マリアブロン修道院生
マリアブロン修道院には、優秀な神学生になるべく年若い学生達が集う。
入学の門戸は開かれていたが、学問的な競争を勝ち抜いた選ばれた若人だけが、その門を潜ることが許された。
選ばれし学生達は皆誇らしげで、大抵の両親は、隣人に我が子の素晴らしさを伝えないことは無かった。
入学をしてからも競争は続き、そこで学ぶことはパズルのような文法や高等数学や、たった一つしか許されない聖書の解釈などであった。
詩や芸術、音楽などは持っての他で、将来の職業に必要な部分においてのみ教える程度であり、ゲーテだとか、ダンテだとかは暗記科目として多くの学生に認識されていた。
しかし、彼ら年若い学生は、授業とはそういうものだと思って受け入れていることがほとんどで、何よりも、社会的に地位のある将来を約束されているという事実が、ほとんどの問題は些末なものであると彼らに思わせた。
そんな学生の中に、クネヒトという少年がいた。
彼は、親や近隣の大人達の勧めや、友人からの誘いもあってマリアブロン修道院の受験競争に参加し、友人と揃って合格を果たした。
当時のクネヒトは、特にやりたいこともなく、周囲の人間が認める人生の王道を走ることが正しいことだと思っていた。
入学後、彼は誠実に学び、成績は常に上位で、教師や指導員からの評価も好意的なものであったので、彼は自分の判断が、努力が、行いが間違いではなかったと確信し、これからも清廉な人間として生きていくのだろうと信じてさえいた。
学校から帰郷することを許された、夏のある日のこと、クネヒトは故郷の懐かしい空気を吸込み、朗らかな太陽と木陰が織りなす美しい陰影や鳥のさえずり、アヤメの花の美しさをゆっくりとした足取りで堪能していた。
微かに音楽が聞こえる。
クネヒトは立ち止まって、音のする方、森の奥へと進んだ。
そこには、種々様々な、見たことのない楽器を持った人々が音楽を演奏していた。
ピアノのような、あるいはハープのような不思議な音色と、透き通るような綺麗な歌声が、木々のざわめきに調和し、クネヒトの心を揺さぶった。
クネヒトは彼らの演奏が終わるまで、ずっと音楽に耳を傾け、自然が静寂を取り戻した時、彼らに声をかけた。
彼は、あなた方の演奏はとても素晴らしく、甚く感動した、と感想を述べ、あなた方は一体何者なのか、と訊いた。
すると彼らのうち一人が、我々はガラス玉遊戯職人で、演奏の練習をしていたと答えた。厳密には、遊んでいた、という表現が正しいのだけれどね、とすかさず美しい声を持つ歌手が付け加えた。ひとしきりクネヒトが彼らと話した後、森を出ると教会や家々が夕陽に染まっていることに気が付き、急いで家へと帰った。
夕食の時に、今日出会った不思議な人々のことを、やや興奮気味に両親に話したが、それはそれは良かったわね、いい経験をしたな、と返事をされただけで、あの時の感動を共有出来なかったことに少し悲しく思った。
修道院に戻った後の彼は、どこか上の空で、いつも彼らのことを、ガラス玉遊戯職人のことばかりを考えていた。彼らの演奏が彼の心を占領し、陶酔した気持ちにクネヒトはしばしばなった。そして彼らのことを知ろうと思い、修道院の教師に、ガラス玉遊戯職人とは何なのかと訊いた。
教師は、君の知る必要のないことであり、知る必要のない世界のことだ、勉学に励みたまえ、と抑揚のない声で答えた。
教師の言葉に正直に頷けなかったのは初めてだった。やがてクネヒトはガラス玉遊戯職人になりたいと思うようになり、勉学を放棄し、音楽や詩に没頭した。
音楽や詩は、彼を別の世界へと導き、勉学ばかりの日々が何と虚しいものかと理解した。
しかし、彼には才能が、勇気が、自信が欠けていた。
今はこれでいいのかもしれない。しかし、将来は、未来は、どうなのか。葛藤し、思考の果てに勉学も芸術も全てが中途半端なまま時間だけが過ぎていった。
学生の目標である神父になるための試験に受からず、一緒に入学したはず友人は、もう何年も前に先に神父になっていた。
選択しなければならない。
夢か現実か。
クネヒトは、現実を選んだ。
一年間、芸術を捨て、ただひたすら、今までの遅れを取り返すように勉学に打ち込んだ。
楽しくはない。面白くもない。必要だから、やらなければならない。
果たして彼の最終試験は、不合格だった。
途方に暮れ、かつて自身が憧れていた芸術に目を向けてみたが、もう何もかも空っぽだった。