第4話 死せる剣聖 レオハルト
都市バルガスの喧騒を離れると、そこには鬱蒼とした森が広がっていた。
「静寂の森」という名前は、詩的な比喩ではなく、単に物理的な事実を示しているようだった。鳥のさえずりすら聞こえない。湿った苔と、腐葉土の匂いだけが漂っている。
そんな静けさを、無粋な足音が踏み荒らしていた。
「おい、飯はまだか。俺様は腹が減ってんだよ」
「少し黙ってて。索敵に集中できない」
「ケッ、偉そうに。この森に強い奴なんざいねえよ。気配がしねえ」
新しく「仲間」になったばかりのゲンガイが、巨大な処刑鎌を杖代わりにして不満を垂れる。
彼はSランクの戦闘力を持つ反面、燃費が最悪だった。常に何かを食べていないと機嫌が悪くなり、さらに子供のような癇癪を起こす。千代は、なけなしの金で買った干し肉を彼の口に放り込み、黙らせた。
千代の視界には、依然として『戦術眼』のワイヤーフレームが展開されている。
森の木々は緑色のデータとして処理され、障害物判定が表示される。
その奥に、一つの反応があった。
【個体名:レオハルト】
【種族:人間】
【職業:木こり(元剣聖)】
【状態:鬱(重度)/虚無】
ステータスの色が、奇妙だった。
赤(敵)でも青(味方)でもない。
限りなく透明に近い、死んだような「灰色」。
活動エネルギーが極端に低下しており、生体反応が植物に近いレベルまで落ちている。
「……いたわ。あそこ」
千代が指差した先。
森の開けた場所で、一人の男が黙々と斧を振るっていた。
いや、振るっているという表現すら大げさかもしれない。
彼は、ただ重力に従って斧を落としていた。
ボロボロの亜麻色の服。伸び放題の髪と髭。頬はこけ、眼球は硝子玉のように光を失っている。
公園のベンチで一日中鳩を見つめているリストラされたサラリーマンのような、圧倒的な「終わった感」が漂っていた。
「あぁ? アレか? アレが『剣聖』だぁ?」
ゲンガイが鼻で笑った。
「おいおい、冗談だろ。あんな枯れ木みたいなオッサン、俺様のデコピンで死ぬぞ。覇気がねえ、殺気がねえ、生気がねえ。ただの死に損ないじゃねえか」
確かに、ゲンガイの言う通りだ。
千代の目にも、彼の戦闘力数値は【測定不能(低下)】と表示されている。
だが、千代は気づいていた。
彼が斧を振り下ろす瞬間だけ、数値が一瞬だけ跳ね上がり、そしてまたゼロに戻る現象を。
そのグラフの波形は、心停止した患者の心電図が一瞬だけ波打つような、不気味な鋭さを持っていた。
その時だった。
森の静寂を破るように、爆音が轟いた。
「逃がすかぁ! この泥棒猫め!」
「うるさいわね! 先に見つけたのはアタシよ!」
派手なローブを纏った男女が、魔法を撃ち合いながら森を駆け抜けてきた。
冒険者同士のトラブルか、あるいは痴話喧嘩か。
男の杖から放たれた火球が、狙いを逸れて、大きく弧を描いた。
狙った先は、黙々と薪割りをしているレオハルトの背中だった。
「あっ、危ない!」
ルイが悲鳴を上げる。
ゲンガイが舌打ちし、鎌を構えようとした。
千代の『戦術眼』が、着弾までの時間をコンマ秒単位で予測する。
――間に合わない。直撃コースだ。
爆風で木こりは消し炭になる。
だが、当の本人は、背後から迫る死の熱量に気づいているのかいないのか、振り返りもしなかった。
ただ、作業のリズムを変えずに、手にした薪割り用の鉈を、無造作に後ろへ払っただけだった。
まるで、うるさい羽虫を手で払うかのように。
そして音が消えた。
千代の視界に、信じられない光景が映った。
直径一メートルはある火球が、鉈の軌道に触れた瞬間、物理的な物体であるかのように「両断」されたのだ。
真っ二つになった炎は、その構造を維持できずに霧散した。
熱も、衝撃も、爆発音もなく。
ただ、蝋燭の火を指で摘んで消したように、現象そのものがキャンセルされた。
【スキル検知:魔断の太刀】
【効果:魔力構成式の物理切断】
【判定:成功】
千代の脳内にエラーログが流れる。
魔法というのは、数式と魔力で構成されたプログラムだ。
それを、物理的な刃物で「コードごと切断する」など、この世界の物理法則(理)に反している。バグ技だ。
「……な、なんだ今のは!?」
「火が……消えた?」
魔法を撃った冒険者たちが足を止めて呆然としている。
レオハルトは、何事もなかったかのように、再び目の前の薪に鉈を振り下ろした。
カォン、と乾いた音が響く。
「……おい、見たか?」
ゲンガイの表情から、嘲笑が消えていた。
野生動物としての本能が、目の前の「枯れ木」が、実は擬態した地龍であることを悟ったのだろう。
「あぁ、見たわ」
千代は小さく息を吐いた。
