悲劇の王女は生まれ変わってハピエン主義の人気小説家になりました
かつてルクレーヌ王国には、セレスティーナという名の王女がいた。
セレスティーナはその美しさから妖精姫と称えられるほど人々の心を魅了し、愛される王女だった。
しかしその最期は悲劇的なものである。
王女の婚約者は海を越えた大国の王子。セレスティーナは十七の歳、愛する王子の暮らす地へ嫁ぐことが決まる。
ところが船は激しい嵐に見舞われ、王女が異国に降り立つことはなかった。人々に愛された妖精姫は嵐の海に消え、セレスティーナの名は悲劇の王女として人々の記憶に刻まれたのである。
しかしセレスティーナの死から十五年。一人の小説家の登場によって王女の死は悲しいだけの物語ではなくなった。
書き手の名はリタ・グレイシア。デビュー作【王女の婚姻】を発表後、絶大な人気を博した作家である。
当時ルクレーヌ王国では悲劇的な結末が流行していたが、リタは幸せな結末、ハッピーエンドを主義とする書き手だった。【王女の結婚】では実在した悲劇の王女セレスティーナをモデルに、彼女の人生を大胆な解釈でアレンジし、その悲劇的な人生の幕引きを幸せな結末で彩ったことから一躍話題を攫った。
以後もリタは精力的に執筆を続け、その活躍はロマンスだけに留まらず、国民から圧倒的な支持を得続けている。近々翻訳本の発行も予定され、その活躍は国外にまで広がる予定だ。
前述の通り、リタの台頭によってルクレーヌの文学は変わった。求められていた悲劇的な結末から一転、ハッピーエンドが人気を博すようになったのである。そこには著者の強い願いが込められていた。
時は流れ、リタの登場から三年。
今日はそんなリタ・グレイシア待望の新刊が発売される日だ。
それぞれの店が営業の準備を始める中、ルクレーヌ王国は主に書店を中心に緊張感に包まれていた。
書店の前には長蛇の列。並んでいるのは圧倒的に女性が多いが、中には男性の姿も目に入る。身なりの良い紳士たちは主人の使いだろう。
看板を手にした誘導係の指示で的確に形成された列は遠く長く伸び、別の待機場所へと区切り誘導された人たちを含めると最後尾までの距離は果てしない。
これだけの人が集まりながら目立ったトラブルがないのはリタ・グレイシアの新刊を手に入れるという共通の目的への団結と、トラブルを未然に防ぐために配備されている騎士たちのおかげだろう。
本は手に入るのか。
開店が待ち遠しい。
早く読みたい。
何時から並んでいる。
そんな声が聞こえる中、ついに開店の合図である広場の鐘が鳴り響く。その瞬間からルクレーヌの書店という書店は多忙を極めた。
いくら時間が経っても列が途切れる様子はない。むしろ人々の生活時間になったことで客が増えているほどだ。
書店に吸い込まれた者たちはみな、同じ本を手に抱いている。本のタイトルは【伯爵家の契約結婚】であり、利害の一致で契約結婚をした二人が運命の恋に落ちるというロマンス小説だ。もちろん結末はハッピーエンドである。
「売れ行きは良好みたいね!」
少し離れた民家の影からその様子を覗き見ていたセレナは満足そうに呟いた。リタ・グレイシアこと、本名セレナ・レスタータである。
そんな主人の様子に背後で控えていた侍女のモニカは困ったように反応する。
「セレナさまぁ~、そのように物陰から覗かれなくても、お申し付け下さればわたくしが視察してまいりますのに……」
モニカの言葉通り、セレナには人に命じられるだけの権力がある。一言命じさえすればわざわざ民家の壁に隠れて書店を覗き見るような真似をする必要はないのだが、それを断って自ら行動に移したのはセレナ自身だ。
「いいの! こういうのはね、自分の目で見て実感したいものなのよ」
書店から出てくる人たちの幸せそうな顔。あちこちで聞こえるリタ・グレイシアの名。それは直接足を運ばなければ実感することはできなかった。
「ですがセレナ様。そろそろ出発なさらないと、王妃様との約束に遅れてしまいますよ?」
「それは困るわ!」
待たせていた馬車に乗り込み、向かった先はルクレーヌが誇る王国の象徴だ。
城で来訪を告げたところ、速やかに通されたのは王妃の私室である。この面会を楽しみにしていたのは相手も同じだったのか、セレナが到着すると自ら部屋の扉を開け放って見せた。
「セレナ! 待っていたのよ」
