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第1話:推しの毛穴は宇宙の特異点

 私の名前は姫島麗華ひめじまれいか

 そう、もちろん本名ではない。

 本名は、ここにインクを使って書き記すことすら躊躇われるほど、平々凡々たる名前だ。佐藤とか鈴木とか、そういう類の、日本社会の背景モブに溶け込むためにあつらえられた記号のようなものだ。

 だが、今の私は違う。

 今の私は、東京都内某所、築三十年の防音鉄筋マンションの一室に君臨する、孤独にして気高き「観測者」である。

 時刻は午後八時を回ったところだ。

 私は遮光等級一級のカーテン――それはNASAが宇宙空間での実験に使う素材だと言われても信じてしまいそうなほど分厚い――を隙間なく閉め切り、外界からの光と情報を完全に遮断していた。

 この部屋には、太陽光に含まれる紫外線も、隣人の生活音も、そして何より、私が最も苦手とする「他人の視線」も届かない。

 あるのは、静寂と、電子機器の排熱、そしてコンビニで買ってきたツナマヨおにぎりの海苔の香りだけ。

「……ああっ、尊い。無理。しんどい。酸素が……酸素が足りない」

 薄暗い部屋の隅で膝を抱え、私はうわ言のように呟いた。

 私の視界を覆い尽くしているのは、壁一面に投影された4Kプロジェクションマッピングの大画面だ。

 この六畳一間のリビングは、私の生活空間ではない。推しを祀るための神殿サンクチュアリであり、祭壇だ。

 映し出されているのは、現在放送中のNHK大河ドラマ。

 戦国乱世の荒野を馬で駆ける、一人の若手武将。

 俳優・神宮寺じんぐうじレン。

 昨今の映像技術の進化は残酷だ。4K、8Kという解像度は、役者の肌のくすみ、髭の剃り残し、果ては毛穴の黒ずみまで容赦なく暴き出す。

 だが、神宮寺レンは違う。

 画面いっぱいにアップになっても、彼にはノイズが存在しない。

 泥にまみれ、血糊を浴びていてもなお損なわれない陶器のような肌。硝子細工のように繊細でありながら、雄々しさを秘めた喉仏のライン。そして、画面越しでも射殺されそうなほど鋭利な眼光。

 物理的には毛穴も細胞も存在するのだろう。だが、私の脳内補正機能フィルタリングと、彼自身が放つ圧倒的な「美の覇気」が、それらすべてを「宇宙の特異点」へと昇華させているのだ。

 彼が存在することで、この薄汚れた世界は辛うじて均衡を保っている。彼が息を吸うことで、大気中の二酸化炭素は清浄な酸素へと変換されている。私は本気でそう信じている。

 私は重度のコミュ症だ。

 どれくらい重度かと言えば、コンビニのレジで「お弁当温めますか?」と聞かれるだけで心拍数が150を超え、「あ、ふ、ひゅい」と謎の奇声を発してしまうレベルだ。

 美容室なんていう、鏡越しにリア充と会話を強要される拷問部屋には三年行っていない。前髪は自分で切る。服はすべて通販。宅配便は置き配指定。

 そんな社会不適合者の私が、なぜ家賃の高い都内で一人暮らしを維持できているのか。

 それは、私が「プリティ・レイ」だからだ。

 ブブブッ。

 テーブルの上に放置していたスマホが、短い振動音を立てた。

 通知画面に踊る文字を見た瞬間、私の全身の血管に、脳内麻薬エンドルフィンが奔流となって駆け巡った。

『【速報】神宮寺レン、次回作映画で初の「冷徹な殺し屋」役に決定! 衝撃の金髪ビジュアル解禁!』

「……は?」

 思考が停止した。

 脳の処理速度が追いつかない。

 神宮寺レンが。殺し屋。しかも、金髪。

 震える指先で、通知をタップする。

 表示された高画質画像。

 ――呼吸が、止まった。

 そこには、いつもの黒髪の好青年はいなかった。

 色素の薄い、プラチナブロンドの髪。

 無機質で、すべてを見下すような凍てついた瞳。

 返り血を浴びた純白のシャツと、その首元から覗く鎖骨のあまりにも暴力的な美しさ。

「あ……ああ……」

 涙が溢れた。

 悲しいのではない。嬉しいのでもない。

 ただ、世界が浄化されたのだ。

 この画像一枚が網膜に焼き付いた瞬間、私の視力は2・0から5・0へ回復し、部屋の空気清浄機は不要になり、私の荒んだ心は一瞬にしてガンジス川の源流よりも清らかになった。

