DORAGON FACE
――アスリア、お前は死んだのに俺はまだこうして生きている……どうしてだろうな、どうして人と龍人の時間というのは……こうも違うのだろうな……――
イータシアは小さな島国であり、長い間鎖国していたせいもあって龍人などほとんど住んでいない。何しろ龍人など少数民族であり、その集落は大陸の奥まった山間地にあるのだ。
だから彼がどうした経緯でこの国に流れ着いたのかは不明である。
いや、もしかして彼の親友であり、主君でもあったアスリア王ならそれを知っていたのかもしれないが、彼の王はすでに故人であり何も語ることはない。そういうわけで、その龍人はもう百年近い時を『イータシアの王属軍師』として、誰にも文句を言われずに過ごしていた。
今日も彼はアスリア王の墓の前に座って呟く。
「アスリア、お前は死んだのに俺はまだこうして生きている……どうしてだろうな、どうして人と龍人の時間というのは……こうも違うのだろうな……」
そんなときの彼がどんな表情をしているのか、それは誰にもわからない。
何しろ龍人というのは頭部が龍のそれなのである。鱗に覆われた分厚い皮膚は動きに乏しく、表情の上に感情を刻むに乏しい。おまけに目は眼光鋭く虹彩のほそい爬虫類のそれであり、これまた豊かに感情を表すには不都合なのだ。
彼の感情を読みたければ体の動きを見ればいい。首から下、鎖骨までを覆う鱗より下はまるきり人間と同じなのだ。おまけに表情の乏しさを補うためなのか、彼はかなりのオーバーアクションであり、その動きから感情を読むことはたやすい。
彼はいま、胸に片手をあげて最敬礼しており、それはきっと亡き主君への忠義と哀悼なのだろう。
「……そういえば生前、歳をとったお前は私の若さを羨んでいたな……」
彼は両手を腹にあて、ゆっくりと口を開く。人間なら大爆笑のポーズだが、牙をむいた口から笑い声が漏れることはなかった。代わりにぼっと音がして少しばかりの炎が吐き出されただけである。
「アスリア、俺は最近その気持ちがわかるようになったぞ」
そう……人間の2倍は生きると言われている龍人だが、彼はさすがに年をとった。数年前には軍職を退き、今は幼い王子の教育係として日々を過ごしている。
「ウルストリアは、お前によく似ている。世代は変わっても、お前の血筋と面影は途絶えないのだなと思わせるほどにな」
彼の虹彩が特に細められたのは友を想っているからだろうか――遠い昔になくした友の、陽光のような笑顔を……
「アスリア……」
彼がさらに何かを言おうとしたその時、墓所に甲高い幼児の声が響いた。
「ねえ、エスタル、今日は剣を教えてくれる約束だっただろ!」
その声に龍顔が振り返れば、長い鼻先のすぐ目の前に、その子供は立っていた。
「ぼく、待ちくたびれちゃったよ」
どこで拾ってきたのか少し太めの枝を腰に下げているのは、それが剣のつもりなのだろう。バラ色の頬をぷうっと膨らませた小生意気そうな少年だ。
龍人は両腕を組み、ぐいっと背中を伸ばして少年を見下ろす。
「剣の稽古は午後からだと伝えたはずだが?」
「だって……」
「午前中はちゃんと算術の講義を受ける約束だっただろう」
「算術は嫌いだ」
「ふむ……」
腕をほどいた彼は、腰をかがめて少年の頭を撫でた。
「よいかウルストリア、算術は王にとって大切な教養だ。国庫の金を管理するのはもちろん大臣ではあるが、算術ができねばその者が不正を行ったときに見抜くことができないであろう?」
「いいよ、ぼくが大きくなったらエスタルを大臣にするんだから!」
「それは……できない。」
墓石の下に眠るアスリア王だけが唯一絶対の君主であると、彼は未だに思っている。
それは彼なりの敬意と友情のあらわれなのだが、幼い王子にこれを伝えるのはなんだか気恥ずかしい気もした。
だから答える。
「私はこんなに年寄りだ。だからお主が大きくなるまで生きていられるかどうか……」
少年の両目が大きく見開かれた。
「うそだ。エスタルは死なないんだろ?」
「そんなバカな、私だって生き物なのだから死ぬぞ」
「だって、父さまや爺さまが子供のころから……もっと昔から、この国にいたんだろ」
「それは、龍人と人の寿命が違うからだ。私はお前たち人間の2倍は生きるのだから……」
そこまで言って、彼は幼い王子の両の目にぷっくりと涙の粒が浮かんでいることに気が付いた。
だから細い虹彩をさらに細めたり、反対に精一杯広げてみたり……それが狼狽だとは人間には通じぬであろうに、くるくると瞳を動かす。
それでも幼い王子は涙を止めず、ついには片手で目の周りを拭うしぐさなど見せるものだから、彼はたまらなくなって両手を広げた。そのまま掬うように王子を抱き上げる。
「泣く必要などなかろう、お前が大人になるのはまだ何年も先の話だ」
