第19話 闇夜の逃亡者
開戦まで、残り四十八時間。
三日三晩降り続いた小雨がようやく上がり、雲の切れ間から冷たい月光が泥の盆地を照らし出していた。
村の周囲には、アーレイの魔法で隆起した複雑な土塁の迷路が完成し、ドーゴンの廃材トラップが致死性の牙を隠して配置されている。日中は村人たちによるファランクス(長槍密集陣形)の訓練の怒号が響いていたが、深夜の今は、泥が乾く微かな音だけが村を支配していた。
その静寂を、不自然に乱す影があった。
村の最深部、備蓄倉庫の裏手から、一つの小さなシルエットが森の方角へ向かって這うように進んでいる。
影の正体は、案内役の少年ルイだった。
彼の呼吸は浅く早く、歯の根が合わずにカチカチと鳴っている。その手には、一枚の粗末な羊皮紙が握りしめられていた。
――ごめんなさい、ごめんなさい。
ルイは泥にまみれながら、心の中で誰にともなく謝罪を繰り返していた。涙で視界が滲む。
魔王軍五百。そんなもの、傭兵七人と村人の竹槍で勝てるわけがない。千代たちは自信満々だが、きっと最後は数の暴力に押し潰されて死ぬ。
村が焼かれるのは怖い。でも、それ以上に、たった一人の家族である妹のマイナが、オークに食べられたり、奴隷にされたりすることだけは、絶対に耐えられなかった。
夕暮れ時、森の境目で、影のように潜んでいた敵の斥候が囁いた声が耳にこびりついている。
『村の罠の地図を渡せ。そうすれば、お前と妹の分だけは、命を見逃してやる』
卑怯者だと罵られてもいい。地獄に落ちてもいい。マイナだけは、僕が守らなきゃいけないんだ。
森の境界線まであと十メートル。
そこまで行けば、敵の斥候との合流地点だ。
ルイが暗がりへ足を踏み入れようとした、その瞬間。
「……ルイ? こんな夜更けに、どこに行くの」
頭上から降ってきた声に、ルイの心臓が物理的に跳ね上がった。
見上げると、森の入り口にある枯れ木の枝に、獣人の少年カミイがしゃがみ込んでいた。
カミイは夜警の当番ではなかった。ただ、持ち前の『幸運の風』のスキルが、「なんとなく眠れないから外の空気を吸った方がいい」と彼をこの場所に誘導したのだ。
カミイは音もなく枝から飛び降り、ルイの前に立った。その顔に浮かんでいるのは、敵意ではなく、純粋な戸惑いだった。
「カ、カミイさん……これは、その、夜警の巡回で……」
「巡回? でも、千代さんの許可は出てないはずじゃ……。それに、それ」
カミイの視線が、ルイの握りしめる羊皮紙に落ちた。カミイは昼間、ルイが千代のテントの近くで、土塁の配置を書き写しているのを見ていた。
「それ、村の罠の地図だよね。なんでそんなもの持って、森へ……」
カミイは人の善意を疑わない少年だ。だからこそ、懸命にルイの不審な行動に「良い解釈」を探そうとしていた。
「もしかして、マイナちゃんが落とし穴の場所を間違えて落ちないように、危ない場所を二人で確認しに行こうとしてたとか……?」
少し頬を赤らめながら尋ねるカミイ。彼はこの数日、何かと理由をつけてはマイナと話し、その純朴な笑顔に惹かれていた。カミイにとってマイナは、英雄として「一番守りたい女の子」になりつつあったのだ。
だが、その『マイナ』という名前に、ルイの肩がビクッと跳ねた。
「違う! 邪魔しないでくれ!」
限界に達したルイはパニックを起こし、カミイを乱暴に突き飛ばして森へ駆け込もうとした。
「あっ……」
突き飛ばされた瞬間、カミイの温かい性善説のフィルターが、残酷な現実の前に砕け散った。
夜逃げ。地図。敵が潜む森。
すべてが最悪の答えに直結した。
