3.定時退勤
黒猫を抱いてリディは森の中の道をゆっくりと歩いた。時々建物や畑のそばで人に出会い、そのたびに立ち止まっては挨拶と共に黒猫を紹介する。「ツヴァイ」と紹介されるたびに、黒猫は耳を後ろに倒して、不愉快そうに目を細めた。
町の人々はみんな好意的で、改めて魔女の印の威力を黒猫はまざまざと感じた。なにしろ城下では、なにもしていないのに鬼の形相で大勢の人間に追いかけ回されたのだから。
森の町ゼーゲンヴァルトは町全体が森の木々に覆われ、住民の家は木々の隙間に点在している。樹上に家を構えている者もいた。所々開けた日当たりのいい場所にはハーブや野菜の畑がある。
リディが町にやってくるまでは魔女がいなかったので、町の人々は薬や魔法アイテムが必要になると城下町まで行かなければならなかった。その手間がなくなっただけでも、リディは町の人々から歓迎されている。
そして大きな町に店を構えることができる魔女はそれなりに実力と経験を持つので、それだけ年齢も重ねている。リディのように成人して間もない年若い魔女は町の人たちには珍しくてしかたなかったらしい。
初めは興味本位でリディの店を訪れていた人々も、慣れないながらも笑顔で丁寧に応対してくれるリディを信頼するようになった。
先代契約猫のレオンを亡くしたときもみんなが心配してくれたのだ。新しい契約猫のツヴァイもみんな歓迎してくれた。これなら始めの内はありそうな迷子などの失敗も町の人たちが助けてくれそうな気がする。
町をぐるりと一周し、住民と定期配達のお得意さまを黒猫に紹介するとリディは家に戻った。
黒猫をテーブルの上に下ろして尋ねる。
「町の人たち、みんないい人でしょ?」
「あぁ。おまえが歓迎されていることはよくわかった」
リディは気をよくしてにっこり微笑んでエプロンのポケットから小指の先ほどの透明な玉を取り出した。それを宙に放ると、玉は一瞬煙に包まれてスイカほどの大きさになり、風景を映しだす。リディの店でも扱っている魔法アイテム地図球だ。
ふわふわと宙に浮いた地図球を手のひらに乗せて誘導し、リディは黒猫の目の前に差し出した。
「じゃあ、おさらいね。家の場所は覚えた?」
「だいたいな。小さな町だし」
「それなら、ここは誰の家?」
「ヴィルター」
リディが地図球を指さし、黒猫が答える。お得意さまの名前を次々に淀みなく答える黒猫にリディは感心した。
お得意さまは七軒ある。元々人間とはいえ、一度教わっただけで場所と名前を全部覚えるのはなかなか難しい。黒猫青年はかなり記憶力がいいようだ。
そしてそれは、青年が黒猫使い魔として仕事をする気になったことを表している。やる気がないなら記憶力がよくても覚えないからだ。
一通り復習テストを終えて地図球を片づけると、リディは拍手をした。
「すご〜い。記憶力いいのね」
「人の名前と顔を覚えるのは得意なんだ。得意というか、ある意味義務のようなものだしな」
「どういうこと?」
「一度でも会ったことのある人間の顔を忘れたり名前を間違えたりすると大変なことになる」
「へぇ。貴族って大変なのね」
どう大変になるのかは不明だが、リディには計り知れない貴族ならではの気苦労があるらしい。そう考えながら、リディはハタと気づいて黒猫に顔を近づけた。
「ねぇ、庶民の私はあなたに敬語使った方がいいの?」
黒猫は呆れたように目を細めて顔を退きながら言う。
「タメ口でなに言ってんだ。おまえに今更敬語使われても気持ち悪い」
それを聞いてリディはホッと胸をなで下ろし、笑顔で顔を退いた。
「よかった。使い魔猫に敬語って変だしね」
「おまえに敬語ができるか怪しいしな」
余計な一言にムッとして、リディは黒猫の額を指先で小突く。
「失礼ね。丁寧語くらいならできるわよ。これでも客商売してるんだから」
「そういえばそうだったな」
それからリディは猫を抱えて薬棚の前に移動した。薬草や草花の図鑑を見せながら、お得意さまに運ぶ薬を教えたり、人には平気だが猫には毒になる草花を教えたりする。
猫にとっての毒草は、本物の猫なら本能で知っているらしい。リディは魔女学校で教わった数種類の花しか知らなかった。けれど、先代使い魔のレオンから他にもいくつか教わったのだ。ツヴァイは元々人間なので、その辺はあまり知らないだろう。
