表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

第一章 パン屋の一週間 ― 幸せを包む日々 ―

朝、オーブンの扉を開けると、香ばしい匂いが店いっぱいに広がった。

丸いパンがこんがりと色づき、表面の小さなひび割れから湯気が立ちのぼる。

その湯気を吸い込むたびに、胸の奥にふっと温かいものが満ちてくる。


「いつもの丸パン、くださいな」

常連のおばあさんが、穏やかに微笑みながら声をかけてくる。

袋を手渡すと、おばあさんはパンを胸に抱えて言った。


「一日のはじまりに、これを食べられるのが幸せでね」


その言葉は店の空気に溶けて、私の中に静かに残った。

自分の手から生まれたものが、誰かの朝を支える——そんなことが、こんなにもあたたかいのかと気づく。


昼下がりには、家族が店で忙しく働く間に台所に立ち、冷蔵庫の野菜を刻んだ。

鍋でことこと煮込み、パンに合うスープをつくる。

テーブルに並べると、背中から声がした。


「ご飯まで用意してくれたの? 本当に助かるわ。ありがとう」


お母さんの「ありがとう」は、焼き立ての香りよりずっと深く胸に響いた。

その一言で、今日のすべてが満たされたように思えた。


こうして一日が過ぎ、二日が過ぎ──気づけば六日間が静かに積み重なっていった。

パンを焼き、お客さんと笑い合い、家族と食卓を囲む。

短い時間だけれど、ここにある一つ一つのやさしさが、私の中に刻まれていった。


七日目の朝。

焼きあがったパンをトレーに並べていると、小さな女の子が店に入ってきた。

「ママと食べるの、楽しみ!」と満面の笑みでパンを抱える後ろ姿を見送りながら、胸がきゅっと締めつけられる。


夜、家族が食卓に集まる。

「今週も本当に助かったよ」「おかずもパンも、すごく美味しかった」

みんなの「ありがとう」が、灯りの下でやわらかく響く。


食後、そっと本を開くと、ページの端が淡くにじんで消えかけているのが見えた。

最後に残った一行は静かに光る。

「七日間の終わりに、新しい扉が開く」


あぁ、ここでの七日が終わるのだと、ようやく胸に落ちる。

目の前にある幸せの数々——湯気、笑い声、母の「ありがとう」——それらがひとつの布のようにまとまって、私の内側に温かく残る。


小さな涙が頬を伝った。けれど、それは悲しみだけではなく、感謝のしるしでもあった。

「ありがとう」――声にしてみると、本は音もなく閉じた。


扉のところで、店のベルがちりんと鳴る。

私はその音に導かれるように立ち上がり、余韻を胸に扉を開けた。

あたたかい時間をありがとう。

その記憶をひとつ持って、次の場所へ行くのだと、静かに思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