【一】
最初に彼に出会ったとき、自分は何と言ったのだろう。
「初めまして」「こんにちは」「よろしく」
もう、記憶には残っていない。けれど、多分、それに近いようなことを言ったのだと思う。
「初めまして。道哉です」
確か、彼はそう言った。母は、これでもかと言うほどの笑顔で、
「千草の、新しい、お兄ちゃんよ。――来年ぐらいには、入籍、したいと思ってるの」
と、言った。そこに、有無を言わせる隙間はなく、ただ、こ洒落たレストランという場に似つかわしくないちぐはぐな空気が、いっぱいにふくらんでいた。
その後、新しく父になるという人が紹介されたけれど、もうそちらに興味はなかった。“あたらしい、おにいちゃん”。その初めての響きに肩の辺りで何かが揺れる。
「よろしく、千草」
彼は、兄はそう言って笑ったのだと思う。柔らかな弧を描く瞳が、ひどく綺麗だと思った。
それが、六年前の春のこと。その時の兄は小学校六年生だった。もうすぐ、千草も同じ学年になる。
春休みの初日を、千草は殆ど無為に過ごした。休みの一日は、ゆったりと時が過ぎる。暑くも寒くもない、穏やかな部屋の中はまるで千草を守るようで。
千草は、ぼんやりとベッドの上で本を捲っていた。幼い頃に、大好きだった親指姫の、絵本。モグラと結婚させられそうになった親指姫を、燕が花の国に運んでくれる。そして、そこにいた王子様と結婚して、幸せに暮らす。そんなシーンが、淡い色使いで描かれている。
「千草」
微かな空気の振動と気配を感じ、顔を上げる。そこには兄の道哉が居て。
「ごはんだよ。食べる?」
兄はゆっくりと大きな声で問う。千草が頷くと、にこりとほほえんだ。二階にある子供部屋から、階下へ向かう。
「おいで」
千草は、耳が悪い。覚えていないのだけれど、母曰く「三歳のときにモトダンナに吹っ飛ばされて、聴力をほぼ失った」のだそうだ。とはいえ、完全に聞こえないわけではない。補聴器を付けると、聞き取りづらいが僅かに音が耳に届く。
「おにいちゃん」
喋るようになってからの聴覚障害なので、そこそこの発音は出来ていると思う。それでも保育園では、発音が変だとからかわれた。今は、三駅先の「ことばときこえの教室」という聴覚障害用のクラスのある小学校に籍を置いてある。基本的には『通級』扱いで、一日のうち数時間を、「ことばときこえの教室」で過ごす。その他の時間は、普通学級で過ごすことになる。(とはいえ、その中の半分ぐらいはさぼって保健室にいたりする)
兄は千草が呼びかけると、いつも振り向いてくれる。だから、つい用事が無くても、呼びかけてしまう。
「ん?」
「ごはん、なあに?」
母にこんなことを言えば「一階に行けば、すぐに分かるでしょ」とため息混じりに言うに決まっている。それでも、階段で兄は笑う。
「鯖だよ。トマト煮だって」
兄は、優しい。
千草は再び前を向いた彼の背を見つめる。初めて会った六年前とはずいぶん変わったと、そう思う。
広い肩幅。細いながらも筋肉の付いた腕。浮き出ている血管。
もう一度、おにいちゃんと呼びたかったけれど、その後に続く言葉も見つからない。家の階段は、短くて、あっさりと一階に着いてしまう。もっと長ければいいのに。永遠におわらない、螺旋階段のように。千草にとって兄は、一体何だろう。花の王子様の元に運んでくれる燕か。それとも――。
「千草、お箸並べて」
今日も、両親はいない。自宅から徒歩五分のところにあるカフェを営む両親は、仕事の合間をぬって家事をしに来る。兄に箸立てを渡され、千草は箸を並べた。
「おにいちゃん」
何度だって呼びたい。こんな気持ちになったのは、一体いつからなのか。そして、それは一体どうしてなんだろう。
「ん?どうかした?」
兄はいつでも答えてくれる。幼子の拙い言葉を聞く母親のように。千草は、それが聞きたくて何度も話しかける。補聴器越しでも声が聞きたい。莫迦みたいに。子供みたいに。
「あした、やすみ?」
問うと兄は一瞬申し訳なさそうに目を伏せてから、首を横に振る。
「明日は、土曜日だけど…えっと、生徒会の、仕事が、あるんだ」
ゆっくりと兄は喋る。そっか、と千草は気落ちした。せっかくの春休みなのだから、どこかに連れて行って欲しかった。けれどそうもいかない。そもそも、健全な男子高校生は小学生の妹とどこかへ行ったりはしないに決まっているのだ。友達とカラオケに行くとか、彼女と遊園地に行くとか。
兄は生徒会に入っている。入学式の後すぐ行われるという、新入生歓迎会の準備で忙しいのだと言っていた。
「千草?」
トントンとテーブルを叩く振動が伝わり、顔を上げる。全ての料理がテーブルに並べられており、その向こうで兄が心配そうな顔をして、こちらを見ていた。
「兄ちゃんと、遊びたかったの? それとも、行きたいところが、あった?」
そんな顔を、しないで欲しい。そんな顔をされたら自分は、我が儘で子供な妹になってしまう。千草は首を横に振る。
確かに、千草にはふと思い立って一緒に出かけられる友人はいない。学校が遠くて、家が離れていると言うこともあるけれど、それ以上に千草に友人を作る気が無いからだ。
学校ではひたすらに本を読み放課後もクラブ活動もせず、直帰する。「ことばときこえの教室」に通うクラスメイトの中には、普通クラスの子と仲良く遊ぶ子もいるが、千草にはそう言った相手は居なかった。
「千草」
兄の声は、ただただ優しい。
「明日、たぶん、三時には、終わるから」
な?と、確認するように言う。それから、三、と指で形を作って示す。
「そうしたら、どこかに行こう。どうせ春休みだし、ちょっと遅くなっても、いいから」
どうして、兄はこう自分に気を遣うのだろう。それは、初めて出会った六年前からずっと変わらない。今の千草と殆ど変わらない年の兄。
きっと、千草がぼんやりと見ていたあの日から、兄は兄であろうとしたのだと思う。それは、千草の耳が不自由だからなのか、父親に暴力をふるわれた可哀相な子供だったからなのか。
――父さんも、真琴さんも、仕事が忙しいから。行きたい所があったら、兄ちゃんが連れて行ってあげるよ。
再婚時には中学生になっていた兄は、そう言って千草の手を引いていろいろなところに連れて行ってくれた。少し遠い公園も。動物園も。映画館も。背の高い兄は、それだけで遠い高い存在に見えた。
例えば後一年後。中学生になる自分は、誰かにそれをやってあげられるだろうか。未だ、兄に紐をくくりつけているだけの自分は。
「どこ、行きたかったの? 千草」
千草は目を伏せる。どこにも行きたくない。行ったところで、自分は可哀相な障害を持った女の子で。兄は様々な視線に、晒されるだけだ。偉い男の子。優しい男の子。可哀相な男の子。
「えいが、見たかった…あの、こないだもらった、DVDの…」
迷った末に、それを言うと兄は合点がいったように頷いた。
「ああ。あのエイリアンの…。分かった。明日、帰ってきたら、見よう」
な、と兄は笑った。良かった、と千草は心の中で呟く。うまく、誤魔化せた。千草は、恐がりだった。――だったというのは字のごとく過去形で、実は今はある程度のものは怖くないのだが、それでも兄にはそれを告げていない。学校で殺人鬼の小説を読んでいたりすることは、絶対に言わないと決めている。
千草は頷いて、ありがとう、と小さく言う。それから、鯖の骨を指で取り始めた。兄は箸で上手く避けていく。
伏せた睫毛が、兄の頬に影を落としている。千草は慌てて、ほうれん草の味噌汁をすする。その、角度にですら心がぎゅうと締め付けられる気がして。
その日の夜、不意に千草は目を覚ました。
(喉、乾いたな…)
眠るときには、補聴器を外している。千草はそのまま、ベッドを滑り降りると階段を下りる。ふと、リビングの明かりが付いているのが見えた。
(――誰か、起きてるのかな)
時計は見ていなかったが、まだそんなに遅い時間では無いのだろうか。キッチンに行くにはリビングを通らなくてはならない。迷ったが、ドアを開く。
そこには、父母と兄がいた。兄は何か怒ったような顔で、立ち上がっていた。母がそれを宥めるように兄の横にいる。父は、兄の真正面に座り、腕を組んでいた。三人が、は、と扉の方の千草を見る。
慌ててこちらに来たのは、母だった。母は千草の耳に補聴器がないことを見て取ると、手話を使う。普段、手話を使わない母のそれは、酷くぎこちない。
“飲み物、飲む?”
