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Fly me to the moon

作者: 二ノ原麻美

 I love youをあなたならどう訳しますか? なんて、野暮なことを聞かれた。

 最近ますます肥え太ってきた国語の女教師は、漱石の訳がいかに名訳かを唾を飛ばして力説し、教壇は先生の重みに耐えながらぎいぎいと悲鳴を上げている、騒々しい午後の授業。配られた復習プリントには、余興として「自分なりにI love youを訳せ」という問題が設置されていた。私は迷わず解答欄に「あなたが好きです」というつまらない文を走り書きして、プリント回収の声がかかるとそのまま前の席の男子に回す。ちらりと見えた彼の解答欄にも同じことが書かれてあった。

 愛をどう囁くか、月を見てどう思うか、そんな浮ついたものには興味がなかった。私の頭の中を占拠するのは、待ちかねていた部活のこと。なじんだシューズで床をキュッキュッと鳴らして、跳んで、ネットの向こう側に重いボールを叩きつけるあの感覚。恋よりなにより、バレーボールに夢中だった。それこそ、まるで恋しているみたいに。



「今日はいったん帰って病院に行って、安静にしていなさい」

 なのに、顧問は少し突き指をしたくらいでそんなことを言って、私からバレーを引き離そうとする。さんざん抗議してなんともないことを熱弁したが、聞き入れられずに病院へ行かされた。すると、突き指どころか骨を痛めており、数週間安静にするよう宣告されるという、この上ない不幸。やり場のない不満と怒りで煮えくりかえりながら、足早に家を目指す。包帯やらなにやらで厳重に包装された自分の人差し指と薬指の姿はあまりに情けなくて、泣きたい気持ちだった。ぐっとこらえた。

 そしてその数秒後、本当に泣いている人を見た。

 踏切を渡った先にある小さな花屋。その店先にじっと立って薔薇を見つめている少年の頬を、一筋の光が通る。アスファルトに広がる小さな染み。彼は泣いていた。男の人が泣くところを見るのは久しぶりだった。ぎょっとして、そっと歩み寄ってみる。

 近づくにつれ、彼がとても高身長であることに気がついた。百八十はゆうに超えており、その上とても痩せているせいか大きいというより細長い印象を受ける。そして、特筆すべきは顔。艶やかな黒髪によく映える絹のような白肌と、人形のように清廉で人間離れした美しい顔立ちをもつ、まさに絶世の美少年。まるで絵本の中から抜け出してきた王子さまのよう、という表現はよく聞くが、それは彼のために生まれた言葉なのではないかと思える。

 そんな王子さまが花屋に並んだ薔薇を見て泣いている。ドラマのワンシーンのようで、私を含めその他の通行人たちはしばし彼に見とれた。彼はきっと悲しいのだろうが、皮肉なことにその美しい風景は人々の心を潤した。

 そして、ふと振り返った彼の視線が、私の瞳を正面から捕獲した。

 目が合う一瞬間。一陣の風が体を刺す。花の香りが突きぬける。

 バレーばかりの日常では絶対に味わうことのない『ドラマチック』に、初めて肌で触れた。透きとおる涙を光らせながら、秋の冷たい風の中振り返った彼があまりに美しくて、鈍い手の痛みも重苦しい胸もあっという間に吹き飛ばされる。

 なぜだろう。あんなに沈んでいた気分がどこかに消えて、初めて会った男の子の泣き顔や笑顔を、もっと見てみたいと思ってしまうのは。どんな風に唇を動かしてどんな声で何を語るのか、もっともっと知りたいと思ってしまうのは。一体、どうしてなんだろう。

 薔薇の王子さまはばつが悪そうに笑って、足早にその場を後にした。後に取り残された私はただ呆然と立ち尽くす。

 これはもしかすると、失意の私を慰めるための神様からの贈り物なのかもしれない。そう思ってしまうくらい、悲しみでいっぱいだった私の心は、とある美しい一瞬の光景に上書きされてしまっていた。大きすぎるこんな気持ちをどうしたらいいかわからなくて、トレーニングがてら駆け足で自宅を目指す。ときめきの誤魔化し方まで見事に無骨な自分が嫌になってしまう。

 ああ、どうしよう。まるで春とお祭りと流星群がいっぺんに町にやってきたみたい。私、あの笑顔が好きになってしまったんだ。どこまでも無邪気で、それでいて深い憂いを帯びているあの綺麗な苦笑いが。



 そんな風に心が大はしゃぎしているときも時間は流れ続ける。夜が来て朝を迎えて、また登校の時間になった。バレーもできないのに学校に行くというのは果てしなく無意味なことのように思えて、制服に着替えるのが億劫だった。

 負傷した右手をかばいながらとぼとぼと歩いていると、背後から「れいちゃん」と声がかかる。若干かすれた独特の甲高い声は私の知り合いで一人しかいない。なんとなく気があってなんとなく普段一緒にいる、友達っぽいやつ……江森。

