第8話 英雄願望の未熟者 カミイ
酒場の重い木製扉が乱暴に押し開かれ、その勢いで壁に激突した。
蝶番が限界を超えて軋む音が店内に響き渡る。
転がり込んできたのは、小柄な少年だった。頭頂部にはピンと張った猫科の獣耳があり、腰のあたりで細い尻尾が落ち着きなく揺れている。身につけている革鎧は真新しいが、手入れの仕方が間違っているのか不自然なテカリを放っており、腰に下げた二振りの短剣は一度も抜かれた形跡がない。
一言で表現するなら「田舎から上京してきたばかりの、身の程知らずの志願兵」という、傭兵ギルドで最も死亡率の高い層に属する生き物だった。
「僕を、僕をパーティに入れてくれませんか!」
少年は床に膝をついたまま、悲痛な叫びを上げた。
店内にいた数名の傭兵たちが、鬱陶しそうに顔をしかめる。
「なんだい、坊や。また『白銀の剣』パーティから追い出されたのか」
カウンターの奥でグラスを磨いていた店主が、呆れたように言った。
少年は顔を真っ赤にして、唇を噛む。
「お、追い出されたんじゃないです。僕の方から見限ってやったんです! あいつら、ゴブリン一匹倒すのに安全地帯から魔法を撃つだけで、ちっとも英雄らしくない! 僕が突撃しようとしたら、邪魔だって突き飛ばして……」
「そりゃ突き飛ばすだろうさ。斥候のくせに罠の解除もできず、鍵開けの技術もなく、ただ正面から突っ込んでいく馬鹿を置いておくほど、今の冒険者は暇じゃないんだよ」
店主の冷酷な事実陳列に、少年は言葉に詰まり、うつむいた。
どうやら、典型的な「実力と自己評価が致命的に乖離しているタイプ」らしい。千代はグラスの縁を指でなぞりながら、ひどく冷めた目でその光景を眺めていた。
ただでさえ兵站が破綻し、五百の正規軍を相手に少人数で立ち向かうという異常事態なのだ。無能な素人を抱え込む余裕など一ミリもない。
千代が席を立ち、彼を無視して出口へ向かおうとした時だった。
うつむいていた少年が顔を上げ、千代の後ろに控える面々を視界に収めた瞬間、その瞳孔が異常なほど拡大した。
「……す、すごい」
少年は、床に這いつくばったまま、夢見るような声で呟いた。
彼の視線の先には、千代がこの半日で集めた「在庫処分の不良品」たちが並んでいる。
片角の折れた、常に飢餓状態で殺気を撒き散らす狂犬の魔人。
生きる屍のように生気を失い、ただそこに存在するだけの虚無の剣士。
人を騙すことしか考えていない、パイプを吹かす底意地の悪い老軍師。
油まみれのガラクタを宝物のように抱きかかえる小太りのドワーフ《ドーゴン》。
そして、傷だらけの巨大な盾に寄りかかり、酒臭い息を吐く女重装歩兵。
誰がどう見ても、社会の底が抜けた場所に吹き溜まった、破綻者の見本市である。関われば命の保証はないと、人間の本能が警鐘を鳴らすような集団だ。
しかし、少年の脳内では、何らかの致命的な認知の歪みが発生していたらしい。
「歴戦の傷を隠そうともしない無骨な戦士たち……常人には計り知れない静かなる剣客……知恵の深淵を覗き込んだような老魔導士……これだ。これぞ、僕が求めていた本物の『英雄のパーティ』だ!」
少年は勝手に納得し、目を輝かせて千代の前に飛び出してきた。
「お願いします! 僕を、あなたたちの末席に加えてください! 荷物持ちでも、靴磨きでも、雑用でも何でもやります!」
千代は、目の前で必死に頭を下げる少年のつむじを見下ろした。
あまりの馬鹿馬鹿しさに頭痛がしてきた。彼は狂人と廃人の集まりを見て、神話の英雄軍団だと錯覚したらしい。眼科か精神科の受診を強くお勧めしたいところだ。
ゲンガイが不快そうに鼻を鳴らし、オリエールが「邪魔よ、ガキ」と冷たく言い放つ。
千代も同意見だった。採用の余地はない。
彼女は断りの言葉を口にするため、形式的に視界の『戦術眼』を起動し、少年にフォーカスを合わせた。
【個体名:カイル・カミイ】
【種族:獣人(猫系)】
【職業:斥候(見習い)】
【STR(筋力):G】
【VIT(耐久):G】
【INT(知力):F】
見事なまでの最低ランクの羅列だった。
案内役であるウサギ族のルイと大差ない、完全なる非戦闘員の数値。やはり不要だ。そう判断してウィンドウを閉じようとした直前、千代の視線が、ステータス画面の一番下、本来なら存在しないはずの隠し項目の上で止まった。
【LUCK(運):SSS(異常値)】
【スキル:幸運の風】
【特記事項:確率の収束および事象の歪曲】
千代は呼吸を忘れた。
運、SSS。
戦場において、最も計算できず、最も忌み嫌われる要素。それが「偶然」だ。
どれほど完璧な戦術を組み上げ、どれほど強固な陣地を構築しても、風向き一つの変化や、敵兵の偶然のつまづき、あるいは放たれた一本の矢が予想外の軌道を描くことで、戦局は一瞬にしてひっくり返る。軍事学において、それは『摩擦』と呼ばれる。
この少年は、その『摩擦』を味方につける、というより、彼自身が確率のバグそのものなのだ。
千代の脳内の演算装置が、瞬時に高速回転を始めた。
敵は五百。こちらは六人。