こくん、と千草が頷くと、母は千草の背を押すようにしてキッチンに連れて行く。
千草はなるべく小さな声で、母に問う。
「けんか?」
母は首を横に振った。
“違うわよ。ちょっと――…話し合い”
そう言って、普段、夜中に飲むことを禁止されているジュースをコップいっぱいに注いだ。
“トイレに行ってから、寝てね”
千草は頷く。ゆっくりとジュースを飲んで母と共にリビングを再び訪れたとき、そこには誰もいなかった。
長期休みでも、朝寝坊はしないと決めている。父母に――特に父に会えるのは、朝の僅かの時間だけなのだ。平日と同様、朝六時に階下に降りると、ああ、といって父の治朗がこちらを見た。
「おはよう、ちーちゃん。よく眠れたかい?」
「うん。おはよう」
言うとにっこりと父は笑う。彼が千草の父になって、六年。彼も兄と同様に、いつも優しい。母曰く、『甘過ぎ』だ。
「そうだ、ちーちゃん。良ければこれ、使うかい?」
そう言って彼は、北欧キャラクターの付いたメモ帳とボールペンを千草に差し出す。
「お店用の、雑誌の付録だったんだけど…使うならあげるよ」
「ありがとう」
千草はそう言って、それを受け取る。少し大人っぽい若草色ベースのそれは、とても可愛い。彼は、良かった、と言って目元を和ませる。
「ちーちゃんに似合うかなあって、思ったんだ」
そう言って父は照れたようにコーヒーを啜った。
「――治朗さん、もうそろそろ行かないと」
母が髪を束ねながらダイニングに入ってくる。
「あら、また千草にあげるの?そんなに甘やかさなくたって」
「まあ、いいじゃないか。付録だよ付録。文房具なら使うだろうし」
「――まあいいけどね。あ、それより、もう行かなくちゃ」
ああ、と父は言って立ち上がる。千草はもう一度「ありがとう」と伝えた。父はにっこり笑う。兄の笑みに、よく似た柔らかさを伴いながら。
父母がばたばたと出かけていったのが朝の七時前。カフェは、八時から開店なのだ。七時半に、千草と兄は朝食をとった。カフェの残り物なのだろう。ポテトサラダと少し固くなったバケット。ベーコンとインゲンの炒め物。兄は学生服を既に着ていて、それらをコーヒーと共に食べていた。
(昨日のこと、聞いても良いのかな)
もそもそとバケットを噛みながら、千草は兄をちらりと見る。彼も、いつもと変わらぬように見えた。そうだ、と兄は顔を上げる。
「帰って来たら、DVD見ような」
そう言われて、千草はきょとん、と兄を見返し、そしてようやく昨日の約束を思い出した。
「終わったら、メールするから」
兄の言葉に千草は頷く。友人達と、仕事の後に遊んだりしなくて良いのだろうか。それを問いたい気もするけれど、どんな返事が返ってきても嫌なのでそれ以上のことは言わない。代わりに小さく、ありがとう、と言うと兄はにっこりと笑った。
朝食を終えて、洗濯物をしようとする兄を千草は止めた。
「わたしが、やるから…」
言うと兄は、驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「大丈夫?」
千草が頷くと、兄は千草の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「ありがとう。よろしくな」
屈んだ彼の顔が、すぐ近くにある。うまく目が見られなくて、千草は下を向いた。人の手が頭の上にあっても怖くなくなったのは、兄と出会ってからだ。それまで、振り上げられた手というものは、痛みを伴うものだった。手がある、と思った時にはいつも大抵床にたたき付けられていて。けれど兄の手は違う。優しくて温かい。
「じゃあ、行ってくる」
そう言うと彼は、通学時とは違うバッグを手に取った。芥子色の少し大きめのトートバッグ。
「鍵と、チェーン、かけておいてな」
「うん。行ってらっしゃい」
「行って、きます」
兄はそう言うと笑って扉の向こうへ消えていく。言われたとおり、鍵とチェーンをしっかりかけて、そうして千草は洗濯機の中の洗濯物を籠に入れる。ぐちゃぐちゃと絡まった洗濯物をほぐして、ハンガーに掛けていく。
母のカットソー。父の靴下。千草のキャミソール。ふと、千草は手を止める。兄の下着。シンプルで黒いそれに、急にどぎまぎとする。そういえば、休日の洗濯は兄の仕事だった。彼は、千草の下着もこうして干していたのだろうか。千草のものは、ネットに入れてあっった。薄いクリーム色の小花模様のハーフトップと、ショーツは木綿のもので。
(色気無いって、思われてるのかも)
別のネットから、母の下着を取り出す。カーキのつるりとしたシンプルな下着。兄は、母のものも干しているのだろうか。一つ一つをピンチハンガーに止めていく。兄が、母のブラジャーを手にしているところを想像して、そうして千草は首を横に振る。飾りのないこんな下着。どうってこと無いに決まっている。レースもリボンも何も付いていないものなんて。けれど、兄のシンプルなボクサーパンツと何処かがリンクしているような気もする。急に、自分の小花模様の下着が恥ずかしくなる。中途半端にかわいらしいそれは、酷く幼稚に見えた。
洗濯物を全て干し終えると、千草はようやく息を吐いた。たかだか数枚の布きれに翻弄されている自分が、莫迦みたいに思える。それでも何処かもやもやした思いは消えずに、床に積んであった母の通販カタログを何の気無しに開いた。洋服のページをぺらぺらとめくり、そうして下着コーナーで手を止める。
――魅惑の赤×黒レース。清楚なパステルカラー。谷間くっきり。ラグジュアリーパープル。大輪の花を纏う。――
そこでは外人のモデルが、下着姿でポーズを決めていて。
どこか滑稽にも思えるが、それでも千草はそこから目が離せなかった。そこにあるのは、毒々しいほど色鮮やかな花畑のようで。細かいギャザーや、刺繍がちりばめられている。肩のストラップは華奢で、そんな細い所にもきちんとレースやリボンが縫い止められている。
急に何か悪いことをしているような気持ちになって、ページをめくる。数ページめくると、急にうたい文句が変わっていた。
――楽ちんブラ。お肌に優しい綿混素材。軽やかすっきり。ワイヤー無しで楽々リラックス――
そして、母の付けていたようなシンプルな下着が所狭しと載せられていた。のっぺりとしたブラジャーとショーツ。色も、黒とグレー、ベージュぐらいのもので、アウターライクなボーダーや水玉模様まであった。ばさり、と千草はカタログをソファに落とす。
自分は大きくなったら、どちらの下着を着けるのだろう。まだふくらみかけたばかりの胸をそっと触る。この胸を包む布は一体何色なのだろう。少なくとも、と千草は思う。きっと、クリーム色の小花柄では無い。
だらだらと漫画を読んで時間を潰し、昼食には母の作っていったチャーハンを食べた。兄は昼食をどうしたのだろう。友人達とファストフードにでも行ったのだろうか。ちくり、と千草の胸が痛む。チャーハンを温めて食べれば良かった。冷たいそれは、何処か油っぽくて。所々固まった米が胸につかえている気がする。
メールが来たのは、三時半頃だった。
『遅くなってゴメン!いまから替える』
誤字があるところを見ると、相当急いで作成されたメールのようだ。友人達と話しながら、こっそりと作成したのだろうか。千草は少し笑って、そして部屋をぐるりと見回す。乱雑に積まれた雑誌や本。床には細かい糸くずや髪の毛が見える。脱ぎ捨てられたパーカー。ダイニングテーブルの上には調味料のボトルやふりかけの袋が散らばっている。シンクには汚れた食器と調理器具。蓋の開いたインスタントコーヒーの瓶。
片付けよう、と思ったと同時に、どうしてそれを朝からやらなかったんだろうという思いがふくれあがった。それでも。兄が帰ってくるまで、後一時間。
(もしも、ここが綺麗になっていたら)
千草はソファの上にちりばめられている服を、二階まで運ぶ。両親のものは、両親の寝室のベッドの上へ。千草のものは、部屋の“なんでもいれ”の籠の中へ。兄のものは、少し迷ってから、彼の部屋の前へ。
(次は床)
掃除機をざっとかけて、積み上げられていた雑誌や通販カタログのたぐいをリビングの本棚に入れる。ぐちゃぐちゃと屍のようになっているクッションを、ソファに並べる。
(それからそれから)
ダイニングテーブルを拭いて、調味料を全て台所の戸棚にしまう。ふりかけを、籠に戻す。ちら、と時計を見ると既に四時に近かった。
(急がないと)
シンクの洗い物を洗っていく。兄の朝使ったマグカップも。千草の食べたチャーハンの皿も。フライパンも。
(後は――)
ソファの前のコーヒーテーブルも拭いて、リモコンを並べた。それから、自分がまだ部屋着だったことに気づいて慌てて二階へ駆け戻る。
(何着よう…)
ずっと家にいたのだから、部屋着でも構わないのだけれど(そしてたぶん、兄は帰宅したら部屋着にする)もう少しかわいい格好をしたかった。家の中とは言え、一緒に映画を見るのだ。
あまり気合いを入れた格好は逆に恥ずかしいだろうかと悶々としながら、服を並べる。淡いグリーンのカーディガンに、ベージュのワンピース。でもちょっと色の組み合わせが子供っぽい気がする。だとしたら、デニムのスカート。でもこれは固いので、長い時間座るのには向かない気がする。
どうしよう、と悩んでいると、ポケットに入れている携帯電話が震えた。