ルクレーヌの王妃であり、亡き王女セレスティーナの母であるネヴィアが嬉しそうに出迎えてくれる。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「いいのよ。今日は大切な日ですもの! さあ入って。モニカは一緒ではないのね? なら堅苦しいのはなしよ」
二人きりであることを確認してからネヴィアは嬉しそうに言った。
セレナは期待に応えようと、二人きりの時にしか口にしない呼び名を告げる。
「はい。お母様」
「ええ。貴女には叶う限りそう呼んでもらいたいわ」
伯爵令嬢として生まれたセレナと王妃であるネヴィア。二人に血の繋がりはないが、心は深く繋がっている。そのためネヴィアはセレナから母と呼ばれることを望んでいた。
「それで? 書店の様子はどうだったのかしら」
ネヴィアは待ちきれずに切り出した。好奇心に満ちた眼差しが早く聞かせて欲しいと子どものように強請る。
「どの店も開店から列が途切れない様子で、騒ぎがおきないよう騎士の方たちが配備されていました」
「それはそうよ。リタの新刊発売日ともなれば暴動がおきてもおかしくないって、わたくしからも陛下に進言しておいたの」
「ありがとうございます。おかげで目立った問題はなさそうでした。あちこちからリタの名前が聞こえて、反響が大きいようでほっとしています」
「私も何度も読み返しているのよ。契約結婚から真実の愛が始まるなんてロマンチック。今回も胸が熱くなるような恋物語だったわ!」
「ありがとうございます」
「ああいけない、興奮するあまりお茶の用意がまだだったわね」
ベルを鳴らすと侍女のハンナがティーセットを運んでくれる。
「セレナ様、新刊の発売おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」
「ありがとう、ハンナ。でも、貴女の素晴らしい挿絵があってこそよ」
「いえわたくしは、指示されたものを描いただけですから」
「だからって、いきなり侍女に絵をかけなんて無茶振りによく応えてくれたと思うわ」
「……王妃殿下とセレナ様のお役に立てたのなら光栄です」
できる侍女ハンナは恐縮するが、いきなり描けと言われて描けるものではない。すべてはネヴィアの無茶振りから始まったのだ。
セレナは娘の死を嘆くネヴィアを慰めるためセレスティーナをモデルにした小説を贈った。ネヴィアはその小説を気に入り、出版したいと言い出したのである。
原稿はネヴィアの的確な指示にって改稿され、セレナの実家であるレスタータ家が支援する印刷所に持ち込まれた。
無茶振りに巻き込まれたハンナは健気にも協力してくれたのだ。
「お二人はこれから次回作の打ち合わせですよね? 私もファンとして楽しみにしております。隣の部屋に控えておりますので、ご用の際はなんなりとお申し付け下さい」
そう言ってハンナは下がり、二人きりにしてくれる。扉が閉まると長い打ち合わせの始まりだ。
いつものことではあるが、昼に訪ねたというのに打ち合わせを終えたのは夜である。
「遅くまでごめんなさいね」
「いえ、お母様こそお忙しいのにありがとうございます」
「私はいいのよ。でも貴女は明日サイン会でしょう。それに、新婚なんだから」
事実を言われてもセレナは今思い出したという心持ちである。
するとネヴィアがじりじりと距離を詰めてきた。まるで逃さないと言うようだ。
「仕事の話はここまで。本の話も良いけれど、私は貴女の話も聞きたいわ」
「私ですか?」
「人気小説家リタ・グレイシアが新婚だなんて知ったらきっとみんな驚くわね」
楽しそうに笑みを浮かべるネヴィアを前に、セレナは苦い思いで紅茶に手を伸ばす。
「まさか、契約結婚ものを書いていたら自分が契約結婚をすることになるとは思いませんでした」
「現実って、時には物語を超えてしまうのよね。死んだはずの娘が生まれ変わって目の前に現れることもあるのだから、きっとそういうこともあるのでしょうけれど」
「本当に……」
頷けば、自身の境遇は改めて物語のようである。
悲劇の王女セレスティーナとして死に、同じ時代の同じ国に伯爵令嬢として生まれ変わった。
前世の母と再会し、何故か作家と編集のような関係を築いている。
さらに言えば先日契約結婚をしたばかりの新婚だ。
しかしこと結婚に関しては物語のようにはいかないらしい。ネヴィアを心配させたくないセレナは慎重に言葉を選んだ。
「私たちの結婚は物語のようなロマンスには発展しないと思いますよ? 旦那様との距離は、相変わらず遠いですし」
「そうなの?」
