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結局その日は朝から授業はなく、ホームルームから約二時間後、地域班に分かれての集団下校となった。それまで、クラスと持つ教員達は自らのクラスの出席状況の確認と欠席している生徒の家への連絡、今後の対策会議等で職員室から出てくることが無かった。生徒達は静かに教室待機が言い渡された。
クラスによってはうるさく騒ぎ立て、他のクラスへ憶測に過ぎない情報を流しに行く生徒も現れ、学校全体の混乱が収まることは無かった。数十分置きに校舎のどこからか、教員の罵声が聞こえてきた。そんな中、幸来のクラスはただただ静かだったように思う。
幸来と同じ地域班の中には錦子もいる。元々家は近かったようだが、彼女の家が何処にあるのかは知らなかった。
どうやら彼女は教師に対して幸来の事を何も言わなかったようだ。自分が悪かったと反省したのか、ただ面倒だっただけなのか。真意はわからないが、今は幸来とは顔を合わせようとしない。
「先生。私の家、あそこです」
何とも居心地の悪い帰路となったが、自分の家が見える位置まで来ると幸来は地域班をまとめる教師に報告し、一人家に向かった。
この時間は家には誰もいないはずだったが、家の前で母親が出迎えてくれた。仕事じゃなかったのかと聞くと、どうやら学校からの緊急連絡網で事件を知り、仕事場からすぐに帰ってきたらしい。
「まだ近くに犯人がいるのかもしれないのよね……怖いわぁ……」
家に入るなりそう言って戸締りを確認する母。ドアチェーンもかけ、よしと頷くと、今度は幸来に向き直り、「大変だったわね」と声をかけた。
「下校途中、怖かった?」
「ううん。皆と一緒だったし」
緊張をほぐすためにかけてくれたであろう質問に正直な感想。 その様子を見て、母親は悟ったようだ。
「愛梨ちゃんじゃなかったのね」
「……うん」
他言するなと言われたものの、母親にならいいだろうと思い、つい肯定してしまう。でも結局、伝えていたと思う。母も愛梨の事を心配していたのだ。
「そう……。良かった……のかしら」
「え?」
手を洗っている幸来の後ろ、洗面台の鏡越しに母親が言った。
「もちろん、愛梨ちゃんがまだ生きてるかもって言うのは、嬉しいことよ? でも、他の犠牲者が出ちゃったって考えると、まだ犠牲者が増えるかもしれない。それに、今日死んじゃった子は……もう戻ってこないのよ」
「……そっか」
「当たり前だけどね。そんなこと、不用意に言っちゃダメよ」
一瞬だけ、母親の言葉を疑ったが、やはり納得のいく理由があった。母の言う通り、もう被害者は愛梨だけじゃないのだ。
これは全く解決になっていない。むしろこれからは私にも危険が降りかかるかもしれない。前から囁かれていた『殺人犯』の存在が確定してしまった。こうなると、今日見つかった遺体が愛梨じゃなくても、もうすでに愛梨は……
嫌な想像が頭に浮かぶ。それを振り払うように、蛇口から水を救い上げ、顔に打ち付ける。しかし浮かび上がる不安は拭い切れなかった。
「これじゃ、聞き込みとか行けなくなっちゃうな……」
幸来は愛梨が失踪してから、暇さえあれば街を周り、愛梨に関する情報を集めていた。有力な情報など一つも見つからなかったが、それをやっていないと気が済まなかったのだ。自分ができる唯一の自己満足。
だが、流石に誘拐犯がいるとなればそんなことはしていられない。自分が傷つくことになれば、その行動に意味がないことぐらい幸来にもわかった。
「愛梨……ごめんね……今度は私が助ける番なのに」
自分に言い聞かせるつもりで、そう言ったものの、臆病な自分に嫌気がさしただけだった。
◆◆◆
警察の捜査も続いたが一週間たっても犯人は捕まらなかった。警察のパトロールが再び強化され、愛梨がいなくなってすぐの街の雰囲気を思い出させた。むしろその時より一層街の緊張は高まっているように思えた。
