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第6話:量子もつれによる深夜の密室(ホットライン)と、神のパジャマ

 右手。

 それは、現生人類が進化の過程で獲得した、道具を使用するための器官である。

 だが、現在の私の右手は、もはや生物学的な腕ではない。

 あれは「聖遺物レリック」だ。

 南青山の個室で、神宮寺レンと握手をしてから二十四時間が経過した。

 私は帰宅直後、この右手を食品用ラップフィルム(業務用)で三重に密封し、さらにシルクの手袋を装着して保護していた。

 可能であれば、この腕ごとホルマリン漬けにして博物館に寄贈したい。

 あるいは、液体窒素で瞬間冷凍し、彼の体温を永遠に保存するべきか。

「……無理だ。エントロピーの増大には逆らえない。彼の体温はすでに大気中に拡散し、分子レベルで宇宙と一体化してしまった……」

 私はリビングのソファ――通称「コックピット」で、ラップ巻きの右手を掲げながら絶望していた。

 だが、感傷に浸っている暇はない。

 私のスマホは、昨日から異常な熱を帯びている。

 物理的な発熱ではない。情報の密度が高すぎて、空間が歪んでいるのだ。

 ピロン。

 軽快な通知音が、静寂を切り裂く。

 画面に表示されたのは、LINEの通知。

 送信者名『Ren.J』。

 心臓が肋骨を突き破りそうになる。

 昨日、別れ際に「連絡先、交換しようか。契約だからね」と、半ば強引にQRコードを読み取らされたのだ。

 震える指でロックを解除する。

 表示されたメッセージは、破壊的かつ日常的なものだった。

『お疲れ様。今、仕事終わって帰宅したところ。

 これ、どう思う?』

 添付された画像。

 それは、雑誌の表紙でも、映画のポスターでもない。

 自宅と思われる洗面所の鏡越しに撮られた、一枚のセルフィー。

「……ぶふぉっ!!」

 私は空気を噴射した。

 そこに写っていたのは、メイクを落とし、髪が湿気で少しうねった、完全なる「オフ」の神宮寺レン。

 しかも、着ているのは、首元が少しヨレたグレーのTシャツ。

 極めつけは、彼の口元だ。歯ブラシを咥えている。

「あ、あ、ありえない……! これは国家機密の漏洩よ! ウィキリークスも真っ青のトップシークレットだわ!」

 神宮寺レンの歯磨き姿。

 そんなものが市場に出回れば、その経済効果だけで小国なら三つは買える。

 それを、彼は私「だけ」に送ってきた。

 直後、追撃のメッセージ。

『観測者として、感想を求む』

 試されている。

 これは、私が彼の「ただの肯定者イエスマン」で終わるか、それとも「真の理解者(共犯者)」になれるかの、チューリング・テストだ。

 私は深呼吸をした。

 ラップ巻きの右手でスマホを握りしめ、脳内のスーパーコンピュータをフル稼働させる。

 「かっこいいです」「尊いです」ではダメだ。それは一般のファン(マグル)の回答だ。

 彼は契約したのだ。私の「偏執的なロジック」を求めていると。

 私は高速でフリック入力を開始した。

『拝見いたしました。

 まず、そのヨレたTシャツの首元が描く曲線ですが、これは完全な「懸垂線(カテナリー曲線)」を描いています。重力と布の張力が完璧な均衡を保っている証拠であり、あなたがリラックス状態にあることを宇宙が祝福しています。

 さらに、歯ブラシの角度は水平線に対して約十五度。これは最も効率的に歯垢を除去できる科学的アングルであり、あなたの生活能力の高さを証明しています。

 総じて、あなたはオフの状態でも物理法則に愛されています。おやすみなさい。』

 送信。

 既読がついたのは、〇・五秒後だった。

 早すぎる。光速か。

『ふははっ! 最高。カテナリー曲線って初めて言われたよ。

 ありがとう、元気出た。明日も頑張れそう』

 画面の向こうで、彼が笑っている気配がした。

 その瞬間、私の胸の奥に、じわりと温かいものが広がった。

 それは恐怖でも、崇拝でもなく、もっと柔らかで、人間的な「繋がり」の感覚。

「……よかった。笑ってくれた」

 私はへなへなとソファに崩れ落ちた。

 だが、これが「地獄のゲート」が開いた合図だとは、まだ気づいていなかった。

 ***

 翌日、夜。

 私はいつものように仮面をつけ、配信の準備をしていた。

 今日のテーマは「推しの歩行フォームにおける流体力学的考察」だ。

 配信開始。

 コメント欄が流れる。

 いつものリスナーたち。

 そして、その中に鎮座する金色のアイコン、『名無しのゴンザレス』。

 以前の私なら、「石油王キター!」と喜んでいただけだ。

 だが今は違う。

 あのアイコンの向こうに、実際にスマホを操作している神宮寺レンの姿が見えてしまう。

 昨日のようなヨレたTシャツ姿で、ソファに寝転がりながら、ニヤニヤして私の配信を見ている彼が。

(……意識するな。私は壁だ。私はAIだ。私はただの音声合成ソフトだ)

「は、はいはーい! こんプリ~! 今日も元気に世界を浄化していくわよ~!」

 空元気で叫ぶ。

 しかし、開始十分後。事件は起きた。

 私がレン様の歩く姿の美しさを力説している最中、手元のスマホが震えた。

 LINEの通知。

 画面には、配信画面を見ながら親指を立てているレンの手の写真。

『今、歩き方の解説してるけど、実は俺、左足の小指に魚の目ができてるんだよね』

「ぶふっ……!」

 私は盛大にむせた。

 配信中の私に、裏(LINE)でリアルタイムの実況ツッコミを入れてきやがった。

 魚の目!?