セレナの夫は寡黙ながらも美しいと評判の冷血公爵ラシェル・ロットグレイ。公爵でありながらルクレーヌの王太子の右腕とも評され、国からの信頼も厚い人物だ。
しかしその美しい顔に感情が乗ることはない。真面目で堅物、容赦のない冷酷さを持ち合わせ、彼の怒りを買った貴族は社会的に消されたといわれている。冷血公爵とは、常に整った顔立を崩さず無情な判断を下すことからつけられた通り名だ。
伯爵令嬢であるセレナと公爵家当主のラシェル。それは互いの利益のために結んだ契約結婚であった。セレナは小説を書き続けるために。ラシェルは早急に結婚する必要があったという。
(あの人は私にお飾りの妻でいいと言ってくれた。リタ・グレイシアであり続けるためにこれ以上ない結婚相手だと思った。だから結婚したのよね)
今も鮮明に思い出せる。彼が求婚に訪れたのは新刊の入稿が迫るあまり徹夜続きの疲労困憊、気を抜けば立ったまま夢の世界に旅立ちそうな日のことだった。
セレナは結婚してからほとんど部屋に閉じこもっているが、ラシェルはそれで構わないと言ってくれた。だからきっと、この先も恋愛に至ることはないだろう。ロマンスを期待していたネヴィアには申し訳ないが、現実はこんなものである。
(お互い見ているものが違うと思うのよね。私たちに共通点があるとは思えないし、普段の会話にだって困るんだから)
しかしネヴィアは諦めなかった。契約結婚であることは聞いているが、やはり娘には幸せになってほしいのだ。悲劇的な結末で前世を終えたからこそ、尚更その思いは強い。
「焦ることはないわ。あの子も忙しい人だし、セレナだってこの間まで新刊の原稿で手一杯だったでしょう? これからじっくりお互いを知っていけばいいのよ」
「そう、ですね」
セレナは曖昧に笑う。あまり期待に応えられる自信がなかったのだ。
(私もう結婚に憧れってないのよね……)
セレスティーナであれば素直に頷き、母と恋の話題に興じていただろう。前世の自分は恋というものに夢を見ていたと自覚している。あの頃は王子様と結婚するのだから幸せになれると信じていられた。
(けど現実は、物語のようにはいかない。物語ならハッピーエンドに書き換えることもできるけれど現実は……)
お姫様は短い生涯を終えた悲劇の王女と呼ばれている。
愛していると言ってくれた婚約者の王子も、本当は自分のことなど愛してはいなかった。甘い夢ばかり追いかけていたせいで現実に気付けず、簡単に騙されてしまった。もう同じ過ちを繰り返したくはない。
ところがなんの因果かセレスティーナはセレナとして生まれ変わっていた。
(だから私は幸せな物語を紡ぐの。セレスティーナとして幸せになれなかった分まで)
そのためにも契約結婚をしたのだ。夫に対する過度な期待はしていない。もう恋なんて甘い夢に身を焦がすつもりもない。きっとラシェルも同じ気持ちでいるからこそ自分を選んだに違いない。
(ごめんなさい、お母様。純粋だったセレスティーナはもういないのです)
心の中でセレナはかつての母に向けて謝った。
(さてと、私も帰りましょうか。あの家、契約結婚だからこそ生活は快適なのよね)
ところがセレナが公爵邸に帰宅すると、珍しく玄関で夫と顔を合わせてしまった。噂に違わぬ美しい夫が、これまた噂通りの表情で自分を見下ろしている。
「おかえり。随分と遅い帰宅だな」
後ろめたいことがある人間なら鋭い言葉と眼差しを向けられただけで怯むだろう。しかしセレナの外出理由は表向き王妃の話し相手という名誉であるため、咎められるいわれはない。
「ただいま戻りました。夜分に騒がせてしまい、申し訳ありません」
「いや、構わない。俺もこれから外出するつもりだ」
やはり咎められることはなかった。というより、ラシェルには興味がないのだろう。それよりもセレナはこんな時間から出かけるという夫の方が気になった。
「このような時間に出かけるのですか?」
「明日は――! ああ、いや。明日は大切な用事がある。今夜は戻らない」
ラシェルは明らかに言葉を濁した。それも見間違いだろうか。僅かに口角が上がった気がする。
しかしセレナは何食わぬ顔で夫を送り出すことにした。
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ――」
セレナは颯爽と去りゆく背中を見つめる。
(あの旦那様が、僅かに顔を綻ばせて大切な用事と言った。それって……愛人てこと!?)
