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ちょっと不思議で怖い話

そこにいたのは誰?

作者: 邑井匡


 上空に広がる曇天は、日が傾いていく度にその様相を色濃く変化していった。


 今朝は家を出なければならない十五分前に目覚めた俺には、口の中に食パンを詰め込むだけで精一杯で、天気予報などもちろん見ていなかった。


 退屈な授業を全て終えて学校を出る頃には既に小さな雨粒は地面を叩いており、傘を片手に家路を急ぐ学生達の間を縫うようにして、俺は無防備な頭を晒して走り出していた。


「うわ……、本降りになってきた」


 顔を顰めて歩幅を広げ、本格的に駆け出す。濡れ切ったアスファルトに足を取られないように慎重を心掛けるも、一刻も早く安息の地へと辿り着きたい一心で足を動かす。


 大粒の雨が風に逆らって走る俺の視界をじわじわと奪っていく。バケツをひっくり返したような雨は、酷い風鳴りを伴って人々に襲い掛かる。対向車線側の歩道にいる痩せぎすの女子中学生は、思い通りにならないで暴れる赤い傘に四苦八苦して立ち止まっている。誰の物かもわからない壊れた傘が、道端に転がっていた。


 空が唸っていた。――雷だ。もう雷雲を見上げられるほどの余裕はなかった。


 家まであと数メートル。俺は大股に住宅街を駆け抜け、カーブミラーのすぐ真ん前にある二階建ての我が家に転がるように逃げ込んだ。鍵は開いていた。


「はぁ、はぁ、はぁ。……はー……」


 手早く鍵を掛け、内鍵を下ろす。勢いのまま、上り框に敷かれた床マットの上に座り込んだ。


 夏と雖も全身に打たれた大量の雨と、全力疾走も相俟って大分体力を消耗していた。荒い息を整えつつ不快な音を立てる泥の掛かったスニーカーを脱ぎ捨て、人差し指で濡れそぼった靴下を引き下ろす。


 ――母さんが怒るな……。


 疲れ切った身体に鞭打ち立ち上がり、尻の下でたっぷりと水分を含んだ母親の趣味のネイティブ柄マットを半眼で見下ろしつつ、嘆息する。


 裏返った洗濯物をぷらぷらと揺らしながら足早に洗面所へ向かうと、淡い光が廊下に漏れていた。脱衣所に足を踏み入れると、雨音に交じって微かにシャワーの音が聞こえてきた。明かりは風呂場にだけ灯っている。


 洗濯籠に無造作に脱ぎ捨てられた男物の洗濯物を見て、俺は舌打ちした。


 両親はこの時間はまだ家には戻っていない。風呂に入っているのは消去法でたった一人、いけ好かない大学生の兄だけだ。


 ――くそ。


 口の中で悪態付きながら、服を脱ぎ捨て乾燥した清潔なタオルで頭を乱暴に掻き混ぜる。玄関の鍵が開いていた時点で嫌な予感はしていたが、予想通りだった。


 ――俺が鍵を閉め忘れていると烈火の如く責め立てて来るくせに、自分だって開けっ放しじゃないか。


 いくら人が部屋の中にいても不用心だからと、必ず玄関の鍵は掛けるようにというのが我が家のルールだ。平和ボケした日本人の精神がそうさせるのか、俺は度々鍵を掛け忘れては母や兄に説教される、というのを繰り返し、高校に上がる頃にはほとんど忘れないようになっていた。


 苛々しながら二階の自室に戻り、手早く着替えを済ます。普段ならこの時間だと電気を灯すまでもなく窓から入り込む光だけで十分だが、暗雲が立ち込めている今はほとんど何も見えない。蛍光灯の強い明かりに目を顰めつつ、タオルで髪を拭く。


 ――刹那、 カーテン越しに眩い光が断続的に入り込み、耳を劈くような轟音が空から降ってきた。


「えっ」


 ふつ、と蛍光灯が沈黙した。反射的に天井を見上げるが、薄らと見えるシーリングランプが浮かんでいるだけだった。


 ――停電。


 その一言が頭の中で警鐘を鳴らす。突然の暗闇に、目を瞬かせる。とりあえずブレーカーを確認するべきだと思い立ち、急いで部屋を後にした。


 一階に戻り、風呂場へ急ぐ。我が家のブレーカーは洗面台側に壁に取り付けられている。以前に母が電子レンジと乾燥機とドライヤーを同時に使用したときにブレーカーが落ちて、ちょっとした騒ぎになったことがある。母の身長ではブレーカーに手が届かないので、そういう時に呼ばれるのは決まって俺だった。兄の方が背が高いから兄を呼べばいいとは思うが、大学の学業だか遊びだかが忙しいとかでほとんど夜は家にいない。こんな時くらいは役に立てよタダ飯食らいが――と毒づきつつ、洗面所へと続くドアを開けた。


 ふわ、と石鹸のいい香りと生温い湿気に包まれる。当然、先ほどまで付いていたシャワールームの明かりも消えている。水音は、窓の外から漏れてくる雨音だけだ。


「兄貴」


 返事はない。怪訝に思いつつ、風呂場のドアを開ける。暗闇に目を凝らしつつ見回すが、人の気配はない。さすがに停電中に呑気にシャワー浴びるわけもないかと納得しつつ扉を閉める。