アーレイの地盤操作で敵を誘導し、ドーゴンの自動兵器で削り、オリエールの盾で耐え、ゲンガイとレオハルトが局地的に敵を殲滅する。
理論上は可能だ。だが、それはあくまで「計算通りに動いた場合」の話。五百という数の暴力は、必ずどこかで計算の綻びを生む。こちらの戦術の隙間を縫って、想定外の事態が連鎖反応を起こす瞬間が必ず来る。
その時、盤面を修復できるのは、論理ではなく「偶然」という名の奇跡だけだ。
「……あんた、名前は?」
千代の問いかけに、少年は顔を上げた。
「カミイです! カイル・カミイ!」
「カミイ。あんた、人を殺したことはある?」
「えっ」
唐突な質問に、カミイの猫耳が後ろに倒れた。
「な、ないです。ゴブリンにすら、剣を当てたこともなくて……いつも逃げてばかりで」
「じゃあ、なんで英雄になりたいの? なんで戦場に行きたいのよ」
千代の視線は物理的な重さを持っていた。見透かされるような冷たさに、カミイは言葉を探すように視線を泳がせた。
金が欲しいわけではないだろう。名誉欲にしては、あまりにも実力が伴っていない。
やがて、カミイは小さく、しかしはっきりとした声で答えた。
「……誰かの、役に立ちたいからです」
酒場の空気が、一瞬だけ凍りついた。
ゲンガイが露骨に嫌な顔をし、アーレイが呆れたようにパイプの煙を吐き出す。傭兵稼業において、最も下等で、最も早く死ぬ人間の口癖だった。
「田舎の村を出る時、母ちゃんに言ったんです。立派な英雄になって、困ってる人を助けるんだって。……でも、街に来てみたら、誰も助け合いなんてしてなくて、お金の話ばっかりで。僕も弱くて、誰の役にも立てなくて」
カミイは両方の拳を強く握りしめた。
「でも、あなたたちは違う。報酬の額も見ずに、誰かを守るために戦う本物の英雄だ。……だから、僕もその背中を追いたいんです」
見事なまでの勘違い。救いようのないお人好し。
ここにいる連中は、金がないから飯で釣られた狂犬や、死に場所を探している自殺志願者、ゲームの盤面が見たいだけの愉快犯たちだ。決して「困っている人を助ける英雄」ではない。
だが。
「……採用よ」
千代の口から出た言葉に、背後の大人たちが一斉に信じられないという顔をした。
「おいおい、指揮官殿。正気か?」
アーレイが顔をしかめる。
「こんな乳臭いガキ、戦場に出た瞬間に泣き叫んで足手まといになるだけだぞ」
「わかってるわ」
千代は振り返り、集めた六人の「怪物」たちを見渡した。
「あなたたちは強い。でも、動機が不純すぎる。死にたいとか、退屈だとか、そんな理由で繋がっている部隊は、一度瓦解し始めると脆い。……部隊には『純粋な接着剤』が必要なのよ」
千代は再びカミイに向き直った。
「カミイ。あんたは弱いし、戦力にはならない。でも、あんたのその『誰かの役に立ちたい』っていう馬鹿みたいに真っ直ぐな意志と、異常なまでの悪運だけは買ってあげる」
千代は、カミイの肩に手を置いた。
「私たちの泥舟に乗りなさい。あんたの英雄願望、一番最悪な形で叶えてあげるから」
カミイの顔がパァッと明るくなり、彼を形作る尻尾が千切れんばかりに振られた。
対照的に、後ろに控える傭兵たちの顔には「やれやれ」という深い疲労の色が浮かんでいた。
これで、七人。
女子高生の指揮官(コマンダー)。
狂犬の魔人(アタッカー)。
虚無の剣聖(アタッカー兼マジックメタ)。
狡猾な老軍師(バッファー兼トラッパー)。
技術馬鹿のドワーフ(エンジニア)。
鉄壁の女重装歩兵(タンク)。
そして、幸運だけが取り柄の未熟な少年(ジョーカー)。
能力も、年齢も、種族も、目的もバラバラな烏合の衆。
誰一人として、正規の軍隊の規律など守りそうにない連中だ。
だが、千代の視界に展開された『戦術眼』の部隊編成画面には、この七人のステータスが、一つの美しいパズルのように噛み合って表示されていた。
圧倒的な火力を、堅牢な盾と罠が守り、予想外の変数を幸運がカバーする。
資金はゼロ。食料もゼロ。
明日の朝には全員が餓死するかもしれないという極限の自転車操業。
それでも、役者は揃ったのだ。
「千代様……本当に、この人たちで……?」
案内役のルイが、涙目で千代の袖を引く。彼の本能は、魔王軍よりも目の前の味方の方が恐ろしいと告げているらしい。
千代は制服の襟を正し、泥だらけのローファーで酒場の床を一度だけ強く踏み鳴らした。
「さあ、行きましょう」
少女の声は、歓楽街の喧騒を切り裂くほど、冷たく澄み切っていた。
「私たちの戦場へ」
一行が酒場を出て歩き出す。
空はどんよりと曇り、冷たい風が街の排気ガスと腐臭を運んできた。遠くの空には、雨の気配が混じっている。
これから向かうのは、金貨の山でも名誉でもない。
ただ泥にまみれ、血を流し、誰にも知られずに命を消費するだけの、不条理極まりない防衛戦。
それでも、七人の足取りに迷いはなかった。彼らはそれぞれの理由で、社会から弾き出され、この最悪の盤面に居場所を見出してしまったのだから。
こうして、史上最も歪で、最も凶悪な防衛部隊が、泥の国へ向けて進軍を開始した。