 江森は百五十センチにも満たない小さな体を揺らし、私の元まで駆けてくる。

「れいちゃん、その手どうしたの?」

「ブロックミスってやらかしちゃった。全治一カ月」

「大変だねえ。お大事に」

 大げさに騒ぎ立てず、大抵のことは軽く流してしまえる、こいつのこういう『ゆるい』ところが好きだった。喋り方もなんとなくふわふわしていて、目は常に遠くを見ているように虚ろだから、不思議な子と称されることが多い彼女だが、私はその偽りのない人間性に惹かれていた。

「あ、そうだそうだ。れいちゃん、あのこと聞いた?」

「何の話?」

「あのね、今日、五組に転校生がくるんだって。……へへ、このセリフ、少女漫画の第一話みたいで恥ずかしいねえ」

 江森は相変わらずずれている。盛り上がるのは普通セリフではなく転校生についてのことだろう。こんな田舎の高校で転校生などまずやってこない。寂れた地方都市の一角に過ぎないこの町は、親の転勤云々の事情を持つ子どもはほとんどいない。

「お母さんと一緒に昨日学校まで来てたらしいよ。目撃者曰く美少年」

 美少年。昨日の薔薇の王子さまが思い出される。彼も私と同じくらいの年だった。

「へえ、男子なんだ」

「盛り上がらないね、れいちゃんは」

「別に興味ないもん」

「れいちゃんは初恋もまだですからなあ」

「恋愛にしろ何にしろ、経験が早ければ早いほど偉いなんて単純なこと、この世に一つもないと思うな」

 江森は黙ってにこにこ笑っている。人の主義主張に一切干渉しない、こいつの賢いやり方も気に入っていた。

「そっかそっか。でもさ、遅かれ早かれ経験しておいて損はないと思わない? というわけで、れいちゃんが恋に目覚めることを期待して、その美少年を見に行ってみないかね」

「芸能人じゃあるまいし、馬鹿じゃない」

 江森は悪態を華麗にかわし、私の手首を掴んで五組の教室のほうに向かって大股で歩き始めた。抵抗するのも面倒くさくて、特に抵抗はしない。

 だって、転校生の正体はもう、心のどこか奥深くで直感的にわかっていたから。花屋の前のドラマチックは、あの刹那だけで終わるはずがない。一階の廊下の端にある五組の教室にはきっと、あの―――

「あっ、いたあ」

 気の抜ける江森の声を合図に顔を上げ、彼女が指差す方に視線を投げやる。

 やっぱり、そうだった。

 新しく追加されたらしい後ろの席に陣取り、手元の文庫本に目を落とす、絶世の美少年。豊かな黒髪と艶やかな唇はそこらの女性より瑞々しい。こんな男子高校生、そこらにごろごろいるわけがない。

 間違いなく、昨日花屋の前にいた王子さまだった。耳にイヤホンが刺さっているせいでこちらのことには気が付いていないが、まあ恐らく私のことは覚えていないだろう。

「なんか、イケメンとかかっこいいとかじゃなくて、『お美しい』って感じ」

 流行りのアイドルのようなかっこよさを期待していた江森は、中世の肖像画のような造形をした彼に少し肩を落とした。

「どう? れいちゃんのお好みではない感じ?」

「別に、そんな浮ついたこと期待して来たわけじゃないし」

 これ以上彼を見つめるのが躊躇われて、そう吐き捨てると踵を返して自分の教室まで引き返した。口ではどうしても素直になれないけれど、生まれて初めて経験したドラマチックが、胸を騒がせて仕方ない。苛立ちすら覚えはじめている。

 悔しいけれど、絶対認めたくないことだけれど、不覚にも彼という存在に惹かれ始めていることを、そのとき初めて知った。



 一瞬にして私の心をさらっていく彼を、憎く思った。もう決して目を合わせないように、関わらないようにしようと誓った。こんな得体のしれない感情に踊らされるのは、私のなけなしのプライドが許さなかった。

 なのに。彼はどこまでも無遠慮に、私の防壁をやすやすと乗り越えてやってくる。

「お願いします」

 そう言って、彼はいつも私の前に小難しそうな本を差し出す。じゃんけんに負けて任命されてしまった図書委員である私のカウンター当番は、毎週月・水・金曜日の昼休み。その時間になると決まって、例の王子さまが貸出手続きにやってくるのだ。

「何年何組の何君?」

 わざと名前を覚えていないふり。

「二年五組の星野です」

 その心地よい低音の声が聞きたくて、わざと知らないふりをする。

 初めて彼がこのカウンターにやってきたときは心臓が飛び上がったものだ。王子の名にふさわしい美声を響かせて、宇宙工学の本を抱えて来るのだから。そこで初めて彼の名前がこれまた王子さまらしい「星野」という名字なのを知り、言葉の節々に関西の訛りがあることも知った。