カミイは弾かれたように腰の短剣を抜いた。その手は、怒りよりもショックで情けないほどに震えていた。
「動くな、ルイ……!」
カミイの声は、泣きそうにひび割れていた。
「村を……売る気なのか!? 僕らが、絶対にみんなを守るって約束したのに!」
「勝てるわけないだろ! 君らみたいな寄せ集めで!」
ルイも半狂乱になって叫び返した。
「マイナが死んじゃうんだ! 君にマイナの命の責任が取れるのかよ!」
「取れるよ! 僕が守るって……!」
二人の少年の間で、泥にまみれたエゴイズムと理想が交錯する。
だが、その決着は、第三者の圧倒的な暴力によって唐突に終わりを告げた。
「……チッ。ガキどもが、夜中にピーピーうるせえぞ」
背後の闇から、地鳴りのような声が響いた。
ルイが振り返る暇もなかった。巨大な手が彼の首根っこを掴み、そのまま宙に吊り上げた。
魔人ゲンガイだった。
彼は就寝中も野生の勘で周囲の殺気を察知する。カミイの抜いた短剣の気配を嗅ぎつけ、起きてきたのだ。
「あ、が……っ」
「おいおい、手首に何か握ってやがるな」
ゲンガイはルイの腕を乱暴に振り、羊皮紙を地面に落とさせた。
そこに記されていたのは、土塁の迷路と、ドーゴンの落とし穴の位置を示す「村の防衛図」だった。
「……なるほどな」
いつの間にか、オリエールも巨大な盾を引きずりながら現れていた。彼女の目は、文字通りゴミを見るような冷酷さに満ちていた。
騒ぎを聞きつけ、アーレイやドーゴン、そして村の兎人族たちも、松明を手にして次々と広場に集まってきた。
「裏切り、ね。傭兵稼業じゃ珍しくもないが、まさか雇用主の身内から出るとはね」
オリエールが、落ちた羊皮紙を拾い上げて冷笑した。
「前線の盾役にとって、背中から撃たれるのが一番の死因よ。こんな情報を敵に流されたら、私の装甲ごと全員が串刺しだわ。……殺すわよ、こいつ」
オリエールの宣告に、広場の空気が凍りついた。
ゲンガイが「首の骨を折るか? それとも食うか?」と物騒な提案をし、アーレイが「尋問が先だ。情報の漏洩範囲を特定せねばならん」と事務的に応じる。
その極限の恐怖の中で、最も醜悪な反応を見せたのは、他ならぬ村の兎人族たちだった。
つい先日まで「戦いたくない」「逃げたい」と泣き言を並べていた彼らが、自分たちのコミュニティの中に「明確な裏切り者」を発見した瞬間、態度を一変させたのだ。
「ルイ! 貴様、村を売る気じゃったか!」
「この恥知らずめ!」
「殺せ! 傭兵の旦那方、そいつを殺してくだされ! そいつは村の面汚しだ!」
誰かが泥の塊をルイに投げつけた。それが合図になったかのように、次々と石や泥がルイの体にぶつけられる。
彼らは、ルイを激しく断罪することで、「自分たちは彼とは違う、村を守る側にいる善良な被害者だ」と傭兵たちにアピールしているのだ。集団心理の最も卑劣で、そして最もありふれた自己保身の形だった。
「お兄ちゃんに石を投げないで!」
人混みをかき分け、小さなマイナが飛び出してきた。彼女は泥を投げられるルイを庇うように抱きつき、泣き叫んだ。
その姿を見たカミイは、自分が短剣を抜いてしまったせいだという罪悪感に苛まれ、顔を青ざめさせて立ち尽くすことしかできなかった。
「そこまでよ。石を投げるのをやめなさい」
騒ぎの中心を切り裂くように、静かで、しかし絶対的な冷気を帯びた声が響いた。
村人たちの手が止まる。
群衆をかき分け、千代が歩み出てきた。
彼女の視界には『戦術眼』のワイヤーフレームが展開されており、この場にいる全員の心拍数と精神状態のデータが滝のように流れていた。




