第25話 摩擦なき軍隊(フリクション・ゼロ)
戦争とは、極めて物理的な現象である。
質量を持った物体同士が衝突し、より高い運動エネルギーを持った側、あるいはより強固な構造を持った側が、相手の組織を破壊する。そこに神の意志や正義が介入する余地はない。
ただ、この単純な物理法則を複雑にしている厄介な「不純物」が一つだけある。
それが『感情』だ。
魔王軍の末端組織『黒牙旅団』を率いる将軍ドルゲは、降りしきる雨の森の中で、自身の麾下にある五百の軍勢を冷ややかな目で見渡していた。
森の木立の間、雨水を吸って重くなった腐葉土の上に、完全武装のオーク重装歩兵とゴブリン弓兵が整列している。
五百もの戦闘ユニットが密集しているにもかかわらず、そこには軍営特有の喧騒が一切存在しなかった。
私語はない。咳払いすらない。武器が触れ合う金属音すら、極限まで抑え込まれている。兵士たちは雨に打たれるがまま、瞬きすら忘れたかのように、ただ前方を見据えて直立不動の姿勢を保っていた。
まるで、巨大な兵馬俑の群れだ。
あるいは、脳幹だけを残して大脳皮質を物理的に切除された、完全なロボトミー患者の集団である。
それが、ドルゲの保有するユニークスキル『軍団支配』の効能だった。
彼が魔力を通じて兵士たちの神経系に直接介入し、恐怖と痛覚だけを切断しているのだ。
ドルゲにとって、兵士の士気という不確定要素は、軍隊の運用において最も忌むべき『摩擦』でしかなかった。
人間や亜人は、死を恐れる。痛みを嫌う。だから、敵の矢が飛んでくれば足を止め、隣の仲間が倒れれば陣形を崩す。そのわずかな感情の揺らぎが、部隊全体の伝達速度を遅延させ、最終的な敗北を招く。
ならば、最初から「恐れる機能」そのものを削除してしまえばいい。
痛覚を麻痺させ、死への忌避感を消し去り、ただ前進して武器を振るうだけの「生きた歯車」に改造する。それが、ドルゲが至った極めて論理的で、最も効率の良い部隊運用の最適解だった。
「……将軍」
静寂を破り、斥候部隊の生き残りであるゴブリンが、泥に這いつくばるようにしてドルゲの足元に近づいてきた。
ドルゲの支配領域の外で先行偵察を行っていたため、このゴブリンの目にはまだ「恐怖」という生物らしい感情が残っていた。彼は小刻みに震えながら、雨よけの油紙に包まれた筒を差し出した。
「報告します。先遣隊二十騎、村への突入直後に全滅した模様。生存者はおりません」
「そうか」
ドルゲの返答は、明日の天気を予測する程度の抑揚しかなかった。
二十の命が失われたことに対する怒りも、悲しみもない。先遣隊は彼の『支配』のネットワークの範囲外で活動していたため、ゴブリン特有の好戦的な本能が暴走し、勝手に敵のキルゾーンに突っ込んで自滅したのだろう。愚かなことだ。感情というバグを残したままの兵器は、これだから計算が狂う。
「敵の戦力は?」
「傭兵らしき人間が数名。それと、泥の壁(土塁)のような防御陣地が構築されているのを確認しました。……ですが、将軍。素晴らしい手土産がございます」
斥候のゴブリンは、油紙の筒から一枚の羊皮紙を取り出した。
「村の中から、裏切り者が出ました。案内役のウサギのガキです」
「ほう」
「妹の命だけは助けてほしいと、泥水を啜って命乞いをしてきやがりました。その代償として、奴から村の防衛設備の『配置図』を買い取りました。……これです」
ドルゲは革手袋に覆われた手で羊皮紙を受け取り、雨に濡れないよう天幕の下でそれを広げた。
そこには、震える手で描かれた拙い村の地図があった。
新たに構築された複雑な土塁、防御罠密集、中央への安全路が、赤いインクで丁寧になぞられている。
「……なるほど。短期間でよくこれだけの防衛線を引いたものだ。優秀な土木魔導士と罠師を雇ったと見える」
ドルゲは地図を眺めながら、極めて客観的な評価を下した。
先遣隊の騎兵部隊が、この狭い土塁の入り口に殺到し、罠にかかって一網打尽にされた図が、彼の論理的な脳内で容易に再生された。
「しかし、将軍」
斥候が疑わしそうに言った。
「これは敵の罠ではないでしょうか。あまりにも都合が良すぎます。そのウサギのガキが、偽の情報を掴まされているという可能性も……」
「ないな」
ドルゲは断言し、羊皮紙を丸めた。
その瞳には、弱者という生物の生態に対する、冷徹で絶対的な理解があった。




