並べた。

「そうだ。千草、欲しい服、丸付けた?そろそろ、注文するけど」

 千草は首を横に振る。

「欲しいの、無かった」

 呟くと母は顔を曇らせる。

「でも、足りないんじゃないの?」

 毎日洗濯をしてくれれば足りるよ、という言葉を千草は飲み込む。母が洗濯機を回すのは二日に一度。しかも、殆ど部屋干しをするのでなかなか乾かない。

「大丈夫。もし足りなかったら…駅のとこで買う」

 千草が言うと、母は、そう?と言う。

「まあそうね。そろそろ大人向けでもSサイズなら着られるもんね。お金が欲しかったら言ってね」

 うん、と頷くと千草はエビチリを掴む。兄は、落ち着いた様子で食事をしていた。

 食事を終えると、母は洗濯機を回した。その間に、食器を洗う。兄は食後、自室に行ってしまった。千草はダイニングテーブルに座ったまま、母を見ている。母は、千草に視線を移す。

「どうかした?」

 ううん、と千草は首を振り、問う。

「今日はもう、お店には行かないの?」

 母は疲れた顔で、分からない、と言った。

「あんまり、天気が、良くないしね。客足が微妙だから、一旦帰って来たけど…どうかな」

 そう言って母は外を見る。

「雨だと、お客さん少ないの?」

「うーん…その日によるかな。突然降ってきたら、雨宿りがてら、来る人も居るし」

 そっか、と千草は答えて、ため息をつく母を見る。

「コーヒーでも飲もうかな。千草、何か飲む?」

「じゃあ、ココア」

 はいはい、と答えて母はヤカンを火にかける。カフェでは豆をひいて作るコーヒーを出しているのに、両親が家で飲むコーヒーはいつもインスタントだ。千草のマグカップにココアの粉を入れながら、そうだ、と母は言う。

「道哉君、何か飲むかな。聞いてきてくれる?」

 うん、と頷くと、千草は階段を昇る。兄の部屋の前でノックをする。ややあって、向こうから扉が開いた。彼は身体で室内を隠すように立っている。

「千草か。どうしたの?」

「あの――…お母さんが、お湯涌かすけど、何か飲む?って…」

 ああ、と兄は頷く。いつもの兄だと千草は思う。柔らかそうな髪に、グレーのパーカー。

「じゃあ、んーと…コーヒーを、お願いしようかな」

「お部屋まで、持ってくる?」

「いや、もうちょっとしたら、降りるよ。ちょっと待ってて」

 分かった、と言って千草は階段を下りる。普通の高校生がどうかは知らないが、兄はあまり自室にこもると言うことはしない。それは義母である千草の母に気を使っているからなのかもしれない。そう言えば、と千草は思う。兄は千草の母を未だに「真琴さん」と呼び、敬語で話す。千草はもう義父に対して「お父さん」と呼んで敬語も使わないのに。

(…そういうもんなのかな)

 そういえば実母であるゆかりさんに対しても、「ゆかりさん」と呼んでいた。千草の前だったからだったのかどうかは分からない。何となく寂しいな、と千草は思う。早くお兄ちゃんが、お母さんのことを「お母さん」と呼んでくれたらいいのにな、と。

 三人でゆっくりと飲み物を飲む。そんな久しぶりの団らんの時間を夢見ていたが、階下に戻ると、母は電話をしていた。山積みの洗濯物を乗せる籠を見る目が、虚ろだ。

「…お母さん?」

「ちょっと、団体さんが…来ちゃったみたいなの。行かないと」

「あ…じゃあ、洗濯物、私がやる…」

 言うと母は「ありがと」と言った。

「じゃあ悪いけど、お願い。あ、あんたたちの飲み物、置いてあるから」

 そう言うと母はあおるようにコーヒーを飲み干し、バタバタと家を出て行った。千草はため息をついて、洗濯籠の洗濯物を一枚ずつ引っ張り出していく。

 三分の一ほどを干したところで、トントン、と肩を叩かれ振り向く。兄が居た。

「真琴さんは?」

「お店。お客さんがいっぱい来たんだって」

 そっか、と兄は言う。

「丁度歓迎会シーズンだしね。飲み会後に、なだれ込んできたって感じかな」

 手伝うよ、といって兄は籠から洗濯物を取る。千草はドキドキしながら、その様子を見た。

(お母さんや私の下着、触ったらどうしよう…)

 色気のない母の下着と、子供っぽい千草の下着。どちらを触る兄も想像出来ない。兄は意図してなのか、千草と母の下着には触らなかった。手早くタオルや靴下を干していく。

「――…お兄ちゃん、あの…」

「どうしたの?」

 言いかけた千草の言葉にかぶせた兄の言葉は、優しくて。――だから、千草は無理矢理笑顔を作る。

「テーブルの上に、飲み物置いてあるって。終わったら、一緒に飲もうね」



 その日は十一時近くまで、ミサンガを編んでいた。

(まずは、お母さんの)

 本を見ながら、ゆっくり編んでいく。森さんの家で編んでいたときよりは、上手く編めている気がする。一目一目丁寧に。時々間違えたところは、安全ピンの先を使って解きながら。二〇センチほど編んだところで千草は伸びをした。材料をお菓子の空き箱にしまう。

(うん、綺麗。きっと喜んでくれる)

 春休みは、もうすぐ終わる。最高学年になる。

(――面倒くさいな)

 女子は今まで以上に着飾って、グループで固まるだろう。どうして年齢が上がる度に、幼稚なことに更に固執していくのだろう。いつになったら、そういうことをしなくてもよくなるのだろう。大人になったらだろうか。深くため息をついて、そしてミサンガを空き箱にしまうとトイレに向かう。

 用を足して、兄の部屋の前を通ると、小さく明かりが漏れていた。

(お兄ちゃん、まだ起きてるんだ…)

 ベッドに入ると、兄の部屋との境目の壁に頬を押しつける。小さく、お休みなさい、と呟く。

 両親はもう帰宅しているのだろうか。お兄ちゃん、と壁に囁く。

「――…好き…」

 音を伴わない、ため息のようなそれは、壁の表面を撫でるだけで。

 不意に、泣きたいような気持ちになった。肋骨のあたりがぎゅう、と詰まる感覚がする。

(――お兄ちゃん)

 いつも、千草に沢山のことをしてくれる兄に、千草は何を返せるだろう。枕元の小さな棚には、補聴器と指輪が乗っている。

 千草だって、言いたい。――それでいいでしょう、と。

(私が居るから。だから)

 他のものなんて、何もいらないでしょう、と。けれどそれを言えるほど、千草は兄に何もしてあげられなくて。何をしたら、兄はずっと千草の側にいてくれるだろう。洗濯や掃除をしてみたけれど、兄は変わらず朝から出掛けていくだけで。

 不意に、雑誌の特集を思い出す。

(もしも、キスより先のことを私がお兄ちゃんにしてあげられたら)

 たぶん、よく分からないけれど服を脱ぐのだ。そして、抱きあう。

(――明日、あの雑誌を買いに行こうかな)

 そうだ、と千草は頷く。そして、もっと可愛い下着を買おう。兄の枕の下にあった女子高校生が着ていたような、下着。レースの着いた、薄桃色の。

 そして言うのだ。

――どこにも行かないで、と。

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