「うん、でも……」
「すまなかった、今のは明らかに逃げだったな」
相手が幼子であるからこそ、エスタルの声は優しく低められる。そして相手が幼子であるにもかかわらず、その声は一個の人格と彼を認めて誠実な力強さに満ちている。
「本当のことを言おう。私は怖いのだ」
「こわい? なにが?」
「龍人である私はこの国では異質な存在だ。だからアスリアが私に軍事を預けるにあたって当然に反対の動きもあった」
それでも当時の彼は若かった。龍人としては力の最絶頂期であったのだから、文句を言う者たちを黙らせるだけの実力もあったのだ。
国のどこかで王に反旗を翻すものがあれば行ってこれを平らげ、他国との争いが起きれば先陣切って戦い……人の体に龍の力を宿した彼にかなうものなど、この国には一人もいなかったのである。
それが本当にここ十年くらいのことだ、体力の衰えを著しく感じるようになった。
技巧の要求される剣技ならまだしも、走力や持久力といった基礎体力では新兵にも負けるほどに老いた。
軍職を退いた理由には、これが第一であったのだ。
「もう年老いた私にはお主を守ってやる力などない、下手をすれば自分自身の身すら守れぬやもしれんのだ。だから、うかつに政務になどつくことはできない」
確かに、王となる者の教育係である彼がその成人と共に大臣職など得れば、それは権略と思われることも多かろう。傀儡政治を危ぶむ声も上がるであろう。
その時に、老いた彼には人々を黙らせるだけの力など残されてはいないのだ。
彼にはそれが悔しくて仕方なかった。人間であれば歯噛みし、険しい表情を作るところであろうが、龍の顔面ではそれさえできぬ。
それに対して幼子の表情は実に感情豊かであった。両頬をさらに、これ以上ないというくらい膨らませて龍人の首元を覆う鱗に擦り付ける。
「エスタルは、ぼくを信じてくれなさすぎるよ」
小鼻も膨らませ、眼のふちを真っ赤にして怒りを表すなど、エスタルにはとてもできない芸当だ。
「ぼくは王になるんだよ。エスタルがこの国で何をしようと誰にも文句を言われないように、ぼくが守ってあげるよ」
「……ああ、そうか……」
遠い昔のことを思い出して、エスタルの牙が少しだけ口元からこぼれる。
――同じ言葉をアスリアに言われたことがあったな、もっとも彼はすでに王位についていたが……
その表情は寂寥と嬉しさと懐かしさと……目の前にいる幼子と亡き主君の間をつなぐ縁を胸に刻む複雑な表情だったのだが、もちろん人間にはわかるまい。何しろ、がばっと牙をむいて、虹彩を細めて、頬肉をあげた龍の顔は、獲物を喰らうときの表情によく似ているのだから。
それでもその声だけは喉の奥から響くように優しくて、幼い王を抱く仕草もこの上もなく優しいものだった。
「……ウルストリア、私がアスリア王と出会ったころの話を知っているか?」
「ううん、知らない」
「そうか、じゃあゆっくりと話してやろう」
鼻先に絡む柔らかい髪の毛に顔を擦り付けて、間違っても炎など吐かぬように細心の注意を払って、彼は囁く。
「ちゃんと算術の勉強を終わらせたらな」
少年の顔がぱあっと輝く。
「うん! ちゃんと勉強するよ!」
その目まぐるしいくらいに素直な表情の変化を見ながら、彼は思った。
――ああ、アスリア……俺はもう少しだけこちらにいたい、せめて……
年老いた彼にはそれほどの時間が残されているかどうかも定かではない。別に重職につきたいわけでもない。ただ少しでいいから時間が欲しいと彼は強く願った。
その時間があり余るほどある『若さ』が羨ましいとも……
「ウルストリア、城に帰ってきちんと算術の授業を受けろ、その後で美味い茶でも用意させて、アスリアがどれほどの男だったかを聞かせてやろう」
龍顔の男の優しい抱擁に応えて、その幼い王子はにっこりと笑った。
「ケーキもつけてね、甘いものはお勉強したときに欲しくなるモノだって、生物学の先生が言ってた」
「そうだな、じゃあ飛び切り甘いのを用意させるか」
「わあい、やったね!」
幼い王子はごつごつと太い龍の首にしがみついて、全身で喜びを表す。
「ねえ、エステル……」
こうしてしまえば顔など見えないのだから体の動きでしか感情を読み取れないという、その条件はおんなじだ。
少年は今、深い親愛の情をこめて龍人の胸元に全体重を預けている。
「ぼくは早く王になれるように勉強も剣術も頑張るよ、だから……」
それに続く言葉に、龍人は心を打たれた。
「もう……そんなに寂しい顔をしないで……」
いつかこの子は名君の呼び名高いアスリア王を越えるだろう。それに仕えようと思うほど身の程知らずではない。
ただ、せめて……その王となる姿を一目見届けるだけの時間が欲しいと……彼は鱗に覆われた鼻先に涙を一筋、垂らすのであった。