第7話 万年金欠の万人盾 オリエール
兵站の崩壊は、軍隊における最も致命的な敗北の要因である。
千代はその歴史的事実を、身をもって理解しつつあった。
狂戦士、剣聖、軍師、そして工兵。カタログスペックだけを見れば一騎当千の戦力が揃ったものの、彼らを動かすためのカロリーが圧倒的に不足している。特にゲンガイの燃費の悪さは異常で、彼の胃袋を満たすには、バルガス市内の肉屋を数軒襲撃するしかなかった。
「仕方ない。今日の『上がり』だ。大事に使えよ、指揮官殿」
見かねたアーレイが、ローブの奥から皮袋を取り出し、千代の手に乗せた。中には銀貨が数枚と、くすんだ銅貨が入っていた。賭博場で巻き上げたイカサマの成果らしい。
千代は掌の上の硬貨を冷徹に計算した。
これで安宿に泊まり、全員に薄いスープと硬いパンを振る舞えば、明日の朝には完全に資金が底をつく。五百の魔王軍と対峙する前に、餓死という極めて現実的な脅威に直面することになる。
「ゲンガイ。今のあなたは空腹で死にそう?」
「あぁ? 当たり前だ。さっきから幻覚でテメェが骨付き肉に見えてるぜ」
「じゃあ、あと二時間だけ我慢しなさい。その銀貨で腹を満たすより、生存確率を上げる『投資』に回すわ。後で牛一頭丸焼きにして食べさせてあげるから」
「牛一頭だな? 言質は取ったぞ」
ゲンガイは血走った目で唸り、大人しく引き下がった。単純な男で助かる。
千代はアーレイを振り返った。
「で、その『無敵の盾』はどこにいるの?」
「傭兵ギルドの裏手にある、どうしようもなく酒の不味い店だ。あいつは稼いだ金のほとんどを装備の修繕費に回すから、いつも安い酒で肝臓をいじめている」
アーレイの案内に従い、一行は裏路地を抜けて目的の酒場へと向かった。
扉を開けると、酸えた麦酒と、長年染み付いた吐瀉物の匂いが鼻腔を突いた。店内は薄暗く、昼間から人生の目的を見失ったような顔つきの傭兵たちが、グラスの底を見つめて黙り込んでいる。
その最奥のテーブルに、彼女はいた。
真っ赤な短髪。年齢は三十の手前だろうか。
実用性だけを追求した傷だらけの重装甲鎧を着込み、傍らには彼女の身長ほどもある巨大なタワーシールドが立てかけられている。盾の表面は無数の打痕と斬撃の跡で覆われており、それが幾度となく死線を潜り抜けてきた証明となっていた。
「よお、生きてたか、鉄の女」
アーレイが声をかけると、女はグラスに注がれた安酒を飲み干し、けだるそうに視線を上げた。
「古狸。まだサイコロに鉛を仕込むようなセコい真似をしてるの? どこかの路地裏で指を全部詰められて泣いてる頃だと思ってたのに」
「生憎と、今日はパトロンがついているんでな。身分が違う」
女傭兵、オリエールは、アーレイの背後に控える異様な集団を見て、片方の眉をわずかに上げた。
天井に頭を擦りそうな魔人、気配を完全に殺している剣士、工具箱を抱えた小太りのドワーフ、そして怯えきったウサギ族の少年。
極めつけは、その先頭に立つ、異国情緒あふれる制服姿の少女。
「……何の冗談? サーカス団の旗揚げでもする気?」
「冗談じゃないわ。私が雇い主よ」
千代はオリエールの正面に立ち、視界の『戦術眼』を起動した。
即座に彼女のデータが空中に展開される。
【個体名:オリエール】
【種族:人間】
【職業:重装歩兵】
【VIT(耐久力):S】
【スキル:守護者の誓い(ガーディアン・オース)】
【状態:軽度のアルコール血中濃度/資金難】
耐久力S。
ゲンガイの圧倒的な攻撃力を相殺しうる、究極の防御力。
特筆すべきは『守護者の誓い』というスキルだ。詳細な効果予測を参照すると、これは指定した対象が受ける物理的・魔法的ダメージを、空間を跳躍して自身の装甲へ強制的に「転移」させる能力らしい。
つまり、彼女が戦場に立っている限り、千代や村人たちへの遠距離からの狙撃や流れ弾は、すべて彼女の盾と鎧が吸い込むことになる。
後方支援の安全を確保するための、絶対的な要だ。
「雇い主、ねえ」
オリエールは空のグラスを指先で弄りながら、千代を頭から爪先まで値踏みした。
「悪いけど、子守りをする趣味はないわ。私の日当は高いのよ。この盾を維持するのには、金貨が飛ぶように消えていくんだから」
「日当は出ないわ。報酬も、村にあるだけの食料と、泥にまみれた感謝の言葉くらい」
「……は?」
オリエールの目が、爬虫類のように細められた。
「アーレイ、あんた頭がボケたの?どこでこんなイカれたガキを拾ってきたのよ」
