第12話 冷徹なる緩衝材
分厚い木の扉が粉砕される寸前だった。
ゲンガイの蹴りが放たれ、空気を圧縮する暴力的な風圧が生まれたその瞬間。
彼と扉の間に、鋼鉄の壁が割り込んだ。
金属同士が激突する、耳をつんざくような轟音。
ゲンガイの蹴りは、オリエールが構えた巨大なタワーシールドの表面に叩き込まれていた。
数百キロの衝撃。並の人間なら盾ごと吹き飛ばされて内臓を潰される威力だが、オリエールの足は泥濘の地面に深く沈み込み、一歩も後退していなかった。
「……何のつもりだ、鉄の女」
「そっちこそ。守るはずの雇用主の家を蹴り破って、どうするつもりよ。馬鹿な頭に蛆でも湧いたの?」
ゲンガイの目が血走り、オリエールの瞳が冷たい殺気を帯びる。
一触即発。五百の魔王軍を迎え撃つ前に、最強の矛と絶対の盾が同士討ちを始めようとしていた。
その光景を、少し離れた薪割りの丸太の上から、レオハルトが無表情に見つめていた。彼の視界には争いなど入っていないようだった。
だが、彼の足元には、なぜか一人の兎人族の幼児が立っていた。
まだ言葉も拙い、ピピという名の三歳児だ。周囲の恐怖の空気も読めず、皆が家に隠れる中、一人だけ外に飛び出してきてしまったらしい。ピピは、レオハルトの腰に下げられた無骨な鉄の剣に興味津々で、短い手を伸ばして触ろうとしている。
レオハルトは、幼児を振り払うわけでもなく、かといってあやすわけでもなく、ただ「処理不能なエラー」に直面した機械のように、ピピの頭頂部を虚無の目で見つめ返していた。
「そこまでよ。二人とも離れなさい」
千代が、ゲンガイとオリエールの間に割って入った。
狂犬の殺気と歴戦の傭兵の威圧感。普通の女子高生なら立っていることすらできない重圧の交差点。だが、千代の足取りには微塵の躊躇もなかった。
「ゲンガイ。あんたの仕事は敵を殺すことよ。味方の財産を壊したら、その分あんたの報酬(肉)から差し引くわよ」
「チッ……あいつらが俺様を無視するからだろ。命の恩人様に向かって、挨拶のひとつもねえとはどういう教育してやがる」
ゲンガイが不満げに舌打ちをし、脚を下ろす。オリエールも盾を下ろしたが、その表情は険しいままだった。
ギドの家の扉の隙間から、怯えきった兎人たちの目が見える。彼らは助けられたことへの安堵よりも、目の前の暴力装置に対する恐怖で完全に縮み上がっていた。
千代は、周囲の家々の隙間からこちらを窺っている村民たち、そしてその後ろで怯えるルイたちを見渡した。
彼らは「優しい英雄」を求めていたのだ。
自分たちの頭を撫でて、大丈夫だと微笑んでくれる、おとぎ話の騎士様を。
だが、千代が連れてきたのは、血と金と欲望の臭いが染み付いた、社会の掃き溜めの住人たちだ。仲良くなどなれるはずがない。水と油だ。
ふと、千代の脳裏に、元の世界での記憶がフラッシュバックした。
広いダイニングテーブル。冷え切った料理。仕事の愚痴を延々とこぼす父親と、それを無言で聞き流しながらスマホをいじる母親。
「家族だから仲良くしなければならない」という世間の同調圧力が、逆に家の中の空気を決定的に毒していた。無理な愛情の強要は、憎しみよりも人を息苦しくさせる。
千代は、その「嘘くさい団欒」が何よりも嫌いだった。
だからこそ、彼女は結論を急いだ。
この歪な関係を、無理やり「絆」や「信頼」といった美しい言葉でコーティングする必要はない。
必要なのは、明確な線の引き直しだ。
「……村の皆さんに、指揮官として通達します」
千代は、村全体によく響く声で宣言した。
その声には、昨日のような情熱も、同情も一切含まれていなかった。極めて事務的で、冷徹な響きがあった。
「勘違いしないでください。私たちは、あなたたちとお友達になるために来たわけではありません。私たちは傭兵であり、あなたたちはクライアントです。それ以上でも、それ以下でもありません」
村人たちの間に、戸惑いのざわめきが広がる。
ゲンガイやオリエールも、千代の突然の冷たい態度に眉をひそめた。
「彼らは傭兵、プロの暴力装置です。血の匂いがして当然です。あなたたちが彼らを怖がるのは正しい反応です。……だから、無理に仲良くしようとしなくて結構です。感謝の言葉も、笑顔もいりません」
千代は、ギドの家の扉に向かって、はっきりと告げた。
「私たちがあなたたちを守るのは『契約』だからです。あなたたちが怯えていようが、私たちを嫌っていようが、期日が来れば敵の首を刎ねて防衛を完了させます。それが私たちの仕事です」
「仕事、だと……?」
ゲンガイが呆気にとられたように呟く。
千代は彼らを振り返らずに言葉を続けた。
「ただし。労働には対価が必要です。笑顔はいりませんが、彼らが戦うための『燃料』は必要です。それが契約の条件です。だから、村にある食料を一箇所に集め、彼らに提供してください。恐怖で家から出られないなら、扉の前に置いておくだけでも構いません」
千代の提案は、村人たちにとって残酷な宣告のようでありながら、同時に、奇妙な「安堵」をもたらした。
愛さなくていい。
感謝しなくていい。
ただ、契約として物資を支払えば、彼らは勝手に戦ってくれる。
その「感情を伴わない取引」の形は、弱者にとって、偽善的な友情を強要されるよりも遥かに理解しやすく、精神的な負担が軽いものだった。
「……本当に、それだけで、いいのか……?」
ギドの家の扉が数センチだけ開き、中から初老の農夫が震える声で尋ねた。
「ええ。それだけです。お互いのために、不干渉の業務提携と行きましょう。……残り時間は百十八時間。今からこの村を要塞化します。作業の邪魔にならないなら、家の中で耳を塞いでいて構いません」
千代のその徹底的に冷え切った宣言を聞いて、オリエールが「ふっ」と短く笑い、タワーシールドを背負い直した。
「なるほどね。あんた、口が悪い割には、なかなか気の利いた緩衝材になるじゃない」
「嫌われ役は指揮官の特権よ。……ゲンガイ、少し待てば食事は配給制で出てくるわ。それまで大人しくドーゴンの土木作業を手伝いなさい」
「チッ、わかったよ。だが配給の量が少なかったら、あのウサギどもの耳をむしって食うからな」
ゲンガイは悪態をつきながらも、矛先を収めて広場の方へと戻っていった。
一触即発の危機は去った。
だが、なぜか千代の胃の痛みは治まらなかった。
この「業務提携」を成立させるための唯一の条件――『村からの食料の提供』が、この後、取り返しのつかない決定的な問題を引き起こすことを、彼女はまだ知らなかったからだ。
空の雲がさらに厚みを増す。
開戦まで、残り百十八時間。
結束なき防衛軍の、泥臭い陣地構築が始まろうとしていた。