 脊髄を突き抜けるような衝撃。細胞の一つ一つが歓喜の悲鳴を上げている。

「伝えなきゃ……この奇跡を、福音を、世界に布教シェアしなきゃ……!」

 これは義務だ。ノブレス・オブリージュだ。

 私がこの情報を独占してニヤニヤすることは許されない。この「美」を言語化し、世俗にまみれた人類に解説し、その価値を骨の髄まで理解させなければならない。

 私は食べかけのおにぎりを口に詰め込み、お茶で流し込むと、棚の奥から「神器」を取り出した。

 ラインストーンでデコレーションされた、派手なヴェネチアンマスク。

 そして、高性能ボイスチェンジャーとコンデンサーマイク。

 マスクを顔に装着する。

 冷たい感触が肌に触れた瞬間、私の内側にあるスイッチが切り替わる。

 臆病で、口下手で、人の目を見て話せない「姫島麗華」は、この瞬間、深淵へと沈む。

 代わりに浮上するのは、画面の向こうという「絶対安全領域」から、愛と偏見を叫ぶ狂気の伝道師。

 深呼吸。

 ボイスチェンジャー、オン。

 配信開始ボタン、クリック。

「――はいはーい! 迷える子羊たち、そして全世界の顔面偏差値を憂う者たちよ、こんプリ~! プリティ・レイの『世界浄化定例会議』、緊急招集のお時間でーす!」

 私の声は、機械によって加工された、少し高めのケミカルな美声となってネットの海へ放たれる。

『うおおおおお! レイ様待ってた!』

『通知見て飛んできた!』

『緊急? もしかしてレン君の金髪?』

『仕事早すぎwww まだ解禁から5分だぞ』

 凄まじい勢いで流れるコメントの滝。

 開始三十秒で同接者数、一万人突破。

 私はマイクに向かって、机をバンと叩いた。音割れ上等だ。

「聞いた!? 見た!? 拝んだ!? 今日のニュース! 神宮寺レンの金髪ビジュアル! あれを見た瞬間、私の三半規管は完全に平衡感覚を取り戻したわ! むしろ地球の自転速度すら、彼の美しさに合わせて最適化されたのよ!!」

 私はモニターに映るレンの宣材写真を指し棒で叩きながら、早口でまくし立てる。

 普段なら、コンビニ店員に「袋いりますか」と聞かれただけでどもる私が、ここでは機関銃のように言葉を紡ぎ出す。

「いいこと、よくお聞きなさい! この金髪の彩度と、彼の冷徹な瞳のコントラスト比! これこそが宇宙の黄金比、フィボナッチ数列すら裸足で逃げ出す『絶対美の特異点』なの! 通常、日本人の骨格にプラチナブロンドを合わせると、どうしてもコスプレ感が出てしまうリスクがある。だが彼は違う! 彼の鼻梁の角度が、光の屈折率を計算し尽くして、自ら発光することで髪色を馴染ませているのよ!」

 論理などない。あるのはパッションのみ。

 だが、コミュ症ゆえに内側に溜め込み続けた「愛」は、一度出口を見つけると高圧洗浄機の如く噴出し、汚れきった常識を吹き飛ばす。

「いい? つまり! 彼が殺し屋を演じるということはどういうことか。スクリーンの中で彼に殺される被害者は、彼の美しさを最期の瞬間に網膜に焼き付けられるという、実質的な『救済』を受けることになるの! わかりやすく言えば、これは殺戮ではなく福祉! 映画代たったの一八〇〇円で受けられる、極上の福利厚生なのよぉぉっ!!」

『出たwww福祉www』

『殺人が福利厚生になるのは草』

『言ってること無茶苦茶だけど、なぜか納得してしまう』

『説得力が物理で殴ってくる』

『浄化料(赤スパ)置いておきますね』

 チャリン、チャリン、ドカン。

 高額なスーパーチャット(投げ銭)が乱れ飛ぶ。

 画面の向こうのリスナーは笑っている。私が「面白いイカれたオタク」だからだ。

 だが、私にとってこれはエンタメではない。聖戦なのだ。

「ありがとう! このスパチャは全額、レン様の所属事務所に送る高級胡蝶蘭と、舞台の最前列S席のチケット代に変わります! ただし! 私はS席には座りません! 私のような不純物が彼の視界に入ることは許されないからね! 私は最後列の壁と同化して見守ります! これが経済! これがSDGs! 推しの顔面を国宝指定にするために、回せ経済を!」

