刑罰
冴えない囚人の戯言である。ある夜の冷たい牢獄の隣、その寒さのあまりに眠れずにいた私を友人などと錯覚したのだろうか。壁の向こうから囚人の声が響いた。
「世間はひどいもんだ。ああ、ひどい。誰かを悪人にしたくて仕方がないようでございます。つまらない都会を走り回ったら、その溜息を業火に変えなければその煙に酔えないのでしょう。誰彼構わず上げ足をとって、嘲笑うのです。例の国の偉い人が私たちを悪人だと言ったとしましょう、今のように言ってみればそう見えると納得できます、でもさらにその偉い人をまた悪人扱いできてしまうのだからどうしようもない。あなたもそうでしょう。ここに来るまで散々、そういう扱いされてきたでしょう?」
囚人の文句は牢の窓の月をも削らん風に引けを取らない喧しさだった。単に響く声の汚さもそうであるが、情的にもそうであった。彼の言い分もわかるところがあるからである。
私は窃盗と暴行の罪で捕まった。重なった不幸と一瞬の気の迷いのせいで一銭も無くなってしまい、どうしても腹が減ったから果物屋の無防備な林檎を攫った。すぐに客に泥棒だと叫ばれ、逃げようとしたところ、他の客が飛び掛かってきて、私は本能的に殴ってしまった。これらが窃盗と暴行のあらすじである。悪意という悪意はなかった。あるとすれば飢餓のせいで社会やそれを形成した町の人に苛立ったくらいだ。それが警察に捕まった後はかなりの大ごと。誰も彼も私の過去を洗いざらいして、陰気な性格のせいだの、低い身分だからだの、そのせいで薬をやっていただの、あることないことが街の風と共に踊っていた。そんなのは嘘であるのに、蠟燭の消えかかった火のような私の命と罪を、その小さな悪意は、知らぬ間に竜の炎の息のように大きなものになってしまった。
ただ私が囚人を煙たがるのはむしろ、そこにある恨みよりも同情である。囚人が私の言い分を代弁したばかりに、その気持ちの悪さが客観的に露呈してしまった。どの口で言うのだと、私は囚人に思ってしまった。その身分が私と同じだと客観的になって気づけば、さらに気持ちが悪い。彼が正しいことを云うたびに私は私を非難してしまうのだから。その理由はわからんが、感覚的には私はそうだった。狭い牢の窓の月が私を哀れに眺めるように、私も囚人の声を眺めていたのだ。
囚人は私のやや行き場の無い溜息を感じ取ったのだろうか。また話し出した。
「我は思うのです。我は我の生きられるように生きてきた。いくつか選択は誤ったかもしれぬが、真面目に向き合ってきたつもりだ。その果てにこの牢獄に押さえつけられてしまっても、それまでの行いは確かに我のものだった。我は悪かもしれない。やったことは民衆の決まりごとに乖離したものだ。されどあれらよりはマシだろう。我はあれらが弱虫に見える。我があれに馴染めないのは、まさしく仲間らしく振舞っても、内情は互いにいがみ合い、外れものをそういった環境から来る不満をぶつけたいだけ、こんなものは我々とやっていることが同じではないか。本能的に生きるために彼らは隣人を敵視し、敵だからと、身の安全の為に仲間集団を作り上げる。いわば帝国時代の同盟みたいなものだ。そんなもの形ばかりだから、どうせ敵視せずにいられず不安不満が募って、その矢が仲間はずれな我々に向かうのだ……あれらはつまり生きるためにそうしているだけだ。正義ではない。正義であるとすればそれは集団の心理だ。だがそれなら我にも正義はある。個人の真理だ。あれらがそうしたように、我も生きるためにそうしただけだ。悪意があるとすれば、それは彼らの集団的無関心からなる透明な矢と、我々に放ってきた火の矢にだってある。ならむしろ彼らのほうが悪ではないか。我々よりも矛盾していて気色が悪いのだからな」
囚人の理屈が正しいかどうかはそれほど重要ではない。共感しようとも私の人生は大きく変わりはしないからだ。私が孤独であることも。
そうであっても囚人の籠った声はやや私の感情を刺激した。正論らしいところから来る勇ましさ、さらに同じく抱いた炎のような苛立ち、そこから来る猛々しさ。ここに堕ちてまで立ち向かう様は憧れに似た想いを誘ってきた。罪を焼き切らんその炎は香ばしい。
ただ私はどうやら囚人よりも賢かったようだ。冷めていた。私の本能はここまでの学習から囚人の実現不可能な妄言を嘲笑していた。やはり人生はそう簡単に好転しないのだ。残酷なまでに。もはや。
囚人は私のその心情も知らず、ひとりでに声を響かせる。
「ああいや、わかっている。我がそうしたようにあれらも本能、人間であるがゆえにそうした。悪いのは人間であろうか。いや、違う。人間同士に悪があっても、そのものにあっては意味は為されない。我々が悪という言葉を使うのは、人間の誰かを悪者にしたいからだ。全員が悪ならばそんなことを云っても意味がない。しかしこの行き場の無い憎悪はどうすればいい、これも我のこころに確かにあるものだ。人間であるがゆえに。ああ、そうである。悪いのはこの世なのだ。神がいるのならばそうであろう。我はもはやあれらではなく、あれらの根本にある人間性に絶望をしている。それと似たものが我の中にもあるとわかっているから抗えない。ならどうするか。我は人間ではなく、悪魔になるしかあるまい。そうして神を討つしかあるまい。あなたはどうでしょう――どうでしょう!! どうせここから出ていっても、あれらの炎こもる嘴はつねに向いている! もう普通には生きられないのです!! あなたはどうでしょう? あなたは――!!」
囚人の声が荒々しく震えるとともに壁もまたそうなった。さらに意味の分からない言葉を叫びながら牢の鉄格子を激しく揺らし始めた。狂人じみていたのはわかっていたが、まさかここまでとは。私は動揺した。囚人の熱い息がその炎が、その臭い煙が、私のほうまでやってくると恐れた。あの五月蠅さのせいで、おかしくなりそうだったのだ。だから私は火事に見舞われたように「誰か! 誰か!」と廊下の向こうの微かに明るいところへ叫んだ。すぐに看守が顔を歪めてこちらに駆け寄ってきた。「どうした! こんな真夜中に」と勢いよく声を飛ばし、私のところまで来た。私は正直、看守も狂ったのかと疑った。言わなくてもわかるだろう。「隣の囚人がおかしくなった!」と私は鉄格子に掴まって訴えた――ああ、それがおかしい。看守は固まった顔を皴一つ変えず、私に云ったのだ。
「隣に囚人などいないぞ」
看守は戸惑う私を冷笑して去っていった。善悪でなく私に呆れて。そうであっても彼の声は尚あるのだ。だから私はその背中へ怒鳴った。何度も叫んだ。だがその声は囚人の炎に飲まれ届かない。
私の声上げるばかりに灼熱の牢獄。ただ一人ぼっちの私はもはや自分が誰なのか、わからなくなってしまった。あるのは弛まず響く囚人の声だけであった。私は耳と頭が引き裂ける前に牢の鎖を踊らせた。