1.二代目はワケあり
『しばらくの間休業いたします』
今、自分の手で店先に張り出した紙を見て、リディは大きなため息をついた。
緩くウェーブのかかった鮮やかな紅い髪を白いリボンでひとつにまとめて背中に垂らしている。それがため息と共に大きくうなだれた拍子に肩から胸の前に流れてきた。
ここは城下町から続く街道沿いにある森の中。森の恵みを糧に生活をしている人々が暮らす小さな町がある。年若く魔女としてもまだまだ半人前のリディは、城下町に店を構えるほどのお金も腕もなかった。
とはいえ、修行期間を終えた魔女は独り立ちしなければならないのだ。森の町のはずれにある小さな空き屋を譲り受けて、薬や魔法アイテムの店を去年開業した。
ようやく町の人たちとも仲良くなって店も軌道に乗ってきた矢先に、使い魔の黒猫を亡くしてしまったのだ。リディが幼い頃から一緒に暮らしてきたオスの黒猫は、元々穏和でおとなしく、よく言うことを聞いた。使い魔の契約を結んでからは、人語も解するようになる。そのため猫の姿をしたおじいちゃんのようにリディは頼りにしていた。
高齢にもかかわらず、おじいちゃん猫は使い魔としてよく働いてくれた。体はまだまだ丈夫そうだったのに、ちょっとした傷口が化膿してあっけなく命を落とした。
リディは魔女として最善を尽くした。けれど高齢で抵抗力が低下していたのだろう。
半日なにもする気になれず放心していたが、そんなわけにもいかない。ようやくなんとかする気になって張り紙をした。
ひとりで店をやっているので、動けない人に薬を届けたりするのに使い魔なしでは難しい。店を無人にするわけにはいかないからだ。
薬の配達を休むことはできないので、店を閉めることにした。使い魔の補填は魔女組合に頼んである。無印、あるいは事情があって主をなくした黒猫がいたら譲って貰うことをお願いした。
動物好きのリディは猫は特に好きなので、別に黒猫にこだわっているわけではない。だが、黒猫の方が元々魔力を持っているので、使い魔としては重宝する。いざとなったら他の色の猫でもいいんじゃないかと思っていた。なにしろ猫の出産シーズンはもう少し先だ。フリーの黒猫がいる可能性はきわめて低い。
それを思うといつまで店を閉めなければならないのか、先の見えない不安に気は沈んだ。
うつむきかけた顔をぐいっと上げて、両手で頬をパチンと叩く。両手の拳を握って「よしっ」とつぶやいたとき、後ろから声をかけられた。
「ようリディ。落ち込んでるのかと思ったら気合い入ってんな」
リディが振り返ると、小柄なリディには見上げるような壮年の大男が日焼けした顔に人の良さそうな笑顔をたたえて見つめていた。近所で薬草園を営んでいるベッカーだ。いつも薬の材料になる薬草を届けてくれる。
「こんにちは、ベッカーさん。いつもありがとうございます。でも、しばらくお店を閉めるので配達をお断りする通信符を送ったはずですが……」
「あぁ、来てたぜ」
ベッカーは胸ポケットから取り出した紙片をひらひらと振ってみせる。確かに今日はいつものように薬草をたくさん入れたかごは持っていない。そのかわり、いつもと違ってボタンを喉元まで留めた上着の大きな膨らみが気になった。左側に偏った膨らみは明らかに何かを入れているようだ。ベッカーはそれを抱えるように左手で押さえている。
どうにも気になってリディは上着の膨らみを凝視しながら尋ねた。
「ベッカーさん、それ、なんですか?」
「あぁ、これか。これを届けに来たんだ」
そう言ってベッカーが上着のボタンをひとつ外すと、そこから黒猫がぴょこんと顔を出した。あたりをキョロキョロと見回したあと、目の前のリディに目を留める。宝石のような青い瞳が少し細められ、探るようにリディを見つめた。
額には印の六芒星が見えない。リディが求めていた無印の黒猫だ。こんなに早く使い魔が見つかったことよりも、黒猫の愛らしさに一目で虜となったリディは、猫の顔をのぞき込んで大声を上げた。
「かぁわいい〜」
猫は迷惑そうに目を細めて少し顔を退く。そんなことにはお構いなしにリディは興奮したままベッカーに尋ねた。
