紫の部屋
今日、あのお客様はお見えになられない様です。私は安堵致しました。尤もこんな日に、来られるお客様を私は見たことありませんが。
開かずの部屋である〈紫の部屋〉から、大きな物音と叫び声の様なものが先程から響いています。ここは絶対に開かない様に、ありとあらゆるもので封印されているのですが、隙あらば出てこようとする物が入っています。先日ご紹介した、〈桃色の部屋〉と対を成す部屋、つまり〈紫の部屋〉とは、悪夢の部屋なのです。
人間には嬉しい思い出もあれば、辛い記憶や思い出もあります。社長の様に、ある程度の年月を過ごされてこられた方にも、それなりの苦しく悲しい記憶や思い出が存在しています。あんな脳天気な社長に? と、思われるでしょうが、勿論ございます。
しかし、悪夢が勝手気ままに歩き回っていたら、人は壊れてしまうでしょう。だからこうして閉じ込めております。騒いでいるのは、外の世界で社長の身に悪夢を思い出す様な、何かがあったと云うことでしょうね。私は有能な秘書として存在していますが、さすがに社外でつまり外の世界で、社長をお助けする事は出来かねます。どうする事もできないのです。
社長もこの部屋の事は一切お話になられません。たまにこちらにお見えになられた時、封印が破られないように、封印を強化されていらっしゃいますが、私にも決して近付かない様、開けない様に、一度指示をなさっただけでございます。
なくす事は出来ないそうです。何故ならこの悪夢も社長を形作る上で、大きな役割を果たしてきたからだそうです。社長がこの部屋の説明を私になさって下さった時、私は震えると共に、内心驚いておりました。社長は苦しそうなお顔も、辛そうなお顔もなさってはおられませんでした。感情がどこかに行ってしまったかの様な、酷く冷静に見えるお顔をされておいででした。
社長には、私も色々と申し上げたい事が山いえ、山脈の如くございますが、あの〈桃色の部屋〉とこちらの〈紫の部屋〉に相対する社長を見ておりますと、何も申し上げられなくなるのです。私自身を悪夢にしてはいけないと、そう強く感じているからでございます。
人間は不器用で感情に左右され、翻弄される存在なのですね。脳内にこれほどの世界を作り上げているのに、それだけの精神世界を築いているのに、悪夢を制御しきれないのですから。
どうやら、ようやく悪夢も収まった様でございます。何となく淀んだ、ここの空気を入れ換えましょう。ええと、あっ、これです。脳内空気清浄機。スイッチオンと。
またあの可愛らしいお客様方の様な方がお見えになられると、私もとても嬉しいのですが。ああ動物のお客様もいいですね。いつお見えになられてもいいように準備をするのも、秘書の大切なお仕事ですからね。私も、物思いにふけっている暇はございませんね。
さあ、仕事、仕事。
どうも最近、独り言が多い気がするわ。
説明ばかりをしてきたからかしら。
社長に似た……いけない。現実になりそうな気がするわ。
口は災いの元って云うものね。