 身長百八十二センチ、ここに来る前は京都のとある男子校に通っていた、文系科目が得意、白のコンバースを愛用。

 こうした事務的なやりとり以外は何もできていないけれど、人づてに聞いた彼の情報は無駄に積もっていく。授業中は眼鏡をかけているらしい。

 自分だけが意識している現状が歯がゆくて、露骨に不機嫌な声で「どうぞ」と手続きを終えた本を返すと、そっとかすかに微笑まれてしまった。

「ありがとう、花澤さん」

 ゆったりとした関西の発音で初めて呼ばれた、私の名前。彼はぱたぱたとスリッパを鳴らしながら去っていく。ついでに、私の意識もどこか遠くに去っていく。

 名前を、憶えられてしまっていた。私は何度会っても覚えていないふりをしていたのに。もしかしたら、本当は覚えていることがばれているかもしれない。恥ずかしかった。そしてなにより、あの美しい唇から私の名前が零れ落ちた衝撃が強すぎて、どこか遠くへ逃げていきたい気分だった。

「なんなの、あいつ……」



 それからも彼は私のカウンターに度々やってきた。会話はなく、去り際に微笑んで会釈するだけの交流だが、彼は明らかに私の存在を意識するようになった。なんなのだろう。この状況。街でたまたま見かけて、笑顔と泣き顔の美しさに惹かれて、そしたら実は転校生で、今は意識して目を合わせる関係。不思議だ。私はいったい、彼をどう思っているのだろうか。このむかむかとしたやり場も名前もない感情を、人はなんと呼ぶのだろうか。

 今日も彼は本を借りに来る。借りるのはいつも決まって詩集や歌集などの文芸作品か、宇宙工学に関する解説書かの二択だ。どれもこれも、月に関するものが多い。研究しているのだろうか。

「お願いします」

 いつものセリフ。いつもと似たような本。いつもと同じ作業。もうわざわざ名前を尋ねなくとも手続きを始めるようになった。彼は相変わらず私には会釈だけで会話はない。悔しい。私ばかり声を聞きたがっている。同じくらい彼も私を意識するようになるには、こちらから行動を起こすしかない。何か、インパクトの強い、決定的な。

「十月十一日」

 ふと漏れ出した言葉に、本を受け取ろうとしていた王子はそっと視線を上げた。

「十月十一日、踏切の近くの花屋の前で泣いてたのは、どうして?」

 はっとして彼は軽く肩をはねさせる。ようやく今、彼の瞳を私が独占できた。優越感。彼はしばらくじっと私を見つめて困惑していた様子だったが、やがて失笑のような乾いた吐息を漏らし、微笑んだ。

「内緒」

 私が大好きな柔らかい関西訛りの言葉が耳を撫でて、くすぐったい。唇に人差し指を当てる仕草があざといくらい色っぽくて眩暈がした。

「は? なにそれ」

 なのに、素直になれない私はいつもと変わらないトゲのある語調で突っぱねてしまう。

「女の子に泣いてるとこ見られて、その上理由まで喋らされるって結構きついねんで。堪忍して。僕も一応男の子やから」

「そんな女々しい口調でなよなよした見た目のやつに言われても」

「へえ、人を見た目で判断するんやね。君がそんな人とは思いませんでしたわ」

「あんたのことまだ何も知らないのに見た目以外でどう判断すればいいの」

 そんな風に一通り憎まれ口をたたき合うと、ふと彼が噴き出した。

「花澤さんはきつい子やなあ。僕、そういう子初めてやわ」

「別に。思ったことを素直に言ってるだけだし」

「そういうところがきついって……あっ、ごめんね」

 そこで気がようやく後ろに順番待ちの列ができあがっていることに気が付いて、彼はあわてて大きな図体を脇によけた。

「ほな、またね。花澤さん」

 王子さまは優雅に微笑んで手を振り、颯爽と図書館を去っていく。その背中に、翻った王子のマントが見えた気がした。

 星野……星の王子さま。

 とっさに秀逸なあだ名を思いついた私は、一人ほくそえんだのだった。



 それからなんとなく、校内で会ったり図書館でいつものように手続きをしたりする時についでという形で会話をするようになった。その内容は私が一方的に毒を吐いて彼がへらへら笑って受け流す、というお決まりのやりとりだったり、最近読んだ本の内容だったり、テストに関する愚痴だったり。くだらないけれど、楽しかった。

 その頃知った話だったが、彼はこの学校に友人がいないらしい。美しすぎる容姿や話す言葉の違いなどで多少浮いているのは予想していたが、どうやらそれだけではないようで、進んで他人と会話しようとせず、話しかけられても事務的な対応をし、休み時間は常に本を読んでいるような態度のせいで孤立気味なのだそうだ。それを聞いてまず、「どうして」とか「なんとかしてあげなくちゃ」とかそんなことを思うよりも先に、「よかった」と思う自分がいるのに気がついた。彼が話すのはこの学校で私だけ。彼の友人を名乗れるのは私だけ。私だけ、特別。そう思って笑った自分がいた。