仕事なら仕事と言い切る人だ。それを大切な用事と曖昧な表現を使った。
これがロマンス小説なら自分はそう書く。だから愛人に一票。黒だとセレナの中では見たこともない愛人像ができあがっていた。
(まあ別に愛人がいてもいいけれど)
夫婦のあれこれが不要なのは有り難いと割り切っている。二人の最低限なやり取りを心配しているのは使用人たちばかりで、今も傍で見守っていた老執事が悲痛な面持ちを浮かべていた。
(ああぁ……この人、旦那様のそっけない態度をいつも心配してくれるんだよね。でも気にしないで下さい! 私、ちっとも気にしてませんから!)
そう言ったところでさらに心配させてしまうから悪循環だ。
(旦那様には驚かされたけど、早く寝てしまおう。私も明日は大切な用事があるんだから!)
明日はリタ・グレイシアとして初めてのサイン会が行われる。寝坊などしようものなら一大事だ。
正体は隠して活動しているが、あまりの人気ぶりにどうしてもサイン会をと頼まれ断り切れず、顔を隠すことを条件に引き受けてしまった。
初めは大変なことになってしまったと思っていたが、今日新刊を手にした人たちの顔を見ていたら引き受けて良かったと思えたのだ。
朝から外出するところをラシェルに見つからずにすむのならむしろ有り難いことである。
翌朝、セレナはサイン会が催される会場の裏口から入店する。
控え室に通されるとモニカは本人以上に興奮していた。
「セレナ様! 外は凄い人ですよ。大盛況です。朝一番で並んだ人は日の出とともに現れたとか」
「へえ、それは嬉しいわね」
少しだけ様子を見ようと、セレナはカーテンの隙間から外を覗きーー
目にも止まらぬ速さでカーテンを引っ張った。
心臓はバクバクと鳴り響き、誰かに見つかった訳でもないのに窓の下にしゃがみ込む。
「セレナ様?」
「……がいた」
「はい?」
「旦那様がいた!」
「外を歩いておいでだったのですか?」
「違う! 外っ、列! 旦那様が並んでて、しかも先頭!」
「それは、さすがに見間違いでは……」
信じられないと笑うモニカも外の様子を確認する。そしてセレナ同様大げさにカーテンを閉ざし、しゃがみこんだ。二人はその場で見つめ合う。
「ね!?」
「私にも旦那様が見えました」
「なんで!? なんでいるの!?」
昨晩別れた夫がまるで彫刻のように微動だにせず先頭に並んでいるのだ。
「並んでいるということはサイン会にいらっしゃったのでは?」
「あの旦那様が!?」
堅物、冷酷と名高いラシェル・ロットグレイが?