『帰ったよ~チェーン開けて~』
今度はゆっくり打ったらしい。顔文字付きのメールが届いていた。千草は慌てて、グレーのパーカーワンピースを被った。地味な色だけれど、胸元の薔薇の刺繍が気に入っている。足下には、柔らかいモコモコとした素材の白い靴下を履いた。前に兄が暖かそう、と褒めてくれたものだった。これで良し、と鏡に笑いかける。
急いで階下に降りて、チェーンを開ける。にこりと笑った兄の顔が、そこにあった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お土産」
そう言って兄は、ドーナッツの袋を取り出した。駅前にあるチェーン店のものだ。ありがとう、と千草が言うと兄は笑って頷き、それから驚いた顔をした。
「部屋、綺麗だな。びっくりした」
そして、彼は笑う。
「掃除、してくれたの?ありがとう」
ああ、と千草は思う。私は世界一幸せな女の子だ。大好きな人が、ただいまといって帰ってくる。お土産といって、好物をくれる。ありがとうといって、笑ってくれる。そして、ぽんぽんと、頭を撫でてくれる。
「映画、見よう」
彼はそう言って、着替えてくるね、と二階へ行く。千草は頷いて、ヤカンを火にかける。コーヒーと紅茶は、どちらが良いだろう。
そして、着替えてきた彼が先程ソファから持っていったパーカーを着ていたのに気づいて、千草はまた幸せな気持ちになる。グレーのパーカー。
(なんだか、おそろいみたい)
何かに酔ったように、千草はふふふと笑う。
「おにいちゃん、何飲む?」
「ああ…じゃあ、コーヒー」
コーヒーの瓶を指さしながら兄が言う。千草は頷いて、先程蓋をきちんと閉めて片付けたコーヒーの瓶を再び出した。
兄の買ってきてくれたドーナッツは、千草の大好きなチョコレートがかかっているものだった。
映画を見ている間、千草は兄の横にぴったりと寄り添うように座っていた。怖いから、というのはただの名目だ。時々、エイリアンがこちらをぎょろりと見るシーンや、恐ろしいことを言う場面では(音は殆ど聞こえないので字幕だけだ)、身体を震わせてみたり、目を覆ってみたりした。その度、兄が笑うのが振動で伝わり、嬉しかった。
(なんて言うんだっけこういうの――。あざとい、だっけ)
昼間に読んでいた漫画の言葉を思い出す。かわいこぶりっこってことよ。と主人公の友人が言っていた。
兄がずっとスマートフォンを触っているのに気づいたのは、映画が始まって一時間も経たない頃だった。一分おきぐらいに、スマートフォンを操作して、何かをしている。メッセージ交換アプリというやつだろうか。
(友達かな)
千草には、メッセージは勿論、メールすらやりとりする友人が居ない。ドーナッツを咀嚼しながら、兄から目をそらしてテレビ画面を見つめる。自分のクラス以外の「ことばときこえの教室」には児童が十人ほど居るが、彼らとも相容れなかった。人目を憚らず手話でやりとりする彼らが、どうしても眩しくて千草はいつも目を伏せる。千草は殆ど手話を使わない。僅かながらも補聴器を使えば音は拾えるし、相手の口元を見ていればある程度の意思疎通は出来る。昔は練習をして使ったこともあったが、そこに待っていたのは目を見開いた相手の顔しかなかった。哀れんだ顔。驚いた顔。詮索する顔。慈愛の顔。嘲る顔。彼らが見ているのは“聴覚障害のある人間”で。つまりそれは、星園千草という一人の人間ではない。眼鏡をかけている人間には誰も注目しないのに、補聴器を付けている人間には誰もが目を止める。
数の問題だよ、と兄が言ったのは三、四年ほど前だっただろうか。もう二度と電車に乗りたくないと泣いた千草に、彼はそう言ったのだった。
「はげている人はいっぱいいるから、あまり印象に残らないだろう。でも、アフロヘアの人ってあんまりいないから、見れば印象に残るし、つい目で追ってしまう。世の中、目が悪い人と耳が悪い人だったら、前者の方が多いから。どうしてもみんな、より珍しい人間に視線が行ってしまうんだ。」
長いせいなのか、兄は携帯電話(当時はまだスマートフォンではなかった)でその言葉を打って、千草に見せてくれた。アフロヘア、という喩えが面白くて千草は少し笑ったのを覚えている。
「周りの人間なんて気にしなくていいよ。どうせ何もしてくれないんだから。千草のことは、兄ちゃんがよく知ってる。それだけでいいだろう。後の人間なんて、注目されようが無視されようが、どうでもいいだろう」
もう一度携帯電話で文字を打ち込むと、兄はそれを千草に見せた。
思えば、千草が学校で誰とも話さなくなったのはそれがきっかけだったのかもしれない。
(お兄ちゃんさえ、居ればいい)
けれどその兄は、千草以外の人間と関わっている。学校に行き、そこで色んな人間と会話をしている。千草はまだ、兄としか繋がっていないのに。
不意に、とんとん、と肩を叩かれて千草は顔を上げる。
「どうした?疲れた?」
兄の心配そうな顔が、そこにあって。
千草は首を慌てて振った。いつの間にか手のなかにあったはずのドーナッツは無くなっていた。無意識に食べたのだろうか。そして、映画は終わっていた。エンドロールが流れている。
「千草?」
兄の手には、スマートフォンが握られていた。彼のその機械の中には、どれだけの繋がりが入っているのだろう。彼のなかで“どうでもよくない”人間は、何人いるのだろう。千草はその中で、何番目なのだろう。不意に、目の前がぼやけた。兄のパーカーが溶けていく。それだけでいいでしょう、と言いたくなった。私だけでいいでしょう。私だけが側にいれば、それでいいでしょう、と。それを言えなかったのは、兄の顔が変わるのが怖かったから。哀れんだ顔。驚いた顔。詮索する顔。慈愛の顔。嘲る顔。それらに変わるのが、怖かった。
(もしも本当の、お兄ちゃんだったら)
兄の顔は涙の向こうで。唇はほおと同化して溶けていく。動いているのかどうかも分からない。
(もしも私の耳が聞こえたら。もしも私に友達が居たら)
目を閉じると、そこは真っ暗闇で。それで良いと思った。兄の顔を、見たくないという衝動が沸き起こる。
(もしも私が、可愛い下着をつけていたら。もしも私が、もっと大人だったら)
けれどどこかで覚めたような感情が暗闇に線を引く。やっちゃったなあ、と言う思いがぐるりと千草を包み込む。せっかく、部屋を片付けたのに。せっかく映画を一緒に見ていたのに。せっかく、美味しいドーナッツを食べていたのに。
やっちゃった。ばかみたい。こどもみたい。はずかしい。段々と、そちらの妙に冷たい感触が千草を支配していく。
不意に、顔が温かくなって千草は目を開ける。そこにはグレーの布地があって。兄のパーカーだった。そして、千草の肩を、彼の腕が包んでいる。何かを兄が言っているようだった。彼の胸が、震えている。
「おにい、ちゃん」
呼びかけると彼は、一層強く千草を抱きしめた。顔が、彼のパーカーに飲み込まれるようで。辛うじて、鼻で息をしながら、千草はだらりと垂れた自分の手を思う。
(触っても、いいかな)
例えば、彼の背中に。彼の腰に。どうして良いのか分からないまま、もう一度おにいちゃんと呼んだ。その、瞬間だったのだと思う。不意に千草の肩と顔に風が触れた。パーカーが離れた、と思った。それとほぼ同時に、兄の顔が側に来ていた。
「ん」
最初は、何か分からなかった。何処に何が触れているのか、それすらも。お兄ちゃん、ともう一度呼ぼうとして、その発するべき器官が塞がれているとようやく分かった。唇が、兄の唇と触れている。
どのぐらいの時が、たったのだろう。唇以外の場所がどうなっているのか、千草には全く分からなかった。ようやく、その唯一の感覚から彼の唇が離れて、千草はぽかんと、兄の顔を見た。兄は何処か呆けたような顔をしていた。そして、俯いて小さな声で「ごめん」と言った。言葉は耳には届いていなかったけれど、唇はその形に動いていた。先程千草の唇と触れていたそこが、そう、動いていた。
七時頃に、母が帰宅した。夜は父に任せてきたと彼女は言い、帰宅途中に買ってきたという弁当を並べた。パッケージに印字された字を示しながら、母は言う。
「千草は、牡蠣フライで、いい?」
千草が頷くと、母は何か早口で兄と会話を始めた。おおかた、何を食べるか、とか色々任せてごめんね、などという言葉なのだと思う。兄も何かを言い、そして不意に母が驚いた顔で千草を見た。何だろう、と千草はどきりとする。夕方のあの、唇と唇が触れたこと――つまりはキスを思い出す。まさか兄が何かを伝えたのだろうか。
けれど母の顔は、笑顔だった。
「千草、お片付け、してくれたの?」
千草は目を瞬かせる。そして、ようやく頷いた。片付けをしたのなんて、遙か昔のことのようだ。母は、ありがとうね、と言って穏やかに微笑んだ。
千草は頷いて、そうして弁当に箸を入れた。後は、兄と母が話しているのをぼんやりと見ていた。彼らの口元は見ずに、ただぼんやりと。
「ごめん。忙しいんだ」
翌日、兄は朝一番に、そう言いながら手早く朝食を取り、慌てたように家を出て行った。
千草は頷いて、兄に手を振った。玄関の鍵とチェーンをかける。兄はあの後も行くまでも、何も言わなかった。千草は唇に指を当てる。
(ファーストキス、だよね)
