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その日の帰り道。幸来は愛梨の家に向かった。
夕暮れの双泉。この季節ではもう四時には赤く燃える夕日は逆光で黒く染まった山々の後ろに姿を隠れ始める。
幸来の家の最寄りの停留所から四つ前で降車し、近年通された三車線もある広々とした国道沿いをしばらく歩く。疎らに走る制限速度を無視した車を気にせず、幸来は道を途中で折れる。一つ道を反れるだけで風景は住宅街へと一変し、開けた景色から住居がひしめく狭苦しい視界に変わった。
数人の買い物袋を引き下げた主婦と思われる女性、自分と同じく学校帰りだと思われる男子学生などとすれ違い、やがて愛梨の家であるアパートが見えてきた。
愛梨がいなくなったのにも関わらず、そこには小学校の時から見慣れた木造アパートがあり、日に焼けた壁が夕日に染まっていた。あまりにもいつも通りな風景に、幸来はむしろ寂しさを感じた。
「家に帰ってたりしてね……」
あまりの静けさに思わずの自らその静寂を壊す。独り言は本当に独り言で終わり、誰に声を掛けられるわけでもなく、また静寂が訪れる。
アパートの二階が愛梨の家だ。カン、カンと乾いた音を立て簡素な階段を上り、人の気配の無い部屋の扉を通り過ぎ、一番奥から二番目。関内の表札が掛かった扉の前で止まる。
「……誰もいないと思うけど……」
確かめたかった。
ぴーんぽーん……
呼び鈴が目の前の扉の向こう側で響く。案の定その音に反応するものは何も無い。
「やっぱ誰もいないか……」
「愛梨かッ!?」
不意に階段の方から声がした。怒号のようなその声に思わずビクッと身体を震わせ、恐る恐るそちらの方を向くと愛梨の父親が立っていた。
「あ……なんだ、幸来ちゃんか……」
「おじさん! 愛梨は?」
善紀は首を横に軽く動かした。否定の意。
善紀の顔は若干やつれた様子で、よれよれのスーツながらもかつかつと革靴を鳴らし、幸来に近づく。
「もしかしたら……この時間なら、愛梨が帰ってきている気がしてね……誰もいないだろう?」
「う、うん……」
幸来は悪いことをした、と思った。制服は勿論、身長や髪型も遠目に見れば愛梨と見間違えてしまうだろう。
「入ってくかい?」
それについて気にする様子もなく、じゃらじゃらと鍵束を鳴らしながら家の鍵を鍵穴に刺し、回す。ガチャリと開錠の音を確認してノブをひねり、手前に引く。中へ続く穴が開き、小奇麗に整えられた玄関が覗かれる。そこへ幸来を招き入れるように手を添え、もう一度「お菓子もあるよ?」と彼女を誘う。
善紀が疲れているのを幸来も気付いていたが、そこまで言われては断るのはむしろ気が引ける。幸来は縦に首を振った。
彼は嬉しそうににっこり笑うと、また少し大きめに扉を開き、彼女を部屋に入れると、自分も続く様に扉の内側へ姿を隠した。
「これしか無いんだけど、ゴメンね」
「いいよおじさん。ありがと」
幸来は木製の器に盛られた市販のクッキーを一つつまみ、口に頬張った。一口で食べるには大きすぎ、かじって食べるには小さすぎる中途半端な大きさのクッキーを一口で頬張り、クッキーの形に頬を膨らませる。それを見た善紀がまたニコっと笑ったが、それが無理をしていると幸来はすぐにわかった。
「三日前からずっと探しているの?」
「……あぁ。夜の間もずっと探しててね……いい加減休めと仲間に言われてしまったよ。確かにもう足が痛むね」
歳かな、とぼやきながら顔の筋肉を引きつらせる。本当は今すぐにでも探しに行きたいという意志が伝わってきた。
疲れた顔を隠すように貼り付けられた笑顔を見て、幸来はやはり上がり込まない方が良かったと後悔した。夜中もずっと愛梨を探して走り回っていたなら少しでも身体を休ませたいはずだ。
「ごめん、疲れてるなら…」
「いやいや、いいんだ。おじさんも幸来ちゃんと話していたいから、大丈夫。おじさんになんか気を使わなくてもいい」
「そっか。わかった」
へへへ、と笑って見せる。その笑顔は悪意など全くない、純粋な笑顔であったが、結果として善紀に愛梨をまた思い出させてしまった。
「愛梨……どこへ行ったんだ……」
うわ言のように、娘の名前を呟いた。ただそれだけなのに、その言葉にどれほどの想いが込められているか。幸来は考えるのが辛かった。
今日の学校での女子グループ達の話など、最初から信じていなかった。だが、『誘拐』という不吉な言葉が頭から離れない。
警察はどんな捜査をしているのだろうか。ただの家出人として捜査しているのだろうか、それとも誘拐として捜査しているのか……。
目の前にいる善紀に訊けばわかるだろう。しかし答えを訊くのが怖い。それに善紀も訊かれたくないだろうと、幸来はまた気を使ってしまった。
二人とも何も言わなくなり、静寂の中で壁に掛けられた時計の音がより一層大きく聞こえた。まるで二人を急かすように秒を刻む。
「おじさん。やっぱり帰るよ。お茶ありがと」
相手の言葉も待たず、幸来は立ち上がり、足早に玄関へ向かった。善紀も続いて立ち上がり、幸来を見送った。
幸来が靴を履いている時、自分が履いてきた革靴の隣に、愛梨の物と思われる小さなスニーカーが置かれていた。きちんと揃えて置かれているそれを見ていると、実は家の中に愛梨が隠れているのではないかという感覚が襲った。
だが、決してそんなことは無いのだ。現実に引き戻され、今彼女がいない現実がとても重くのしかかった。心臓が押しつぶされるような不安。
「おじさん……」
幸来は屈んだ状態から何とか声を押し出した。
「私も……探してみるね。きっとすぐ見つかるよ」
「そんな…! 危ないからダメだ!」
ただ友達を想う女の子の言葉に、つい立場上強い口調でそんな言葉を言ってしまう。しかしそれにも負けじと愛梨は向き直り、
「大丈夫。……誘拐なんかじゃないから」
それだけ言うと玄関を勢いよく開け、走り去った。