 まずい。私は思ったよりも彼に夢中になっているらしい。

 なぜだろう。最初に惹かれたのは顔だった。泣き顔がいいと思った。なのに今は、あのつかみどころのない性格や底の見えない怪しげな微笑みにも惹かれている。

 ああ、これが恋だ。ずっと考えないようにしていたことだけれど、ここまできたらもう引き下がれない。これは恋だ。彼のことが好きだ。

 胸にそっと手を当てて、その気持ちに気づいたときは、ただひたすら恥ずかしかった。バレーに夢中で、突き指を繰り返したごつごつした自分の無骨な手と、美しい詩や絵画と戯れてきた彼の繊細な白い手を見比べて、なんて身の程しらずなんだろうと顔から火が出る思いだった。

 それでも、好き。小さな星にたった一輪咲く薔薇の花になりたいくらい、あなたが好き。



「I love youを『月が綺麗ですね』って訳した話、授業で聞いた?」

 放課後、会えることを期待して図書館にふらりと行くと、幸運にも星の王子さまと遭遇した。なんとなく始めた会話の中、ふとそんな言葉が飛び出した。

「ああ、なんか課題出てたよね」

「うん。あの話、好きや。花澤さんなら、なんて訳す?」

「傍においてください」

 彼と出会ったときから、こんな質問を想定して用意していた。

「素敵やね」

「あなたはなんて?」

「笑わんといて。……『月まで連れ去りたい』」

 はっとして、彼が手にしている本に視線を落とす。彼がいつも読んでいる宇宙工学の本。興味があるのだろうか。それはいつも月に関する本ばかりなのだ。クレーターや月の裏側について調べて、いったい彼はどうしたいのだろう。

「あんたって本当ロマンチストっていうか、少女趣味っていうか……寒いし臭いよ、そのセリフ」

「ええと思ったんやけどなあ。修業が必要やな」

 いつものようにつんとした態度で一蹴すると、肩をすくめて苦笑する彼。ロマンチストは日常の些細な仕草まで優雅だ。

「そうだ。なんで、いつも宇宙の本ばかりなの? しかも月に関する本。あなたならふわふわした甘ったるい恋愛小説のほうが似合いそう」

 ふと漏らした何気ない疑問。もっと彼のことを知りたくて、少しでも長くお喋りしていたくて言った言葉に、彼は長いまつげを伏せて、美しくも悲しげな表情を作ってみせた。いつもにこにこ笑っている彼が初めて見せた、「切なさ」の顔。

「悲しくなるから、そういうのはもう読まん。読んだらきっと、たぶんまた泣いてしまう」

「え?」

「僕は人にも神様にもはばかられる恋愛をしてたんや。いくら恋してても愛してても、世間では絶対に認められん。認められたらあかん。辛いやろ。だからもう、しばらく恋のお話は知りとうない」

 ああ、この顔だ。私が恋に落ちたのは、この、世界中の憂いを一身に引き受けたような、深い深い悲しみの顔。病的なまでに美しくて、直視することができないほど深い、涙の色。

 彼が過去の恋を語りはじめたという驚きよりもまず、その耽美な横顔に見とれ、数瞬遅れて嫉妬の嵐が小さな胸に巻き起こった。

 私の知らないところで、彼に愛された女の子がいる。

「昔好きやったその人がな、お月さんが好きやってよう言うててん。お空にあるもんで一番綺麗やからって。だから最初は、その人にうんちく聞かせるために勉強してたんやけど、だんだん趣味になってきてな。こっちに来てからはもう完全に好きで勉強してる。僕、理系の大学進みたいし」

「まだその人のこと、好きなの?」

 声が震えた。

「ううん。中学校のときの話や。もうとっくに別れ別れになって、顔もあやふやになってきてる。ただの初恋の思い出やよ」

「ふうん」

 こんなときでも平静を装える自分が憎らしかった。もっと不器用で、動揺を隠せずに半べそになってみせれば、彼の気を引けたのに。私の気持ちに気付いてもらえたかもしれないのに。

 月まで連れ去りたい。あれはそういう意味だったのだ。過去の人に対する、「愛している」の言葉。ああ、今すぐにでも死んでしまいたい。

 好き。大好き。声に出そうとすると唇が震えるくらい、好き。この身を焦がすような嫉妬と、白昼夢のように耽美な彼の横顔が決定打となって、私は狂信的な恋に溺れていく。



 それからは前にも増して彼と行動をともにするようになった。教室の場所がわからないという彼をおせっかいにも案内したり、怪我をしていることを利用して特に必要でもない助けを求めたり、放課後は意味もなくぶらついてともに時間を浪費する。彼のかけがえのない青春時代の一部が私に捧げられていると思うと、過去の女に勝利したかのような優越感が押し寄せた。それが快感だった。彼の生きる『今』は、私がこうして独占しているのだと。

 部活動は、怪我をしていても球拾いをしたり得点表をめくったり、仕事はたくさんあるので参加するのがよしとされているが、それすらさぼるようになった。あんなに夢中で、恋するようにのめりこんでいたバレーボールが、本物の恋にかすんで消えかかっている。これも全て、彼のせい。彼に染められたせい。