「まあ聞け。防衛目標は兎人族の集落。敵は魔王軍『黒牙旅団』の先遣隊、ならびに本隊。総勢はおよそ五百だ」
アーレイが涼しい顔で補足すると、オリエールは呆れ果てて息を吐いた。
「五百。しかも正規軍。で、こっちの戦力は?」
「ここにいるメンバーだけよ。あなたを入れて、七人」
「帰んな」
オリエールは迷いなく手を振り払った。極めて真っ当で、現実的な反応だった。
「集団自殺に付き合う気はないわ。いい? 盾ってのはね、後ろから敵を刺してくれる仲間がいて初めて機能するの。五百の軍勢相手に七人で突っ込んだら、私の鎧ごとミンチにされて終わるわ。それとも何、あんたがその細い腕で敵の首を刎ねてくれるとでも言うの?」
「私は戦わないわ。私の仕事は、盤面を操作して、あなたに死なないための立ち位置を指示することだけよ」
「口先だけで守れるなら、盾なんていらないのよ!」
オリエールが声を荒らげ、タワーシールドを乱暴に掴んだ。
床板が悲鳴を上げる。彼女の周囲の空気が、歴戦の傭兵特有の重く冷たいものに変わった。
ルイが千代の背中に隠れ、ゲンガイが不機嫌そうに喉を鳴らす。
だが、千代は一歩も引かなかった。
彼女はスカートのポケットから、アーレイから巻き上げた全財産の入った皮袋を取り出し、カウンターに乱暴に叩きつけた。
硬貨がぶつかり合う、鈍い音が響く。
「マスター。この店で一番高い酒を、この人に」
千代の唐突な注文に、酒場の店主も、オリエールも、背後のアーレイすらも目を丸くした。
店主が恐る恐る皮袋の中身を確認し、店の奥から埃を被った古い蒸留酒の瓶を取り出してきた。注がれた液体は琥珀色に輝き、先ほどまでの安酒とは比べ物にならない芳醇な香りを放った。
「……何よ、これ。最後の晩餐のつもり?」
「前金です」
千代は、琥珀色の液体の入ったグラスを、オリエールの前に滑らせた。
「五百対七。確かに無謀な数字ね。でも、私はあなたの盾を信じているし、この老人の罠と、ドワーフの兵器、そして後ろの怪物たちの火力を計算に入れれば、十分に勝機はあるわ」
千代は、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、狂気や自己犠牲の陶酔などは一切ない。あるのは、冷徹な『演算』の光だけだった。
「私はあなたを死なせない。装甲の修繕費が足りないと言うなら、そもそも敵の攻撃があなたに直撃しないようなルートを私が構築する。あなたはただ、一番美味しいところで壁になってくれればいい」
千代はグラスを指差した。
「それは、私からの投資よ。残りは、五百の敵を泥に沈めた後、勝利の美酒として請求してちょうだい。……受けるわね?」
オリエールは、目の前のグラスと、千代の顔を交互に見比べた。
圧倒的な正論と現実を前にしても、微塵も揺るがない女子高生の傲慢さ。
かつての相棒であるアーレイが、なぜこの得体の知れない少女に従っているのか、その理由が少しだけわかった気がした。
この娘は、戦場の空気を吸ったことがないくせに、誰よりも戦場を俯瞰している。
「……馬鹿げてる。あんた、本気で勝つ気なのね」
オリエールは長い溜息をつき、グラスを手に取った。
そして、琥珀色の液体を一気に煽る。喉の奥で強いアルコールが燃える感覚が、彼女の闘争心に火をつけた。
「いいわ。ただし、一つだけ条件がある」
「何?」
「私の『守護者の誓い』は、対象のダメージを肩代わりするスキルよ。もしあんたの指揮が鈍って、後方の陣形が崩れたら、私はあんたたちの被弾を全部被って死ぬことになる」
オリエールは、空になったグラスをテーブルに叩きつけた。
「だから、絶対に指示を間違えるな。私の命は、あんたのその目と頭脳に預けるわ」
「契約成立ね。後悔はさせないわ」
千代は小さく頷いた。
これで六人。
防衛ラインの要となる「絶対の盾」が加わった。
全財産を失ったため、今夜の夕食は本当に絶望的になったが、それ以上の価値がある投資だった。
「さあ、外に出ましょう。この街の淀んだ空気は、思考を鈍らせるわ」
千代が酒場を出ようと振り返った時だった。
店の入り口の扉が勢いよく開かれ、一人の少年が転がり込んでくるように入ってきた。
「あ、あの! すみません! 僕を、僕をパーティに入れてくれませんか!」
声変わりしたばかりの、上ずった声。
千代は視界の『戦術眼』を向けた。
そこには、これまで見てきたどの傭兵とも違う、奇妙なステータスが表示されていた。