 神宮寺レンの足に、魚の目!?

「れ、レイ様!? 大丈夫!?」

コメント欄が心配する。

私は必死に咳払いをし、取り繕った。

「ご、ごめん! ちょっと時空の歪みに喉がやられたわ! ……ええと、そう、彼の歩行は完璧なんだけど、時として、そう、微かな『痛み』を抱えているような儚さがあるのよ! それはまるで、大地を踏みしめる苦悩のような……!」

 必死のフォロー。

 すると、即座にLINEが来る。

『すごい。魚の目を「大地の苦悩」に変換した。天才か』

 遊ばれている。

 完全に、おもちゃにされている。

 彼は、表(配信)では寡黙なスポンサー「ゴンザレス」を演じ、裏(LINE)では私をイジって楽しむという、高度なマルチタスクを行っているのだ。

 これが「量子もつれ」。

 離れた場所にいる二つの粒子が、瞬時に影響し合う現象。今の私と彼は、配信という観測装置を通して、完全に絡み合っている。

 その時、ゴンザレスがコメント欄に書き込んだ。

『ゴンザレス:大地の苦悩、深いね。彼もきっと、誰かにその痛みをわかってほしかったんだと思うよ。例えば、君みたいな人にね』

 公開デレだ。

 これは公開処刑に見せかけた、高度な求愛行動ファンサだ。

 私は顔から火が出るのを通り越して、プラズマ化しそうになった。

「う、うるさいわねゴンザレス! 彼はそんなヤワじゃないわよ! 魚の目だろうが巻き爪だろうが、彼の歩行は世界遺産なの!」

 半泣きで叫ぶ私。

 画面の向こうで、リスナーたちが「今日のレイ様、ゴンザレスに厳しくない?」「痴話喧嘩?」と盛り上がっている。

 違う。これは喧嘩ではない。

 主従関係の逆転現象だ。

 ***

 一時間の配信を終え、私は廃人のようにデスクに突っ伏していた。

 HPはゼロ。MPもマイナス。

 推しとリアルタイムで繋がりながら配信をするという行為が、これほど心臓に悪いとは。

 そこに、トドメの着信音が鳴り響いた。

 LINE通話。

 『Ren.J』。

 通話!?

 文字だけじゃない、音声!?

 私はパニックになり、スマホをお手玉のように空中に放り投げ、奇跡的な反射神経でキャッチし、震える指で「応答」ボタンを押してしまった。

「……あ、あ、あ、もし、もしもし……」

『お疲れ様、レイカちゃん』

 耳元で爆発した。

 重低音イケボ。

 配信のマイクを通さない、電波に乗っただけの、生々しい吐息混じりの声。

 バイノーラル録音なんて目じゃない。これは脳幹に直接ジャックインされている。

『今日の魚の目のフォロー、最高だったよ。あれで俺の左足も救われた』

「そ、そそそ、それは良かったです……! あの、あの、急に電話なんて、心臓麻痺で訴えられますよ!?」

 私が裏返った声で抗議すると、彼は低く笑った。

『ごめん。でも、文字じゃ伝えきれなくて』

「へ?」

『君の声を聞くと、落ち着くんだ。……不思議だね。俺、今まで誰かの声を聞いて眠りたいなんて思ったことなかったのに』

 甘い。

 糖度が致死量を超えている。

 彼は、私のことを「落ち着く」と言った。

 コミュ症で、早口で、挙動不審な私の声を。

『ねえ、レイカちゃん。次の休み、空いてる?』

 唐突な誘い。

 私の脳内スケジュール帳(真っ白)が開かれる。

「あ、あいていますけど……」

『よかった。じゃあ、次の日曜。迎えに行くよ』

「む、迎え? ど、どこへ?」

 彼は少し間を置いて、爆弾を投下した。

『俺の実家。……じゃなくて、撮影現場。次の映画のロケハンがあるんだ。君に見てもらいたい景色がある』

 撮影現場。

 それは、ファンが決して立ち入ってはならない聖域。

 フィクションが生まれる子宮。

 そこに、私を連れて行くと言うのか。

『君は観測者だろ? 俺が一番輝く瞬間を、一番近くで見ていてほしいんだ。……ダメかな?』

 卑怯だ。

 そんな弱々しい、縋るような声で言われて、断れるはずがない。

 私は観測者。彼の光を記録する義務がある。

「……了解、しました。座標データを、送ってください」

『ありがとう。楽しみにしてる』

 通話が切れた。

 部屋に残されたのは、オーバーヒートした私と、静寂。

 私はゆっくりと、床に沈み込んだ。

 逃げられない。

 もう、どこにも逃げ場はない。

 シュレーディンガーの猫は箱を開けられた。

 その中にいたのは、死んだ猫ではなく、推しに愛されすぎて瀕死のオタクだったのだ。

 私は天井に向かって、蚊の鳴くような声で呟いた。

「……服、買わなきゃ」

 来たるべき日曜。

 私はついに、「壁」から剥がされ、推しの隣という「特等席(処刑台)」へと引きずり出されることになる。


(つづく)

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