東海道凡々随想譚抄
夢の中では、俺は日本を救う総理大臣だった。
でも目を覚ましてみると、まだ静岡だった。何でここが静岡かと分かったかと言えば、向かいの席に座る親子の頭越しに、そして窓ガラスの向こう側に焼津という文字が見えたからだ。学校の地理で覚えさせられた。焼津と言ったら漁港で静岡。他にも主要な水揚げ品とかを覚えた記憶はあるけど、もう忘れてしまった。使わない知識を忘れて行くのは仕方ない。そう自分を肯定しながらも、余計なことばかりを覚えているのは否定できない。
テレビに映ってる芸能人の話題についていけなかったのは、ひとえに彼らの名前が覚えられないからだった。誰かいわゆる大御所が死ぬ度に大騒ぎするテレビ画面を見ては、俺は一瞥もせず馬鹿にするばかりだった。俺が生まれる前の話だ、知ってる方がおかしいのさ、と。そのくせ俺の親父もばあちゃんも生まれてない、遥か彼方の歴史上の人物の名前がごまんと頭の中に詰まってるのはなぜかと聞かれれば、どうにもこうにも答えられないから困った話だと思う。
少し痒さを覚えて、指先を口元に這わせた。ぬるりと指の腹が乾燥しているはずの俺の肌を滑る。それが何かに気付き、俺は慌てて掌で強くそれを拭き取った。いい加減に子供じゃないんだからとは思うが、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。上下の唇を右手で覆い隠しながら、左手でバッグの中を漁ってハンカチを探す。うちでは持ち味だなんて言って半分茶化し、半分諦めていたが、幾らなんでも人前で涎を垂らしているのは問題があることぐらいは分かっている。だがハンカチはなかった。ポケットティッシュもなかった。向かいの親子の様子を窺う。母親が座席に靴を履いたまま上がっている子供をよそにタッチパネルにご執心なのを確認して、俺はぱんぱんと手を払ってそれを床へと掃き捨てた。音に気付いた男の子は振り返り、こちらを何か物珍しそうに見てくる。一瞬だけ目を合わせた後、俺は自分から視線を外し、掌に未だ付着するそれをTシャツの裾で拭き取った。開いているドアから吹き込んでくる風が俺の手に触れる。春先の暖かい風もそれのせいで冷たく感じた。
みっともないからそんなことはやめなさい、と昔母さんに怒られたような気もする。やっぱりはっきりとは思い出せない。ところが、それがお前の持ち味だな、と親父が笑っていたのは覚えている。もしかしたら都合のいいことだけは覚えているのかもしれない。随分と奇妙な育ち方をしたものだと自分でも思う。涎を垂らして寝るなんて子供のような仕草をして、周囲からどう見られているかを第一に気にする世間一般の大学生のイメージを守り、それでいて下り坂を降り切った老人のように都合の悪いことは耳に入らないときた。まあ、でも、個性がないよりはいいんじゃないかと思ってはいる。
発車ベルが鳴る。聞き慣れない東海道線の発車ベルは、それでもやっぱり途中で打ち切られた。どうせ時間があるんだから、逆算してもっと早めから鳴らせばいいのにと思わずにはいられない。たかだか十五秒もかからないものをせかせかと打ち切るんだから、やっぱり日本人は嫌いだ。それはもちろん車掌が悪いわけじゃない。運転士が悪いわけでもないし、乗客のせいでもないだろう。ただ、彼ら全員が共通して持っている感覚がそうさせるに違いない。子供の頃から五時になったら家に帰れと叩きこまれ、九時を回れば遅刻になると脅しつけられて育った連中は、どうあがいたって一生それから逃れられないのは分かり切っているだろうに。普段は車一台見当たらない交差点の赤信号を守る人々が、朝の電車に飛び乗る為には豹変できるのが悲しくてならない。そのくせ電車の広告には「交通事故に気をつけよう」なんて内容のことが賢しらに書いてあるのだから。もっとも、電車に乗っている人は寝ているか液晶画面と格闘しているかが八割だから、あんなものに金を出す方の気が知れないのだが。ただ、きっと、出してあるということが大事なのだろう。それ自体には何の意味も、価値もないけど、後から文句を言われるのが怖いから。今日は全員出席して普段通りの練習をしたといちいち部活の顧問に報告するように、会議の為の会議をしたとメンバーだけでなく部長と課長にもCCでメールを送るように。
