第27話 泥濘地獄(マッド・コフィン)
戦争の朝は、得てしてひどく凡庸な顔をしてやってくる。
映画のクライマックスのような雷鳴も、劇的な朝焼けもない。ただ、昨日から降り続く小雨が、冷たく重い大気を盆地の底に押し留めているだけの、陰鬱で静かな夜明けだった。
視界は最悪に近い。雨粒が霧のように空気中に滞留し、百メートル先の景色すら白く乱反射して輪郭を曖昧にしている。
だが、千代の視界だけは例外だった。
物見櫓の指揮所に立つ彼女の網膜には、『戦術眼』による極彩色のデジタル情報が、物理的な天候を完全に無視して焼き付けられていた。
視界の端で、赤い光点が明滅を始める。
一つ、十、五十、百……。最終的に、百五十の赤いマーカーが、森の輪郭線の内側から一斉に吐き出された。
マーカーの頭上には、彼らの進行方向と速度を示す「黄色い矢印(速度ベクトル)」が伸びている。その矢印の長さは、彼らが徒歩ではなく、極めて機動力の高い四足歩行の獣に跨っていることを如実に示していた。
【敵対ユニット検知:ゴブリン狼騎兵部隊】
【個体数:百五十】
【陣形:横隊突撃陣/密集度・高】
「……第一波、来たわ。百五十騎。真っ直ぐ正面ゲートへ向かっている」
千代は、インカム越しに指示を出すオペレーターのような平坦な声で、念話帯域に情報を流した。
敵は、ルイが渡した「偽の地図」を完全に信用したらしい。アーレイが構築した複雑な土塁を迂回し、村への最短ルートであり、かつ最も安全(だと偽装された)な正面の一本道へと、百五十の質量が殺到してくる。
斥候の時とは違う、明確な殺意と略奪の意志を持った正規の突撃部隊。
彼らの目的は、防衛線を物理的な速度と数で蹂躙し、村の内部に混乱の種を蒔くことだ。
『ギャハハ! 来たな毛玉ども。百五十か、首を狩るには丁度いい数だぜ!』
ゲンガイの好戦的な声が念話に響く。
『馬鹿。騎兵百五十の突撃を正面から受けたら、あんたの肉体ごと後ろの村が平地になるわ。……指揮官、予定通りでいいのね?』
オリエールの冷静な確認。
「ええ。前衛は動かないで。……敵が『キルゾーン』に完全に入るまで、絶対に手出しは無用よ」
千代は、手すりを握る手に力を込めた。
視界を埋め尽くす黄色いベクトルが、ぐんぐんと伸びてくる。
時速五十キロメートル。百五十頭の巨大な狼が泥を蹴り立てる振動は、やがて地鳴りとなって丘の上の指揮所まで伝わってきた。
雨のカーテンを引き裂き、彼らの姿が肉眼でも確認できる距離に入る。
小柄で醜悪なゴブリンたちが、身の丈を越える長い曲刀を振りかざし、獲物を前にした飢餓感と嗜虐心で顔を歪めているのが見えた。彼らは自分たちが罠にはまっているなどとは微塵も疑っていない。無知な弱者たちが震えて待つ泥の村へ、一番乗りで略奪の火を放つ喜びに酔いしれている。
「到達まで、あと三十秒」
千代の脳裏で、極めて冷酷なカウントダウンが始まった。
敵の先頭集団が、アーレイが魔法で整地した「歓迎の道」へ足を踏み入れた。
百五十の騎兵が、横に広がりながら、村の広場へ続く開けた空間へと雪崩れ込んでくる。
千代の『戦術眼』は、その百五十のユニットの動きを、一つ残らず個別のデータとして処理していた。右翼の速度、左翼の遅れ、中央の密集度。それらの膨大な情報が、女子高生の生身の脳髄に強制的に流れ込んでくる。
痛い。
眼球の裏側を、熱した鉄の針で直接抉り回されているような激痛が走った。
数人の動きを追うのとは次元が違う。百五十という変数を同時に演算し続ける負荷は、千代の脳の処理能力の限界を容易に突破しようとしていた。
鼻の奥の粘膜が切れ、ツー、と一筋の血が唇へと流れ落ちる。鉄の味がした。
だが、千代は瞬きすら許されなかった。
網を絞るタイミングをコンマ一秒でも間違えれば、百五十の質量は防衛線を突き破り、後方の非戦闘員たちを挽肉に変えてしまう。
「二十秒……十秒……」
黄色いベクトルの群れが、村の入り口の広場を完全に埋め尽くした。
後続の最後尾の騎兵が、予定されたラインを越える。
敵は、自ら巨大な「マス目」の中央へと、すっぽりと収まっていた。
「……今!」
千代の、押し殺したような短い声が、念話を通じて老軍師の脳髄に刺さった。
『承知した』
広場の脇、カモフラージュされた土塁の上で待機していたアーレイが、愛用の杖を泥だらけの地面に深く突き刺した。
詠唱はない。ただ、高度に圧縮された演算結果を、大地というハードウェアに直接インストールするだけの作業。
「泥濘地獄」
アーレイの静かな呟きとともに、極めて局所的で、極めて暴力的な物理法則の書き換えが発動した。




