2.気に入らない
初めて見る顔だが、ツヴァイは反射的に嫌いだと思った。
愛想笑いでご機嫌取りをしてくる貴族のおやじどもなら何人も知っている。やってることは同じなのに、こんなに嫌悪感を覚えたのは初めてだ。耳を後ろに倒して前傾姿勢になり、ラルフを睨みながら低くうなる。ラルフは驚いたようにのけぞりながら、顔は笑っていた。
「あれ? 嫌われちゃったかな」
その小馬鹿にしたような様子が益々癇に障ってツヴァイはさらにうなった。それを見てリディが慌てて駆け寄り、ツヴァイを抱き上げる。
「ごめんなさい、アーレンスさん。この子、知らない人にぶつかりそうになって驚いちゃったみたいで」
「違う! こいつの小馬鹿にした態度が気に入らないだけだ!」
「こら」
リディに額をぎゅっと押さえられ、ツヴァイはとりあえずおとなしくする。リディはツヴァイを床に下ろして背負った袋を外し、中に入っていた通信符の束をラルフに差し出した。
「アーレンスさん、これ。いつもお届けしている通信符です」
「あぁ、ありがとう」
ラルフは通信符を受け取って代金をリディの手のひらに乗せる。そしてそのままリディの手を両手で包んだ。
「心配したんだよ。今日はまだ配達がないって聞いたから、君が病気で寝込んでるんじゃないかって、居ても立ってもいられず様子を見に来てしまったんだ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ちょっと急ぎの配達があったものですから」
笑顔をひきつらせながらリディが手を離そうと引いているが、ラルフはしっかり握って離そうとしない。
明らかにリディは困っているように見える。ツヴァイもなんだかムカついてきた。
フラフラと揺れる上着の裾にじゃれつくフリをして、ツヴァイはラルフの足に飛びかかり爪を立てた。
「うわっ、いたっ!」
驚いてリディから手を離したラルフが、振り返ってツヴァイを見る。ツヴァイは何食わぬ顔でラルフの上着の裾を前足でチョイチョイとつついて見せた。リディが慌ててツヴァイを抱き上げる。
「ごめんなさい、アーレンスさん。この子まだ若いから、とにかく動くものに反応しちゃって。おケガはありませんか?」
「たぶん、大したことないよ。猫ってそういうもんだよね」
苦笑しながら伸ばされたラルフの手を、ツヴァイはすかさず前足ではたいた。こんな奴に触られたくない。
「こら」
またしてもリディに頭を押さえられたが、ラルフは諦めたように手を引いてリディから距離を取った。
「じゃあ、君も元気だったようだし、これで失礼するよ。いつもありがとう」
そう言ってようやく店を出ていった。その姿が見えなくなって、リディはホッと息をつく。
ツヴァイはしっぽをぶんぶん振りながら吐き捨てるようにつぶやいた。
「あいつ、気に入らない」
「私も苦手なのよね」
次の配達用の薬を袋に詰めながら、リディがポツリと本音を漏らす。
ラルフも最初はリディが物珍しくて、ひやかしで店にやってきた町民のひとりだった。ところが翌日から毎日通信符を買いにやってくるようになった。
ありがたいのだが、一度来ると他愛のない世間話をしながら長時間居座るのだ。町長の息子だし、客でもあるので、その間放置するわけにもいかず、リディは相手をしなければならなくなる。
何日かそんな状態が続いて、町長の息子と魔女は恋仲になったんじゃないかと妙な噂が流れるようになった。『玉の輿じゃないか』と先代猫のレオンはおもしろがったが、リディにはまったくその気はない。
そのうち、店にラルフがいると、そこに来あわせた客が変な気を遣って帰ってしまうようになった。
これでは商売にならないと判断し、町の一番奥から毎日通ってもらうのは申し訳ないからという理由で、毎日配達することにしたのだ。
もちろんラルフは通うことは苦ではないと主張したが、そこはリディが強く押し通してなんとか納得してもらった。
話を聞いてツヴァイは毛を逆立ててわめいた。
「やっぱりあいつ気に入らない! オレの妻にちょっかい出すとは!」
「ちょっと、誰があなたの妻なのよ!」
すかさずリディのツッコミが入ったが、ツヴァイの耳には届いていない。テーブルに飛び乗って視線を近づけ、リディに尋ねる。