「この子、どうしたんですか?」
ベッカーは上着のボタンをさらに外して猫を取りだし、リディに渡しながら説明してくれた。
「うちの畑で罠にかかってたんだ」
ベッカーの薬草畑には、畑を荒らす小動物用に罠が仕掛けてある。そのひとつに猫がかかっていたらしい。無印なので城下町にある魔女組合に通信符で知らせたところ、リディから申請が出ていることを知り、リディとは顔なじみだからということで、直接届けにきたということだ。
「城下でちょっとした黒猫騒動があったらしいぜ。たぶんこいつのしわざだろう」
そう言ってベッカーは黒猫の頭をわしわしと撫でる。猫は不愉快そうに首をすくめた。そんな騒動を起こしたにしては、随分とおとなしい。その表情はまるで人の言葉がわかっていて、ふてくされているようにも見えた。
この子はきっと優秀な使い魔になる。そんな予感がしてリディは微笑みながら猫の頭を撫でた。猫は相変わらず不愉快そうだけど。
先の見えない不安はなくなったけど、黒猫が使い魔として使えるようになるまではもう少し時間がかかる。ベッカーには礼を述べて、店を再開したら知らせることを約束した。
ベッカーを見送って店に戻ったリディは、黒猫を抱えたまま戸締まりを確認する。契約前に逃げ出してしまっては元も子もない。窓も扉もしっかりと閉まっていることを確認して、猫を両手で持ち上げ目線を合わせた。耳を伏せて目を細め、不機嫌を露わにした黒猫の冷ややかな瞳と見つめ合う。
「今日からよろしくね」
にっこりと微笑むリディから、黒猫はついっと顔を背ける。暴れはしないものの、よほど人に捕まったことが気に入らないらしい。
猫のこういう素っ気なさは、初対面の人に対しては当たり前なので、リディは全く気にしていない。平然と黒猫に話しかけた。
「契約の前に名前をつけなくちゃね。あなた、男の子? 女の子?」
そう言って猫を抱え上げて股間を見つめる。途端に黒猫が暴れ始めた。
「ちょっ……! どうしたの?」
暴れる猫の後ろ足の間を見つめてリディは首を傾げる。
「あれ?」
リディが気を取られている一瞬の隙をついて、猫は腕の中からひらりと床に降り立った。そしてリディを睨み上げながら怒ったように言う。
「そんなところをじろじろ見るな」
明らかに猫がしゃべった。若い男性の声だ。リディの興味は完全にそちらへ傾いてしまった。猫の前にしゃがみ込んで尋ねる。
「あなた、しゃべれるの? 契約前に言葉の通じる猫って初めて見た」
「オレは猫ではない。故あってこんななりをしているが人間だ」
黒猫は不愉快そうに顔を背ける。その表情は少し照れているようにも見えた。リディが興味深そうに見つめていると、こちらへチラリと視線を向けた黒猫は吐き捨てるように言う。
「ひざを立ててしゃがむな。スカートの中が丸見えだぞ。品のない女だな。オレの周りにそんなレディはいない」
しゃがんだだけで品位をとやかく言われ、リディはムッとしながら猫の額を指先で軽く突いた。
「悪かったわね。猫の視線にまで気を配る上品なレディじゃなくて。あなたどこのお坊ちゃまなのよ」
話の内容から察するに、黒猫は上流階級の内情を見てきたようだ。だが飼われていたわけではないらしい。飼い猫が無印のわけがない。
一応、猫の指摘に従いひざを床に着けて猫の顔をのぞき込む。猫は顔を背けたまま、冗談半分のリディの言葉にまじめに答えた。
「身分は明かせぬが、そういうわけで契約しておまえの下僕になるわけにはいかない」
どうやら契約関係について誤解があるようだ。猫は元々奔放な性質なので、契約を結んだからといって犬のように絶対服従などしない。契約猫として役立つかどうかは信頼関係が不可欠なのだ。もちろん契約によって縛られる猫には、主人に逆らい続けると罰が課せられる。それは猫にとっても主人にとってもいい結果はもたらさない。
リディはこの黒猫と契約を交わしたあと、この店と自分に慣れてもらうためにしばらくはただ一緒に暮らそうと思っていた。
「下僕じゃないわ。一緒に仕事をするパートナーよ。上司と部下のようなものね」
