第3話:推しの聖水と、一通の手紙(ラブレター)にかける重力
銀座という魔境から生還した私は、死にかけていた。
精神の残機はゼロ。HPはマイナス。
だが、私の手には「聖杯」が握られている。
自宅のリビング――通称【絶対安全領域】の中心で、私は震える手つきでその黒い小瓶を掲げた。
フランスの老舗ブランド「ノワール・ド・リュヌ」の新作パルファム。
艶やかな黒いガラス瓶は、部屋の4Kプロジェクターから漏れる光を吸い込み、妖しく輝いている。
「……勝った。私は勝ったのよ、資本主義とコミュ障の壁に」
シュッ、と空中にひと吹きしてみる。
瞬間、部屋の空気が一変した。
トップノートは冷たく研ぎ澄まされたベルガモット。そこから徐々に、湿った土と夜の森を思わせるウッディな香りへと沈んでいく。
それはまさに、神宮寺レンが演じる「孤独な殺し屋」が纏うべき、静寂と色気の香りだった。
「……はぁっ、尊い……!」
私は床に崩れ落ち、カーペットに顔を埋めた。
脳内でシナプスが発火する。
この香りが、レン様の鎖骨に、手首に、そして耳の裏に宿る姿を想像するだけで、致死量のエンドルフィンが分泌される。
まだ彼の手元に届いてすらいないのに、私の部屋はすでに聖域化されていた。
「仕事……しなきゃ」
私はよろめきながら立ち上がり、仮面を手に取った。
この奇跡を、そして銀座で起きた「ある出来事」を、迷える子羊たちに報告せねばならない。
***
「――というわけで! 私は銀座という名の戦場で、見知らぬイケメン……いや、『キャピタリズムの聖人』から、このラスト一点を譲り受けたのです!」
配信開始から二十分。
私のテンションは最高潮に達していた。
画面の向こうには、一万八千人の「信者」たち。コメント欄は『聖人www』『銀座にそんなイケメンおるんか』『レイ様の行動力が怖い』といった言葉で埋め尽くされている。
「聞いてちょうだい! その名もなき聖人は、私が『世界平和のために必要だ』と力説したら、笑って譲ってくれたの! 彼の骨格はユニクロのパーカーをアルマーニに変えるほどのSSR級だったわ! もしや彼は、神宮寺レンを美しく保つために天界から派遣された天使だったのかもしれない!」
私は机をバンバンと叩きながら叫ぶ。
「ありがとう、名もなきイケメン! あなたの善行のおかげで、推しの睡眠の質は守られました! あなたの来世が石油王の飼い猫であることを祈っています!」
コメント欄が爆笑の渦に包まれる中、ふと一つのコメントが目に入った。
金色の枠に囲まれた、高額スパチャ。
『名無しのゴンザレス(¥50,000):そのイケメンも、君の必死さが面白くて譲ったんだろうね。無事に買えてよかった』
「っ……ゴンザレス!」
また彼だ。この謎の石油王は、いつも私の配信をどこか「保護者」のような視点で見守っている。
私は画面に向かって深々と頭を下げた。
「ゴンザレス、あなたにも感謝を! この香水は、あなたの資金で購入されたものです。つまり、あなたもまた、推しの細胞の一部を構成するスポンサーなのです!」
***
配信を終えた深夜二時。
祭りのあとの静寂が、部屋に戻ってくる。
私は仮面を外し、デスクに向かった。
ここからが、本当の戦いだ。
目の前には、最高級の和紙で作られた便箋と、万年筆。
ファンレター。
それは、一方通行の愛を言語化する、最も残酷で美しい儀式。
インクを吸わせたペン先が、紙の上で震える。
書き出しはどうする? 『初めまして』? いや、認知を求めるな。『寒くなってきましたが』? 平凡すぎる。
(……重い。ペンが、鉛のように重い)
私は息を吐き出す。
コミュ症の私は、普段、言葉を飲み込んで生きている。
言いたいことの半分も言えず、誤解され、距離を置かれ、一人でいることを選んだ。
けれど、推しに対してだけは違う。
伝えたいことが溢れすぎて、言葉が奔流となって押し寄せてくる。
――あなたの演技に救われました。
――あなたが笑うだけで、私は明日も生きようと思えます。
――どうか、誰にも傷つけられず、ただ美しくあってください。
そんな感情を、一つ一つ丁寧に濾過し、狂気じみた部分を極力削ぎ落とし(それでも滲み出るが)、私は文字を綴った。
『拝啓 神宮寺レン様
突然の不躾なお手紙、失礼いたします。
この香水は、あなたが以前インタビューで興味をお持ちだと仰っていたものです。
殺し屋という過酷な役作りの中で、少しでもあなたの心が安らぐ一助となれば幸いです。
見返りなど求めません。返信も不要です。
ただ、あなたが今夜、健やかに眠れることだけを、遠くから祈っております。
一ファンより』
書き終えた手紙を読み返す。
重い。物理的な質量以上に、念が重い。
だが、これが私の精一杯だ。
「……よし」
私は香水の箱と手紙を、緩衝材で厳重に包み込んだ。
送り状の差出人欄には、本名ではなく「プリティ・レイ」と書きそうになり、慌てて「姫島」とだけ書いた。住所もマンション名までは書かず、局留めにしたいくらいだが、不審物として弾かれるのを防ぐために正直に書く。
これが、彼の手元に届く。
彼がこの箱を開け、この香りを吸い込む。
