第5話:シュレーディンガーの推しと、事象の地平面(イベント・ホライズン)でのお茶会
その「招待状」は、物理法則を無視して私のポストに投函されていた。
黒い封筒。
表面には、高級ブランドのロゴのような金箔の刻印。
質量保存の法則に逆らうような、不可解な「重み」を感じる。
中に入っていたのは、市販のチケットでも、ファンクラブの会報でもない。
一枚の厚手のカード。そこに記された座標(住所)と、暗号(日時)。そして、神の手による署名。
『美味しい紅茶があるんだ。少し、話をしないか? ――Ren.J』
「……これは、あれだ。スタンリー・キューブリックの映画に出てくるモノリスだ」
私はダイニングテーブルの中央にそのカードを安置し、三メートル離れた場所から匍匐前進で接近しながら呟いた。
触れれば人類が進化するか、あるいは私が猿に退化するかの二択。
今の私の心拍数は、大気圏突入時のスペースシャトル並みに振動している。
指定された場所は、南青山にある会員制ティーサロンの個室。
日時は、明日の午後三時。
「行くべきか、行かざるべきか。それが問題ではない。行けば死ぬし、行かねば死ぬ。つまり私はシュレーディンガーの猫……箱を開けるまで、私は『尊死した私』と『後悔死した私』の重ね合わせの状態にあるのよ……!」
脳内会議は紛糾していた。
**【理性派】**は叫ぶ。「推しに近づくな! お前は観測者だ! 接触すれば『ハイゼンベルクの不確定性原理』により、推しの軌道を乱すノイズになるぞ!」
**【本能派】**は叫ぶ。「うるせえ! 推しが呼んでるんだぞ! ブラックホールに吸い込まれる光のように、抗わずに落ちていくのが自然の摂理だろ!」
結果、本能派がクーデターを起こして勝利した。
私は行く。事象の地平面の向こう側へ。
***
翌日、午後二時五十分。
南青山の裏路地。
私は、周囲のハイセンスな風景に擬態するため、全身をベージュとモカブラウンで統一した「無害なモブ・コーディネート」で震えていた。
コンセプトは『背景A』。
決して主役の視界を邪魔せず、かといって不快感も与えない、都市のテクスチャの一部になりきる作戦だ。
重厚な扉が開く。
案内されたのは、店の一番奥にあるVIPルーム。
足を踏み入れた瞬間、時間の流れが歪んだのを感じた。
そこに、彼がいた。
神宮寺レン。
今日はスクリーンの向こうの「殺し屋」でも「武将」でもない。
柔らかなオフホワイトのニットに、黒縁メガネ。前髪は無造作に下ろされ、手には文庫本を持っている。
窓から差し込む午後の陽光が、彼の輪郭を淡く発光させていた。
「……あ」
私は息を止めた。
解像度が高すぎる。
網膜が処理落ち寸前だ。彼の周囲だけ重力が異常発生しており、空間が歪んで見える。これが一般相対性理論の実証実験か。
彼が顔を上げ、メガネの奥の瞳を細めた。
「いらっしゃい。……待ってたよ、レイカちゃん」
名前を。
呼ばれた。
音声波形が鼓膜を直接殴打し、脳幹を揺さぶる。
私は石化したまま、「あ、あ、あ、あひぃ」と壊れたAIのような音を発した。
「座って。あ、逃げないで。鍵は閉めてあるから」
彼は悪戯っぽく笑うと、向かいの席を顎でしゃくった。
鍵を閉めた? 密室?