あまり恋愛ものの漫画を読まない千草だけれど、そのぐらいの言葉は知っている。兄は一体どうして千草にキスをしたのだろう。
(特に意味は無いのかも)
突然泣き出した千草に驚いて、とりあえず泣き止まそうとしたのかもしれない。猫だましのように。
(…そうだよね。きっと、それだけ)
ぐるりと部屋を見渡す。昨日急いで片付けた部屋は、数時間でまた散らかり始めていた。深夜に帰宅したのであろう父のカーディガンが、抜け殻のように落ちている。
父母もまた今朝も早くに家を出ていた。彼らは年末年始を除き、ほぼ毎日カフェを開ける。朝から夕方近くまでは二人とも店に出て、夜は交代で出る、というのが最初の約束のようだった。以前ははスタッフを何人か入れていたのだが、今は二人で切り盛りをしている。スタッフさんを沢山入れればいいのに、と千草が言うと母は疲れたように笑った。そうね、と。それだけを。それ以上のことを説明するのが面倒になったのだというのは明白だった。それは、千草がまだ幼いからかもしれないし、仕事で疲れているのかもしれないし、ゆっくりと発音するのが嫌なのかもしれない。カフェの経営がうまくいってるのかどうか、千草には分からない。けれど、時折通学中に覗くそこは、さほど人が沢山いるようには見えなかった。(もっとも千草がそこを通る時間は食事どきではないので、繁盛する時間では無いのだろうが)そして、大抵朝食に並べられるカフェの残り物。それが、ここ数ヶ月ほどで量も種類も増えている気がしていた。
(昔は、何にも残らなかったとか言って、おかずがゆでたまごだけの日もあったのに)
母が買ってくるお弁当も、駅前の可愛いお弁当屋さんのものから、スーパーの特売弁当に変わった。パッケージに張ってあるシールも、花柄の『おすすめです』というものから、赤地に黄色い文字で『お買い得品!』『五十円引き』と書いてあるものになっている。
父母は毎日忙しそうで、朝から晩まで働いている。けれど、彼らが得ているものは何なのだろう。発泡トレイに並べられたおかず。汚れた部屋。障害を持つ娘。それらのために彼らは生きているのだろうか。
違う、と千草は父のカーディガンを畳みながら思う。彼らが求めて愛しているものは、この家の中にはない。夢だったんだと笑う父と、夢みたいと目を蕩かせていた母の向いていた方向はいつだってカフェだった。たぶん彼らにとって、この家の中は足かせで。帰らなくては行けない場所。面倒を見なくてはいけない子供達。買わなくてはいけないお弁当。彼らはそれから目をそらすように、カフェを飾る。可愛い雑貨を並べて。テラコッタタイルの床を清めて。コーヒー豆を煎って。ステンドグラスを磨いて。
彼らはそのうち、ここに帰ってこなくなるかもしれない。
千草はぎゅうと目を閉じた。店の奥に仮眠用にも使えるソファベッド、更にはテレビや冷蔵庫もが置いてあるのは知っていた。トイレと洗面所だって付いている。浴室はないけれど、近くに銭湯はある。十分暮らしていける筈だ。父母は何のために、この家に帰ってくるのだろう。そして、もしも彼らが帰ってこなかったら。
千草は何かを払うように頭を振った。父と母の笑顔を思い浮かべ大丈夫、と意味のない言葉を頬の中で呟く。それに、と思う。もしも両親が帰ってこなくても、千草には兄が居る。兄は絶対に千草を見捨てない。絶対に、千草のところに帰ってきてくれる。
昨日のキスは、きっとその証明だ。もしもその先(とはいえ、やや不鮮明なイメージしか持っていないけれど)を彼が望むなら、千草は受け入れても良いとすら思った。それで彼を繋ぎ止めておけるのなら。何故なら千草には兄しか居ないのだから。
それだけでいいだろう、と書かれたあの画面。それを思い出して千草は頷いた。それだけでいい。兄がいてくれれば、それだけで。
掃除をしながら、その日を過ごした。洗面所の下の棚から窓ふき用の洗剤を見つけて、それを使って窓を拭いた。掃除機を二階の部屋にも持っていって、両親の寝室と千草の部屋にかける。
(――お兄ちゃんの部屋は…)
どうしよう、と千草は扉の前で躊躇う。昔、兄から借りた漫画に『部外者が部屋に入ったかどうかを見極める方法』が書いてあった。それは、扉に紙を挟めたり、ドアの蝶番にシャープペンシルの芯を入れておくというものだった。開くと紙が落ちたり、芯が折れたりして『誰かが部屋に入った』ということが分かる、と書いてあった。
やめておこう、と千草は合板の扉の前で目をそらす。父母は兄が出る前にはもう家を出ていた。誰かが部屋に入ったと分かれば、それは千草しか居ない。
幼い頃から、鶴の恩返しで何故若者が扉を開けたのか、それを何度も母に問うてきた。浦島太郎が、何故玉手箱を開けたのかも。そして、その答えは未だに見つかっていない。それを人は臆病だと言うのかもしれない。けれど千草はそれでも良いと思う。閉じている扉には、手を触れない。
(帰ってきたら、聞いてみよう。掃除機をかけていいかどうか)
そう思いながら階段を下りる。そして、ポケットに入れていた携帯電話が唸りを上げているのに気づいた。
(メール?)
ぱちん、と開閉式のそれを開くと、星園道哉、という字が出ていて千草は身体を硬直させた。急に肩の辺りがぽん、と温かくなる。
『ごめん、俺の部屋の机の上にメモの紙、無い?前言ってたTシャツの店なんだけど。そこに書いてある住所、写メって送って!』
え、と千草はその文面を三回ほど読んだ。そして、慌てて二階に駆け戻る。今度はためらいなく、ドアノブに手をかける。
久しぶりに見た兄の部屋は、雑然としていた。シンプルなスチールデスクと、低いマットレスのベッドの上には漫画や参考書が散らばっており、作り付けのクローゼットには衣類が生き物のように様々な形でのたうち回っていた。千草はデスクの上にあった、一枚の紙を手にする。淡い、綺麗なオレンジ色のメモ用紙の片隅には猫のシルエットが描かれている。書かれていたものは、どうやら業者のもののようだった。デザインW、と書かれていてその下に住所と電話番号があった。そう言えば歓迎会で生徒会はおそろいのTシャツを着るのだと言っていた気がする。千草はそれを携帯電話の写真機能で撮る。『これでいい?』と、一言添えたメールを作成する。そして送信してから、そのメモ用紙を見る。そこにプリントされている猫の絵と、その字を見れば書いたのが女の子だというのは容易に想像出来た。
(たぶん、同じ生徒会の人だよ)
ただの業務用のメモだ。ハートマークの一つも着いていない、ただのメモ。けれど千草の胸はざわめきを止めない。兄が、女の子から手描きのメモをもらった。
(分かってる。そんなの普通だ)
ややあって、兄から返信が来る。
『助かった!ありがとな~!部屋にある漫画読んでていいよ~!』
千草はそれを読んで、ため息をつく。ずっと怖くて入れなかった兄の部屋に入れたのは嬉しかったけれど、けれどやっぱり心は落ち着かない。
(部屋、片付けようかな。でも嫌がるかな…)
散らかった兄の部屋を見回す。迷った末に、千草は寝乱れたベッドに腰掛ける。落ち着かない気分のまま、手元にあった漫画を開いた。何度か読んだことのある、スポーツ漫画だ。ぼうっとそれをめくる。ストーリーは全く頭に入ってこなかった。諦めて本を置くと、千草は兄のベッドに顔を埋める。そして、ふと気づく。
(…何の匂い?)
石鹸やシャンプー、柔軟剤の香りとは異なる。鼻が少しむずかゆくなる。この匂いは。
不意に千草は身体を強ばらせる。記憶には殆ど残っていない。けれど身体が覚えている。野太い怒鳴り声。大きな手のひら。毛の生えた四肢。
(煙草の、匂い)
それは実父の匂いと酷く似ていて。部屋に入ってきたときには、全く気づかなかった。千草は身体を起こす。兄のベッドに無造作に置かれた学校指定のカーディガン。そのくすんだ匂いはそこから漂っていて。
千草は、兄の机を見る。漫画と参考書以外には、特に何も見えない。思わず引き出しに手をかけて、そして手を止める。引き出しには、鍵がかかっていた。続いて、クローゼットを見る。乱雑に置かれた衣類に顔を近づける。けれど香ったのは、あのカーディガンだけだった。
部屋の真ん中で、千草は立ち尽くす。
(煙草ぐらい、大したこと、無い…)
ぎゅう、と千草は腕を抱きしめる。確かに未成年の喫煙は法律で禁じられている。けれど、高校生が煙草を吸っているところは幾度か見たことがある。大人は忌々しげな顔でそれを見るか、ため息をついて顔をそらすかぐらいだった。だから、と千草は思う。大声で大人が駄目を言わないのであれば、それはその程度の罪なのだと。例えば、千草が学校を時折さぼってしまうぐらいの罪なのだと。
そう自分に言い聞かせても、二の腕で粟立つ寒さは消えない。
(煙草ぐらいで、お兄ちゃんは変わったりしない)
優しい兄が、どういう顔で煙草を吸うのか、千草には全く想像も出来ない。開けなきゃ良かった、と思う。閉じた扉など開かなければ良かったのだ。そうっと、千草は兄のベッドを撫でる。枕に近づいて、くん、と匂いを嗅ぐ。
(――お兄ちゃんの匂いだ)
そこに煙草の香りは無かった。ただ、柔らかなシャンプーの匂いがする。不意に千草は泣きたくなる。良かった、と枕にほおを乗せて考える。
(私の好きなお兄ちゃんは、ここにいる)
まるで漫画の台詞のような事を思った途端、千草は身体をがばりと起こした。
(好き…?)