「さっき手を握られていたが、他に変なことされてないか?」
「長話するくらいで、だれかさんみたいに有無も言わさずキスしたりはしないわよ」
リディの冷ややかな目に一瞬絶句したあと、ツヴァイはきまりが悪そうに言い訳をする。
「あれは解呪の魔力を多めにもらおうと……」
「じゃあ、昨日はなんで? 呪いには効果がないって知ってたでしょ?」
「なんでって……」
そんなことを尋ねられたのは初めてだ。ツヴァイはやけくそのように吐き捨てた。
「おまえとキスしたかったからだ」
「なんで?」
ふてくされたように顔を背けたツヴァイに、リディは間髪入れずに畳みかける。思いも寄らない問いかけに、ツヴァイは呆れたようにリディを見つめた。
「おまえが好きだからに決まってるだろう」
口にしてみて初めて納得した。リディの気持ちが気になるのも、リディが他の男に迫られているのが気に入らないのも、自分がリディを好きだからだ。
そう考えると、成り行きでうっかり告白してしまったことが悔やまれる。なにしろ人の姿をしている時のツヴァイは、貴族のご令嬢から引く手数多で、告白されることがあっても心に響くことはなかった。自分から告白したのは初めてだ。
記念すべき初めてが、呪いのせいで小さな黒猫の姿だというのも情けない。今は冗談で受け流してくれてもかまわないとすら思えた。いずれ人の姿に戻ったとき、改めて舞台を整えて告白しよう。
ツヴァイが決意を新たにしていると、リディは盛大にため息を吐いた。やはり冗談だと思われたのだろうか?
「あなたの気持ちはわかったわ。でも、私の気持ちも考えてくれる? キスってお互いの気持ちが一致した上でするものじゃないの?」
それを聞いてツヴァイはゆうべの不安にとらわれた。上目遣いに表情を窺いながらおずおずと問いかける。
「おまえはオレが嫌いなのか?」
リディは表情を緩めてツヴァイの頭を撫でた。
「嫌いじゃないわ。猫のあなたは大好きよ。しっかり仕事をしてくれるし、お客さんの評判もいいし」
「猫のオレ? じゃあ、人のオレは……」
若干不安を感じながら、ツヴァイは先を促す。リディはツヴァイの前でテーブルに腕をついてまっすぐに見つめた。ごくりと生唾を飲み込み審判が下されるのを待つ。リディは真顔で言い放った。
「嫌いじゃないわ。でもキスしたいと思えるほど好きでもないの。だってあなたのことよく知らないし、人の気持ちを考えない言動が多いし。貴族だから考える必要もないのかもしれないけど、そういうところは嫌いよ」
「う……」
ぐぅの音も出ず、ツヴァイは絶句する。そして少しだけ挽回の言い訳をしてみた。
「それに関しては、仕事を通して人の気持ちを学べとグレーテに言われている。もう少し見守っていてくれないか?」
リディは笑みを浮かべてツヴァイの頭を撫でた。
「そうだったの。期待してるわ。頑張ってね」
リディの笑顔にツヴァイは一気に浮上した。完全に嫌われているわけではなかった。まだ挽回の余地はある。そういう意味では、あの町長の息子ラルフより数歩先んじているではないか。
すっかり気をよくしてツヴァイは配達袋を背負わせてもらいながらリディに提案する。
「おい。今度あいつが来たらオレを人間に戻せ」
「なんで?」
「オレの方がいい男だからな。勝手に敗北しておまえに近付かなくなる」
「なるほどね」
背後にリディの納得する声を聞いてツヴァイは益々上機嫌になった。しかし背中の袋をポンと叩かれて振り返ると、リディは苦笑を浮かべている。
「いい考えだけど、無理ね。あらかじめ来るときがわかってるわけじゃないし、彼の目の前であなたを人間に戻すわけにいかないでしょ?」
「……確かに」
目の前で猫が人間になったら、いくらいい男でもただの化け猫だ。追い払うどころか反対に庇護欲をかきたてて、益々リディにべったりになる可能性がある。ツヴァイはがっくりとうなだれて、テーブルから飛び降りた。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
リディの声を背中に、ツヴァイは店から駆け出していった。