3.憧れと羨望
先輩が私に触れると……まるで水面に石をポチャリと投げ入れられたかのように痺れが体中に広がって行き、すぐに胸が一杯になって快楽に頭が塗りつぶされる。
するとこびりついていた不安とか桜子さんの笑顔とか―――色んなものが洗い流されていくような気がするのだ。もしかすると一時の錯覚なのかもしれないけれど……。
今日の先輩は珍しく性急だった。いつもならじっくり焦らされるのに、あっという間に私を追い詰めてしまう。
先輩が私を欲しくて、我慢できなくてこんな風に焦って抱いてくれたのだったらなぁ。
そんな夢みたいな事を想像して、体を熱くしてしまう。
こうして一番傍で触れ合って時間を共有していけば―――いつか先輩の気持ちがそんな風に変化しないだろうか。
『押してダメなら引いてみろ』って、友達は言うけど。
引いたら、先輩にそのまま手を振って見送られるのではないか。そう思うとコワくて堪らない。
でもでも。
こんなに優しく私の事を宝物のように扱ってくれるのだから、少しは私の事、必要としてくれるのではないだろうか?私が別れるって言ったら、寂しそうに引き留めてくれるかも……?
「ああ、みゆは何処も彼処も柔らかくて可愛いな」
ちゅっと私の唇に吸い付いて少し余裕のない息を吐きながら、先輩が言った。
細められたくっきりとした二重の大きな目が凄絶に色っぽくて、私の心臓はそれだけでギュッと苦しく締め付けられる。
ずっと憧れていた。
先輩はいろんな女の子と仲が良くて、誰にでも優しい。
そして横にはいつも、恋人がいた。
サイクルは短かったけれど、綺麗な人や優しい人、明るい人や可愛い人、きっと自分の魅力に自信を持っているであろう女の人が、先輩の特別な人として大切に扱われていた。あんなにモテるのに、先輩はその時その時付き合っている相手を大事にして、浮気をするという事は無かったようだ。
先輩をずっと見ていたいと思った。そして少しでも声を聴きたくて、軽口を聞いてくれるようになった時は舞い上がってしまった。
男女数人でカラオケに行った時、私の席の隣に偶然先輩が座った。好きな歌の話をしてくれて、私が歌った時「可愛い声だね」と褒めてくれた。
帰り路に2人きりでミスドに入っておしゃべりした。私は先輩の友達になった。スマホで連絡先を交換する時、指が震えた……。
先輩の彼女が羨ましかった。
「いつも相手に振られるんだよね」と先輩が笑った時、歴代の彼女はなんて勿体無い事をするのだろう。もし私が先輩と付き合えたら、絶対に自分から手を放すような真似はしないのに……って、切なくなった。
すんなりと告白を受け付けて貰い、先輩の『条件』を聞かされた時―――まず考えたのは、ああ噂は本当だったんだ……ってこと。先輩には忘れられない人がいる。誰も彼女に敵わないから、自分から身を引くんだって。
でも私はきっと、諦めない。
だってこんな素敵な人の傍にいれて、触れ合える権利を得たのだから。
何にだって耐えて見せる。
きっと努力すれば、彼も私の方を向いてくれる……。
意識してそう決意したわけでは無い。
だけど私は心の底でそう信じていた。
努力は報われると。
こちらが真摯に愛すれば、相手からも愛情が返ってくる筈だと。
終わった後、先輩はすぐに処理を済ませ「一緒にシャワー浴びよっか」と言って私を抱き上げてくれた。
ボーっとしていると先輩がシャワーを適温にして、私に掛けてくれる。
「あ、洗います」
先輩も体の汗をシャワーで流し始めたので、私はスポンジにボディシャンプーを出して、先輩の体を洗おうとした。
「や、いいよ。俺、ここでは石鹸使わないんだ」
「え?」
「ほら、あんまりいい匂いさせて帰ると、母親が心配するでしょう?」
先輩はニヤリと笑った。
私はポカンとして、ついさっき心の中で考え付いた事をポロリと口に出してしまった。
「先輩って……マザコンなんですね?」
「えぇ?……あー、そうかも。うん、俺って『マザコン』だよ……重症のね」
悪びれも照れもせずそういった先輩は、何だか少し嬉しそうだった。
それは今まで見せた事の無い類の表情で。
不思議な気持ちだった。
何故だか今まで見た先輩のどの表情よりも、それは魅力的に見えたから。
** ** **
ホテルを出て、駅まで手を繋いで送ってもらう。
脚の長い先輩だけど、手を繋いでいる時は気を使って私に歩幅をあわせてくれるのがわかる。
そういう時大事にされているなぁって、思う。
ただの『友達』だったら、手さえ繋いでは貰えなかった。
手を繋いで貰えるのは、先輩の『彼女』だけ。
キスするのも、セックスするのも、私だけ。
他の『女友達』より、確かに優遇して貰っている。
なのに何故だろう。
余計喉が渇いてしまうような、焦燥感が増す気がするのは。
私と『女友達』と何が違うの?
セックスしている間は、一番近くにいられる。だけどそういう時間でさえ―――彼の瞳に熱は込められていない。『女友達』を見るのと同じように穏やかで優しい視線を……私に与えるだけだ。
改札まで連れて来てくれて、今日は時間が無いのでここでお別れになる。
まだ一緒に居たい。
別れたくない。
何か……何か、一緒にいられる理由は無いだろうか。
先輩の手が離れた瞬間、咄嗟に言葉が出た。
「お家にっ……先輩のお家に行きたいっ!今日、このまま付いて行ったら駄目ですか?……先輩のお母さんに会いたいです。『彼女』だって紹介して欲しい……」
目を閉じて必死に言いつのった。
でもこれは単なる思い付きだ。
『マザコン』を自称する先輩のお母さんに紹介して貰えれば、少しでも保障が得られるような気がした。先輩の彼女を続けていくために、中身が伴わないなら僅かでも何でも外堀から埋めていきたいと思ったのだ。
思い付きにしては、良いアイデアだと思った。
そして私は期待を込めて先輩の顔を見上げた。
「無理」
固い声。
表情の無くした先輩の、冷たい目と私の視線がぶつかった。
全身に震えが走った。
初めて―――初めて私は先輩を『怖い』と感じた。
怯えた私の表情に気が付いたのか、先輩はすぐにニッコリと柔らかい笑顔を浮かべた。
「ゴメンね。みゆに情けない処見せたくないからさ。俺、超マザコンだから、絶対引くし」
「引くなんて……」
もし本当に情けない処を見せて貰ったなら―――喜びこそすれ私が先輩にガッカリするなんてあり得ない。
「明日学校だよ?疲れは明日に持ち越さないようにゆっくり休もう?俺も明日から朝練だから、早く寝なくちゃ―――みゆは『いい子』だから分かるよね?」
「……はい。ごめんなさい……」
先輩は、私がホームへ消えるまでずっと見守ってくれていた。私は先輩に笑って手を振った。そして人の列に並ぼうと足を踏み出し……クルリと改札へ戻った。
周囲をキョロキョロと探す。
すると自分の家に帰るため他の改札へ向かう、先輩の背中を見つけることができた。
彼は振り返らない。
私が彼の背中を切なく見つめているなどと、考えてもみないのだろう。
その背中が遠ざかり視界から消えるまで、私はそこに立ち尽くしていた。