第一章 パン屋の一週間 ― 幸せを包む日々 ―
朝、オーブンの扉を開けると、香ばしい匂いが店いっぱいに広がった。
丸いパンがこんがりと色づき、表面の小さなひび割れから湯気が立ちのぼる。
その湯気を吸い込むたびに、胸の奥にふっと温かいものが満ちてくる。
「いつもの丸パン、くださいな」
常連のおばあさんが、穏やかに微笑みながら声をかけてくる。
袋を手渡すと、おばあさんはパンを胸に抱えて言った。
「一日のはじまりに、これを食べられるのが幸せでね」
その言葉は店の空気に溶けて、私の中に静かに残った。
自分の手から生まれたものが、誰かの朝を支える——そんなことが、こんなにもあたたかいのかと気づく。
昼下がりには、家族が店で忙しく働く間に台所に立ち、冷蔵庫の野菜を刻んだ。
鍋でことこと煮込み、パンに合うスープをつくる。
テーブルに並べると、背中から声がした。
「ご飯まで用意してくれたの? 本当に助かるわ。ありがとう」
お母さんの「ありがとう」は、焼き立ての香りよりずっと深く胸に響いた。
その一言で、今日のすべてが満たされたように思えた。
こうして一日が過ぎ、二日が過ぎ──気づけば六日間が静かに積み重なっていった。
パンを焼き、お客さんと笑い合い、家族と食卓を囲む。
短い時間だけれど、ここにある一つ一つのやさしさが、私の中に刻まれていった。
七日目の朝。
焼きあがったパンをトレーに並べていると、小さな女の子が店に入ってきた。
「ママと食べるの、楽しみ!」と満面の笑みでパンを抱える後ろ姿を見送りながら、胸がきゅっと締めつけられる。
夜、家族が食卓に集まる。
「今週も本当に助かったよ」「おかずもパンも、すごく美味しかった」
みんなの「ありがとう」が、灯りの下でやわらかく響く。
食後、そっと本を開くと、ページの端が淡くにじんで消えかけているのが見えた。
最後に残った一行は静かに光る。
「七日間の終わりに、新しい扉が開く」
あぁ、ここでの七日が終わるのだと、ようやく胸に落ちる。
目の前にある幸せの数々——湯気、笑い声、母の「ありがとう」——それらがひとつの布のようにまとまって、私の内側に温かく残る。
小さな涙が頬を伝った。けれど、それは悲しみだけではなく、感謝のしるしでもあった。
「ありがとう」――声にしてみると、本は音もなく閉じた。
扉のところで、店のベルがちりんと鳴る。
私はその音に導かれるように立ち上がり、余韻を胸に扉を開けた。
あたたかい時間をありがとう。
その記憶をひとつ持って、次の場所へ行くのだと、静かに思った。




