表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

武侠短編シリーズ

武侠小説:求敗独尊

作者: ヤマダ

その男の名は、もはや誰も口にしない。


ただ「剣鬼(けんき)」と呼ばれ、江湖(こうこ)の伝説として恐れられていた。


泰山の頂、雲海を見下ろす断崖に、男は一人座っていた。傍らには、かつて数多の名剣を叩き折ってきた無骨な鉄剣が今はただの杖として突き立てられている。


男は十歳で天下第一剣客の剣宗を打ち破り、二十歳で門派を皆殺しにし、三十歳で天下を平らげ、四十歳で戦うべき敵を失った。


今やその剣は構えるだけで相手の戦意を削ぎ、一振りの風が山を裂く。


しかし、その瞳に宿るのは勝利の悦びではなく、底知れぬ虚無であった。


「……また、貴様か」


男は視線を動かさずに言った。


背後に立つのは、かつて男がその才能を惜しみ、命を救った若き剣士である。


若者はこの十年間、男を殺すためだけに地獄の修行を積んできた。


「今日こそ、貴方の不敗の神話を終わらせる」


若者の放つ殺気は鋭く、研ぎ澄まされていた。


男はゆっくりと立ち上がる。その動作には一点の隙もなく、ただそこに存在するだけで、周囲の空気が重圧で軋む。


「来い。私を殺せるというのなら、この命、喜んで差し出そう」


若者が動いた。


電光石火の突きが男の眉間を狙う。男は一歩も動かず、鉄剣をわずかに傾けた。


金属音が響き、若者の剣先が数寸だけ男の頬を掠め、一筋の血が流れる。


男はその温かい感触に、数十年ぶりに微かな高揚を覚えた。


(……惜しい。あと半寸、速ければ)


男の体は頭で考えるよりも先に動く。長年の修練が「生存」という本能を骨の髄まで刻み込んでいるのだ。


勝ちたくないのに、体が勝ってしまう。


殺されたいのに、腕が相手を斬り伏せてしまう。


数合の後、男の鉄剣が若者の胸元で止まった。若者は膝を突き、絶望に顔を歪める。


「なぜ、殺さない……!」


「……私を殺せる者が、お前しかいないからだ」


男は若者を斬らず、そのまま背を向けた。


最強とは世界から切り離されること。


誰とも理解し合えず、誰にも届かない場所で、ただ朽ちていくのを待つ刑罰。


「もっと強くなれ。私を殺し、この孤独から解き放ってくれ」


男の願いは若者への呪いとなって山頂に響く。


泰山の頂を吹き抜ける風は冷たく、無敵という名の檻に閉じ込められた男の影をただ静かに包み込んでいった。


彼が真の「敗北」を手に入れ、一人の人間として土に還れる日は、まだ遠い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
強すぎて敗北を求める剣使い……良いですね……とても好きなタイプのキャラです。 文章もしっかりと読みやすく分かりやすいのに、渋さとオシャレさがあって心地よかったです。地の文の分かりやすさとオシャレさを両…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