ぽかん、と自分の思い浮かべた台詞をもう一度反芻する。好き、と思った。それは一体何だったのだろう。確かに、と千草は枕を見つめながら思う。嫌いか好きかで言えば、それはもう間違いなく後者だ。けれどそれは、漫画を読むのが好き、とか鳥の照り焼きが好き、とかそういうものと同一のはずで。
不意に昨日のキスが思い起こされて、一瞬息が出来なくなった。どうしよう、と思う。それは千草の知っている限りの知識でいえば、『恋』の現象によく似ていた。例えば映画で、漫画で、小説で。恋をしている少女。好きな人のことを考えると、胸がドキドキする。その人のことばかり考えてしまう。別の女の子と話しているのを見ると、胸が苦しくなる。そんな、少女達。
どうしよう、と胸を押さえる。確かに胸が、締め付けられるような気がする。ふわふわとして落ち着かない気持ちになる。
(まさか…)
考えすぎだ、と頭を振る。違う。そんなことあるはずがない。
(だって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだから)
そうだ、と千草は誰にともなく頷く。母のことだって、父のことだって好きだ。何故なら彼らは家族だから。そして、兄もそうだ。ただ、千草に関わってくれる時間が多いから、だから家族の中でも一番好きなのだ。そうだそうだと千草はまた頷く。
そして、千草は兄の枕にもう一度顔を埋める。まだ胸はドキドキしていたけれど、けれどそれだけだった。幼い頃、母の腕に抱かれたときと、きっと変わらない。
そう思った所で、ふと千草は枕の下に何かがあるのに気づいた。
「…?」
固い、何か。起き上がり、ひょい、と枕を持ち上げて、そして千草は硬直した。潤んだ瞳の、半裸の少女がこちらを見ている。
一体その本がなんなのか。そのぐらいの知識は、千草にだってある。千草は慌てて枕を元に戻す。そして、あたりを見回した後、もう一度そうっと枕をあげる。
少女は、どうやら学生服を半分ほど脱いだ格好をしているらしかった。ブレザーとブラウスはボタンを全て取り去った後、二の腕のあたりまで落としてある。スカートのホックは外されている。そして、その学生服の隙間から薄桃色の下着が見えた。靴下は片方だけ履いていて、どこか駐車場のあたりで座り込んでいるような写真だった。
千草はまじまじとその少女を見る。年齢はどのぐらいなのだろう。十七、八ぐらいにも見えるし、二十歳を過ぎているようにも見える。少女の身につけている下着には、細かいレースが縫い付けてある。
そこまで見て、千草は枕を元に戻す。その本を開く勇気は無かった。その中で少女がどんな格好をしてどんなものを身につけているのか。それを確認する気力は無かった。
(おにい、ちゃん)
優しい兄の顔が千草の脳内を浮かんでは消える。頭を撫でる、柔らかな手。目の下のほくろ。箸を持つ手。それらが兄だと、千草は信じていた。「それだけでいいだろう」。そう自分に差し出してくれた兄は、そう言う人間だった。けれど、千草の知っている兄は、この部屋には居なかった。煙草と、エロ本。急に泣き出したくなって千草は兄の部屋を出る。
兄が千草にくれるもの。それは真実なのか。或いは兄の一部分を切り取ったものなのか。それでも千草はそれに縋るしかない。
涙は出なかった。扉を閉じると、千草は両親の寝室に行く。先程兄の部屋で行ったように、母の枕に顔を埋めた。兄の枕と同様にシャンプーの匂いが香る。
お母さん、と千草はその匂いを抱きしめる。幼い頃の記憶が、とろとろと垂れてくる。母はいつも、疲れたように笑っていた。少し首を横に倒して。千草は母に喜んで欲しくて、もっと笑って欲しくて、沢山のことをしたけれど、結局母はいつも同じ顔で笑んでいただけだった。保育園で、ままが喜ぶように、と書いた絵を見せたときも。上手く洋服のボタンがはめられたときも。夕飯を「おいしいありがとう」と言ったときも。母はいつだって、疲れたように笑っていた。そして、まるで義務のように「すごいね」と言った。けれども千草には分かる。母は、言葉を発していなかった。唇をその形に動かしただけだった。
今なら分かる。母が欲しかったのは、休息だったのだと。荒れている当時の夫と、纏わり付く娘。沢山の不安と仕事の疲れ。それらから、遠ざけて寝かせてあげれば良かったのだと。けれども当時の千草は、どうしても母に笑って欲しくて。余計に母を追い詰めるとは知らずに。
母は、千草が五歳の時に父との離婚を成立させた。その裏に何があったのかは、千草には分からない。ただ分かっているのは、父が出て行くときに見せた憎々しげな顔だけだった。あの時の鋭い瞳は、まだ、忘れられそうにない。
それから二年間、再婚するまでの間も母はまだ例の笑みを浮かべたままだった。千草は相変わらず、母に笑って欲しくて沢山のことをした。おにぎりを一人で握れるようになったし、洗濯物も綺麗に畳んでしまえるようになった。平仮名をかけるようになった。手話も練習したし、うたた寝をした母に布団をかけた。けれど母は、再婚をするまで、満面の笑みは浮かべてはくれなかった。
千草は顔を枕に押しつけたまま、ぐにぐにと動かす。
そして、それは今でも続いているのかもしれない。母の大喜びした姿など、カフェが完成した日に一度見ただけで。
いつ、気づいたのか。自分では母を、笑顔に出来ないと言うことに。
お母さん、と千草は息苦しくなる程、枕に顔を押しつける。
そして千草は気づく。自分は、兄を母の代わりにしようとしているのではないだろうか。母の代わりに、笑って欲しくて。そばにいて欲しくて。触れて欲しくて。だからもしかしたら、母と兄との違いを受け入れられないのかもしれない。だって母は煙草を吸わないし、あんな本を読んだりはしないのだから。
(私、最低だ)
兄と母は、別の人間だ。年齢だって性別だって立場だって違う。なのに千草は、勝手に兄に母を求めてそして幻滅している。
(ごめんなさいお兄ちゃん)
ようやく千草の目の奥から、水分が滲んできた。ごめんなさい、ともう一度思うとそれはじわりと母の枕に染みこんだ。
翌朝、燃えるゴミをまとめている母を見て、ああ今日は月曜日だったのだと千草は気づく。どうにも、曜日感覚が無くなっている。
今日も兄は、出掛けると言っていた。
「大変ねえ」
母が言っているのが口の動きで分かった。その母に兄が笑って何かを言っているのが分かった。――そうでもないですよ。仕方ないですよ。ほんとに大変なんですよ。…何を言っているのかは、千草には分からない。
ばたばたと母が出て行き(父はどうやらカフェの方に泊まったらしい)兄も出て行く。一人家に取り残された千草は、ぼんやりとソファに座り込んだ。
春休みというのは、中途半端だ。宿題も目標も無い。小学校五年生は終了しているけれど、小学校六年生は始まっては居ない(勿論、四月一日で入れ替わるという話は知っている。気持ち的に、という話だ)プールや海に行くには寒いし、雪は降らない。エアコンは静まったままだ。けれどその中途半端さが、心地よくもある。千草はごろりとソファに倒れ込んだ。無意味に携帯電話を取りだし、受信メールを順繰りに見ていく。見事なまでに母と兄からのメールしか、来ていない。アドレス帳には数人の名前が入っているが、数回メールをやりとりした後は、ぱたりと連絡が途絶えていた。
今まではそれで良いと思っていた。兄の言葉だけを信じてきていたのだから。けれど。
(お兄ちゃんには、友達が居るんだ)
もしかしたら彼らと一緒に、煙草を吸ったりエッチな本を見たりしているのかもしれない。
千草は、えい、と身体を起こした。兄からのメールは、大抵「家の鍵とチェーンを開けてくれ」という旨のもので。
(お兄ちゃんは、いつでも私が家に居ると思ってる)
それを思うと、不意に苛立ちが千草を包み込んだ。友達がおらず、一人で何処にも行けない、そんな妹だと思っている。――それは紛れもない事実なのだけれど。だけれど、兄にそう思われるのは癪だと思った。
千草はアドレス帳を開く。学校、というグループの中に数人の名前がある。全て、「ことばときこえの教室」の子達だった。校内内通級をしている子もいれば、別の学校から来ている子もいる。聴覚障害を持つ子も居れば、言語障害を持っている子、発達障害を持つ子もいる。四年生から、六年生までの子。去年の、見学学習の時に班全員でアドレスを交換したのだった。
阿佐ヶ谷将。佐藤果歩。松村梨杏。森里桜。渡部誠也。――男の子は、さすがに抵抗がある。佐藤さんは、ちょっと苦手。梨杏ちゃんは、たぶん私のことが嫌いだ。森さんは…可もなく不可もなく。彼女は、同じ年で、そして同じ聴覚障害者だ。但し彼女は生まれつきの障害者、と聞いた。人工内耳を入れているとも聞いている。
悩んだ末に、森さんを誘うことにした。大人しい子、というのが森さんの唯一の印象だった。耳を隠すように伸ばした分厚い髪。彼女の家は、同じ沿線上にあると聞いたことがあった。
何度も直しながら、メールを作成する。在籍クラスが別なのに加え、普段学校でも余り喋らないのに(しかも千草は時折サボるのに)急にメールなどしたら怪しまれないだろうか。