「れいちゃん、何か変わったね」

 江森にも言われた。江森はパンダのような垂れ目を細くして、じっと私を観察するように眺めていた。別にお化粧をするようになったとか、言葉遣いに気を遣うようになったとか、そんな分かりやすい恋の目覚めは一切ないはずなのに、江森は私の変化に目ざとく気付き、星の王子さまに対する熱烈な恋を見破った。

「やめといたほうがいいと思うな、彼」

 江森が私に対して否定的な意見を述べるのは滅多にあることではない。その時点で私が心を冷ましていれば、また結果は違ったものになったかもしれないが、今さら何を想像してもあとの祭りだ。当時の私は、誰に何を言われようとも止まらなかったと思う。

 毎日毎日、彼と日常を過ごす事に執着するようになった。一日に一回は何が何でも話したかった。急速な距離の縮まりにも彼は動じた様子を見せなかったが、何を思っていたのだろうか。

 そしてその日の放課後も、私は手が治りかけているというのにまた部活をさぼり、図書館へと足を向ける。そこで本を読みながら彼と何気ない会話をするのが、日課になりつつあった。入り口の戸を引いて、一番奥の席に大きな体を折り畳んで座り読書をする彼の姿を見つける。イヤホンを装着しているので声は聞こえないと思い、そっと肩を叩こうと一歩踏み出す。

 その瞬間に、聞いてしまった。

 それは、廊下の隅でお喋りに興じていた女子生徒たちの、何気ない無駄話。

「見て、あの人。ものすごく綺麗」

「ああ、星野くん。京都からの転校生だって。関西弁」

「男の子なのに美人」

「でも性格悪いらしいよ。いつも笑顔で愛想はいいけど、何か冷たいって」

「ていうかあの子、向こうでいじめられて親戚のいるこっちへ転校してきたって聞いたけど」

「いじめられるもなにも、本人が悪いよ。私の彼氏ね、あの子が前にいた学校に友達が通ってて、色々聞いたって。なんか、十五歳年上の人妻と不倫してたのがばれて旦那さんに訴えられそうになったけどどうにか示談にして、こっちへ逃げてきたみたい。学校でもばらされていじめられて、修羅場だったって」

「怖い……」

「最低だね、それ」

 最低。刃物のような言葉を彼に向って軽率に投げつけた、見ず知らずの女のに子に危うく掴みかかりそうになった。わずかに残っていた、彼に出会う以前の理性的な自分がぐっとふんばって足を地面に縫い付ける。

 ふと顔を上げて私に気がついた彼が、柔らかな笑顔を浮かべて手を振ってくれる。今は大好きなその笑顔すらも、信じられない。



 江森に聞くと、その爛れた噂は私の知らないところで広く知られているらしく、皆が彼と親しげな私に気を使って教えるのを躊躇っていたそうだ。恥ずかしい。馬鹿みたい。私ひとり浮かれて、何も知らないで。

『僕は人にも神様にもはばかられる恋愛をしてたんや。いくら恋してても愛してても、世間では絶対に認められん。認められたらあかん。辛いやろ』

 いつかの夕方、彼が切なげな目をしてこぼした何気ない本音。あれはもしかしたら、その人妻とやらのことなのかもしれない。軽蔑よりも幻滅よりも、その女に対する炎上するような嫉妬が巻き起こった。殺してやりたいくらいに。

 あの日以来、彼とは接する機会が減った。挨拶はぎこちなく交わすが、図書館には行かなくなった。彼も私の変化に気がついているだろう。噂を耳にはさんだと予測しているかもしれない。

 あなたが嫌いになったわけじゃないの。ただ、あなたと愛しあったことのある女がこの世に存在して、今こうしている瞬間ものうのうと日常生活を送っていて、健全に生きていることが我慢ならないだけなの。憎くて憎くて、息が苦しいの。

 私が正気と狂気、夢と現実の狭間で揺れている日も、彼は子どものように笑って「花澤さん」と呼びかけて、何気ない挨拶をしてくれる。それが一番辛い。

 噂はきっと、間違いなく真実だ。だから、はっきりさせなきゃいけない。

 今日も今日とて漱石の文章がいかに美しいか力説している肥満の女国語教師が教壇で暴れる音を遠くに聞きながら、ルーズリーフをそっと取り出した五時間目。

 星のチャームがついたシャープペンで自分が書ける精一杯の綺麗な字で、そっと綴った。

『あなたの昔の、許されない恋のことを人づてに聞きました』

 目と目が合うとぶっきらぼうになってしまうけれど、手紙では素直になれた。その一文だけを記すとルーズリーフを小さく畳んで胸ポケットにしまう。あとはそっと目を閉じて、チャイムが鳴るのを待った。

 休み時間になると、五組の教室をそっと覗いて彼が席に座ったままなのを確認すると、玄関に向かう。何度も一緒に帰ってもう位置を覚えてしまった彼の下駄箱を開ける。ありったけの汚い感情を詰め込んだ重い手紙を靴の上にそっと乗せ、足早にその場を去った。