背筋がゾクゾクする。恐怖ではない。欲しい玩具を見つけた子供のような、純粋な所有欲だ。
あれは「剣」ではない。
魔法という理不尽を否定する、究極の「拒絶」だ。
千代は冒険者たちを無視して、レオハルトの背中へ歩み寄った。
近づくと、彼からは古い畳のような、乾いた匂いがした。
「こんにちは。素晴らしい腕前ね」
声をかけると、レオハルトは手を止めた。
ゆっくりと振り返る。
その目は、深海のように暗く、底が見えなかった。
「……見ていたのか」
声は低く、錆びついていた。
「なら、忘れてくれ。ただの偶然だ」
「偶然で魔法は切れないわ。……レオハルトさん、ですよね?」
名前を呼ぶと、彼の眉がわずかに動いた。
「人違いだ。私はただの木こりだ。……剣は、もう置いた」
「置いた割には、随分と手入れされた鉈ね。それに、その指のタコ。木こりのタコじゃないわ」
千代は彼の視線を逃さずに言った。
「単刀直入に言います。私に雇われてください。あなたのその『魔断』の腕が必要です」
レオハルトは、興味なさそうに千代から視線を外し、再び薪に向き直った。
「断る。私はもう戦わない。……守るべき主君も、国も、もうない」
「そうね。あなたの国は滅びたわ。あなたが信じていた主君は、政治的な取引であなたを売って、自害させられた」
千代は、彼の過去――『戦術眼』の備考欄に表示されている――を、容赦なく突きつけた。
レオハルトの背中が強張る。
「……何が言いたい」
「あなたは絶望して、剣を捨てて、こんな森の奥で死ぬのを待っている。……でも、死にきれない。なぜなら、あなたは強すぎるから」
千代は一歩踏み込んだ。
「自殺する勇気はない。かといって、野盗や魔物に殺されるほど弱くもない。だから、寿命が尽きるまで、ただ木を切って時間を潰している。……退屈でしょ? その『余生』」
残酷な指摘だった。
レオハルトがゆっくりと立ち上がり、千代を睨んだ。
その瞬間、肌を刺すような殺気が膨れ上がった。ルイが悲鳴を上げて腰を抜かす。ゲンガイが面白そうに鎌を構える。
だが、千代だけは動じなかった。
彼女には見えていたからだ。
レオハルトの殺気が、千代に向けられたものではなく、彼自身に向けられた自傷的なものであることが。
「私を挑発して、殺されたいのか? 娘」
「いいえ。取引よ」
千代は、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「私はあなたに『生きる意味』なんてあげられない。そんな綺麗なものは持ってないわ。……でも、『最高の死に場所』なら提供できる」
レオハルトの瞳が揺れた。
「死に場所、だと?」
「ええ。相手は魔王軍五百。守るのは、泥だらけの貧乏な村。勝率はほぼゼロ。……どう? あなたが使い潰されるには、最高に理不尽で、最高に絶望的な戦場だと思わない?」
千代はニヤリと笑った。
「かつての主君は、あなたに『生きろ』と言って死んだそうね。だからあなたは死ねない。……でも、もしその命を『誰かを守る盾』として使い切るなら? それは『戦死』じゃなくて『殉職』よ。主君への義理も立つんじゃない?」
詭弁だ。
屁理屈にも程がある。
だが、その歪んだ論理こそが、止まっていた時計の針を動かす鍵だった。
レオハルトは長い沈黙の後、ふ、と自嘲気味に笑った。
「……魔王軍五百、か」
「不満?」
「いや。……薪割りよりは、マシな暇つぶしかもしれん」
彼は鉈を腰に差した。
そして、傍らに立てかけてあった、ボロボロの布に包まれた「棒」を手に取った。
布が解け、中から現れたのは、装飾の一切ない、無骨な鉄の長剣だった。
だが、その刃は、まるで鏡のように研ぎ澄まされていた。
「依頼主の名前は?」
「立花千代。職業は指揮官よ」
「指揮官か。……ふん、悪くない響きだ」
レオハルトが歩き出した。
その足取りからは、先ほどまでの「死人の重さ」が消えていた。
彼は千代の横を通り過ぎる際、ボソリと呟いた。
「……案内しろ。その『死に場所』へ」
千代は小さく頷いた。
「ええ、あなたが、もう一度“剣聖”になれる場所へ」
これで二人。
最強の矛と、魔法殺しの剣。
戦力としては十分すぎるほどのエース級だ。
だが、まだ足りない。
軍隊には、彼らを支える「兵站」と「罠」が必要だ。
「さあ、次はカジノへ行くわよ」
「カジノだァ? テメェ、金もねえのによく言うぜ」
「ギャンブルじゃないわ。イカサマ師をスカウトしに行くのよ」
千代は、泥だらけの靴で森を後にした。
その背後には、二人の怪物が付き従っている。
女子高生の修学旅行にしては、少々刺激が強すぎる道連れだった。