(急にメールしてごめんね…って書いたら、大丈夫かな)
どうにか形になったメールを何度も読み直してから、送信ボタンを押す。急に緊張が押し寄せてきて、千草はソファに座り直してもう一度送信済みメールを見返す。
『急にメールしてゴメンね!お元気ですか?もし良ければ春休み中遊んでもらえないかなって思ってメールしてみました。私は今日でも大丈夫だよ。お返事待ってます!』
(ちょっと図々しいかな…。返信しづらいかも…)
妙な汗をかきながら、画面の上の方――メールアイコンが表示されるであろう場所――をじっと見つめる。
しかし、森さんからのメールは、一時間を経過しても帰ってこなかった。
(駄目かあ…)
千草はため息をつく。こんなことなら、常にスマートフォンを弄っている佐藤さんにすれば良かった。大体森さんを誘ってどこに行こうというのか。無難な話――天気や授業の話――をするかしないかぐらいの間柄の彼女も、きっと困るだろう。
(友達が居ないことぐらい、平気だったはずなのに)
グループというものは、千草のクラスにもあるが、千草はその必要性は特に感じては居ない。給食は席順に食べるし、移動教室やトイレは一人でだって行ける。放課後は寄り道をしないで帰るし(遅くなると帰宅ラッシュに巻き込まれるのだ)林間学校や遠足は勝手に休むことに決めている。クラスの子達は、千草のことを皆腫れ物を触るように扱う。目に見えるいじめは無いと思うが、特に誰かが話しかけてくることはない。最初のうちは担任が心配したが、千草の方に友達を作る気がないということが分かってからは、特にうるさくは言わなくなってきた。
(――…メールなんて、しなきゃ良かった。だいたい、出掛けるのも面倒だし。何話していいかなんて、分からないし)
微妙な後悔を抱きながら立ち上がると、昼食にダイニングテーブルの上のロールパンをかじる。昨日片付けたはずだったのに、部屋は再び汚れていた。机の上にはマグカップの輪染みがついているし、シンクには朝ご飯で使った食器が積んである。ソファの上には昨日母が着ていたカーディガンが無造作にかけられている。コーヒーテーブルの上にはダイレクトメールと通販カタログ。昨日の片付けの後は、誰にも褒められなかった。
あーあ、と零したため息をきっかけに、段々と苛だちが千草を襲う。折角昨日、部屋を片付けたのに。掃除もしたのに。春休みなのに。つまらないのに。メールは帰ってこない。部屋にひとりぼっち。
(一人で、出かけようか)
駅前のファッションビルにでも行こうか。財布の中身を思い出す。お年玉の残りが少しはあるはずだ。たまに可愛いヘアアクセサリーでも買おうか。ネックレスやブレスレットといったアクセサリーは学校に着けていけないが、ヘアアクセサリーなら極端に華美でない限り咎められない。髪がだいぶ伸びたし、かわいいシュシュが欲しい。時計を見ると、時刻は十二時半だった。
よし、と千草は頷くと二階の自室へと行く。クロゼットを開けると服を選ぶ。春っぽい、薄い色のデニムサロペット。レモンイエローのTシャツと、白い鍵編みカーディガン。足下は白いスニーカーでいい。手早く着替えて、洗面所へ向かう。顔を洗って、髪をとかす。そして、手を止めた。
(やっぱ、やめた)
髪を束ねると、補聴器が見えてしまう。小さくて目立たないけれど、見えないわけではない。気にしなければ良いのだけれど(勿論、気にせずアップヘアにしてる子だっている)気になる。
シュシュじゃなくて、ヘアピンにすればよい。別にヘアアクセサリーにこだわらなくたって、学校には着けていけないけれどネックレスやブレスレットでもいい。キーホルダーやシールだって。そう思ったけれど、一度萎んだ心はなかなかふくれなかった。白いカーディガンが、洗面台の明かりを反射していて眩しい。ため息をついてまたソファに戻ろうかと思った時、携帯電話が唸りを上げた。
「あ…」
森さんだった。森里桜、と書かれた文字が何処か優しげに見える。彼女からのメールには、こう書かれていた。
『お返事遅れてごめんなさい!誘ってくれてありがとう。とっても嬉しいです。もしよければ、今日うちに遊びに来ませんか?駅か、千草ちゃんのおうちまで、ママの車で迎えに行きます。』
駅まで行く途中に、両親のカフェに立ち寄った。店内はそこそこ人が入っている。母が驚いた顔で、こちらに駆け寄ってくる。どうしたの、と彼女は問う。千草はなるべく小さな声で、クラスメイトの家に行くこととを告げた。母はぽかんと千草を見た後、大げさなぐらいの笑顔を作った。そして、店の焼き菓子を幾つか紙袋に入れた。気をつけてね。お金はちゃんと持ってる?定期の期限は大丈夫?挨拶、きちんとしてね。夕方までには戻っておいで――。母は店の隅でゆっくりと、でも少し早口で伝え、千草はいちいち頷く。母に念のため、と千円をもらい、千草はカフェを出た。父はカウンターでにこにこと手を振っていた。
カフェから駅は十分弱だ。定期券をタッチすると、いつも学校へ行っている方向のホームに立つ。森さんに今から電車に乗る旨をメールして、そしてふと兄のことを思う。
(お兄ちゃんにメール、しようかな。今から友達の家に行くよって)
思ってから、いいや、と思う。いちいち言わなくてもいいことだ。それにしても、と紙袋の中を見てふと笑う。母はとても嬉しそうだった。そう言えば校外で友達と遊ぶ、だなんて初めてかもしれない。
電車の中は、空いていた。 平日の昼間だ。ベビーカーを押した母親が、スマートフォンを弄っている。サラリーマンが眠っている。中学生ぐらいの二人組が、何か楽しげに話している。通学の時に乗る電車とは、全く違う風景がそこに広がっている。
一駅は、あっという間だった。下車するときに、スマートフォンを弄っていた母親がこちらをちらりと見たのに気づいた。風で髪が揺れて、補聴器が見えたのかもしれない。千草は気づかないふりをする。振り向かない。
改札を抜けたところに、森さんはいた。横にはふくよかな女性が立っている。何度か学校で見かけたことがある。彼女の母親だ。
森さんはぱっと顔を輝かせて手を振る。そして、興奮したように手話をする。
“来てくれてありがとう!”
彼女は、学校での彼女とは違うように見えた。着ている服も、華やかで。髪の毛も綺麗にアレンジされたおだんごだった。耳に付けた機器が、くっきりと見える。
千草は頷くと、彼女の母親を見る。口と手、どちらで話そうか迷っていると、向こうの方から手で話しかけてきた。
“いつも里桜と遊んでくれてありがとう。里桜の母です。車、向こうに止めてあるから行きましょう”
千草は頷いて、そして手を動かす。手話はあまり得意ではない。少しもたつきながらも、どうにか挨拶をした。
“突然お邪魔して、すみません。今日は宜しくお願いします”
おばさんはにっこりと笑った。駅の外に出るよう促す。千草は二人の背を追いながら、心の底でわびる。
(――なんか、ごめんなさい)
歓迎してくれている二人に、申し訳ない気持ちが広がった。ただ兄に対する当てつけのようなものだったのに。
森さんは、学校にいるよりも饒舌で笑顔だった。車内では彼女が一方的に手話で会話をしていた。
“ママったら、急いで部屋を片付けたのよ。それでも散らかってるけど。ごめんね。でも、普段はもっと汚いの”
“千草ちゃんからメールもらえて嬉しかった。ありがとう”
“かばん、可愛いね。何処で買ったの?”
“春休み、何処かに行った?私はこの間、動物園に行ったんだ。車で行ったんだけれど、帰り渋滞しちゃって大変だったの”
車で十分ほど走ったところに、森さんの家はあった。こじんまりとした二階建ての一戸建てだったが、外壁の煉瓦や、アプローチに広がる庭に、彼女の母の趣味が見て取れた。
どうぞどうぞと森さん親子に勧められ、千草は室内に入る。家の中は小綺麗に片付けられていた。紙袋に入った焼き菓子を森さんのお母さんに渡すと、彼女は喜んだ。
“ありがとう。わざわざ買ってきてくれたの?”
“いえ…あの、母の勤め先のものなんですけれど”
あら、とおばさんは口元を手で押さえた。
“そうなの。素敵ね、ありがとう。後でお茶の時に頂くわね。――里桜の部屋は二階よ。ゆっくりしていってね”
千草は礼を言うと、おいで、と笑う森さんに続いた。
“私の部屋も散らかってて、恥ずかしい。好きなところに座ってね”
森さんの部屋は六畳ほどの広さだった。壁紙は薄いピンク色。パイン材の机とベッド。ベッドカバーは暖色系の布が接ぎ合わせられたパッチワーク。もしかしたら彼女の母が作ったのかもしれない。本棚には少女小説が並んでいた。
“メール、ありがとう”
何度目になるかの礼を言われて、千草はこちらこそ、と言う。
“急に、ごめんね。あの――…”
言いかけた千草を、森さんは手で遮った。
“千草ちゃんと、ずっと仲良しになりたいと思ってたの。果歩ちゃんに、時々おうちに来て貰ってたんだけど…果歩ちゃんってお友達の悪口ばっかりで、つまんなくて”
そうなんだ、と千草は頷く。千草の悪口も言っていたに違いない。
“千草ちゃんは普段、どんなことをして遊んでるの?”