 嫌われるかもしれないという恐れは一切なかった。彼がその女をもう忘れてしまっているという話だけが聞きたくて、もう夢中だった。

 そして帰宅して、味の分からない夕食を摂って、眠れない夜が明けて、またのそのそと校門をくぐる。登校する生徒たちの群れに頭一つ突きぬけた彼の後ろ姿がないことに安堵し、教室の戸を開け、おはようの挨拶を受けながら席につく。机に、見覚えのある本が置かれていた。

 私のものではない。彼が気に入って読んでいた、月の名前という本だ。とあるページに挟まれている紙切れが嫌でも目に入る。

『全て本当です』

 彼の美しすぎる文字がばらばらに崩れて、床に飛び散った。

 そのページによると、満月から次第に欠けて新月になっていく過程の月のことを虧月というらしい。



 放課後の図書館に向かうと、彼はいつもと違って入り口付近に立って待っていた。カーディガンのポケットに手を突っ込んで、彼はいつもと何ら変わらず無邪気ににっと笑った。

「さすがに部活さぼりすぎとちゃう? バレー部のエース候補様が」

「あなたのせいでバレーが面白くなくなっちゃったの」

「……今日は外へ行こか」

 そう言って騎士のように私の手をとり、踊るような軽快さで廊下を突き進む王子さま。いつも中也の詩をめくる、人魚のように美しいこの指を、遠く離れた街に住む知らない奥様も味わったことがあるのだろうか。そんなことばかりが冷たい脳細胞をすりぬけていった。

 彼は「冷えるようになってきたなあ」「京都は夏暑うて冬寒いから関東はましなほうやと思ってたけど、東京もやっぱり寒いなあ」「花澤さん、コーヒー好き?」などといつもより饒舌に、それでいて不自然なほど日常的な会話を連続して投げかけてくるので、その姿がなんだか哀れで目をつむりたくなった。

 しばらく歩くとレトロな雰囲気の純喫茶が見えてきて、彼はそこを指差した。あそこで何か話し合うことがあるらしい。コーヒーに精神安定の効果があっただろうか、とふと思った。

 彼はこんなときでも優しくて、先に行って扉を開けて待ってくれるし、少しの段差では手を差し伸べてくれる。わざとらしいくらい紳士的な対応に胸が痛い。一番隅の暗い席に向かい合って座ると、彼がブレンドコーヒー、私がウインナーコーヒーをそれぞれ注文した。

「ここはおごるよ」

「いいよ、出すよ」

「大丈夫。僕の家、お金持ちやねん。不倫の示談金払って東京に引っ越してこれるくらいに」

 ああ、とうとう言った。

「噂は本当って、どこまで本当なの?」

「そら、全部やよ。デマはほとんどないなあ。ほんま、どこから広まるんやろ」

 困ったように笑って、彼は指先で紙ナプキンを弄ぶ。私は震えて声も出なくて、ただじっと身を縮こまらせていた。

 やがて注文していたコーヒーがきっちり二杯、同時に到着すると、深い香りのある湯気の温かさを感じている内に沈黙は破られた。


 僕が京都におったころ、同じマンションの一階に鏡花さんっていう奥さんが住んでてな。それはそれは綺麗な人やってん。でも足がちょっと不自由でな、杖がなかったら歩けやんし、あってもあんまり遠くへ行かれへんねや。だから近所のスーパーに出かける以外はあんまり外出できんで、旦那さんが単身赴任の間、ずっと一人で家を守ってた。寂しい人やってん。

 僕は五階で、鏡花さんは一階。だから元々接点はなかった。えらい綺麗な人が住んではるな、くらいにしか思ってなかった。でもある夏休みの日、図書館から帰ってきたらマンションの前で偶然会うてな。買い物の荷物抱えて不自由な足引きずって、階段のぼってはったんや。鏡花さんはつまずいて倒れ込んで、足を怪我した。だから僕は特に何も考えんと、当り前のこととして鏡花さんを抱き起こして、遠慮する声を無視しておんぶして部屋まで送っていったんや。

 怪我の手当てをして、お礼にコーヒーを入れてもらって、たまたま本や音楽の趣味が合って、コーヒーがおいしくて、鏡花さんが綺麗で、優しくて、思うように動かん足が色っぽくて……ついつい通いつめるようになった。いつどんなとき、どんな顔してやってきても鏡花さんは笑顔で迎えてくれた。僕、あんなにあったかくて優しい女の人、今まで知らんかったんや。それでつい魔がさして、惚れてしもた。

 半ば強引に抱きしめながら無我夢中で告白したら、鏡花さんは困った笑い方して「しゃあないなあ」って。あの人は、優しすぎる。僕の姿があんまりみっともないからって、そんな理由で真っ黒な恋愛に一緒にとびこんでくれるんや。だから僕はますます鏡花さんにはまっていって、夏休みが明けてからもずっと鏡花さんの部屋に入り浸るようになった。おおっぴらに外出することはできんから、夜中こっそり抜け出して、鏡花さんの車いすを押して遠くの街まで出かけたこともあった。楽しかったなあ……