ここは宇宙船のエアロックか何かなのか。私は酸素濃度低下による窒息を覚悟しながら、ロボットのような動作で椅子に座った。
テーブルの上には、湯気を立てる二つのティーカップ。
アールグレイの香り。いや、これはレン様のフェロモンが気体化したものかもしれない。
「……ごめんね、急に呼び出して」
「い、いいい、いえ! 滅相も、ござい、ません! 私のような有機物が、神聖な空間にお邪魔して、あの、二酸化炭素を排出して申し訳ありません……!」
私は膝の上で拳を握りしめ、床を見つめながら早口でまくし立てた。
直視できない。
太陽を肉眼で見れば失明するように、推しを直視すれば自我が崩壊する。
レンが、ふっと笑う気配がした。
カチャリ、とカップを置く音。
「有機物か。……君のそういう表現、本当に面白いな」
「こ、光栄です……」
「配信、見てるよ。俺の毛穴は宇宙の特異点なんだっけ?」
公開処刑だ。
本人の口から、私の妄言が読み上げられる。
私は羞恥心で発火し、このまま灰になってテーブルクロスの染みになりたかった。
「あ、あれは、その……修辞技法というか、過剰なメタファーによる……」
「わかってる。でも、嬉しかったんだ」
レンの声色が、ふと真面目なトーンに変わった。
私は恐る恐る、視線を数センチだけ上げた。
彼の綺麗な指先が、カップの縁をなぞっている。
「俺はね、綺麗な言葉には慣れてるんだ。『かっこいい』とか『素敵』とか。そういう言葉は、台本みたいに綺麗すぎて、時々、何も響かなくなる」
彼の瞳に、微かな影が差す。
それは、大スター・神宮寺レンが抱える、巨大な空洞。
誰からも愛されているのに、誰とも繋がっていない孤独。
「でも、君の言葉は違った。物理法則とか、福祉とか、わけがわからないけど……そこには、俺という存在を細胞レベルで肯定しようとする、必死な熱量があった」
彼は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
メガネの奥の瞳が、逃げる私を捕縛する。
「俺は、君のその『偏執的な愛』に救われたんだ。……だから、礼を言いたくて」
ありがとう、と彼は言った。
その言葉は、どんな映画の台詞よりも重く、そして優しく私の心臓を貫いた。
私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
違う。お礼を言うべきなのは私だ。
あなたがただそこに存在し、呼吸をしているだけで、私の世界は色彩を取り戻したのだから。
「……私こそ、ありがとうございます。私の……私の人生という名の航海図において、あなたは北極星なんです。あなたが輝いているから、私は遭難せずに生きていけるんです」
絞り出した言葉は、またしてもSFじみていたけれど、私の本音だった。
レンは目を丸くし、それから噛み締めるように微笑んだ。
「北極星か。……悪くないな」
彼は身を乗り出し、私との距離を詰めた。
物理的距離、五十センチ。
パーソナルスペースの境界線が突破される。警報音が鳴り響く中、彼はとんでもない提案を口にした。
「ねえ、レイカちゃん。俺と契約しない?」
「……け、契約?」
「ああ。君はこれからも、俺を観測し続けてくれ。俺が迷子にならないように、その偏った理論で俺を肯定し続けてほしい」
それは、悪魔の契約か、それとも天使の福音か。
彼は悪戯な子供のような顔で続ける。
「その代わり……俺は、君だけに『本当の神宮寺レン』を見せてあげる。メディアには出さない、ただの男としての俺を」
「――――は?」
思考回路がショートした。
私だけに? 本当のレン様を?
それはつまり、供給の独占? いや、バックヤードへの永続パス?
「いわば、専属の観測者だ。……どうかな? 悪い話じゃないと思うけど」
彼は小首を傾げる。
あざとい。そして、逃がす気がない。
これは「フェルミのパラドックス」だ。宇宙に宇宙人は存在するはずなのに出会えないという矛盾。しかし今、宇宙人(推し)の方から、私にコンタクトを取ってきている。
断れるわけがない。
もし断れば、私は一生、この引力に引かれながら後悔の軌道を周回し続けることになる。
「……じゅ、受信しました。その契約、受諾いたします……!」
私は震える声で答えた。
レンは満足そうに目を細め、手を差し出した。
握手。
皮膚と皮膚の接触。
恐る恐る差し出した私の手を、彼の大きく温かい手が包み込む。
電流が走った。
それは比喩ではなく、私の神経系が未知の刺激に過剰反応したスパークだった。
「よろしくね、共犯者さん」
彼はそう言って、私の手を握ったまま離さない。
こうして、私たちは「事象の地平面」を超えた。
ファンと推しという境界線は消失し、観測者と被験者、あるいは共犯者という、名前のない奇妙な関係が成立した瞬間だった。
だが、私はまだ知らなかった。
この契約が、単なる「肯定」だけでは済まない、もっと泥沼で甘美な「独占欲」の始まりであることを。
個室の扉がノックされる音で、私は現実に引き戻された。
しかし、私の手にはまだ、彼の体温が焼き付いて離れなかった。
(つづく)




