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七星の戦記 Eランクの女子高生指揮官、最強の落ちこぼれたちを率いての異世界防衛戦 〜私の「戦術眼」には勝利へのルートが見えています〜  作者: 真野真名
第4章:敗北した勝利者たち

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第49話 硝子越しの青空




 三半規管の中にある耳石が乱暴に引き剥がされ、ミキサーにかけられたような不快な浮遊感。


 千代の意識は、網膜を灼くような閃光の中で完全に途絶え、次に彼女の五感が再起動した時。

 彼女の肺を満たしたのは、泥と血と排泄物の臭気ではなく、極めて人工的で平和な「ポテトチップスのコンソメ味の匂い」だった。


 視界が、急速に暗転する。


 否、暗転したのではない。周囲の景色が、昼の光からトンネル内部のオレンジ色のナトリウムランプへと切り替わったのだ。


 大型車のディーゼルエンジンの低い振動。隣の席から聞こえる、同級生たちの間の抜けた笑い声。

 千代は、自分が修学旅行の観光バスの柔らかいシートに深く沈み込んでいることを認識した。


 服を見る。泥にまみれ、血と胃液で汚れきっていた制服のブレザーは、クリーニングから戻ってきたばかりのように清潔だった。顔を触る。オリエールに殴られた頬の腫れも、鼻腔の奥の血の塊もない。


 肉体も、時間も、彼女が召喚された「トンネルに入った直後」のあの瞬間に、完全にロールバックされていたのだ。


 ――夢、だったのか。


 普通の女子高生であれば、バスの揺れで見ためちゃくちゃな悪夢だと結論づけ、隣の友人と笑い合って終わるだろう。


 だが。

 次の瞬間、千代の耳膜が、対向車線から迫る「異常な摩擦音」を捉えた。

 それは、大型トラックのタイヤが限界を超えてスリップし、アスファルトを削り取る不吉な音だった。


 千代が記憶していた「天地をひっくり返すような衝撃」。


 あれは、召喚陣の転移ショックなどではなかった。転移する直前のコンマ数秒の世界で、実際にバスを襲おうとしていた『物理的な交通事故』の衝撃そのものだったのだ。


 バスの運転手が「あっ」と短い悲鳴を上げ、急ブレーキを踏み込もうとする。


 だが、人間の反射神経では遅すぎる。対向車線をはみ出したトラックの巨大な質量が、時速八十キロで千代たちの乗るバスの正面へと迫っていた。

 パニックに陥り、目を閉じるのが普通の女子高生だ。


 しかし、千代の脳髄は、極めて異常な、そして完全に洗練された「戦闘的演算」を開始した。


 千代が瞬きをした、その刹那。

 オレンジ色のトンネルの風景に重なるように、網膜の裏側でノイズ混じりの『戦術眼タクティカル・ビュー』が強制再起動した。


 視界に緑色のワイヤーフレームが展開される。


 迫り来るトラックの質量と速度を示す「巨大な赤いベクトル」。

 自らが乗るバスの慣性力を示す「青いベクトル」。

 トンネルの壁面までの距離、タイヤの摩擦係数、衝突までの猶予時間――残り一・二秒。


 千代の肉体は、思考よりも早く動いていた。

 シートベルトを外し、座席を蹴って運転席の真後ろへと身を乗り出す。


「ブレーキを踏み抜いて! ハンドルを左へ四十五度、そのまま固定!」


 それは、悲鳴でもお願いでもない。


 泥の戦場で百五十の命を統率し、死の淵で味方を自爆させてまで活路を開いた、絶対的な『指揮官コマンダー』の命令音声だった。


 恐怖で硬直しかけていた運転手の脳髄に、その温度を持たない命令が、電気信号のように直接突き刺さる。


 運転手は、自分の意志ではなく、背後から放たれた圧倒的な統率力に操られるようにして、指示通りにブレーキペダルを床まで踏み抜き、ハンドルを正確な角度で左へ切った。


 凄まじいタイヤのスキール音がトンネル内に反響する。


 生徒たちの悲鳴が上がる。


 バスの車体が激しく横滑りし、トンネルの左側の壁面に車体の側面を擦り付けながら、火花を散らして急減速していく。


 直後、対向車線をはみ出してきた居眠り運転のトラックが、本来バスの正面があったはずの空間――千代の計算通りに生まれたわずか数十センチの『真空状態』を、猛烈な風圧とともにすり抜けていった。


 金属が擦れる不快な音が止み、バスは壁に寄りかかるようにして完全に停止した。


 静寂。


 そして、数秒遅れて、状況を理解できない生徒たちと教師のパニックに満ちた叫び声が車内に響き渡った。


「な、なんだ!? 今の……!」

「ぶつかるかと思った……!」


 運転手は、ハンドルに突っ伏してガタガタと震えながら、荒い息を吐いていた。


 自分が無意識に切ったハンドルの角度が、あと数度でも違っていれば、あるいはブレーキを踏むのがコンマ一秒遅れていれば、間違いなく全員が即死していた。


 彼が背後を振り返ると、そこには、何事もなかったかのように自分の座席に座り直している、一人の女子高生の姿があった。


「ち、千代……あんた、今どうやって……」


 隣の席の友人が、ポテトチップスの袋を落としたまま、信じられないものを見る目で千代を見つめていた。


「別に。ちょっと寝ぼけてて、声が出ちゃっただけ」


 千代は、ひどく平坦な声で答え、窓の外――オレンジ色の壁面へと視線を移した。


 夢ではない。


 泥の盆地で炭になった職人の親指も、立ったまま絶命した剣士の背中も、濁流に沈んだ狂犬の咆哮も。


 それらはすべて、この脳髄の中に、永遠に消えない重い刻印データとして保存されている。

 肉体は平和な日常にロールバックされても、彼女はもう、二度と「ただの守られるだけの女子高生」には戻れないのだ。


 街を歩く人々の無防備な背中を見るたびに、そこに赤いマーカーや青いマーカーの幻影を見出し、効率的な殺害ルートや防衛線を無意識に計算してしまう、血に飢えた狂った演算装置。

 それが、安全な箱庭へ帰還した少女が支払うべき、因果の代償だった。


 千代は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 その顔は、かつて泥の指揮所でオリエールやアーレイに見せたような、ゾッとするほど冷徹で、凄みのある笑みを浮かべていた。


 彼女の網膜の裏側で、緑色のワイヤーフレームが再びフラッシュして消える。


「……平和すぎて、反吐が出そう」


 彼女の口からこぼれ落ちたその言葉は、誰に聞かせるためのものでもない、完全なる決別の宣言だった。


 誰も死なない世界で、彼女の持つ過剰な力は、ただのノイズでしかない。だが、彼女はもう、そのノイズなしでは生きていけない体に造り変えられてしまったのだ。


 トンネルの出口から、ひどく白々しい、眩しいほどの青空の光が差し込んでくる。


 どこまでも続く無関心な空の下で、一人の女子高生による、血と泥にまみれた不条理な戦記は、誰にも知られることなく、完全にその幕を閉じた。




 ………………完







最後までお付き合いありがとうございました。


雨の音、泥の匂いを少しでも感じて頂きたかったのですが、如何だったでしょう。


評価、感想など頂けたら嬉しいです。


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