 鏡花さんは薔薇が好きな人でな。特に赤い薔薇が好きで、お金のない僕がほんの数本だけプレゼントしたらそれは喜んでくれたんや。あの部屋はいつも薔薇の匂いがしてた。鏡花さんは、私が死んだらお棺いっぱいに薔薇の花を入れてってよう言うてた。だから僕はキスするとき、いつもあの人の葬式のことを考える。

 それであの日、花屋を通りかかったときに薔薇の花を見つけて、こんなに遠いところまで逃げてきたのにあの人の匂いがするのが嬉しくて悲しくて、泣いてた。

 月が好きなんも鏡花さんや。このあいだの話は半分以上嘘。僕の初恋は鏡花さんで、中学のとき体験したわけでもない。思い出って言ったけど、それも嘘で僕はまだ鏡花さんが好きや。僕が車いすを押しながらゆっくり歩いてたら、夜空を見上げて「お月さんが見たいから止まって」って言う鏡花さんが好きや。昔の恋人と天体望遠鏡で月のクレーターを見て以来お月さんが好きやって、わざと僕に言う鏡花さんを愛してる。

 でもな、愛してるから全部うまくいくわけとちゃう。今日みたいな秋の冷たい日に、なんの予告もなしにサプライズで帰ってきた旦那さんと鉢合わせしてな。むちゃくちゃに殴られて一時入院した。不自由な体で男の人の暴力を止められるわけもないから、鏡花さんはただ黙って泣いてるだけやった。辛そうな鏡花さんの顔を見るのが一番痛かった。

 旦那さんは訴えて慰謝料ふんだくる気十分でな。でもこっちもぼこぼこに殴られて被害に遭うてるし、未成年っちゅうことで少額の示談金で済んだ。学校で噂が広まっていじめられて引っ越すことになったけど、それは別になんでもない。ただ、もう二度と鏡花さんに会えんのが辛いんや。旦那さんと別れた鏡花さんが重たい足引きずって、これから先どうやって生きていくんかを考えるんが苦しいんや。それもこれも、僕があの人の優しさにつけこんだ僕が悪かった。朝から晩までずっと一人で過ごしてた鏡花さんの孤独を利用してとりいった僕がな。


 彼が口を閉ざしたころには、もうコーヒーの湯気は立たなくなっていた。私の心の熱も、急速に冷めつつあった。

「……ひどい」

「何が?」

「登場人物全員」

「返す言葉もございませんよ」

 彼は冷え切ったコーヒーをすすって、何でもない風を装う。実際に、なんでもないことなのかもしれないけれど。

「幻滅した?」

「多少」

 嘘。あなたのことは大好き。ただ、あなたの肌のぬくもりを知っている女がこの世にいるという事実に、吐き気がしただけ。

「その人に、もう一度会いたいと思ってる?」

「思ってる。家を出て独立したら会いに行くつもり。新しい恋人がおったら潔く諦める。おらんかったら……また一から口説き落として、もう一度二人きりで夜の散歩に出かけるつもりや」

 この人は病気だ。漠然とそう思うが、何も言わない。

「そう。すてき」

「お願い。誰にも言わんといて」

「うん」

「もう一個お願い。これからも僕と仲良うして」

「うん」

「ありがとう。花澤さんは優しいなあ。僕、そんなとこ好きやわあ」

 この発言で確信した。この世界で一番最低な男は、私の気持ちに気付いている。他に愛する人がいるのに、はっきりと断らない。この知らない町で唯一の友人であり、そこそこ便利な私という女を失いたくないから、時々こうしてご機嫌を伺うようなことを言って、私との絆をつなぎとめている。

 結局、彼のおごりで店を出た。周囲はもう薄暗くなり始めていた。こうされると私が嬉しいのをわかっていて、上着を一枚貸してくれる彼。わざとらしく売られた媚を黙って受け取った。

 そして、嫌でも通らなければならない、あの踏切前の花屋。彼の視線がそっと店先の薔薇を撫でる。ああ、顔も知らない女性が、彼の心を一瞬で奪い去っていく。一番傍にいる私を嘲笑うかのように。

 まっすぐに伸びた美しい背筋が、少しだけ曲がる。この寂しい背中の星の王子さまは、少し目を離したすきにどこか別の星へ旅立ってしまうような気がする。帰るところを失くした王子が、地球の次に行くところ。それはきっと、彼が焦がれる月なのだろう。

『月まで連れ去りたい』

 いつだったか、I love youをそう訳した彼。

 Fly me to the moon.

 私を月まで連れてって。言えたなら、どんなに幸せだろう。

 どこまでだって月までだってついていくけれど、私の傍から離れるのはやめてね。お願い絶対告白しないから、私を傍に置いて下さい。いつかの放課後口にした、私なりのI love you.



