第28話 鍋とフライパンの十字砲火
魔法とは、本来なら膨大なエネルギーを必要とする現象を、魔力というショートカットを用いて実現する技術である。
アーレイが行ったのは、敵の足元にある広場一帯の地層の「保水限界」と「摩擦係数」を、瞬時にゼロへと近づけるという環境操作だった。
固く踏み固められていたはずの泥の地面が、文字通り「液状化」した。
時速五十キロで疾走していた百五十頭の狼の足が、突如として硬い地面を失い、底なしの沼へと沈み込んだ。
前進する莫大な運動エネルギーは行き場を失い、行き着く先は一つしかない。
慣性の法則による、絶望的な前のめりの転倒である。
先頭を走っていた数十騎が、悲鳴を上げる間もなく泥の中に顔面から突っ込んだ。狼の太い前脚が不自然な角度にへし折れ、その背に乗っていたゴブリンたちは、投石機で放たれた石のように前方へと投げ出され、地面に激突して首の骨を砕いた。
悪夢はそれだけでは終わらない。
後続の騎兵たちには、急ブレーキをかける物理的な余裕など存在しなかった。彼らは、転倒して泥の障害物と化した味方の背中に次々と乗り上げ、激突し、自らも空を舞って泥の海へと沈んでいく。
それは、巨大な肉と骨による、凄惨なドミノ倒しだった。
武器が交わる音はない。ただ、肉体が物理的な衝撃によって破壊される、鈍く湿った音だけが、雨の広場に連鎖的に響き渡る。
「第一段階クリア。……ドーゴン、掃討開始!」
鼻血を滴らせながら、千代が指示を飛ばす。
広場を囲むように配置されていた無数のバリケード。その隙間から、ドーゴンが廃材を組み合わせて作り上げた狂気の兵器群が一斉に火を噴いた。
『おおっ! 完璧だ、完璧な動力伝達だ! お嬢ちゃんの言う通り芋の皮剥き機が、こんな見事な動きをするなんてな!』
土塁の陰から、自身が組み上げたからくりが計算通りに作動したことに対する、ドワーフの純粋すぎる歓喜の叫びが上がった。
村人から供出された底の深い鍋、取っ手の取れたフライパン。それらの内部に仕込まれた強力なバネとカム機構が、魔力の一切を必要としない純粋な機械力学によって、ボルト(太矢)を連続射出する“自動連射クロスボウ《フライパン型》”。
その無骨な外見からは想像もつかない精密さで、鋼鉄の矢の雨が、泥沼でもがくゴブリンたちへと降り注いだ。
落馬し、泥に足を取られて身動きが取れない彼らは、完璧な固定標的だった。矢は容赦なく皮鎧を貫き、頭蓋骨を砕き、内臓を破壊していく。
「カミイ! 弓隊、射撃開始! 息のある個体を確実に潰しなさい!」
千代の無慈悲な命令が下る。
丘の中腹に身を潜めていたカミイと、彼に率いられた兎人族の弓兵たち――長槍の適性すらなく、後方に回されたさらに非力な者たち――が、一斉に立ち上がった。
彼らの手は震えていた。
だが、眼下で泥にまみれ、無様に死んでいくかつての略奪者たちの姿は、彼らの心の中にあった絶対的な恐怖を、わずかに麻痺させる効果があった。
カミイの『幸運の風』が、乱気流となって弓隊の矢を奇妙な軌道で誘導する。
出鱈目に放たれた兎人族の矢は、風に流され、なぜかドーゴンの射撃を免れて泥から這い出そうとしていたゴブリンたちの眼球や喉笛へと、磁石に吸い寄せられるように突き刺さった。
一方的な殺戮だった。
戦闘というよりは、害獣の駆除、あるいは工業的な屠殺のプロセスに近い。
百五十の赤いマーカーが、千代の視界から次々と消滅していく。わずか数分の間に、広場は一面の死体の山と、夥しい量の血が混じった赤黒い泥沼へと変貌していた。
「……敵影、なし。第一波、殲滅完了」
千代は、震える声で終結を宣言した。
その瞬間、土塁の裏で長槍を構えて震えていた兎人族たちから、割れんばかりの歓声が上がった。
味方の死傷者はゼロ。
あれほど恐ろしかった魔王軍の騎兵を、ただの一人も村に侵入させることなく、無傷で皆殺しにしたのだ。彼らにとって、それは魔法のような奇跡の勝利だった。
ルイが涙を流して喜び、カミイが安堵の息を吐く。
だが。
指揮所に立つ千代の顔には、一片の喜びもなかった。
彼女の顔色は、足元の泥よりも青白く、土気色に染まっていた。
視界のUIを強制終了させた瞬間、激しい眩暈と吐き気が千代を襲った。彼女は手すりに寄りかかり、胃の中の黄色い胃液を櫓の下へぶちまけた。
「……オイオイ、大丈夫かよ、指揮官殿」
いつの間にか櫓に上がってきていたアーレイが、呆れたように千代の背中を叩いた。
「見事な采配だったぞ。わしの魔法のタイミングも、ドーゴンの射撃範囲の計算も完璧だった。だが、お前さんのその貧相な魔力で、百五十の動体予測を同時に行うのは、少々無理があったようだな」
アーレイの指摘通りだった。
千代のMPゲージは、限界を示す赤色で激しく点滅している。たった数分の指揮で、彼女の脳はオーバーヒートを起こし、血管が焼き切れる寸前だったのだ。
「……アーレイ」
千代は、口元の胃液を制服の袖で乱暴に拭いながら、血走った目で眼下の死体の山を睨みつけた。
「今のは、騎兵百五十よ。……あいつらの本隊の『オーク重装歩兵』は、三百いるのよ」
ゴブリンとは質量も装甲も桁違いの、生物的な戦車が三百。
それに加えて、魔導部隊と攻城兵器代わりの巨大魔獣。
彼らがこの泥の広場に足を踏み入れた時、果たして今の『泥濘地獄』や『フライパンの矢』が通用するのか。
そして何より、千代自身の脳が、その数百の暴力を同時に処理しきれるのか。
村人たちが歓喜に沸く中、女子高生の指揮官だけが、圧倒的な「物理法則の限界」という残酷な現実に直面し、一人青ざめていた。
雨は、血の臭いを洗い流すどころか、泥と混ざり合ってさらに濃密な死の香りを村に充満させていく。
泥の棺桶の蓋が閉まるのは、味方か、それとも敵か。
本当の地獄は、ここから始まる。




