第4話:事象の地平面(イベント・ホライズン)を超えた先で、私は塵になりたい
意識が浮上する。
視界に映るのは、白い天井ではなく、見慣れたアパートの安っぽい木目調の天井だった。
背中には、玄関のタタキの冷たく硬い感触。
「……夢、か」
私は、カチカチに強張った体を起こした。
そうだよ。夢に決まっている。
私が銀座で推し本人に遭遇し、あろうことか「世界平和」を説き、さらに私の配信の太客である石油王ゴンザレスが推し本人だったなんて。
そんな、ラノベ作家でも「ご都合主義が過ぎる」とボツにするような展開が、現実に起こるはずがない。
私は乾いた笑いを漏らしながら、視線を足元に落とした。
そこには、黒い箱が転がっている。
開封された、「ノワール・ド・リュヌ」のパッケージ。
そして、その表面に銀色のマーカーで刻まれた、流麗な筆記体。
『To Reika & Pretty Rey』
『For World Peace.』
「…………現実だ」
絶望という名の重力が、私の全身を押し潰した。
夢じゃない。
幻覚でもない。
ここに確かに存在する、神(推し)の直筆サインと、私への私信。
私は震える手で、その香水瓶を拾い上げた。
指紋をつけてはいけないと本能が警鐘を鳴らすが、今の私はそれどころではない。
瓶からは、トップノートのベルガモットが微かに香る。それは、数日前に銀座で私が嗅いだ香りであり、そしてあの日、隣に立っていた「彼」から漂っていた香りと同じものだった。
「……あ、あ、ああ……」
記憶のフラッシュバックが、走馬灯のように脳内を駆け巡る。
――『殺人が福利厚生になるのは草』
(それを本人が見ていた!)
――『神への供物なんです!』
(本人に向かって言った!)
――『面白いな、君』
(面白がられた! 日本を代表する俳優に、この痛々しい生態を観察されていた!)
「し、死にたい……! 今すぐブラックホールが発生して、この部屋ごと私を素粒子レベルまで分解してくれないかしら!?」
私は頭を抱えてのたうち回った。
推し活の基本原則。それは「不可侵」であることだ。
ファンとは、舞台の下から光を見上げる観客であり、光そのものに触れようとしてはならない。ましてや、光の方から「あ、いつもどうも」と認知されるなど、あってはならないエラーなのだ。
私の至福の壁ライフは、崩壊した。
ベルリンの壁よりも呆気なく、私のATフィールドは融解したのだ。
その時、手の中で握りしめていたスマホが震えた。
恐怖で跳ね上がりそうになりながら画面を見る。
通知は、私の配信アカウント宛のダイレクトメッセージ(DM)。
送信者:『名無しのゴンザレス』
「ひっ……!」
喉が引きつる。
指が震えて、パスコードを三回間違えた。ようやく開いた画面に表示されたのは、短くも破壊力抜群の一文だった。
『香水、ありがとう。ちゃんと受け取った気持ちで、今夜はこれをつけて寝るよ。今日の配信、やる?』
爆弾だ。
これは、核弾頭クラスの爆撃だ。
「つけて寝る」。その五文字だけで、私の脳内ではR18指定ギリギリの(いやアウトな)妄想が展開されそうになるが、それ以上に最後の問いかけが怖い。
『今日の配信、やる?』
それはつまり、「俺は今日も見るぞ」という予告。
逃げ場はないという宣告。
「……試されている」
私はガタガタと震えながら立ち上がった。
ここで「やりません、引退します」と告げて逃げることは簡単だ。アカウントを消して、デジタルタトゥーと共に田舎へ帰ればいい。
だが、それは「プリティ・レイ」を愛してくれたリスナーへの裏切りであり、何より、私の生きがいを自ら捨てることになる。
それに。
推しが、「見る」と言っているのだ。
推しからの供給を拒否する権利など、オタクにはない。
「……やるわよ。やってやるわよ」
私は、死地へ向かう兵士の顔つきで、洗面所へ向かった。
冷水で顔を洗い、充血した目を冷やす。
今夜の配信は、いつもの「爆笑トーク」では済まない。
これは、神宮寺レンという特異点と接続してしまった私が、その重力圏で生き残れるかどうかの、生存を賭けた闘争だ。
***
同時刻。都内の撮影スタジオ。
休憩中の楽屋で、神宮寺レンはスマホの画面を見つめながら、微かに口角を上げていた。
「既読、ついたな」
メイク担当のスタッフが、彼の顔を直しながら不思議そうに尋ねる。
「レンさん、何かいいことありました? 今日、肌のノリが凄くいいんですけど」
「ああ、まあね。……よく眠れたからかな」
レンは嘘をついた。
実際には、昨夜は興奮してあまり眠れていない。
あの「プリティ・レイ」が、銀座で会ったあの挙動不審な女性であり、自分に香水を譲ってくれた人物だったという事実。
その奇跡のような巡り合わせが、乾ききっていた彼の心に、強烈な色彩を与えていた。
芸能界という場所は、虚構だらけだ。
誰もが仮面を被り、ビジネスとしての笑顔を振りまく。
『ファンです』と言ってくる共演者も、裏では舌を出していることを彼は知っている。
