第30話 片角の狂犬
「イチ、ニ、サン! 突けェェ!!」
恐怖で顔を引きつらせながらも、兎人族の男たちがドーゴンの作った太鼓のリズムに合わせて前進した。
バリケードの裏から、六十本の『鉄心竹』の長槍が、巨大なハリネズミの針のように一斉に繰り出される。
彼らの狙いは、魔獣の分厚い皮膚や頭部ではない。千代が『戦術眼』で指定した、装甲の薄い足首の関節部分や、泥に浸かっている柔らかい腹部だ。
ズブッ、という湿った音が連続して響く。
炭化させた竹槍の穂先が、魔獣の皮膚の隙間を的確に突き刺した。
致命傷にはほど遠い。だが、五メートルもの長さを持つ竹槍が数十本同時に突き刺さる不快感と痛痒感は、魔獣の怒りを煽るには十分だった。
魔獣が苛立ちに任せて前脚を振り上げ、槍をへし折ろうとする。
ウサギ族の陣形が恐怖で崩れかけた、その隙間だった。
「どけェ! 毛玉ども! 俺様の獲物に傷をつけてんじゃねえぞ!」
横合いから、泥の雨を降らせて巨大な影が跳躍した。
魔人ゲンガイだ。
彼は、ファランクスの長槍の隙間を縫うようにして一気に距離を詰めると、そのまま魔獣が振り上げた前脚を足場にして、垂直の壁を登るようにして一気に跳び上がった。
魔獣が驚いて首を振るう。
ゲンガイは、空中で巨大な処刑鎌を捨てた。あんな鈍重な武器では、動き回る巨大な頭部の上で取り回しが利かないからだ。
彼は魔獣の鼻先、あの致命的な突進を生み出す太く巨大な「角」の根元に、両手と両足でしがみついた。
「グルルルルァァァ!!」
顔面にへばりついた異物を排除しようと、魔獣が狂ったように頭を振り回す。
ゲンガイの巨体ですら、体高五メートルの魔獣から見れば小さな虫に過ぎない。強烈な遠心力で振り回され、ゲンガイの体が宙を舞う。
魔獣はそのまま、鼻先のゲンガイを地面の泥の中へ叩きつけるように、強烈な頭突きを放った。
ドゴォッ!
内臓が破裂するような重い音が盆地に響き、泥が数メートルの高さまで吹き上がった。
完全にプレスされた。誰の目にもそう見えた。
だが、千代は視界のパラメータを見て、冷酷に口角を上げていた。
「……来たわね。理不尽の極致が」
泥の中に叩きつけられたゲンガイの肉体は、潰れてはいなかった。
魔獣が頭を持ち上げようとした時、その太い角の根元を、泥まみれの両腕がガッチリとホールドして離さないのだ。
そして、ゲンガイの全身の皮膚の下で、無数の蛇が這い回るように血管が異様に隆起し始めていた。
【スキル検知:『憤怒の血肉』起動】
【蓄積ダメージ:甚大】
【屈辱値:上限突破】
【STR(筋力)への変換率:五百パーセント】
受けたダメージの総量と、地面に這いつくばらされた「屈辱」。
それらのネガティブな要素が、ゲンガイの特殊な魔人体質の中で、純粋な筋線維の膨張へと変換されていく。彼が着込んでいた粗末な騎士の鎧が、内側から膨れ上がる筋肉の圧力に耐えきれずに弾け飛んだ。
「……痛ぇなぁ、オイ」
魔獣の顔面の下、泥に塗れたゲンガイが、血の泡を吹きながらニタリと笑った。
「俺様を、泥の中に顔から突っ込ませたな? ……最高の気分だ。お返しだァ!」
ゲンガイの両腕の筋肉が、丸太の二倍ほどの太さにまで膨張した。
彼は魔獣の角を両腕で抱え込み、大地に深く突き刺した両足を支点にして、全身のバネを後方へ一気に解放した。
鋼鉄ほどの硬度を誇るはずの魔獣の角が、根元の骨ごとミシミシと悲鳴を上げる。
魔獣が信じられないというように目を剥き、苦痛の咆哮を上げた。だが、ゲンガイの筋力はすでに、五メートルの魔獣の首の筋力を遥かに凌駕していた。
「折れろォォォ!!」
パァン! という、乾いた巨大な破断音。
魔獣の誇る最大の武器である一本角が、ゲンガイの怪力によって根元から完全にへし折られた。
大量の血が噴水のように魔獣の顔面から噴き出す。
バランスを崩してよろめく魔獣。
だが、ゲンガイの攻撃はそれで終わりではなかった。
彼はへし折ったばかりの、自分の背丈ほどもある重い角を、今度は巨大な槍のように両手で構えた。
「俺様の角は片方しかねえからな。テメェのも無くしてやるよ!」
ゲンガイは、角を失って無防備になった魔獣の脳天の傷口――骨がむき出しになったその柔らかい部分へ向けて、自らへし折った角の鋭い先端を、全体重を乗せて叩き込んだ。
肉と骨を貫通し、角が魔獣の脳髄まで達する。
ピクリ、と巨体が痙攣し、白目を剥いた魔獣は、ゆっくりと、大きな樹木が倒れるように横倒しになって泥の海へと沈んだ。
完全なる沈黙。
オーク重装歩兵たちすら、目前で繰り広げられた規格外の「暴力の頂上決戦」に、一瞬前進する足を止めていた。
「一匹片付けたぜ、指揮官!」
ゲンガイが魔獣の死体の上に立ち、血まみれの腕を振り上げて雄叫びを上げる。
物見櫓の上で、千代は血の混じった鼻水を拭いながら、大きく息を吐いた。
絶対の盾と、最強の狂犬。
千代の計算に狂いはなかった。彼らの能力を的確にぶつければ、魔獣の一体や二体、確実に仕留められる。
だが、千代の『戦術眼』は、容赦なく現実を突きつけていた。
残る魔獣は、まだ二体。
そして、足を止めていたオーク重装歩兵三百が、再び無機質な足音を響かせて前進を再開している。
オリエールの鎧はすでに限界だ。ゲンガイのスキルも、これ以上ダメージを蓄積すれば筋肉が断裂して自壊する。アーレイの魔力も無限ではない。
こちらの「手札」は、一枚ずつ確実に削り取られている。
対して敵の質量は、まだ圧倒的な余力を残しているのだ。
「……次のウェーブ、来るわよ。ゴードン、第二防壁の鳴子を解除。アーレイ、土塁の形をBパターンへ移行」
千代の声は、もはや恐怖を通り越し、機械的なオペレーションの領域に入っていた。
泥の棺桶の底で、本物の地獄が口を開けようとしていた。




