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ショートショート『迎え火 』

作者: 小川敦人

『迎え火 』



村井透は七十二歳になって初めて、人の視線が気になるようになった。


朝のコンビニで新聞を買うとき、レジの若い店員が釣銭を渡しながらちらりと自分を見上げる。その瞬間、透はその視線に何か冷たいものを感じてしまう。哀れみか、軽蔑か、それとも単なる無関心か。


「ありがとうございました」


店員の声は丁寧だが、どこか機械的で、透の存在など空気のように扱われているような気がしてならない。


職場でも同じだった。定年後も嘱託として働き続けている小さな税理士事務所で、同僚たちとの何気ない会話の中で、ふとした瞬間に感じる違和感。まるで自分だけが蚊帳の外にいるような、取り残されたような感覚。


「村井さん、お疲れ様でした」


帰り際、後輩の田中が声をかけてくれる。だが透には、その挨拶さえも義務的に聞こえてしまう。本当は早く帰ってもらいたいのではないか。もう必要のない人間だと思われているのではないか。


透は自分でも異常だと思った。誰も彼を責めていない。むしろ皆親切だ。なのになぜ、こんなにも卑屈になってしまうのだろう。


マンションに帰り、一人きりの夕食を摂りながら、透は自分の変化について考えた。いつからだろうか。この奇妙な被害妄想じみた感情は。


強いて言うなら、最近「死」について考えることが増えたということくらいしか思い当たらない。同世代の知人の訃報を聞くたび、自分の残り時間を意識せざるを得ない。そして人生の終わりを考えるとき、必然的に自分の価値について疑問を抱くようになった。


自分は何を成し遂げただろうか。誰かの記憶に残るような人間だっただろうか。


答えは常に否定的だった。



その夜、透は廊下を歩いていて足を止めた。


誰かが自分の名前を呼んでいる。


「村井透」


確かに聞こえた。囁くような、かすかな声。だが辺りには誰もいない。


透は耳を澄ませた。古いマンションは夜になるとさまざまな音を立てる。水道管のうなり声、エアコンの室外機、隣室のテレビの音。しかし今聞こえたのは、明らかに人の声だった。


翌日も、その翌日も、声は聞こえた。決まって夜、一人でいるとき。「村井透」と、誰かが彼の名を呼ぶ。


最初は幻聴を疑った。年齢による聴覚の異常か、ストレスによる精神的な症状か。だが声は日に日にはっきりと聞こえるようになった。


そして一週間後、透はその声に聞き覚えがあることに気がついた。


女性の声だった。少しハスキーで、どこか懐かしい響き。


記憶の糸を辿っているうち、透は一つの場面を思い出した。


二十年前。当時五十二歳だった透は、会社の同僚だった女性、河野美智子と親密な関係にあった。美智子は四十五歳で、夫を亡くしたばかりの未亡人だった。


二人は静かな恋愛関係を築いていた。といっても、肉体的な関係はほとんどなく、主に精神的な支えあいだった。美智子は夫の死から立ち直ろうとしており、透は長年の独身生活に疲れを感じていた。


だが、その関係は突然終わった。美智子が病気になったのだ。



美智子は胃がんだった。発見が遅れ、すでに進行していた。


病院のベッドで、やつれた美智子は透の手を握りながら言った。


「もし私が死んだら、毎年命日に墓参りに来てくれる?」


透は即座に答えた。「もちろんです」


美智子は安堵したような表情を浮かべた。


「約束よ。私、きっと天国から見てるから」


透は頷いた。その時は心から約束するつもりだった。


だが美智子が亡くなった後、透は約束を守らなかった。


最初の命日、透は墓地に向かおうとしたが、急な仕事が入って行けなかった。二年目は風邪を引いて体調を崩した。三年目は単純に忘れていた。


そしていつしか、美智子との約束そのものを意識的に忘れるようになった。罪悪感を感じるのが嫌だったからだ。都合の悪い記憶を心の奥に押し込み、日常の中で触れないようにした。