その事実だけで、私の人生は肯定される。
「行ってらっしゃい、私の分身」
私は箱にキスをしそうになり、流石に気持ち悪いと思い止まって、そっとテープを貼った。
***
それから、三日が過ぎた。
私は抜け殻のように過ごしていた。
事務所には届いただろうか。スタッフに弾かれていないだろうか。そもそも香水のような液体物は、危険物扱いで廃棄されていないだろうか。
ネガティブな妄想が、カビのように脳内で増殖していく。
そんなある日の午後。
インターホンが鳴った。
「……はい」
宅配便だ。
私は死んだ魚のような目でドアを開け、荷物を受け取った。
ずしり、と重い箱。
伝票を見る。
差出人:『神宮寺レン オフィシャルファンクラブ事務局』
備考:『返送品』
「……あ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように縮んだ。
返送。
その二文字が、視界を白く染め上げる。
「だめ……だったんだ」
膝から力が抜け、玄関のタタキに座り込む。
やはり、食品や肌につけるものはNGだったのか。それとも、私の手紙が不審すぎたのか。
セキュリティの厳しい芸能界だ。当然の対応だ。頭ではわかっている。
けれど。
「う、うう……っ」
涙が滲んだ。
拒絶されたわけではない。ただのルールだ。
それでも、「届かなかった」という事実が、コミュ症で自己肯定感の低い私の心を容赦なく抉る。
私は、彼の役には立てなかった。
銀座での決死のミッションも、ゴンザレスの支援も、すべて無駄だったのだ。
しばらく泣いた後、私は鼻をすすりながら、せめて中の香水だけでも取り出そうと、カッターナイフで箱を開封した。
自分用に使おう。そして、この香りを嗅ぐたびに、この苦い失恋のような痛みを思い出そう。
ガムテープを切り、箱を開ける。
中には、私が見送った時と同じ、厳重な緩衝材。
そして、私が書いた手紙の封筒。
未開封のまま……いや、違う。
「……え?」
封筒の端が、ペーパーナイフで綺麗に切られている。
開封されている。
読まれた? スタッフによる検閲か?
震える手で、香水の箱を取り出す。
黒いパッケージ。その表面に、銀色のマーカーで、何かが書かれていた。
流れるような、達筆な筆記体。
見間違うはずもない。ファンクラブの会報で、何度も見た筆跡。
『To Reika & Pretty Rey
For World Peace.
Thanks. Ren.J』
「……………………は?」
思考が爆散した。
レイカ? プリティ・レイ?
なんで?
私は差出人に「姫島」としか書いていない。
ファンレターにも、配信者のことなど一言も書いていない。
なのに、なぜ彼が「姫島=プリティ・レイ」だと知っている?
混乱する頭で、もう一度箱の中を見る。
手紙の下に、一枚のメモが入っていた。
そこには、走り書きでこう記されていた。
『事務所のルールで、プレゼントは受け取れない決まりなんだ。ごめん。
でも、気持ちは確かに受け取った。
銀座では譲ってくれてありがとう。
君の配信、いつも元気をもらってるよ。
P.S.
この香水、実はもう自分で買ったんだ。だからこれは、君が持っていて。
君が世界平和のために使ってくれ。
――ゴンザレスより』
時が、止まった。
私はパクパクと口を開閉し、金魚のような顔でメモと香水を見比べる。
銀座で譲った。
ゴンザレス。
配信を見ている。
点と点が、光の速さで繋がり、やがて巨大な落雷となって私の脳天を直撃した。
「……え、嘘」
銀座のあの店で、私が香水を譲った、あの黒キャップのイケメン。
あれが、神宮寺レン本人?
そして、私の配信に毎回高額スパチャを投げてくる石油王ゴンザレスも、神宮寺レン本人?
「あ……あ、あ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
じゃあ、私は。
本人の前で「神への供物」だの「福利厚生」だの、あの恥ずかしい妄言を叫んでいたということ?
そして、それを彼はずっと見ていて、面白がっていた……?
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
絶叫が、防音マンションの壁に吸い込まれていく。
尊死ではない。羞恥死だ。
推しに認知されたくない。壁になりたい。ただの観測者でいたい。
そんな私のささやかな願いは、最悪かつ最強の形で粉砕された。
手元の香水瓶には、直筆のサイン。
『For World Peace(世界平和のために)』という、私への強烈なイジりと、確かな愛着が刻まれている。
スマホが震えた。
通知画面には、神宮寺レンの公式インスタグラムの更新通知。
開くと、そこには一枚の写真。
彼が「ノワール・ド・リュヌ」の瓶を手に持ち、唇に人差し指を当ててウインクしているセルフィー。
キャプションには一言。
『秘密の共犯者に、感謝を。』
私はスマホを取り落とし、そのまま玄関で白目を剥いて気絶した。
私の平穏な「壁」としての人生は、今日、完全に終わりを告げたのである。
(つづく)