 そう、私の配信収益は、生活費を除きすべて推しへ還元される。

 私が稼ぎ、私が守り、私が整えた環境で、推しが最高に輝く。

 それを誰にも気づかれず、暗い部屋の隅から眺めることこそが、私の至福。私のライフワーク。

「ああ、世界は完璧だ……」

 一通り叫んで酸欠になりかけた私は、恍惚の表情でモニターを見つめた。

 コメント欄は「www」と「8888(パチパチ)」で埋め尽くされている。

 この一体感。この熱狂。

 私が作り上げた「プリティ・レイ」という虚像が、神宮寺レンという実像を輝かせるための燃料になっている実感。

 ――しかし、私は知らなかったのだ。

 この狂乱の配信を、まさか「本人」が見ているなんてことは。

 ***

 同時刻。

 きらびやかな夜景を見下ろす、都内某所の超高級タワーマンション。

 生活感の一切ない、モデルルームのように無機質なリビング。その最上階の一室で、一人の男がイタリア製の革張りソファに深く沈み込んでいた。

 神宮寺レン。

 今、日本で最も注目される若手実力派俳優である。

 テーブルの上には、読み込まれた台本が乱雑に置かれている。

 彼は片手で顔を覆い、深いため息をついた。

 疲れていた。肉体的な疲労ではない。

 自分の内側にある何かが、すり減っていくような感覚。

「……殺し屋、か」

 今回のオファーは、彼にとって賭けだった。

 今まで演じてきた「爽やか」で「正義感の強い」役柄とは真逆の、感情を持たない殺人マシーン。

 監督からは『君の美しさが、逆に恐怖になるような演技をしてくれ』と言われた。

 だが、役作りをすればするほど、わからなくなる。

 ただ綺麗なだけの置物になってしまうのではないか。自分の演技には、中身がないのではないか。

 SNSを開けば、『顔だけ』『ゴリ押し』というアンチの言葉が、砂嵐のように視界を塞ぐ。

 そんな時だった。

 ふと、マネージャーから送られてきたLINEを思い出した。

 

『レン君、ちょっと疲れてるならこれ見てみて。君のことを全肯定してくれる、面白いファンがいるよ』

 添付されていたURL。

 普段なら無視する類のものだ。エゴサーチは精神衛生上良くない。

 だが、魔が差した。あるいは、縋りたかったのかもしれない。

 彼は手にしたタブレット端末で、その動画を開いた。

「……っ、ふふっ。なんだこれ」

 静寂に包まれていたリビングに、彼の押し殺した笑い声が響いた。

 画面の中で叫んでいるのは、悪趣味な仮面をつけた配信者『プリティ・レイ』。

 彼女は、彼が悩みに悩んでいた「殺し屋」の役を、高らかにこう断言したのだ。

『これは殺戮ではなく福祉!』

『映画代一八〇〇円で受けられる極上の福利厚生!』

 無茶苦茶だ。

 論理など破綻している。

 けれど、その言葉には一点の曇りもない、純度100%の熱狂があった。

 打算も、批評家気取りの分析もない。

 ただ「あなたが存在しているだけで、世界は救われている」という、盲目的で、狂気的で、けれどとてつもなく温かい肯定。

 アンチの言葉に傷つき、プレッシャーに押しつぶされそうになっていたレンの心に、彼女の「爆笑全肯定トーク」が、乾いた砂に水が染み込むように広がっていく。

「福利厚生、か……。俺が演じる殺し屋は、救済……」

 不思議と、肩の力が抜けていくのがわかった。

 難しく考える必要はないのかもしれない。

 彼女が言うように、俺が俺であるだけで、誰かを救えるのなら。

「元気、出たな」

 レンは自然と笑みを浮かべていた。

 それは、カメラの前で見せるキメ顔ではない。マネージャーや共演者にも見せたことのない、年相応の、無防備で柔らかな笑顔だった。

 彼は迷わず、画面上の「¥50,000」のボタンをタップする。

 アカウント名は、適当に作った捨てアカウントだ。

『名無しのゴンザレス:君の言葉に救われた。ありがとう。喉、お大事に』

 送信ボタンを押し、彼はタブレットの画面に映る、仮面の向こうの瞳を見つめた。

 どんな顔をしているのだろう。

 普段はどんな生活をして、どんな声で話すのだろう。

「会ってみたいな……この人に」

 壁になりたいコミュ症オタクと、彼女に救われた国民的俳優。

 決して交わるはずのなかった二人の平行線が、この夜、盛大な音を立てて狂い始めた瞬間だった。


(つづく)


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