第10話 泥と夕日の宣誓
峠の頂から見下ろす景色は、お世辞にも美しいとは言えなかった。
山肌を削って作られた擂鉢状の盆地。その底に、へばりつくようにして存在する集落。
屋根の腐りかけた木造の小屋が無秩序に身を寄せ合い、その周囲を、栄養を完全に吸い尽くされた灰色の畑が囲んでいる。村を二分するように流れる川は、土砂を多く含んでおり、濁った泥水として澱んでいた。
防壁はない。防衛設備もない。
ただそこにあるのは、「貧困」と「無力」の標本のような風景だった。
「……ケッ」
最初に口を開いたのはゲンガイだった。
彼は処刑鎌を地面に突き立て、大きく鼻を鳴らした。
「なんだよ、あんなドブみたいな場所か。俺様はてっきり、もう少しマシな城塞でも守るのかと思ってたぜ。あんな燃やす価値もねえゴミ溜めを、五百の軍勢が狙うのか?」
「魔王軍にとっては、物資の集積所程度の認識だろうな。麦がなければ奴隷を攫う。抵抗する力がない場所は、ただの無料の倉庫だ」
アーレイがパイプの灰を落とし、極めて事務的な見解を述べた。
オリエールが舌打ちをする。
彼女のプロとしての眼力は、あの村の立地の絶望的な悪さを瞬時に見抜いていた。
高低差で完全に包囲されている。敵が斜面を下ってくれば、位置エネルギーの乗った突撃を正面から受けることになる。籠城するような堅牢な建物もない。
守る価値など、どこにもない。
金貨五千枚を積まれたとしても、まともな傭兵団なら絶対に引き受けない死地だった。
だが。
千代の『戦術眼』は、村の入り口付近に密集している、無数の小さな「青い光(防衛対象)」の存在を捉えていた。
「ルイ。リヤカーを止めて」
千代はドーゴンが作った玉座から降りた。
泥だらけのローファーが、荒野の土を踏みしめる。
彼女は振り返らずに、後続の六人に向かって告げた。
「報酬の事前確認をするわよ。ついてきなさい」
千代を先頭に、一行は斜面を下り始めた。
彼らが村の境界線に近づくにつれて、そこに広がる異様な光景の全貌が明らかになっていった。
村の入り口、舗装もされていない泥濘の地面。
そこに、村の全住民が整列していた。
長老のブロップを先頭に、老人も、女も、まだ歩き始めたばかりの子供すらも。彼らは全員、膝をつき、額を泥水に擦り付けて、土下座をしていたのだ。
百を超える兎人族が、一糸乱れぬ姿勢で、救世主の到来を平伏して待っている。
その光景は、宗教的な儀式のように静謐でありながら、同時に、人間としての尊厳を完全に捨て去ったような、ひどく泥臭く、気味が悪いものだった。
カミイが息を呑み、オリエールの顔が険しくなる。ゲンガイですら、その異様なまでの「弱者の集圧」に気圧されたように沈黙した。
千代は、泥だらけになって平伏する彼らの前まで歩みを進め、足を止めた。
靴の底に、泥水が染み込んでくる冷たい感触。
長老のブロップが、泥にまみれた顔をわずかに上げ、震える声で絞り出した。
「おぉ……千代様。お待ちしておりました……。どうか、どうか我らをお救いくだされ……」
他の村民たちも、それに合わせて小刻みに震え、何かを祈るように地面を引っ掻いている。
その圧倒的な「寄りかかり」。
彼らは自分たちで戦う意志を持たない。ただ命を差し出し、誰かが奇跡を起こしてくれるのを待っているだけの、究極の他力本願。
現代日本の常識で言えば、軽蔑されるべき弱さだ。
だが、千代は知っている。
その「弱さ」こそが、背後に控える六人の怪物たちを繋ぎ止める、唯一の鎖であることを。
千代は深く息を吸い込み、肺の中にこの世界の重い空気を満たした。
そして、冷たく、よく響く声で命じた。
「顔を上げなさい」
千代の声に、ブロップをはじめとする村民たちが、恐る恐る顔を上げた。
千代は、彼らを見下ろすのではなく、真っ直ぐにその赤い瞳を見据えた。
「泣くのは終わり。祈るのも終わり。……あなたたちの命は、私が買い上げた」
千代は、背後を振り返らずに手を広げた。
「お待たせしました。七人の守護者が、今ここに参上しました」
千代の言葉に合わせるように、西の空に傾きかけた夕日が、峠の稜線から強烈な逆光を放った。
その赤い光が、千代の背後に立つ六人の姿を、巨大で凶悪なシルエットとして村の地面に描き出す。
身の丈を超える鎌を担ぐ、魔人。
鉄の長剣に手をかけた、剣聖。
杖を突き、煙を吐き出す、軍師。
不気味な工具をぶら下げた、ドワーフ。
絶壁のような大盾を構える、重装歩兵。
そして、二振りの短剣に手を添える、獣人の少年。
誰一人として、おとぎ話の白馬の騎士ではない。
殺意と、虚無と、欲望にまみれた、泥だらけの傭兵たち。
だが、その圧倒的な存在感と暴力の気配は、怯える村人たちに、確かな「生」への渇望を呼び覚ました。
静寂を破り、一人の子供が泣き声を上げた。それを引き金にするように、村人たちの間から、歓声とも嗚咽ともつかない声が爆発的に湧き上がる。
泥の国に、初めて希望が投下された瞬間だった。
しかし、その熱狂の中心に立つ千代の視界(戦術眼)は、全く別の事実を冷徹に観測していた。
歓喜に沸く村の「青い光」の群れ。
その向こう側。
村を囲む鬱蒼とした森の奥深く。
木々の影に隠れるようにして、三個の「赤いマーカー」が点滅している。
【敵対ユニット検知:黒牙旅団・斥候兵】
【状態:偵察・情報伝達】
敵の眼だ。
こちらの到着は、すでに補足されている。
遠く離れた森の闇の中から、冷ややかな視線が千代たちを値踏みしているのが、痛いほどに伝わってきた。
千代の口角が、わずかに釣り上がる。
歓迎委員会はいない。準備期間もない。
泥と血にまみれた絶望的なゲームの火蓋は、今、この瞬間に切って落とされたのだ。
「……さあ、仕事よ」
千代の静かな号令が、七星の戦記の始まりを告げた。