薬の説明を終えて再びテーブルに戻る。お茶を淹れて一緒に休憩。黒猫にも本人の希望通りカップに淹れて。両の前足でカップを押さえて器用にお茶を飲む黒猫を見ながら、リディは目を細めた。
猫は文字通り猫舌なので、かなりぬるめに淹れてある。もっとも猫に限らず動物はみんな熱すぎるものは苦手らしいが。
のんびりまったりお茶を飲んでいると、黒猫が話しかけてきた。
「他にも覚えることはあるのか?」
その声にふと気づいて窓の外を見る。かなり日が傾いて木漏れ日がオレンジ色に染まっていた。
リディは黒猫の頭を撫でながら微笑んだ。
「今日はもう終わりよ。明日からよろしくね」
「そうか。では少し眠るとしよう。異様なほど眠い。オレのベッドはどこだ」
今にも閉じそうな目を何度も瞬きしながら黒猫はキョロキョロと辺りを見回した。
猫はとにかくよく眠る。肉食動物の猫はいつ獲物を捕らえて食事にありつけるかわからない。だからヒマな時は体力を温存するために眠っているのだと先代猫のレオンから聞いた。人に飼われて食事の心配がなくなっても、その習性は残っているらしい。
リディは部屋の隅に置かれた蔓草で編んだ大きなかごを指さした。レオンが寝床にしていたかごだ。新しい使い魔猫のために中に敷いたクッションは新品に取り替えてある。
「あなたのベッドはあそこよ。仕事のないときはいつでも自由に使ってね。でも今日はもう終わりだし、眠いなら家に帰る?」
「は?」
黒猫は眠気も一気に吹っ飛んだかのように、目をまん丸にして耳もひげもピンと立ててリディを凝視した。
固まってしまった黒猫を抱え上げて、リディは目の前で顔を見つめる。
「夕方には帰してやってくれってグレーテ様のお達しなの」
そう言って黒猫の口元に口づけた。
途端に黒猫は白煙に包まれ人の姿へと変わる。金髪碧眼の美しい青年は、一瞬驚いた顔をしていたが、すぐにニヤリと口元に笑みを浮かべリディの腰を抱き寄せた。
「え……?」
予想外の事態に呆然と見上げるリディに、青年は素早く口づける。益々混乱して頭が真っ白になったリディが、ハッと我に返って青年を突き放そうとしたとき、青年の方がリディから逃れるように体を退いた。
「おっと。また猫になってはかなわない。魔力は補充できたからしばらく大丈夫だろう。世話になったな」
そう言って青年は、リディの返事も待たずにさっさと家を出ていった。
かっこつけているが、額には金の六芒星、首には木綿の赤いスカーフ。木の枝に引っかけても外れるようにゆるめに巻いておいたが、人間になった彼の首にはぎっちり締まっていた。
六芒星の方は前髪で隠れているけど、スカーフの方はいつ気が付くのだろうと想像するとおかしくて、リディはクスリと笑った。そして今更ながら思い出して出入り口の扉を指さしながら叫んだ。
「あーっ! 私のファーストキスーッ!」
リディは今まで、素質はあると言われながらも成果は今ひとつで、学生時代は修行に明け暮れていた。当然ながら恋にうつつを抜かしているヒマなどない。修行を終えて独り立ちしてからは、店を切り盛りするのに精一杯で、同様に恋に目を向ける余裕などなかった。
恋を知る前に人の男性とのファーストキスをあっさり奪われてしまうとは……。
しかも相手は顔がいいだけで性格に難がある自分の使い魔。でも猫の姿をしているときはかわいいので、かわいい使い魔猫に捧げたと思えば少しは気が紛れるかもしれない。
大きくため息を吐きながら、リディは開けっ放しの扉から外へ出た。彼はしばらく来ないつもりでいるようだが、近い内に来るだろうことがリディにはわかっていた。キスを多めにしたからといって、魔力が補充できるわけでも呪いの効果が薄まるわけでもない。
気怠げにポケットから取り出した通信符を天に向かって放り投げる。通信符は速度を増して、紫の煙を吹き出しながら一気に上空に達して四方にはじけた。上空では紫の大輪の花が咲き、少ししてきらきらと輝きながら細切れになって消えていった。
狼煙効果の通信符だ。青年が家を出たら放るようにグレーテから指示されていた。貴族の青年が馬にも乗らず歩いて帰るとは思えない。おそらく迎えが来るのだろう。
通信符の作り出した花が消えたのを見届けて、リディは家に入って扉を閉めた。