人間不信になりかけていた。
けれど、彼女は違った。
姫島麗華。
彼女の愛には、打算がない。
見返りを求めず、ただ「推しが健やかであること」だけを願い、そのために自分の身を削る。その滑稽なまでの純粋さが、レンには眩しかった。
(怖がらせただろうな)
彼女の手紙からは、異常なほどの「謙虚さ」と「自己肯定感の低さ」が滲み出ていた。
自分が正体を明かせば、彼女がパニックになることは容易に想像できた。
それでも、伝えずにはいられなかった。
君の言葉が、君の行動が、確かに俺を救っているのだと。
「……逃げないでくれよ、レイカちゃん」
レンは手首につけた「ノワール・ド・リュヌ」の香りをそっと吸い込み、配信開始の通知を待った。
***
午後九時。
【絶対安全領域】の照明が落ちる。
いつものようにプロジェクターには神宮寺レンの映像……は、流せない。直視できないからだ。
代わりに、今日は宇宙の星空の映像を背景に投影した。
私の心象風景(虚無)である。
仮面をつける。
いつもなら「変身」のスイッチとなるこの冷たさが、今日はまるで「拘束具」のように重い。
配信開始ボタン、クリック。
「…………はい、こんプリ……」
第一声は、通夜のように低かった。
コメント欄がざわつく。
『え? レイ様?』
『なんか声震えてない?』
『いつもとテンションの落差がww』
『元気ない? 風邪?』
私は深呼吸をした。
過呼吸になりそうな肺を無理やり動かす。
画面の向こうには、一万人のリスナー。
そしてその中に、間違いなく「彼」がいる。
「……ごめんなさい。今日は、いつものような『全肯定爆笑トーク』はできないかもしれない。なぜなら」
私は言葉を詰まらせた。
本当のことを言えるはずがない。
『推しに認知されました』なんて言えば、界隈は炎上し、私は特定され、社会的に抹殺されるだろう。
だから、ギリギリのラインで、今の感情を吐露するしかない。
「なぜなら、私は……宇宙の深淵を覗いてしまったからよ」
『深淵www』
『また厨二病はじまった』
『通常運転で安心した』
リスナーは笑っている。よかった、まだコメディとして成立している。
私は震える声で続けた。
「いい? みんな。推し活というのはね、適度な距離があるからこそ成立するの。星は遠くにあるから美しい。もし太陽に近づきすぎれば、イカロスのように翼が溶けて墜落する。今の私は、まさに太陽のフレアを至近距離で浴びて、全身火傷の状態なの……!」
これは比喩ではない。実況中継だ。
私の脳は今も、彼からのDMとサイン入りボトルの衝撃で焼き尽くされている。
「だから今日は、懺悔配信です。私がこれまで、いかに推しに対して無礼な妄想を垂れ流してきたか、その罪を告白し、浄化するための儀式を行うわ……!」
そう言って、私が準備していた「お清めの塩」を取り出そうとした、その時だった。
ピロン、という軽快な電子音と共に、画面が金色に輝いた。
赤スパではない。
もっと上位の、プレミアムな輝き。
『名無しのゴンザレス(¥50,000)』
来た。
心臓が止まるかと思った。
そして、そこに添えられたメッセージを見た瞬間、私は椅子から転げ落ちそうになった。
『太陽は、近づいてくるイカロスを焼き尽くしたいわけじゃないと思うよ。むしろ、その翼が溶けないように、温度を調節してあげたいと思ってるかもしれない』
「ぶっっ!!!!」
私は盛大に吹き出した。
な、何言ってんのこの人!?
ポエミーすぎる! そして優しすぎる!
これは私信だ。公共の電波を使った、私個人へのメッセージだ。
『俺は君を拒絶しない』という、神からの神託だ。
コメント欄が爆発する。
『ゴンザレスかっけえええ!!』
『何そのイケメンムーブ』
『レイ様とゴンザレス、もしやデキてる?』
「ち、ちが、違うのよおおお!!」
私はマイクにかじりついて絶叫した。
デキてない。とんでもない。
これは、捕食者と獲物の関係だ。
ライオンがウサギの首を噛む前に優しく舐めているようなものだ!
「ゴンザレス……あんたねぇ、そういうとこだぞ! そうやって思わせぶりな態度を取るから、私みたいな拗らせたオタクが量産されるのよ! 責任取りなさいよ! ……いや、取らなくていいです、一生そのまま輝いていてくださいお願いします!!」
錯乱する私。
笑い転げるコメント欄。
そしてきっと、画面の向こうでニヤニヤしているであろう、神宮寺レン。
恐怖は消えていなかった。
けれど、不思議と「孤独」ではなかった。
この秘密を共有しているという背徳的な繋がりが、私の恐怖を、甘美な興奮へと変質させていくのを感じていた。
――こうして、私の「認知後」の配信ライフは幕を開けた。
しかし、神宮寺レンの「干渉」は、ネットの中だけで終わるはずがなかったのである。
翌日。
私の元に、一通の招待状が届くことになる。
それは事務所からの公式なものではなく、あまりにも個人的な、秘密の茶会への誘いだった。
(つづく)




