第29話 鋼鉄の巨獣と絶対の盾
軍隊の戦術とは、突き詰めれば「じゃんけん」の高度な応用である。
機動力には罠を、防御力には火力を、そして小細工には、それを根本から無意味にする圧倒的な「質量」をぶつけるのが、最も理にかなった解答だ。
先遣隊のゴブリン騎兵百五十騎が、わずか数分で泥と灰の混合物へと変わった事実を、魔王軍将軍ドルゲは極めて冷徹に受け止めた。
彼の中に「部下の仇を討つ」というような人間的な感傷はない。あったのは、敵の防衛設備が予想以上に限定的かつ巧妙に配置されているという物理的な確認だけだ。
罠が仕掛けられているなら、罠ごと踏み潰して前進すればいい。
泥の沼があるなら、泥の底に沈む前に敵の陣地を押し潰せばいい。
「小細工の賞味期限は終わった。重装歩兵、前へ。魔獣部隊、防壁を粉砕しろ」
ドルゲの脳波を通じて下されたその単純極まりない命令は、即座に森の中から三百の「動く鋼鉄」を吐き出させた。
オーク重装歩兵。
身長二メートル、体重は鎧を含めれば三百キロを超える彼らは、ゴブリンのような軽快な機動力を持たない。だが、その代わりに手に入れたのは、致命傷以外のあらゆる攻撃を無視できる極厚の鉄装甲と、痛覚を消去されたことによる絶対的な前進力だった。
さらに彼らの後方から、森の木々を根元から薙ぎ倒しながら、三体の巨大な影が姿を現した。
体高五メートル。全身を覆う皮膚は古い岩盤のように硬く、鼻先には攻城槌のような太く巨大な一本の角が生えている。
魔王軍の生きた破城槌、巨大魔獣ベヒーモス。
彼らが歩を踏み出すたびに、大地が局地的な地震に見舞われたかのように激しく揺れる。
指揮所の上で、千代は吐き気を堪えながらその光景を視界の『戦術眼』に収めていた。
網膜に映る三百の赤いマーカーの動きは、先ほどのゴブリン騎兵のような「線」ではなく、巨大な「面」だった。
彼らは、アーレイが構築した土塁の迷路を律儀に辿ろうとはしなかった。ドーゴンが仕掛けた空き缶鳴子や小型のトラップなど意に介さず、土塁そのものを巨大な魔獣の質量とオークの数で強引に押し崩し、最短距離で村の広場へと直進してくる。
「アーレイ、泥濘地獄は!」
『すでに発動している。だが、質量の桁が違う』
念話越しに響く老軍師の声には、珍しく焦りが滲んでいた。
液状化した泥沼にオークたちの足は沈み込んでいる。しかし、彼らは沈む前に隣の味方の肩を踏み台にし、さらにその後方から続く無尽蔵の後続が、沈みゆく味方を文字通り「生きた舗装路」として踏み潰しながら前進しているのだ。
魔獣ベヒーモスに至っては、泥の深さが膝下までしかない。泥濘など、彼らにとっては浅い水たまり程度の抵抗にしかなっていなかった。
「……ドーゴンの自動クロスボウ、射撃開始!」
千代の指示により、隠されていたバリケードの裏から鋼鉄の矢の雨が放たれた。
だが、矢はオークの極厚の装甲に弾かれ、火花を散らすだけだ。ベヒーモスの岩のような皮膚には、刺さることすらできずにポロポロと落下していく。
小手先の兵器では、分厚い装甲と質量の暴力を突破できない。
敵の最前線を歩く一体の魔獣が、村の正面を防ぐために構築された強固な木製バリケードに狙いを定め、太い首を下げて突進の態勢に入った。
五メートルの巨体が、時速三十キロで直進してくる。
その運動エネルギーにより、バリケードなど、木の葉のように粉砕され、その後ろに控えるウサギ族のファランクス部隊は肉塊に変わるだろう。
「オリエール!」
千代の叫びと同時に、泥だらけのバリケードの前に、一人の女が立ちはだかった。
重装歩兵オリエール。
彼女は巨大なタワーシールドを地面に突き立てたが、それは魔獣の突進を物理的に受け止めるためのものではない。そんなことをすれば、腕の骨ごと粉砕されて即死する。
彼女は盾の裏で、深く息を吸い込み、己の体内の魔力回路を暴走させた。
【スキル検知:『守護者の誓い』発動】
【対象:第一防衛ラインの構造物および人員】
千代の視界で、バリケードとウサギ族全体を覆うように、青い光の膜が展開された。
次の瞬間、魔獣の巨大な角が、バリケードの中央に激突した。
木材が粉砕され、破片が四散する
――はずだった。
だが、現実に起きたのは、極めて不自然な物理法則の歪みだった。
魔獣の角は、バリケードに触れる数センチ手前で、見えない強固な壁に衝突したかのようにピタリと停止した。魔獣自身がその反動で首を大きくのけぞらせ、混乱したように足を止める。
バリケードは無傷だった。
その代わり、そこから十メートルほど離れた場所に立っていたオリエールの肉体に、異常が起きた。
彼女の分厚い胸当てが、内側から爆薬を仕掛けられたように激しくひしゃげた。留め金が弾け飛び、金属が限界を超えてひしゃげる甲高い悲鳴が上がる。
「カハッ……!!」
オリエールの口から、鮮血が噴水のように吐き出され、タワーシールドの裏側を赤く染めた。
彼女のスキル『守護者の誓い』。それは、指定した対象が受ける物理的・魔法的ダメージを、空間を跳躍して自分自身の装甲と肉体に「強制転移」させるという、自己犠牲の極致たる能力だ。
隕石激突レベルの運動エネルギーが、彼女一人の鎧と内臓に圧縮されて叩き込まれたのだ。普通なら全身の骨がゼリー状に砕けている。
「……オリエール!」
千代が指揮所の手すりに身を乗り出す。
だが、血反吐を吐きながらも、鉄の女は両足で泥をしっかりと踏みしめ、崩れ落ちなかった。
彼女は血に染まった口元を歪め、不敵な笑みを浮かべた。
「ぐぅぅ……! まだ、まだ軽い……っ! この程度の衝撃で、私の装甲が抜けると思うなよ、豚どもが!」
彼女の耐久力(VIT)Sランクという異常なステータスと、全財産を注ぎ込んで修繕してきた最高品質の鎧が、致死量のダメージをギリギリで受け止めていた。
だが、その防壁が永遠に続くわけではない。オリエールの鎧には無数の亀裂が走り、次の突撃を受ければ間違いなく肉体ごと引き裂かれる。
「……耐えたわ! 第一防衛ライン、後退禁止!」
鼻血を滴らせながら、千代の脳髄がフル回転する。
魔獣の突撃は防いだ。敵の勢いは、オリエールという理不尽なスキルによって一瞬だけ完全に停止している。
足を止めた巨大な標的。
手数を叩き込むのは、今しかない。
「槍隊! 前へ!!」
千代の号令が響き渡った。




