第24話 女子高生と泥の決意
丘の上に組まれた物見櫓の指揮所。
雨よけの屋根の下で、千代は一人、防水布に包まって膝を抱えていた。
視界の『戦術眼』は、消費カロリーを抑えるためにオフにしてある。デジタルなワイヤーフレームと無機質なパラメータ表示が消えた世界は、ただの暗く、冷たく、そして圧倒的に物理的な「雨の夜」だった。
千代の体は、先ほどから小刻みな震えが止まらなかった。
寒さのせいではない。
恐怖だ。
昼間、カミイに指示を出して敵を殺させた。
その時は、感情を完全に遮断し、自分を「システムの一部」として振る舞うことができた。
だが、静寂が訪れ、視覚情報が遮断された途端、脳が勝手にその後のシミュレーションを始めてしまうのだ。
――もし、明日、私の予測が外れたら?
もし、敵の数が五百ではなく千だったら。
もし、アーレイの土塁が想定より早く崩れたら。
もし、オリエールの盾が限界を超えて砕け散ったら。
その時、千代がこの村に集めた六人の怪物たちは、全員死ぬ。
村人たちも、子供たちも、ルイも、全員がなぶり殺しにされる。
そして、その全責任は、彼らをこの泥の盆地に配置した、ただ一人の女子高生にあるのだ。
自分が下す一つの指示の遅れが、あるいは方角の誤りが、ダイレクトに誰かの内臓をこぼれさせ、首を吹き飛ばす。
ゲームならリセットボタンがある。だが、ここにはない。
吐き気がした。胃液が込み上げてくるのを、千代は必死に唾を飲み込んで耐えた。
なんで私が、こんなことを。
元の世界にいれば、明日は修学旅行の最終日で、友達と下らない恋バナでもしながら京都の寺でも巡っていたはずなのだ。
誰も死なない、誰も殺さない、安全で退屈な世界。
そこから、急に「五百人の命を管理する神様」の席に座らされた。
無理だ。私にはできない。ただの、ちょっとシミュレーションゲームが得意だっただけの、剣道部の補欠なのだから。
千代が顔を両手で覆い、静かに泣き崩れそうになった、その時だった。
泥を跳ね上げる複数の足音が、指揮所への階段を登ってきた。
千代はハッとして顔を上げ、急いで袖で目元を乱暴に擦った。指揮官が部下の前で怯えた顔を見せるわけにはいかない。
「……誰」
千代は、極めて平坦な声を作って暗闇に向かって尋ねた。
「千代様。僕です」
雨に濡れた階段から顔を出したのは、案内役の少年ルイだった。
そして、その後ろには、村長のブロップをはじめとする、十数名の兎人族の男たちが続いていた。
彼らの手には、昼間の訓練でドーゴンから渡された、五メートルの『鉄心竹』の長槍が、しっかりと握りしめられていた。
彼らは全員、頭からずぶ濡れになり、泥にまみれていた。
だが、その赤い瞳には、以前のような「誰かに助けてもらおう」という卑屈な光はなかった。恐怖は完全には消えていない。足は震え、耳は怯えで下がっている。それでも、彼らは自らの意志で、武器を持って千代の前に立っていた。
「どういうこと。あなたたちの配置は、明日の朝まで集会所の裏で待機のはずよ。勝手に持ち場を離れることは軍紀違反だわ」
千代が冷たく指摘すると、ルイは一歩前に出て、雨を拭いもせずに直立不動の姿勢をとった。
「申し訳ありません。ですが……寝ていられなかったんです」
ルイの声は、微かに上ずっていたが、決して逃げようとする者の声ではなかった。
「千代様。僕に……僕たちに、もう一度、昨日のように太鼓を叩いて、指示をください。……もう、逃げません」
ルイは、手にした長槍の柄を、ギリッと音が鳴るほど強く握りしめた。
「マイナを守るために、僕はみんなを裏切ろうとしました。でも、カミイさんがあの狼から僕たちを守ってくれて……千代様が、僕を許してくれて。だから、今度は僕が、僕の手でマイナを守ります。村の皆も、同じです。ただ怯えて待つのは、もうやめました」
後ろに立つ村の男たちも、無言で深く頷いた。
彼らは弱者だ。生まれついての捕食される側の生物だ。
だが、圧倒的な恐怖の前に立たされた時、逃げるのではなく「大切なものを背中に庇って立ち止まる」という選択をした。
それは、生物としての本能を乗り越えた、極めて人間的な、尊厳の獲得だった。
千代は、彼らの震える肩と、泥だらけの長槍を見つめた。
そして、自分自身の足の震えが、いつの間にかピタリと止まっていることに気がついた。
――なんだ。私だけじゃないじゃないか。
震えているのは、私だけじゃない。
プロの傭兵たちも、この臆病な村人たちも、みんな死の恐怖と隣り合わせで、泥にまみれながら必死に立っている。
ならば、彼らの命を盤面に並べる指揮官の私が、ここで座り込んで泣いている暇などない。
千代は、防水布をバサリと脱ぎ捨てた。
冷たい雨が、制服のブレザーを瞬時に濡らす。だが、不思議と寒さは感じなかった。体の中の重い魔力が、静かな熱を持って全身を巡り始めている。
「……生意気言うようになったじゃない、ルイ。二重スパイの分際で」
千代は、かすかに口角を上げて笑った。
それは、冷徹なオペレーターの作り笑いではなく、このふざけた不条理な世界に対する、女子高生としての強気な反逆の笑みだった。
「わかったわ。あなたたちのその無駄に長い槍、一番効果的な場所に突き立てさせてあげる」
千代は、自身の網膜のスイッチを入れた。
視界にノイズが走り、世界が再び、極めて論理的で残酷な『戦術眼』のワイヤーフレームへと切り替わる。
もう、恐怖はない。
あるのは、この盤面をどう操作し、敵をどうすり潰すかという、冷徹な演算機能だけだ。
「ルイ。各員に伝達しなさい」
千代の声は、雨音を切り裂いて、澄み切った鐘のように響いた。
「総員、最終配置につきなさい。……これより、私たちの村を守るわよ」
「「「ハッ!!」」」
兎人族の男たちの、決意に満ちた返事が丘の上に轟く。
東の空の暗闇が、ほんのわずかに白み始めていた。
雨は本降りとなり、盆地は完全な泥濘の海と化している。
泥の要塞の防衛戦。
七つの星と、名もなき弱者たちの決戦が、今、幕を開ける。