それらは意見を言えと言った際に、いちいち「個人的な意見ではありますが」と枕をつけるのと同じロジックだ。個人が述べる意見なのだから、個人的な意見なのは当り前だ。じゃあ何でそんなことをわざわざ言う? 傷つくことを、失敗することを極端にタブー視する日本社会で育ってしまったからなのだろう。きっと俺の前に居るあの子も、来年には靴を脱いで座席に上がるようになるだろう。そしてもう一年する頃には、今の自分と同じように窓の外に心奪われることを「子供っぽい!」なんて馬鹿にするようになるかもしれない。可哀想だとは思う。だけど、それを俺にはどうすることもできない。その姿を留めておいてあげようとケータイのカメラを動かした暁には、俺は次の駅でたぶん引き摺り下ろされる。やったことも、そんな光景を見たこともないけど、絶対そうなると確信してしまっている。その点では俺もきっと、可哀想だ。
首を巡らして、窓の外を見る。生憎の曇り空の下、それでも春先の山は良い具合に萌えていた。いいなあ、と思わず呟く。目を見開いて記憶に焼きつけようとする。でも、一晩寝てしまえば忘れてしまうだろう。そういう頭なんだ、仕方ない。必要ないことをどんどん切り捨てていったら、いつの間にかそもそも覚えられなくなってしまった。そんな感じの、出来の悪いこの頭。四つの時に叔父さんの葬式に出た記憶はある。叔父さんは百円ライターを集めるのが趣味だったはずだ。部屋には随分とまあたくさんの百円ライターがあって、小さな俺はそれが何かは知らず、しかしその様々な色合いに惹かれていた。母方の実家に行くたびにライター積みなどといって、まるでジェンガみたいにライターを積み重ねて遊んでもらったことは今でもよく思い出せる。そのくせ、笑ってしまう。叔父さんの本名を俺は知らない。何度も線香をあげたから、額縁の向こうのちょっと神経質そうな顔は覚えているのに、名前は何であったか定かならない。きっとこの山にも名前はあるのだろう。俺の目に映る木々にもそれぞれの意味があるのだろう。でもそれを頭の中に繋ぎ止めておくことは、きっと俺には出来ない。高校の時の友人の名前も、もう両手で数えられるほども頭に残っていないのだから。
がたんがたん、と電車は揺れ続ける。次はモチムネ、次はモチムネとの車掌の声。現在地を知ろうと立ち上がり、バッグはそのままにドアの傍へ。ところが文字を左右に流していく液晶画面はおろか、路線図すら貼られていなかった。車両中のドアの上を確認するが、どこも同じという有様だった。改めて見回せば、この車両に乗っていたのは俺と、向かいに座っていた親子ぐらい。曇り空の平日の昼下がりというのもあるだろうが、それにしても少ないなあ、なんて言葉が思わず口を突いてしまった。自分の座席に戻りつつ、ポケットからケータイを出して検索に掛ける。時々悪くなる電波事情に悪戦苦闘しながら、用宗という字面を見つけたのと、電車が用宗という看板の前に停車したのはほとんど同時だった。調べた結果、熱海まではまだまだだということが分かり、俺は無言でケータイをポケットに戻した。
代わりに定期入れを取り出し、スイカの上に座を占めている青春18きっぷを確認する。三つ並んだ「広島」と、右端にぼんと押された「新大阪」の文字に囲まれて俺の駅が何とも居心地悪そうにしてる。何となく思い立ち、金券ショップを回ったのが今から四日前。三軒目で上手い事残り使用回数二回の青春18きっぷを見つけ、それを手に家を飛び出したのはその翌日。これはきっと、旅、というほど大仰なものではないだろう。丸二日は電車に乗って思っていた以上に何もない日本の田舎を見ていただけなのだから。そして残りの一日は、スタンダートな大阪観光を楽しんだだけに過ぎない。道頓堀を見て、串カツを食べ、通天閣に登り、たこ焼きを食べ、日本橋を周り、お好み焼きを食べる。今から振り返れば食べてばかりだった。そういえばとついさっきも名古屋で味噌カツを食べたことを思い出す。時間と金さえあれば、江戸時代よろしく東海道を歩いて行くのも悪くなかったかもしれない。ただおそらくこの運動不足の体だと、箱根に着く前に断念するのが目に見えていた。再び動き出した電車がもたらす慣性に、文明というものに改めて感謝してみる。
それにしてもいつになったら熱海に着くのだろう。というか、いつになったら静岡は終わるのだろう。行きの時にも思ったことだが、帰りになるといや増してそう思う。あと何回俺は総理大臣になれるのだろうな。そもそも熱海に着いてもまだ長い。そこから小田原に出て、横浜まで行き、東神奈川でやっとこさ最後の乗り換えが待ち構えている。普段、都心に出る一時間の乗車で文句を言っていた俺だったが、きっとこれからはそれくらい大したことのないように思えるだろう。もしかしたらこれが、成長ってものなのかもしれない。