「そのたとえはわかりにくい。オレは働いたことなどない」
貴族の家で閉じこめられていた猫なのだろうか。働いたことはなくても人が働く姿は見たことあるのではないだろうか。もっとも猫にとっては関心のないことなのだろうけど。 リディはひとつため息をついて呆れたように言う。
「まぁ、契約猫以外で働いてる猫はいないでしょうけどね」
「オレは猫ではないと言っているだろう」
ムキになって反論する黒猫をリディは軽くあしらう。
「はいはい。人間だったわね。人間なのに働かない方が問題だと思うわよ。見たところ元気そうじゃない?」
「だから事情があるのだ」
黒猫はまた気まずそうに目をそらした。事情とやらを話す気はないらしい。それはとりあえず置いておくとして、リディは契約手続きに入った。
「どっちだかわからなかったけど、声と口調からするとあなたは男の子みたいね」
本当にわからなかったのだ。猫は股間を見れば生殖器でオスかメスかはっきりわかる。ところがこの黒猫はぬいぐるみのように何もなかったのだ。オスだとわかったので、契約に必要な名前は男の子っぽい名前にすることにした。
「名前はレオンでいい?」
「なんだ、それは」
猫は不思議そうに首を傾げた。口調は横柄だが、仕草は愛らしい。リディはにっこり微笑んで答えた。
「先代の契約猫の名前。同じような黒猫だったから」
「オレはそんな名前ではない」
飼い猫ではないらしい猫に名前があるのが意外で、プイと横を向いた黒猫にリディは顔を近づけて尋ねた。
「名前あるの? じゃあ、教えて」
「明かすわけにはいかぬ」
少し苛つきながらも、なにか事情があるならしかたないと自分を納得させながら言う。
「だったら、呼び名はレオンでいいじゃない」
「猫のお下がりはいやだ」
どうやら大した理由はないようだ。それなのに大好きだった先代契約猫をバカにされたような気がして、今度こそリディは黒猫を非難した。
「ひどーい。レオンはすごくいい子だったのに。もう、ツヴァイにするわ。あなたは二代目だから」
「なんだ、その適当な名前は! 呼び名などいらぬ! 契約はしないと言っただろう」
背中を丸め毛を逆立てて怒る黒猫にリディは勝ち誇ったように言う。
「契約しないと外にも出られないわよ。無印のままうろうろしてたら、また捕まえられるだけだから」
「契約しなくても祝福だけで印はもらえるだろう?」
「よく知ってるのね」
確かに魔女が契約できる数には限りがある。一般家庭に生まれた黒猫などは、祝福で印を与えるだけということはよくある。この猫はそれを見たことがあるのか。
ということは、身近に魔女がいたということだ。
人に言えない素性や事情。魔女が身近にいるのに無印。それらを総合してリディはピンときた。
「あ、わかっちゃった。あなたが人間だってことが本当なら、なにか魔女の逆鱗に触れて呪いをかけられたんでしょ」
図星だったのか、猫は努めて平静を装っているが、目が泳いでいる。リディはここぞとばかりに畳みかけた。
「だったらやっぱり契約するべきね。呪いはかけた本人にしか解くことはできないんだから、あなたはしばらくそのままよ。野良猫生活よりここにいた方が、少なくともごはんとベッドには困らないからお得だと思うわよ」
猫は少し考えたあと、ポツリとつぶやく。
「……確かに、あいつの怒りが収まるまではその方がいいか」
「じゃ、契約するわね」
すかさずリディは両手で猫を抱え上げて契約の儀式に移行した。
「我、汝ツヴァイと絆の契りをかわす。我が名はリューディア」
「ちょっと待て! オレはツヴァイになってしまうのか!?」
リディの目の前でうろたえる黒猫の体が金色の光に包まれる。まぶしさに目を閉じた猫の口元にリディは口づけた。
光が強さを増しながら猫の額に集まり六芒星が現れる。それと同時に周りの光が消えていった。本来ならそれで契約の儀式は終了する。
ところが光が消えた途端に猫はポンという破裂音と共に白煙に包まれた。
白煙は瞬く間に大きく膨れ上がり、すぐに散り散りとなる。やがて煙が消えたときには、そこに猫の姿はなく金髪碧眼の美しい青年が立っていた。