廻牢
時刻は既に夜9時を回っていた。
思ったより残業に時間を費やしてしまったらしい。帰途につく足取りが自然と焦りだしていた。
今日は娘の誕生日である。「そんな日にここまで残業させられることになるなんて」と、ぼやきたくなるが仕方がない。こうして生活していけるだけ、このご時勢ありがたいことなのであろう。色々と思うところはあるけれど、カバンの中に忍ばせた誕生日プレゼントをチラリと覗きこみ、娘の喜ぶ顔が目に浮かぶとそんな不満もどうでもよくなる。今はこの小さな幸せで胸がいっぱいだった。
夜の道は人気がなく深閑としていた。つい、私は浮かれた気分を隠さぬまま半ば踊るような足付きで歩いていた。しかし、いつも通る公園にさしかかった時、珍しく園内に人がいることがわかると、ハッとして私は歩みを普通に戻した。
ベンチに浮浪者みたいな男がぐったりと横になっていたのだ。酔いつぶれて寝ているようで、酒瓶を握ったまま動かない。年は50代半ばといったところであろうか。見るからに世捨て人といった雰囲気である。横に立ち並ぶ照明塔が薄暗く男を照らしていて、侘しい感じが窺えた。
私は変に男を刺激しないよう静かに通り過ぎようとしたのだが、横切りざまに、
「おい」
と、静寂の中に響く声が聞こえた。振り向くと、その男がベンチに横たわった姿勢のまま、虚ろな目を私に向けて声をかけてきた。
「何ですか。」
男が起きていたことに驚いた私は、つい反射的に普通に返事をしてしまった。
「お前・・・、ここがどこか知っているか。」
「は?。」
「今いるここがどこかわかってるのかって聞いてんだよ!。」
憮然とした声で男は妙なことを問いかけてくる。一体何のことを言っているのかわからず、私はただキョトンとしていると、男は私の返答を待つことなく話を続けた。
「ここはな、地獄だ。」
「地獄?。」
「そうだ。俺に罰を与えるためだけにアイツらが創った牢獄なんだ。俺がどうあがいたって抜け出すことができない無限の地獄の一つなんだよ。」
やはり、相当酔っぱらっているのだろうか。ここはもう無視して立ち去ろうかと思ったが、男は独り言を喋るようにブツブツと話を続けていて、何となく話の途中で無理に立ち去ろうとすると変に怒りを買って余計に面倒くさくなりそうだったので仕方なく耳を傾けていた。
「これでもう何度目だ…。この前は、治療ができない病気に侵されて来る日も来る日もベッドの上で苦しみ悶えるだけで一生を終えて・・・、その前は事件に巻き込まれたせいで突然家族を失って、絶望に押し潰されながら毎日を過ごして・・・。そして今度はアル中から抜け出せないゴミ以下の人生を負わされてこの様だ・・・。こうして落ちぶれて落ちぶれて、奈落の底まで堕ちた時に思い出すんだ・・・!。俺は無数の地獄の中に閉じ込められた大罪人で、この一生分の苦しみを何回も、延々と繰り返さなきゃならないってことをなあ!。」
虚ろだったはずの男の目がだんだんと真に差し迫ったかのような気勢を帯びて、また、ドス黒く濁った不気味な情動を目の奥から感じた。言っていることはまるで理解ができなかったが、私はその得体のしれない負の気迫に圧倒されていた。
「すいませんけど・・・、そんな話を聞かされても私には関係ありませんので。」
私は、気味が悪くなって男にそう言葉をかけて、そそくさと立ち去ろうとした。すると、男は一層声を荒げて激昂した。
「ムカつくんだよ!。テメェの顔が!。所詮テメェは!、テメェらは俺の牢獄の一部品にすぎねえだろうが!。感情も人生も全部アイツらに創られた人形の分際で!自分は幸せですっていう顔なんか
してんじゃねぇ!」
男は怒号をあげると、握っていた酒瓶を私に投げつけようとした。とっさに私は身を翻し、男から急いで離れた。そのまま公園の出口へ向かって走ったが、突然、後ろから男の叫び声が聞こえてきた。
「あ…あぁあー!。もうやめろぉ!、連れていくなあー!。俺を解放してくれぇえー!。」
振り向くと、そこには男の姿は無く、ベンチの側に空っぽの酒瓶が転がっているだけだった。
― 一体何だったんだ。
私はそのまま急ぎ家路に向かった。得体のしれない恐怖から逃れようと無我夢中で走って、気がつけば家の前に呆然と立っていた。
恐る恐るドアを開けて「ただいま」と、いつものように呼びかけると妻と娘が待ちくたびれた様子で出迎えてきた。
「パパおそいよ!」
と、ふくれる娘にごめん、ごめんと宥めかけ、徐に娘の体を抱きあげた。娘の体は小さく、柔らかく、温かかった。けれども、そのぬくもりが現実のものなのかどうか私にはわからなかった。