黒猫青年が森の町ゼーゲンヴァルトを出ると、石畳の街道の端に今まさにやってきたばかりの豪華な馬車が停まった。白に金の装飾を施した大きな馬車から、上品な黒い燕尾服を着た黒髪の青年が降りてきて黒猫青年に恭しく頭を下げる。
「お迎えにあがりました、ユーリウス殿下」
「ディルク。よくここがわかったな」
「グレーテ様から伺いました」
「……気に入らないな。あいつの手のひらの上で踊らされている気がしてならない」
舌打ちして顔を歪めるユーリウスを促して、ディルクは馬車の扉を開ける。
「お話は中で。もうすぐ日が暮れます」
「わかった」
二人を乗せた馬車は、王都ヒューゲルに向かって走り始めた。ユーリウスと向かい合わせに座ったディルクは、少し眉をひそめて、不満げに言う。
「心配しました。グレーテ様から社会勉強だと伺っていたのですが、何をなさってたんですか?」
従者のディルクは過度の心配性で、少しでも姿が見えないと城中を探し回る。まさか、グレーテから呪いをかけられて猫になっていたとは言えず、ユーリウスはいたずらっぽく笑ってごまかした。
「国民の暮らしぶりを見学してきた。仕事も教わった」
「仕事!? どんな仕事をなさったんですか? 危険なことは……」
ごまかしたつもりが心配性をあおってしまったようで、ユーリウスはあわてて付け加える。
「町の魔女の仕事だ。教わっただけで何もしてはいない」
「そうでしたか……」
ホッと胸をなで下ろすディルクを見て、ユーリウスもひとつ息を吐いた。そして思い出したようにクスリと笑った。
「あんな若い魔女は初めて見た」
「まぁ、ヒューゲルの魔女はベテランが多いですからね。グローサーヴァルトのどこかにあるという魔女学校には若い魔女がたくさんいるそうですよ」
「そうか。だったら新米魔女なんだな」
町の人々とのやりとりや仕事の説明などの一生懸命な様子を思い出して、ユーリウスはまたおかしくなってクスクス笑う。まじめなのは悪くないが、少し肩に力が入りすぎているように思えた。
くるくると猫の目のようにめまぐるしく変わる表情もおもしろい。ユーリウスを人間だとわかっても、身分が上だと知っても物怖じしないのも大した度胸だ。
ユーリウスの周りにいる女性は、身分に怯えて萎縮しているか、身分に惹かれて作り笑顔で機嫌取りに来るかどちらかだ。
そんな女たちの中から妃を選べと言われても気乗りしないのは当然ではないかと思う。そんな女たちなんて誰でも一緒だ。そう思って言った言葉が呪いをかけられるほどの怒りを買う意味がわからない。
思い出すと不愉快で、ユーリウスはむすっと黙り込んだ。表情が険しくなった主を幾分気遣わしげにディルクが声をかける。
「殿下、どうかなさいましたか?」
「いや、ちょっと不愉快なことを思い出しただけだ」
「そうですか」
ホッと息を吐いた後、ディルクはまたおずおずと口を開いた。
「あの、ずっと気になっていたんですが、その、首に巻かれた赤い布はいったい……」
「あっ……!」
ユーリウスはあわてて首の後ろに腕を回してスカーフをほどく。それをくるくる無造作に丸めて上着のポケットに突っ込んだ。不思議そうに見つめるディルクを睨んで、厳しく言い放つ。
「なんでもない」
「はぁ……」
納得はしていないようだが、ディルクはそれ以上追及することはなかった。
それから少しして、馬車はヒューゲルの王城にたどり着いた。
ユーリウスは、夕食の時間に遅れることもなかったせいか、日中行方をくらましていたことを咎められることもなく、いつもと変わりない夜を過ごして一日を終えた。
翌朝、ゼーゲンヴァルトの森は濃い霧に包まれていた。夜は明けていたが陽は昇っておらず、霧のせいで薄暗い。
いつもより早めに起きたリディは、今日から店を再開するために家の外に看板を運び出す。そして薬の材料になる朝露を集めながら、霧で白く霞んだ道の向こうを見つめた。
見つめる道の向こうから、予想通り黒い小さな影が猛スピードで近付いてくる。
「リューディア!」
駆け寄ってきた黒猫は、その勢いのまま地面を蹴ってリディに飛びついてきた。リディは黒猫を抱き止めてにっこりと微笑む。
「おはよう。今日からお仕事頑張ってね」
そう言って彼の頭を撫でた。