 私は喫茶店での話を、誰にも何も言わなかった。だけど、噂はどこからか漏れ出してもう手がつけられなくなっていた。以前までは遠巻きに見ているだけだった連中が、面と向かって彼を挑発したり興味本位の質問をぶつけたりするようになっていた。彼と付き合っていると思われている私も、さんざん友人たちに注意を受けた。曰く、彼は見た目だけの最低女たらしだそうだ。当たらずとも遠からず。

 前の学校での悲劇を繰り返すのも時間の問題だった。そんな中でも、私たちはなんとか平常通りの生活を送ろうとして、無理にでも放課後の図書館に通い、ぎこちないながらも以前のようになんでもない会話を楽しんだ。だけどもう、何をしても戻れないような気がしてならない。彼もさすがに落ち込んで、だんだんと弱っていく。

 神経衰弱な王子さまを見ていられなくて、声をかけるのを躊躇うことすらある。私はあなたが傷つくと、あなた以上に心が痛む。「傍に置いて下さい」は撤回する。そんな贅沢もう言わない。ただ、一つだけお願い。あなただけはずっと、いつまでも私の王子さまでいて。どうか変わらないでいて。

 そして、終わりの日がやってくる。



 その日、いつかのように本に挟まったメモで私は呼び出された。場所は学校の裏手にある児童公園。時刻は早朝。寒さに震えながらブランコに座り、ジョギング中の人をじっと観察する。久々に体を動かしたくなった。

 そうこうしているうちに、見慣れた細長いシルエットがやってきた。制服ではない。この時点で彼の用件をなんとなく察した。私に「おはよう」と爽やかな声を投げかけてあたたかいコーヒーをそっと差し出す彼。最後まで残酷なほど私に優しい。

「話っていうのはな、もちろん僕のことやねん。僕、学校辞めて京都に戻ることになった。仕事でこっちに住んでた親戚のとこで下宿してたんやけど、その親戚が急に京都に戻ることになって。ええ機会やからこっちに戻ってきなさいって親が。もう高校は諦める。アルバイトでもして、大学受験のために予備校通うよ」

「そう」

「それから、鏡花さんに連絡とった。昔の友達使って、調べてもろたんや。離婚して、不自由な体で働き口がないから生活保護で暮らしてるらしい。一人きりで。久しぶりやねえって、わろとった。まだ好きなんですって言って、必ず迎えに行きますって言ったら、待ってるって。待っててくれるんやって。だから僕、はよ一人前になって鏡花さんを幸せにしてあげたいんや」

「立派」

 心が死んでいく音がした。きしきしと、静かに体内に響き渡る。私の心が殺されていく。

「鏡花さん、家族がおらんねやって。母親は小さいときに足の悪い娘を見限って蒸発して、父親は再婚相手に入れ込んで娘ほったらかしで、しまいにその再婚相手に施設に入れられてしもたんやって。知らんかった。僕はあの人のことを何も知らんかった。使ってるシャンプーや好きな花や背中の可愛いほくろや、口紅の味は知ってても、どういう過程でどう育ってきたかは、考えたこともなかったんや。だから僕は、失敗したんやな」

 私には決して向けられることのなかった、輝きに満ちた、心からの彼の笑顔。私の知らない彼がいた。寂しい星の王子さまではない、変わってしまった彼がそこにいた。

 もう、何もかもが終わりに近い。

「ねえ」

「うん?」

「私、あなたが好き」

 だから、全くの無意識のうちにそんな言葉がこぼれ落ちたのだろう。

 彼は朝日によく映える美しい笑顔で頷いた。

「知ってたよ」

 私の初恋は終わった。



 翌日、彼はこの町からいなくなった。学校を辞めて、遠い遠い町へ。王子は月へと旅立ってしまった。私は彼のいなくなった地球で、以前と変わらぬ日常を送っている。

 復帰したバレーボールは以前と同じくらい楽しく、情熱を感じられる。彼がいなくても私はなんら問題なく生きていけることを知った。王子さまがいなくたって、私は勝手に幸せになれる。私は小さな星にたった一輪咲く繊細な薔薇の花などではなく、太い根を張り星を割く、無神経なバオバブの芽なのだから。あの星の王子さまにとっての薔薇は美しい人妻なのであって、決して私ではない。

 ねえ。あなたはこの町を去っていくとき、都会の窮屈な電車の中で少しでも私を思いだしたでしょうか? きっと、一秒だってあなたの脳裏に浮かんでこなかったことでしょう。せめてあなたを遠い町まで連れ去ってしまう電車を、意味もなくドラマみたいに追いかけられたのなら、嫌でもあなたは私を思いだしたでしょうか。全てはもう、今さらのことだけれど。

 さようなら。あなたに捧げた身を焦がすような初恋を、私は次第に忘れていきます。こうして私は図太くしたたかに、あなたのいなくなった世界でのうのうと生きていくのです。

 さようなら、さようなら。


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[一言] 掲載されてから……いったい何年経った事でしょう(ォィ どうにも三ヶ島探偵社の方に目が行ってしまい、さらには三ヶ島二次創作にもはまり……今までどうしてこの小説を読まなかったのかと、今日始めて全…
[良い点] 文章の組み立て、言葉選びがとにかく美しいと感じました。 特に”白昼夢のように耽美な彼の横顔が決定打となって、私は狂信的な恋に溺れていく”ここは私が好きな一文なのですが、こういった表現は中々…
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