俺はバッグを膝の上に置き、その口を大きく開けた。たたみさえせず突っ込まれた、しわだらけのシャツとズボンと下着。ちらりと親子の様子を窺う。相も変わらず母親はせっせと画面にタッチし続けている。一方で子供は景色を見るのには飽きたのか、その画面に今度は熱中しているようだった。俺はぐちゃぐちゃになった衣服をためらいなく引っ張りだすと、誰も座っていないのをいいことに座席の上にどかんと置いた。流石に何か言われるかと心配したが、向かいの二人はそれより画面の電極の移り変わりに一喜一憂しているようだった。最低限の洗面用具、万が一の為の一万円が入った封筒など、出番なく家に帰る羽目になったそれらに囲まれて、ひとつの包みがそこにはあった。緩衝材と茶色い包み紙にその姿を覆われた、高さ二十センチほどのそれ。お土産なんていらないから、楽しんでらっしゃい。親父も母さんもいつもそうやって俺を送り出してくれる。そして俺はいつもいつもそれを真に受けていた。それがこの年齢になってようやく、まともなお土産を買って帰ろうという気持ちになったのだ。春先にこんなものを買ってきても、と思いはしたが、懐かしさのあまり気付いたらもう買っていた。家に戻ってから開けるべきなのだろうが、あまりにも暇な車中の慰み物に使わせてもらってもまあいいだろうと一人合点して、俺はその包みに手を掛けた。
青と赤で涼やかな彩色の施された風鈴。滑らかな丸いガラスを冠り、すらりと一筋糸が伸びている。風を捕まえる為に着けられた短冊には流麗な仮名文字が記されており、何と書いてあるかは俺には判読できなかった。俺は左手で風鈴を吊ると、右手の爪先で短冊をぱしりと弾いた。
ちりぃん、とひとつ、澄み渡った音が響いた。
尾を引いて残響する、綺麗なその音。
もう一度聞きたくなって、また弾く。
ちりん、と今度は短く詰まった音。
あんまり強く弾き過ぎたのかもしれない。
それじゃあもう一度とやろうとして、向かいの二人の視線が俺に寄せられていることに気付く。ぽかんと口を開け、なぜだかその細い指先を口元に当てている男の子は無邪気に無遠慮に好奇の視線を、そして相も変わらず指先をせわしく動かしている母親はそれよりももっと容赦なく嫌悪の視線をぶつけてきていた。
だけど、俺は気にしなかった。どうせ今だけしか互いの顔を見ることもないだろう。明日の朝には俺も、向こうも、互いに目が二つで鼻と口がひとつということしか覚えてないはずさ。固めて積んだ衣服の上に風鈴を置いてから、俺は体をねじって後ろを向く。そしてツメの部分に指を掛けると、ぐっと力を込めて窓を持ちあげた。
ふわっと吹き込んでくる、緑陰を渡る春の風。自然に吹く風ではないけれども、指ではじくよりかは遥かにいい音が鳴るはずだ。再び手で風鈴を持つと、俺はそれを窓際へと寄せて行った。
りぃんりりぃん、
と、揺れる音は風に乗った。あまり窓に近づけ過ぎると風が強すぎて汚い音になる。かといって遠過ぎてはもちろん短冊が風を掴めない。少しずつ近付け遠ざけ、ようやく丁度よさそうな場所を見つけた。舞うように、跳ぶように、その音は俺の耳を楽しませる。俺はその音に意識を半ば任せながら、目を開けて灰色の空に縁取られた若緑の山を眺めていた。
慣性に俺の体が傾き続ける間も、風鈴は目映い音を奏で続けた。完全に停車してからも、自然に吹く風は短冊を時折撫でている。その時、あの親子が立ち上がった。ほら、早くしなさいと言う母親の目は最後の最後まで液晶から離されることはなかった。男の子はてくてくとその背を追いながら、同時に半開きの口のまままだこちらを見やってきている。俺は何も言わず、ただただ風鈴を吊るし続けた。やがてドアは閉まり、ちらりと窺えばそこにはもう人の影はなかった。もはや車両には俺一人しか乗客はいなかった。
次はシズオカ、次は静岡。そんな車掌のダミ声に、そろそろこの散らかったものを片づけなくてはなと俺は思う。ただ、それでも、もう少しだけはこのままこの音を聞いていたかった。何もかもをすぐに忘れてしまう俺だけど、この景色を、この音を一緒に覚えることが出来たなら、きっとこの音を聞くたびに思い出すことが出来るだろう。
ああ、それにしても、熱海にはいつ着くのだろう。静岡はいつ終わるのだろう。そうだ、帰ったら地図帳を探そう。どこにあったかな。でも確か、高校の時のがまだあったはずだ。俺の記憶が正しければ誰もこんなに静岡が長いなんて教えてくれなかった。もう静岡は飽きたよ。早く家に帰りたい。今まであまり思ったことはなかったけど、やっぱり自分の家が一番だ。地図帳は多分、部屋の隅にまとめて積んだ教科書の束に挟まれてたような気がする。吹きこむ風の流れに逆らわずにくるくると回る短冊は、役目を忘れてとても楽しそうだった。
この作品のタイトルは「エンドレスシズオカ」と読みます。