 まぁいいかとブレーカーのある辺りを見遣る。懐中電灯がどこかにあったとは思うが、どこにあるかは母くらいしか知らないだろう。闇に目を凝らしながら手探りでブレーカーの扉を開け、落ちていないか確認する。全て触ってみたが、一つも降りていなかった。やはり、電気自体来ていないようだ。


 これは本格的な停電だと溜息を吐く。十数年前とは違い、五分十分で復旧するだろうと高をくくる。しかし、風呂には今すぐにでも入りたい。身体は拭いたが、長時間雨に打たれていたせいで全身が冷えていた。


 ――そういえば、家の給湯器は電気落ちても大丈夫なんだっけ。


 ふと思い立って、風呂場に入る。手探りでシャワーのコックを開き、暫く待つ。先ほど使用していたため、温度は保たれているが、そのうち水になると給湯器が稼働していないはずだ。一分ほど流しっぱなしにしても湯の温度は保たれていたため、俺は喜び勇んで来たばかりのティーシャツと短パンを脱ぎ捨て、適当に洗濯籠がある辺りに放り投げる。


「はぁ……」


 頭から熱めの湯を被ると、思わず安堵の息が漏れた。幸せに浸りながらシャンプーをする。天辺に凸のある方がシャンプーであるのは知っていたので、手元がほとんど見えない状態でも選別は容易だった。


 流しっぱなしでシャワーを浴びていると、カラカラ、と風呂場の電球が小さく音を立て、明かりが点いた。


 どうやら、思った通り一時的な停電だったようだ。ほっと胸を撫で下ろし、洗髪を続ける。ざかざかとシャンプーを流し切ってボディーソープに手を掛けた所で、突然洗面所の扉が乱暴に開かれる音が聞こえてきて動きを止めた。


 そのまま風呂場のドアが派手な音を立てて開かれた。


「てんめぇえ! いつまで入ってやがるさっさと出やがれこのボケが!」

「――は?」


 怒り狂った兄が乱入してきて、思わず眉間に皺が寄る。


「は、じゃねぇよグズ。偉大なるお兄様がてめぇのせいで風邪でも引いたらどうしてくれんだ猿!」

「停電で怯えて勝手に中断して出ただけだろ? どうせ明かりが点いたから戻ってきたんだろうが。ちょっとは待てねぇのかよ」


 あまりの物言いにむっとして言い返すと、兄は怪訝そうな顔で目を眇めて一瞬沈黙した。普段馬鹿にしている弟に言い当てられて、決まりが悪いのだろうか。


「――停電? 何言ってんだお前」

「はっ、しらばっくれてんなよ。しかし知らなかったなぁ、兄貴が暗いの駄目だったなんて」


 不思議そうな顔をしていた兄はなんのことだ、と呟きながら、はっと思い立ったように下がっていた眉尻を再び吊り上げて激昂した。


「それよりお前! また玄関の鍵閉め忘れてただろ! 何度言や覚えんだよ能無し! 高校生にもなって小学生の頃からオツムの程度が変わんねぇってどんだけ脳が傷んでんだよ! てめぇのせいで俺が心労でくたばったら人類の多大なる損失になるだろォが!」

「なに人に罪擦り付けてんだよ! 鍵は兄貴が開けっ放しだっただろ!? 俺はちゃんと内鍵まで掛けたぞ」


 尊大な兄の態度にうんざりしつつ言い返すも、反撃に備える。どうせ口喧嘩で勝てたことなどないが(もちろん他の喧嘩でも勝てたためしなどないが)、あまりに理不尽な言い方に屈して溜まるものかと眦を吊り上げた。


 ――しかし。


 当の兄は俺に口答えされたというのに、口を噤んでしまっていた。普段ならヘッドロックを掛けられながら頭を掴まれ揺さぶられつつ罵声を浴びせかけられるくらいはしそうなものだが、いったいどうしたと言うのだろうか。


「ちょっと待て。お前、さっきから何言ってんだ?」

「何言ってるはこっちのセリフ――」

「俺が鍵を掛け忘れた? 最後に家を出たのは母さんのはずだろ」

「え? こんな時間に戻ってきてたのか?」

「そうじゃない。朝、いつも母さんが最後に家出るだろ」

「兄貴こそ何言ってんだ? 俺が帰ってきたとき、シャワー浴びてただろ」

「俺が帰ってきたのは今だ。お前が今、シャワーを浴びてるんだろ」

「………」

「………」


 二人して、顔を見合す。怒りの気配は消え、微妙な空気が二人の間に流れる。


 ――どういうことだ? 兄貴はなんでそんな妙な嘘を吐く。


 俺は微かに身震いした。湯冷めなんかじゃない、足元から這い上がってくる奇妙な感覚に、俺は押し黙った。しかし、ふと思い出す。脱衣所には確かに、洗濯物が出されていたはずだ。


 俺は無言で立ち上がり、兄を押し退けるようにして脱衣所へ出た。俺のティーシャツが洗濯籠を隠すようにして覆い被さっていた。半ズボンと下着は籠の傍に散らばっていた。


 ごく、と喉を鳴らしてゆっくりと白い布をどける。


 ――そこには、薄茶の竹籠の網目だけが蛍光灯に照らされていた。






 ――そこにいたのは誰?――






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