愛梨のお父さんは、まだ愛梨を探しているのだろうか。今も幸来の少し前を歩く錦子が言うには、善紀は家に籠っているらしいが、幸来はそんなこと信じていなかった。愛梨のお父さんはそんな弱い人間じゃない。
きっと今も愛梨の事、誘拐犯の事を警察の仲間たちと精一杯捜索している。そう言い聞かせた。
「先生、さようなら」
教師に別れを告げ、生徒の列から離れる。いつもならこのまままっすぐ家に帰るところだが、幸来は地域班の列が見えなくなる位置まで見送ると、家とは反対方向へ歩き出した。
まだ明るいと言うのに、人通りが極端に少ない。幸来にとっては好都合であったが、同時に時たますれ違う人に余計な警戒心を働かせなければならなかった。
「おじさん、いるかな」
幸来は愛梨の家へ向かっていた。
この時間では仕事に出ている時間だ。ただ、家にいなければそれはそれでいいと思った。家に籠ってしまっているとすれば、愛梨の事で思い悩んでいるに決まってる。
私と会って、愛梨の事思い出しちゃうかもしれないけど……元気づけてあげなきゃ。
それが幸来なりの優しさのつもりだった。
「あれ? おじさん……?」
まだ愛梨の家はもう少し先だが、幸来の視線の先には善紀がいた。愛梨がいなくなってすぐ会いに行った時と同じスーツを着ていたが、その顔は少し痩せ、髪は整えておらず脂ぎっていた。疲れたように民家の塀にうなだれ、頻りに手元の手帳を確認していた。
なんだ。仕事をやめてるなんて嘘じゃないか。錦子の言っていた事がデタラメだったことに怒りを覚えるよりも先に安堵した。
「仕事中かな……?」
まだ善紀はこちらには気づいていないようで、幸来の方を向こうとしない。交差点で誰かを待つように、そこ一帯をうろうろしている。
幸来はさらに近づき、声を掛けようとすると、
「アンタ何してんの?」
突然後ろから声を掛けられた。驚いて振り向くと、先ほど別れたはずの錦子がいた。
「あ……別に……」
一週間前、彼女の首を絞めたばかりで、それ以来何も口をきいていなかったため、唐突に話しかけられた幸来は声を返せなかった。
「アンタもワルだね。アタシも帰ったらすぐ遊びに行くとこだよ」
錦子は目をつり上げて笑った。私は遊びに行くわけじゃない。そう言いたかったが、何を言うのもこの顔の前には面倒になってしまった。
愛想笑いもせず、ただ視線を反らすと、
「何? 文句でもあんの? 何ならアンタがアタシの首絞めたこと言ってもいいんだよ」
やっぱり。
幸来は彼女言動からすぐに把握した。錦子は全く反省してない。
「ほんっと、つまんなくなったよね。アンタさ」
「は?」
思わず強く言い返す。
「どうせ『愛梨みたいになりたーい』とか、くっだらないこと考えてんでしょ。あのね、アンタをいじめなくなったのってさ、アンタに飽きたからだからね」
「…………」
幸来は言葉が出なかった。怒りからか、悲しみからか、この女に対する憐みからか。掴みかかろうとも思わなかった。
言う事だけ言い終えると錦子は幸来の横を通り過ぎていった。 彼女の威圧感から解放されると、後ろから言い返してやろうとも思った。だがそれも負け犬の遠吠えのようで惨めかもしれない。すぐに思い直し、息を整えるようにして溜息を吐いた。
「……あ、おじさんは?」
すっかり気を取られていた。そう言って前を向き直ると善紀はすぐ前で、錦子と話していた。
どうやら警察手帳を見せているようだ。捜査上の質問でもしているのだろうか。
「あっ」
一瞬だけ、善紀と目があった。だが彼はすぐに目を逸らすと、錦子を連れて歩き出してしまった。交差点を右へ曲がり、二人の姿は見えなくなった。
「どうしたんだろ」
たった一人その場に残され、目当てであった善紀も行ってしまった。二人がこの後何処へ行ったのかなど気になったが、そろそろ日も夕日も山の陰へ沈みかけてくる頃だった。山の輪郭が赤く燃え、そこから黒い影が伸び始めていた。
この時間から、辺りが真っ暗になるのにさほど時間は無い。
「帰ろう」
ある意味目的も達成していたため、幸来は元来た道を急ぎ足で引き返し始めた。