えーと、と千草は首を傾げる。
“漫画、読んだりとか…”
“そうなんだ、漫画ってどんなの?”
幾つかのタイトルをあげる。全て少年誌で連載しているものだった。森さんは知らないか、と苦笑したが彼女はうんうんと頷いた。
“知ってる知ってる!面白いよね!”
“知ってるの?”
部屋にはそんな漫画は置いていない。ピンクのこの空間には馴染まない気がする。けれど、彼女は頷く。
“お兄ちゃんが雑誌買ってるから、読ませてもらってるんだ。えーとね、少年キックと、少年ライトは読んでるよ”
千草はほっとする。ようやく共通点が見つかった。
“そうなんだ。私も、お兄ちゃんがいるんだ。お兄ちゃんの漫画、借りてるの”
――お兄ちゃんが居るんだ。その言葉は何処か誇らしく。うんうん、と頷きながら森さんは満面の笑みを浮かべた。
“同じだね。何歳?うちのお兄ちゃんは今年、高校三年生だよ”
“同じ。高校三年生。東第一高校の三年生”
千草が言うと、ほうっと森さんはため息をついた。
“頭いいねえ、うちのお兄ちゃんは岡島高校だよ。恥ずかしいな”
ふうん、と千草は頷いた。高校の偏差値はちっとも分からない。
“何だか似てるね、私達。嬉しいなあ”
ふふふ、と森さんは笑った。家にまで押しかけた割に、彼女のことを何も知らない自分に気づき、また申し訳なさが広がる。ちょっとお茶を持ってくるね、といって森さんは立ち上がる。千草はその場でふう、と息を吐いた。突然のメールと来訪を歓迎してくれたのは嬉しいが、それでも居心地の悪さは拭えなかった。森さんは聞かない。何故突然メールをしたのか。 普段、学校で一人でぼんやりしている千草が突然すり寄ってきた理由を。
千草はぐるりと部屋を見回す。森さんの部屋には、柔らかくて暖かい空気が充満していた。手作りと思しきクッションカバー。コルクボードに飾られたヘアピンやアクセサリーはビーズで出来ている。造花のリースが壁に飾られている。
おまたせ、と口を動かしながら森さんが戻ってくる。お盆には、可愛いティーカップと千草の持ってきたお菓子の他に、パウンドケーキもあった。机にお盆を載せると彼女は言う。
“紅茶、飲める? ケーキはママの手作りなんだけど…アレルギーとか無い?ってママが言ってた”
“大丈夫、ありがとう”
どうぞ、と言って森さんが紅茶を飲む。千草もそれに倣った。芳醇な香りが鼻孔を擽る。美味しい、と呟く。森さんはカップを見ていて、千草のそれを拾わなかったらしい。気づいたように顔を上げると、首を傾げて表情で問うた。――何か言った?と。千草は首を横に振ると、カップを机において手話で伝える。
“美味しいね、紅茶”
森さんははにかんで頷き、また手を動かした。お気に入りの紅茶メーカーのものなの。缶もとても可愛くて、ママはキッチンに飾っているのよ。そうだ、千草ちゃんは手芸が好き?私いま刺繍を教えてもらっているの――…。
妙に居心地が悪くて、申し訳ない時間は殆ど森さんのおしゃべりによって埋め尽くされた。夕方になって千草は暇の旨を伝えた。断ったのだが、森さんの母は駅まで送るといって譲らなかった。
“本当におうちまで送らなくて大丈夫?”
“大丈夫。いつも学校には一人で行ってるし”
車内で心配顔の森さんに言うと、彼女はほうっと息を吐いた。
“凄いなあ千草ちゃんは…。私もやってみたいなあ”
彼女がそう言ったとき、車は駅前に滑り込んだ。
“今日は、お邪魔しました。急にすみませんでした。ありがとう御座いました”
思いつく限りの挨拶を重ねると、おばさんはにこにこと笑った。
“こちらこそ。遊びに来てくれてありがとう。また来てね。”
はい、と答えて千草は森さんに手を振る。改札を抜けて振り返ると、まだ森さんは手を振っていた。どこか、泣き出しそうな顔に見えた。
彼女は気づいているのかもしれない。手を振りかえして階段を昇りながら千草は考える。千草に利用されたことに。その理由までは分かっていないかもしれないけれど。例えば、新学期からのグループ要員として。春休み中の暇つぶしの相手として。決してどちらでもないのだけれど、もしもそう思っているのであればやはり申し訳ないな、と思う。
ホームに辿り着くと、丁度電車のドアが閉まるところだった。一本遅い電車になってしまうようだ。ため息をついてベンチに腰掛ける。
(疲れた…)
思えば人の家に行ったのはいつぶりだろう。両親とも余り親戚づきあいをしないし、近所に友達と呼べる人は居なかった。不意に、兄のことがまた思い浮かぶ。
(お兄ちゃんは、何回ぐらい友達の家に行ったことがあるのかな)
恐らくその数は、両手どころかムカデの足を使っても数え切れないぐらいの数のはずで。ようやく人差し指一本を立てた千草とは、激しい差があるだろう。悶々と考えながら、ぼうっと線路を見つめる。電車は、まだ来ない。
突然、トントン、と肩を叩かれて千草はびくりと身体を震わせる。見れば、何処か派手な身なりのおばさんがこちらを見ていた。ぽかん、と彼女を見つめ返すと彼女はにこにことしながら鞄からメモ帳とペンを取り出した。何処かの企業名が書かれたメモ帳には、こう書かれていた。
“電車が、遅れているみたいなの。家はどこ?ひとりで帰れる?”
千草は目をぱちぱちさせる。おばさんは、自分の耳を指さして首を横に傾げた。
そこでようやく、千草は彼女の言っていることを理解した。耳が聞こえないのよね?と彼女は言っている。補聴器が見えたのかもしれない。そして千草は、電光掲示板を見た。電車が、人身事故で運転を見合わせていると書いている。
あらら、と千草は肩をすくめた。電車通学を始めて、五年。電車の遅延は幾度か経験をしていた。母にメールを送って、学校に連絡をしてくれるよう頼む。後は、電車がまた動き出すのをひたすら待つ。バスやタクシーはよく分からないし、駅を出る勇気もなかったのだ。時に激しい人混みの中、時に苛立つサラリーマンの横で、電光掲示板を睨んで待っていた。三年生ぐらいまでは、駅員室に行き、母の書いた紙を見せて、頼んだ。『私は耳が聞こえません。電車が動くまで、ここで休ませてもらえませんか?学校には母が連絡をしてくれました』それは大変だなあというようにいたわりの目を向けてくれる駅員さんもいたし、この忙しいときに面倒だな、という顔をする駅員さんも居た。けれども皆、駅員室に入れてくれた。遠くの学校に通うと決まったときに、母は道中の駅全ての駅員室に挨拶をしに行った。千草には何を言っているかは分からなかったけれど、母と同様に頭を下げた。そのおかげかもしれない。
さてどうしようか、と千草は電光掲示板の横の時計を見る。時刻は十六時を過ぎたところ。待っても良いが、あと少しで帰宅ラッシュにぶつかってしまう。満員電車には多少の慣れはあるが、帰りがあまりに遅くなってしまうのも良くないかもしれない。じきにホームは混雑してくるだろう。駅員室に行くべきだろうか。
“大丈夫?一緒にタクシーに乗る?”
またメモ帳に走り書きをしてくる。その字は何処か丸っこい形をしていた。おばさんは、優しげな笑みを浮かべている。何処か嬉しそうな、浮き足だったような顔。千草は首を横に振った。
でも、とおばさんの口が動いた。千草はもう一度首を横に振る。
「大丈夫、です」
小さな声でそう呟く。おばさんが訝しげな顔になった。発音がおかしいだろうか。それでも千草は口を開く。
「家族と…待ち合わせ、を、しているので」
一言一言、区切るように言った。おばさんは頷いて、また熱心にメモ帳に文字を書き連ねる。
“どこで待ち合わせをしてるの?そこまで連れて行ってあげようか?ご家族はどうやってここに来る予定なの?”
千草はもう一度、大丈夫です、と言う。そして、何か言いたげなおばさんにまた、ゆっくりと言う。
「知らない、人と、喋ったら、駄目って、言われている、ので」
それでおばさんは口をつぐんだ。やれやれ、とでも言いたげな顔でため息をつく。それじゃあねえ、と彼女は言って自分の名刺を差し出した。
“何かあったら、連絡してね?”
はあ、と千草は頷いた。おばさんは、ね、ともう一度言うと腕時計を見てから階段を下りていった。タクシーをつかまえに行ったのかもしれなかった。千草は深くため息をつく。名刺には、住所と電話番号と名前が記されていた。
迷った末に駅を出た。タクシー乗り場は長蛇の列で。バス停は近くにあったような気もするが、いまいち路線が分からない。
(歩いたら、二、三十分ぐらいかなあ?)
