第20話:泥まみれの抱擁
「千代様……こいつ、敵に情報を……」
カミイが、震える声で事態を報告しようとした。
だが千代は、手でそれを制した。
彼女はオリエールから羊皮紙を受け取り、一瞥した。ドーゴンの鳴子トラップの位置と、アーレイが構築した土塁の「本当の死角」が、驚くほど正確に記されている。案内役として千代たちの傍にいたからこそ知り得た、極秘情報だ。
「オリエール。軍法会議を開くなら、スパイの処刑は妥当な判断ね」
千代は淡々と言った。
「でも、ここは私の軍隊よ。処分は私が決めるわ。ゲンガイ、彼を下ろして」
ゲンガイが舌打ちをして手を離すと、ルイは泥水の上に崩れ落ちた。
激しく咳き込み、首の痣をさするルイを見下ろし、千代は静かに尋ねた。
「なぜこんなことをしたの」
「…………」
「敵から、何を条件に取引を持ちかけられたの。答えなさい」
千代の瞳には、怒りも軽蔑もなかった。ただ事象の因果関係を解析するオペレーターの目だった。
ルイは泥にまみれた顔を上げ、嗚咽を漏らしながら自白した。
「……マイナです。妹のマイナだけは、殺さないって……斥候のオークが、そう言ったんです。村の配置図を渡せば、僕と妹だけは、奴隷にせずに逃がしてやるって……!」
ルイの言葉に、村人たちが再び「自分たちだけ助かろうとしたのか!」と激昂しかけた。
だが、千代が冷ややかな視線を一巡させると、彼らは蜘蛛の子を散らすように口を閉ざした。
千代は、ルイの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
そして、誰もが予想しなかった行動に出た。
千代は、泥と涙でぐしゃぐしゃになったルイの小さな体を、両腕でしっかりと抱きしめたのだ。
「え……?」
ルイが間の抜けた声を漏らす。
制服のブレザーが泥で汚れることも厭わず、千代は彼を自分の胸に抱え込んだ。
「怖いよね。わかるわ」
千代の声は、先ほどの冷徹な指揮官のものとは打って変わって、年相応の、現代の女子高生としての柔らかい響きを持っていた。
「勝てるかわからない戦で、大切な家族が巻き込まれる。なら、自分たちだけでも逃げ出したい。自分さえ助かればいい……それは、生物として極めて当たり前の、正しい恐怖よ」
「千代、様……」
「さっきまであなたに石を投げていた連中だって、敵から同じ取引を持ちかけられれば、三秒で私たちを売っていたわ。あなたが特別に悪いわけじゃない。ただ、運が悪かっただけ」
千代の手が、ルイの泥だらけの背中を優しく撫でる。
それは、戦場の論理を完全に無視した、現代日本の「共感」と「赦し」だった。
オリエールが信じられないという顔で千代を睨み、レオハルトがわずかに眉を動かす。彼ら傭兵にとって、裏切り者に同情するなど、自らの首を絞める自殺行為に他ならなかった。
しかし。
千代が甘いだけの少女ではないことを、ここにいる怪物たちは間もなく思い知ることになる。
「でもね、ルイ」
千代はルイの耳元で、甘い声のトーンを一切変えないまま、極めてビジネスライクな、氷のように冷たい言葉を囁いた。
「やり方が下手くそすぎるわ。交渉の基本がなっていない」
「……え?」
「敵の口約束を信じるなんて、三流以下の頭脳よ。配置図を渡した瞬間に、情報提供者としてのあなたの価値はゼロになる。その場で妹ごとオークの胃袋に収まって終わりよ」
千代はルイの体を離し、彼の赤い目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、再び『戦術眼』の冷徹な演算の光が宿っていた。
「あなたが妹を守りたいというそのエゴイズム、私は否定しない。むしろ大歓迎よ。死にたくないという強いエゴは、兵士を動かす最高の燃料になる」
千代は立ち上がり、アーレイとドーゴンを振り返った。
「アーレイ。この地図に記された土塁の『正解ルート』、今から魔法で土壁を動かして、すべて『行き止まりの死地』に書き換えられる?」
「造作もない。摩擦係数をいじって泥の落とし穴にするのも十分で済む」
「ドーゴン。鳴子トラップの位置を、敵が『安全だ』と思い込むように偽装配置できる?」
「任せな。敵の足を誘い込む『見えない導線』を作るのは俺の得意分野だ」
二人のプロフェッショナルが、千代の意図を瞬時に理解して悪辣な笑みを浮かべた。
千代は、泥だらけの羊皮紙を再びルイの前に差し出した。
「いいこと、ルイ。あなたは今から、予定通り森へ行きなさい」
「……へ?」
「そして、敵の斥候にこの配置図を渡しなさい。『これが村のすべての防衛設備だ。ここを通れば安全に中心部へ侵入できる』と、泣きながら命乞いをして伝えるのよ」
それは、究極の逆用作戦だった。
敵が手に入れたと確信する「内部からの裏切り情報」。軍隊というものは、自分たちが苦労して手に入れた情報を過信するという致命的な癖がある。
偽の安全ルートを信じ込ませ、そこに敵の主力を雪崩れ込ませる。そこは、アーレイとドーゴンが即席で作り上げた、逃げ場のない完全なキルゾーン(屠殺場)へと変貌しているのだ。
「二重スパイよ。情報工作員としての任務を、あなたに与えるわ」
千代は、呆然とするルイを見下ろして宣言した。
「あなたが妹を守りたいなら、敵にすがるのではなく、敵を私の用意した罠に嵌めなさい。それで私たちの勝利に貢献できたなら、あなたの妹は、私が責任を持って五百の魔王軍から守り抜いてあげる」
千代の提案は、圧倒的な「悪魔の契約」だった。
処刑を免れる代わりに、敵を騙し討ちにするという最も危険な最前線へ彼を送り込む。失敗すれば敵に殺され、成功しても一生トラウマを抱えるだろう。
しかし、それは彼が「家族を守る」ための、唯一の現実的で、論理的な手段でもあった。
オリエールが、ふっと鼻で笑った。
「……甘いガキだと思ったら、とんでもない食わせ物ね。殺すより、よっぽど性悪な使い方だわ」
ルイは、千代から差し出された羊皮紙を、震える両手で受け取った。
彼の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。だがそれは、先ほどの言い訳がましい恐怖の涙ではなかった。
絶望が、強烈な強制力を伴う「忠誠」へと変換された瞬間の、覚悟の涙だった。
「や、やります……。僕が、奴らを罠にかけます……っ!」
ルイは泥の上に額を擦り付け、千代の泥だらけのローファーに口づけせんばかりの勢いで平伏した。
千代はそれを冷ややかに見下ろし、背後の怪物たちに命じた。
「さあ、総員、配置の再構築よ。敵を迎えるレッドカーペットを、一時間以内に仕上げなさい」
開戦まで、残り四十七時間。
裏切りという名の致命的な毒は、女子高生の手によって、敵を屠るための猛毒へと精製された。
泥の要塞は、完全な迎撃態勢へと移行しつつあった。




