第11話 招かれざる英雄たち
奇跡の到来を喜ぶ熱狂の賞味期限は、驚くほど短い。
村に到着した翌朝、千代が目を覚ました時、兎人族の集落を包んでいたのは、前日の夕暮れにあった宗教的なまでの歓喜ではなく、通夜のような重苦しい静寂だった。
千代は、あてがわれた村長の家の固い寝台から身を起こし、『戦術眼』を起動した。
視界の端に、昨日までは存在しなかった赤いデジタル表示のカウンターが点滅している。
【魔王軍『黒牙旅団』本隊・到達推定時刻】
【残り:118時間42分】
約五日。
昨日の夕方、森の奥でこちらの到着を監視していた敵の斥候部隊は、夜の間に撤退した。彼らが本隊に合流し、重装歩兵や攻城兵器を伴った五百の軍勢がこの泥の盆地に到達するまでの物理的なタイムリミットを、千代の演算機能が弾き出した結果だった。
五日以内に、この無防備な泥の集落を、五百の正規軍を迎え撃てる「要塞」に作り変えなければならない。
千代は制服のスカートの皺を伸ばし、ブレザーを羽織った。元の世界にいた頃は、朝の支度に四、五十分をかけていたが、今では五分で終わる。鏡を見る必要すらない。どうせ泥にまみれるのだ。
小屋の外に出ると、空は鉛色の雲に覆われていた。湿度が高く、肌に纏わりつくような空気の重さがある。
そして、異常なほど静かだった。
村には百人以上の兎人族がいるはずなのに、外を歩いている者が一人もいない。どの家も窓の隙間に板が打ち付けられ、扉は固く閉ざされている。まるで、猛獣が通り過ぎるのを息を潜めて待つ小動物の巣穴だ。
「千代様……おはようございます」
背後から、ひどく遠慮がちな声がした。
振り返ると、案内役を務めた少年ルイが立っていた。彼の手には、粗末な木の実と、濁った水が入った水差しが握られている。
そして、彼の背中の後ろには、彼よりもさらに小柄な、毛並みの明るい兎人族の少女が隠れるようにして千代を見つめていた。
「おはよう。……そっちの小さいのは?」
「妹のマイナです。ほら、ご挨拶して」
ルイに促され、マイナと呼ばれた少女はおずおずと頭を下げた。だが、彼女の長い耳は恐怖で完全に後ろへ反り返っており、小刻みに震えている。
ルイは、そんな妹の肩を庇うように抱き寄せた。その腕の力み具合に、千代は微かな違和感を覚えた。ただの兄妹愛にしては、過剰なほどの執着と警戒心が滲み出ている。
ルイの視線は千代を通り越し、村の広場の中央で眠りこけている「彼ら」に向けられていた。
「みんな……家から出られないんです」
ルイは、絞り出すように言った。
「感謝はしています。助けていただいたこと、本当に……。でも、いざあの人たちが村の中にいると、どうしても、体が動かなくて」
ルイの視線の先。
広場では、魔人ゲンガイが大の字になっていびきをかいていた。その巨体と、傍らに転がる血まみれの処刑鎌は、どう好意的に解釈しても「平和の使者」には見えない。
その少し離れた場所では、重装歩兵のオリエールが、自身のタワーシールドに背を預けたまま、腕を組んで浅い眠りについている。彼女の放つピリピリとした歴戦の傭兵の気配は、近寄る生き物を本能的に威圧していた。
アーレイとドーゴンはどこかの空き家を陣取って何やら図面を引いているようだったが、あの老軍師の腹黒い笑みも、村人から見れば悪魔の契約を迫る魔導士にしか見えないだろう。
「魔王軍の兵士と同じなんです。あの人たちからする匂いが……圧倒的な、暴力の匂いが」
ルイは震える手で、妹のマイナをさらに強く抱きしめた。
「俺は、何があってもこの子だけは守らなきゃいけない。だから……あの人たちを、あまり村の奥には入れないでください。お願いします」
それは、弱者としてのあまりにも切実で、そして身勝手な懇願だった。
自分たちを助けるために喚んでおきながら、いざ劇薬を目の前にすると、その副作用に怯えて扉を閉ざす。
千代はため息をつきたくなるのを堪えた。
だが、彼らを責めることはできない。圧倒的な捕食者を前にして、草食動物が怯えるのは自然の摂理だ。
「わかったわ。彼らには手を出させない」
千代がそう答えた直後だった。
広場の方から、地鳴りのような怒声が響き渡った。
「おいコラ! いつまで寝てやがる、この毛玉ども! 飯だ! 飯を持ってこいと言ってんだ!」
空腹で目を覚ましたゲンガイが、極めて不機嫌な足取りで、最も近くにあった村人の家へと向かっていくところだった。
その家は、昨日千代が村のデータを確認した際、【ギド/五十代/頑固・排他的】というステータスがついていた初老の農夫の家だ。
ゲンガイがその家の前まで行き、太い腕で木製の扉を乱暴に叩く。
「起きろ! 俺様がわざわざ守ってやるために来てやったんだぞ! 歓迎の牛一頭はどうした! 出てきて俺様を讃えろ!」
家の中からは何の返答もない。ただ、扉の向こうで何かが崩れるような音と、恐怖に引きつった悲鳴が微かに漏れ聞こえただけだった。
無視されたと感じたゲンガイの血管が、怒りで不気味に膨張する。
ただでさえ飢餓状態で知能が低下している狂犬の、理性の糸が切れる音がした。
「……あァ? 居留守かよ。ふざけやがって」
ゲンガイが一歩下がり、丸太のような右脚を振り上げる。
その軌道と筋力データから、千代の『戦術眼』はコンマ秒後に起こる物理現象を正確に予測した。
――扉の粉砕、および背後にいる村人数名の即死。
「ゲンガイ! 止めなさい!」
千代の制止の声は、魔人の耳には届いていなかった。