線路沿いに歩けば良いだけなので、どうにか出来そうな気もする。幸いまだ外は明るいし、人気も十二分にある。
ふと気づいて、携帯電話を開く。メールが、三通来ていた。
『帰ったよ~。チェーン開けて~?』
『千草どこにいるの?カフェ?』
『出かけたの?母さんに連絡した?』
メールは全て兄からで。最後のものは丁度五分ほど前に来ていた。普段はこまめにメールをチェックしていたが、森さんの家にいてすっかり忘れていた。
『今、××駅にいるんだけど、電車が止まっちゃったの。歩いて帰るから、少し帰りが遅くなるね。』
メールを作成すると、ゆっくり線路沿いを歩き始める。また、携帯電話が震える。
『そこ、動かないで。今から迎えに行くから。』
え、と千草はそのメールを何度も読み返す。――迎えに行くから?
再び、携帯電話が震えた。
『駅前に本屋があるから。そこで待ってて。絶対知らない人に着いていかないで』
慌てて千草は踵を返す。本屋はすぐに見つかった。全国チェーンの、レンタルも併設している本屋だ。個人経営の入りにくいような所でなくて良かった。ほっと息を吐くと、千草はふらりと中に入る。雑誌コーナーを眺めながら、もう一度携帯電話を開いた。
今度は、森さんからメールが来ていた。どこかで電車が止まっていることを知ったらしく、それを心配する文章が綴られていた。ママの車でお迎えに行こうか、と最後に書かれている。
大丈夫、と千草はメールを打つ。
『お兄ちゃんが迎えに来てくれるから、大丈夫だよ。ありがとう』
メールを打ちながら千草は顔の筋肉が緩んでくるのを感じた。お兄ちゃんが迎えに来てくれる。それはとても、くすぐったいような甘酸っぱいような響きで。無意味に何度も瞬きをしてみたり、カーディガンの裾を摘んでみたりする。
(――お兄ちゃん)
何度も携帯電話を開いたり閉じたりしてみる。右上の時刻表示は恐ろしいほどゆっくりと進んでいるようで、全く時間が変わらない。とりあえず、と手に取ってみたティーンズファッション雑誌は、春特集なのだろうか。花の絵がちりばめられていて。けれども千草の脳内には、上手く入ってこなかった。パステルカラーに彩られた服と背景とタイトル文字がぐちゃぐちゃに入り交じって、モデルの身体の上でマーブル模様を描いているように見える。黒髪のモデルは、こちらを見てウインクをしていた。淡いグリーンのアイシャドウ。ぱらぱらとページをめくる。新学期特集。鞄の中身、拝見。文房具デコアイディア100。
そして、ふと手を止める。
――緊急特集!だれにも聞けないHなお話。
思わずきょろきょろと辺りを見回してから、ゆっくりとページをめくる。ミルキー(雑誌の名前だ)読者一〇〇〇人に緊急アンケート、と書かれた文字の下には、淡い色で彩られたグラフがあった。初恋はいつ?彼氏は居る?初キスは何歳?初Hをした年齢は?相手はどんな人?場所は?感想は?
その時だった。携帯電話が唸りを上げる。慌てて雑誌を閉じる。兄からのメールかと思ったのだが、メールは森さんからだった。
『大丈夫なら良かった~!もし困ったことがあったらすぐに連絡してね!今日は来てくれてありがとう。またいつでも来てね。明日でも良いよ!』
明日かあ、と千草はため息をつく。どう返信しようか、それより雑誌の続きを読もうかと悩んでいると、その姿が目に入った。
(――お兄ちゃん)
兄は入り口できょろきょろと辺りを見回していた。彼はまだ、制服姿だった。兄はようやく千草の姿を見つけると、ほっとしたように深く息を吐いた。
「千草。――良かった。心配、したから」
ごめんなさい、と千草はなるべく小さな声で言う。うん、と兄は頷いた。
雑誌、買うの?と問われて千草は首を横に振る。表紙には黒い吹き出しに白い字で『Hなお話特集』と書かれていた。彼に見られないように、千草は雑誌コーナーから少し離れる。
「電車、まだ動いてないみたいだ。自転車で来たから、一緒に帰ろう」
「うん。――あの、お兄ちゃん」
ん、と彼は千草を見る。自転車で来たという兄の髪は、少し乱れていた。柔らかそうなその質感に、触れたくなる。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
兄はそう言って優しげに微笑んだ。千草はほう、と柔らかなため息をつく。大声で店内で叫びたかった。――みんな見て下さい!私のお兄ちゃんです。優しくて格好良くて迎えに来てくれるお兄ちゃんです!世界一大好きなお兄ちゃんなんです。なんて。
行こう、と兄は言って店の前に止めてあった自転車を押す。
「二人乗りは、危ないから」
彼はそう言って笑った。ゆっくり帰ろう、と言う。
「かばん、籠に入れて良いよ」
うん、と千草は頷いて、それから兄の自転車の後ろ部分を眺めた。彼はこの銀色の線のうえに、誰かを乗せたことがあるのだろうか。
兄の両手は自転車のハンドルを握っている。二人乗り、しても良いよ。出来そうな気がする。私、大丈夫だよ。けれどそんな言葉は内臓の中をぐるぐると回るだけで。更に内蔵から、何かが分泌されてくるように酷い言葉が生まれる。歩いてきてくれれば良かったのに。私、まだ待てたのに。そしたら、手を繋げたのに。
駄目だ、と千草は俯く。折角迎えに来てくれたのに。それだけで十分なのに。いつから自分はこんなに欲張りになったのだろう。もっともっと、と思う。もっと兄に触れたいと思う。例えば二人乗りをして、彼の背に頬を押しつけたい。例えば手を繋いで、ゆっくりと歩調を合わせたい。
「お兄ちゃん」
酷い言葉をどうにか押し込めながら、彼を呼ぶ。ん、と振り返った兄の顔は、変わらない笑顔だった。
「迎えに来てくれて、ありがとう」
さっきも同じことを言ったことを自覚しながら言う。兄は笑顔のまま、答えた。
「どういたしまして」
家に帰ったのは、十七時前だった。母は珍しく早く帰宅していて、千草を見ると安堵の息を吐いた。兄が連絡をしたのだろうか。何かをまくし立てるように兄に話す。兄は笑って首を横に振った。礼を言ったようだった。それから、千草に視線を移した。
「電車が遅れたら、お母さんに、ちゃんと、メール、してちょうだいね?」
「うん。ごめんね」
それだけを言うと、母はふうっと息を吐いた。
(でも、学校に行くわけでもなかったし。後一駅だったし)
心の中で呟きを足す。学校に行く途中の電車遅延はたいてい母にメールを入れるが、帰宅途中の遅延は送らないこともあった。
ばたばたと母はまたカフェに戻ると行って家を出た。ダイニングテーブルには何も乗っていない。コンロには大鍋が置いてあった。カレーの匂いがする。
「楽しかった?」
兄がソファから問う。千草はきょとんと彼を見返した。
「友達の、家」
「ああ…。うん。楽しかった」
一応そう答えたものの、楽しかったかどうかと言えば何とも言えなかった。家でのんびり漫画を読んでスナック菓子を摘んでいる方が楽なことは間違いない。けれど、兄にそんなことは言えない。千草は兄の横に座ると、ええとね、と言う。
「あのね、里桜ちゃんて言うんだけどね…えっと、色々お話をしたりして」
「そっか、良かったね」
兄はそう言って笑顔を作る。うん、と千草は頷いた。あれ、と言って兄は千草のカーディガンのポケットに目線をやった。編み目の隙間から、駅で派手なおばさんにもらった名刺が見える。
「これ、何?」
ああ、と千草は言った。
「駅で…電車が止まったとき、話しかけてきたおばさんの。困ったことがあったら連絡して、って言われて…でも、わたし、電話出来ないんだけどね」
意味ないよねえと苦笑して、そして兄を見て千草は身体を強ばらせる。彼の顔には笑顔が浮かんでいなくて。
「千草。こういう人に、ついて行っちゃ、駄目だよ」
いつになく真剣な兄に、千草はつられるように頷く。
「困ったときは、兄ちゃんに、メールするんだよ。どんな時間でも、良い。授業中でも、忙しくても、寝ていても、絶対に、兄ちゃんは、千草の所に、行くから」
分かった?と問われ千草は慌てて頷く。
「明日は、俺、学校に行かないから」
「ほんと?」
思わず弾んだ声が出た。うん、と兄は笑う。
「たまに、二人で出掛けようか」
千草は、わあい、と両手を挙げた。子供っぽい仕草だと分かっていても、ただただ嬉しい。
何を着よう、どこに連れて行ってもらおう、と考える千草に、兄は笑顔を向けて、そして夕食の準備をしにキッチンへと行った。千草はその後ろ姿を見て、ああ、と息を漏らした。
(やっぱり私は、世界一幸せだ)
大好きな人とご飯を食べて、一緒に出かける。紛れもない幸せだ。
その夜、森さんからメールが来ていた。明日も良ければ遊びに来てくれ、とそこには記されている。
『ごめんね、明日はお兄ちゃんと出かけるの。また遊んでね』
彼女からは、それをうらやむメールが返信されてきていた。彼女の兄はあまり遊んではくれないらしい。
『素敵なお兄ちゃんで羨ましいな。また用事がない日には遊んでね』
勿論、と千草はメールを打つ。ベッドに寝転ぶと、兄の部屋の方向の壁にほおを当てる。おやすみなさい、と口の中で囁く。兄は何をしているのだろう、と思う。ただそう思うだけで、幸せだった。




