第22話 初陣の風と吐瀉物
パニック状態の狼は、常識的な痛覚を失っていた。
全身に軽度の火傷を負い、毛を焦がしながらも、その脚力は凄まじかった。跨っているゴブリンもまた、恐怖から逃れるために手にした曲刀を滅茶苦茶に振り回し、ただ前方にあるものを切り刻もうとしている。
「ひぃっ……!」
避難所の前。少年カミイは、迫り来る圧倒的な暴力を前に、足が地面に縫い付けられたように動けなくなっていた。
背後の重い木の扉の向こうには、マイナをはじめとする子供たちが息を潜めている。自分がここを退けば、間違いなく彼らが食い殺される。
カミイは、震える手で背中に背負っていた弓を外し、矢を番えようとした。
二刀流の短剣では、狼の突進を止められないと判断したからだ。
しかし、指先が恐ろしいほど冷たく、感覚がない。弦を引こうとしても、腕の筋肉が痙攣を起こしたように強張って、矢は半分にも届かなかった。
「あ、ああ……どうしよう、当たらない。外したら、殺される……っ!」
カミイは半泣きになりながら、二本目の矢を弦に当てた。
狼が、泥を蹴り立てて距離を詰めてくる。残り三十メートル。二十メートル。
弓の照準は完全にブレていた。ゴブリンを狙っているのか、空を狙っているのか自分でもわからない。
――もう駄目だ。
カミイが目を閉じようとした、その時だった。
彼の背中に、トン、と軽い衝撃が走った。
振り返る余裕はない。だが、その衝撃は、極度の緊張で凝り固まっていたカミイの肩甲骨周辺の筋肉の強張りを、嘘のように解きほぐしていた。
「……吸って」
耳元で、極めて低く、静かな声がした。
剣聖レオハルトだった。
彼は千代に「指揮所を空けるな」と命じられていたため、剣は抜いていない。ただ、護衛の持ち場のギリギリの範囲まで音もなく歩み寄り、「剣を振るうまでもない、口先だけの援護だ」と言わんばかりに、カミイの背中に片手を添えているだけだった。
「吸って。そして、肺の底からゆっくりと吐き出せ」
その声には、激励も、叱咤も、同情もなかった。
ただ、大工が釘を打つ時の手順を教えるような、極めて事務的で物理的な指示。
カミイは言われるがままに、大きく息を吸い込み、吐き出した。
不思議と、震えが少しだけ治まった。
「敵を見るな。的を見るな」
レオハルトの声が続く。
「お前が引いているのは、ただの弦だ。お前が離すのは、ただの指だ。……結果は、風に任せろ。放せ」
残り十メートル。
ゴブリンが、勝利を確信して醜い顔を歪め、曲刀を振りかぶった。
カミイの指先から、弦が滑り出た。
ビュン、という風切り音が響く。
放たれた矢の軌道は、誰の目から見ても「完全な失敗」だった。
照準はゴブリンの頭上を大きく越え、明後日の方向へと飛んでいく。カミイは絶望に顔を歪めた。
だが。
この少年に与えられたパラメータは、『幸運(LUCK):SSS』である。
千代の『戦術眼』だけが、その後に起こった物理法則のバグとも言える現象を視認していた。
上空へ逸れた矢の羽が、泥の盆地に吹き込んだ特異な突風――カミイのスキル『幸運の風』によって生じた局地的な乱気流――に煽られた。
矢は空中で急激に失速し、軌道を下へとねじ曲げる。
放物線を描いて落下してきた矢は、突進してくる狼の足元にあった「先ほどカミイが落とした一本目の矢」の鏃に偶然接触した。
硬質な金属同士の衝突。
その微細な衝撃が、落下してきた矢の角度を鋭角に跳ね上げた。
跳ね上がった矢は、パニック状態で首を上下に振っていた狼の顎をかすめ、そのまま、曲刀を振りかぶって無防備になっていたゴブリンの、粗悪な皮鎧の首元の隙間――わずか数センチの動脈の露出部分へと、文字通り「吸い込まれるように」突き刺さった。
「ギャッ……!?」
ゴブリンの喉から、間の抜けたカエルのような音が漏れた。
首の動脈を完全に切断されたゴブリンは、体を硬直させ、狼の背中から横に転げ落ちた。
主を失った狼もまた、急激な方向転換に足を取られて泥濘に突っ込み、二度、三度と激しく横転して、物見櫓の支柱に激突して動かなくなった。
静寂が落ちた。
丘の下には、首からおびただしい量の血を噴き出して痙攣するゴブリンの死体と、ピクピクと足を動かす狼の姿だけがあった。
カミイは、弓を握りしめたまま、その光景を呆然と見つめていた。
自分が放った矢が、敵を殺した。
その事実を脳が処理した瞬間、彼を襲ったのは、英雄としての達成感でも、生き残った安堵感でもなかった。
「う、うぇっ……」
強烈な吐き気だった。
血の匂い。生き物が自分と同等の質量を持つ「肉の塊」へと変わる瞬間の、生々しい感覚。
ゲームや物語の中では決して描かれない、他者の命を強制終了させたという、圧倒的な罪悪感と生理的嫌悪感。
カミイは弓を取り落とし、地面に四つん這いになると、胃の中の酸水を泥の上に激しくぶちまけた。
涙と鼻水が止まらない。胃が空っぽになっても、まだ痙攣が治まらなかった。
「……よく放った。それでいい」
レオハルトは、嘔吐するカミイの背中をもう一度だけ軽く叩き、それ以上は何も言わずに持ち場へと戻っていった。慰めは無用だという、彼なりの不器用な労いだった。
カミイが泥にまみれてえずき続けていると、視界の端に、小さな足が近づいてくるのが見えた。
兎人族の少女、マイナだった。
彼女は、血と吐瀉物の匂いが充満する凄惨な現場に怯えながらも、手にした粗末な布切れを、カミイの口元へそっと差し出した。
「カミイ、さん……あの、これ」
マイナの声は震えていた。
彼女は、カミイが敵を殺した恐怖よりも、自分たちを守るためにこの少年が背負ってしまった「汚れ」を、少しでも拭ってあげたいという衝動に従ったのだ。
カミイは、充血した目でマイナを見上げ、その震える手から布切れを受け取った。
「……ごめん。かっこ悪い、ところ……見せちゃったね」
「そんなこと、ないです」
マイナは、泥に汚れたカミイの背中を、おずおずと撫でた。
それは、英雄と姫君のロマンチックな場面などでは断じてなかった。
泥と、吐瀉物と、血の匂いにまみれた、あまりにも情けなく、しかし痛切な生存の証。
二人の幼い距離は、その圧倒的な「不条理な現実」の共有によって、ほんの少しだけ縮まっていた。
物見櫓の上から、その一部始終を見下ろしていた千代は、こめかみの痛みを堪えながら深く息を吐き出した。
先遣隊、全滅。
初陣は、完璧な勝利で終わった。
だが、千代は知っている。
これがただの小手調べに過ぎないことを。
二十騎でこれほどの混乱と恐怖を生むのだ。本隊の五百が津波のように押し寄せてきた時、果たしてこの歪な防衛システムは機能し続けるのだろうか。
「……アーレイ。各員の消耗度を報告して。次の防衛設備の再構築に入るわ」
千代の声は、小雨が再び降り始めた泥の盆地に、淡々と響き渡った。
本番は、これからだ。