だが今、その忘れた記憶が蘇ってきた。夜ごと聞こえる「村井透」という囁き声とともに。


透は恐る恐る古いアドレス帳を開いた。美智子の墓がある霊園の住所を探した。記録は残っていた。


翌日、透は二十年ぶりに美智子の墓を訪れた。


墓石は苔むし、花立ては空のままだった。明らかに長い間、誰も参っていない。


透は花を供え、線香を上げながら心の中で詫びた。


「遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」


その夜、声は聞こえなかった。


だが翌夜、再び聞こえた。今度ははっきりと。


「村井透。なぜ今頃」


透は体が震えた。幻聴ではない。確実に美智子の声だった。


「約束を破ったのに、なぜ今頃来たの」


声は責めるようでもあり、悲しむようでもあった。



それから透の日常は一変した。昼間の人間関係への違和感は消えたが、代わりに夜になると美智子の声が聞こえるようになった。


最初は責めるような声だったが、日が経つにつれて内容が変わっていった。


「私はずっと待っていた」


「どうして忘れたの」


「あなたは私にとって特別な人だったのに」


透は混乱した。これは幻聴なのか、それとも本当に美智子の霊が話しかけているのか。どちらにしても、自分の罪悪感が生み出している現象に違いない。


ある夜、透は美智子の声に向かって話しかけてみた。


「本当にすまなかった。でも、なぜ今になって現れるんだ」


すると、予想外の答えが返ってきた。


「あなたが死を意識し始めたからよ。死が近づくとき、人は過去の約束を思い出すの」


透は息を呑んだ。


「私は死ぬのか」


「いずれね。でも今ではない。ただ、その前にやり残したことがあるでしょう」


やり残したこと。透は考えた。美智子への謝罪以外に何があるだろうか。


「あなたの部屋を探しなさい。昔、私があなたに渡したものがあるはず」


透は記憶を探った。美智子から何かもらっただろうか。


「封筒よ。あなた、大切にしまったはずよ」



翌朝、透は部屋中を探し回った。古い書類や写真を整理しているうち、押し入れの奥から一つの封筒を見つけた。


見覚えがあった。美智子の字で「村井透様」と書かれている。


封筒を開くと、中から手紙と、もう一つ小さな封筒が出てきた。


手紙には美智子の筆跡で次のように書かれていた。


「透さんへ


もしあなたがこれを読んでいるなら、きっと私との約束を思い出したのでしょうね。私はあなたが約束を守れないことを知っていました。あなたはそういう人だから。でもそれで良いのです。


小さな封筒の中身を見てください。そして最後の約束をしてください。今度は守れる約束を。


美智子」


透は手を震わせながら小さな封筒を開いた。


中から出てきたのは、一枚の写真だった。透と美智子が一緒に写っている。会社の歓送迎会での一枚だったと思う。二人とも笑顔で、幸せそうに見えた。


そして写真の裏には、美智子の字でこう書かれていた。


「この笑顔を覚えていてください。約束を守れなくても、この時間は本物でした。今度の約束は『忘れないこと』です。それだけで十分です。」


透は写真を胸に抱いた。涙が止まらなかった。


その夜、美智子の声が最後に聞こえた。


「ありがとう、透さん。今度は守れる約束ね」


声はもう責めてはいなかった。まるで微笑んでいるようだった。


「あなたが卑屈になっていたのは、過去の約束を忘れたからよ。でも人は皆、約束を破るもの。大切なのは、忘れないこと」


透は小さく頷いた。


「さようなら」


美智子の声は静かに消えていった。



翌朝、透は久しぶりに清々しい気持ちで目を覚ました。


コンビニで新聞を買うとき、レジの店員の視線がもう冷たく感じられなかった。職場でも、同僚たちの言葉に被害妄想を抱くことはなくなった。


透は美智子の写真を財布の中に入れて、いつも持ち歩くようになった。約束を思い出すために。


それは守ることのできる約束だった。忘れないこと。それだけで良かった。


数日後、透は再び美智子の墓を訪れた。今度は定期的に来ることを心に決めて。


墓前で手を合わせながら、透は思った。人は皆、完璧ではない。約束を破り、大切な人を傷つけ、時には自分自身をも見失う。だがそれでも、忘れないことはできる。愛した人を、共有した時間を、そして自分が人として感じた本物の感情を。


夕日が墓地を照らしていた。透の影が長く伸びていたが、もうそれは孤独な影には見えなかった。


帰り道、透は空を見上げた。雲間から夕日が差し込んで、空全体が美しく染まっていた。


その美しさを、透は忘れないだろう。美智子との約束と一緒に。


家に着いて、透は静かな夜を迎えた。もう奇妙な声は聞こえなかった。代わりに心の中で、美智子の最後の言葉が静かに響いていた。


「大切なのは、忘れないこと」


透は微笑んだ。七十二歳にして初めて、本当の意味で人生の重みを理解したような気がした。完璧でなくても、破綻があっても、忘れずにいることで人は救われる。


そして人間関係の違和感も、もうなかった。他人の視線に怯えることもなくなった。なぜなら透は、自分が愛し、愛された証拠を心の中に持っていたからだ。


その夜、透は久しぶりに深く、安らかな眠りについた。夢の中で美智子が現れることもなかったが、それで良かった。現実の記憶の中に、彼女はもう永遠に生きているのだから。


翌朝、透は新しい一日を迎えた。昨日までとは違う、希望のある一日を。



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