「え? まさか大切な用事ってリタのサイン会? 前のりして朝一番に並ぶため!?」
だがこの際ラシェルの心はどうでもいい。この場において重要なことはそこに夫がいるということだ。しかも先頭。近しい人相手では正体がばれる可能性が高い。
「モニカ、急いで仮面を用意して!」
あらかじめ用意していた変装グッズは眼鏡と薄いヴェールのみ。しかし夫がいるとなれば手ぬるく感じる。
すると有能な侍女モニカは素早く意図をくみ取ってくれた。
「わかりました。開店前ではありますが、かけあってみます!」
「頼んだわ。私は時間までに裏声の練習をしておく」
開始まであと一時間。ぎりぎりの戦いである。
緊張していたはずが、その緊張はすっかり別のものへとすり替わっていた。
開始直前になって大慌てのサイン会となってしまったが、モニカはなんとか間に合ってくれた。持つべきものは有能な侍女である。
しかし有能な侍女は戻るなり息を切らせて言った。
「セレナ様ぁ~、さすがに都合よく仮面を売っている店なんてありませんよぉ~」
「でしょうね」
わかってはいた。だが私に任せろという体で走り去った割には情けない発言である。
「なので本日公演予定の劇団に駆け込み、衣装を借りさせていただきました!」
誇らしそうに語るモニカが差し出したのは鮮やかなジャケット。すらりと伸びた白の眩しいズボン。そして極めつけは白い羽飾りのついた目立つ帽子。その上に置かれているのは目の部分だけを隠せる派手なマスクだ。
「これは?」
「とても急いでいます。至急お借りできる変装道具はありませんかと聞いたところ、こちらを貸していただけました」
「着るの? 私が?」
この派手な服をとセレナは気圧されていた。
確かにこれならセレナらしさはどこにもないが、むしろ何がしたいのかもわからない気がする。
「信頼を得るためリタ・グレイシアの名前を出したところ、先方はリタの大ファンだそうで、ご自身の衣装を身につけてくれることを大変光栄だと歓喜しておいでです」
「それもう着るしかなくない!?」
最初から拒否権はなかった。モニカの眼差しは穏やかに、諦めて下さいと言っている。
確かに好意を無下にはできない。変装グッズに困っているのも事実であると、セレナは覚悟を決めさせられた。
(そういえば焦って失念していたけれど、旦那様には妹さんがいらっしゃるのよね。もしかしたら妹さんのためとか? もしくはそっくりさん!)
着替えながら考えを巡らせることができるのは落ち着いてきた証拠だ。仕上げにマスクを装着すればセレナの存在は消えた。
サイン会は一対一で行われるため、一人ずつつい立ての向こうに通される仕組みとなっている。
「こんにちは。今日はありがとうございます」
そう告げれば旦那様(仮)は怪しむことなく本を差し出してきたので練習した裏声の成果が発揮されたのだろう。セレナは本に記載するための名前を訊いた。
「お名前は?」
「ラシェル・ロットグレイで頼みたい」
(モニカ~本人だよぉ~……)
混乱のあまり泣きそうだ。
「ラシェル・ロットグレイさんですねー……」
まさか夫の名前をこんな所に書くことになるなんてと思いながら、セレナはサインを刻ませてもらった。
サインを終えたのなら次は握手だ。白い手袋に包まれた手を差し出すと、ラシェルは慎重に両手を添えてきた。とても優しい手付きであることが布越しにも感じられる。
「リタ・グレイシア。君の本には深い感銘を受けた。君は俺の人生に大きな影響を与えてくれた。これからも活躍を楽しみにしている。だが無理はしてほしくない。どうかその身を大切にしてくれ」
セレナとモニカの努力の成果だろうか。驚くほど呆気なく、無事サイン会は終了したのである。
けれど交わした眼差しに、想いのこもった言葉。握られた手の熱さはいつまで経ってもセレナの中から消えはしなかった。
「あれ、本当に旦那様?」
これが物語でよくある夫の知らない一面を見たという場面なのだろうか。なるほど、物語で書くよりも衝撃は大きいらしい。
余談ではあるが、翌日の新聞の見出しは【リタ・グレイシアは男装の麗人!?】だった。
違うっ!! と新聞を握りしめたセレナを宥めるのが大変だったと言うのはモニカの証言である。
衝撃と疲労はそのままに、帰宅したセレナを待っていたのは件の夫だ。
「君にこれを」
そうして手渡されたのは発売されたばかりの自著だった。
(お前の正体は知っているってこと!?)
脅迫かと身構えるセレナにラシェルは言った。
「リタ・グレイシアの新刊だ」
(知ってますけど!)
「屋敷にこもっていては退屈だろう。君も読むといい」
「ありがとう、ございます……?」
そう言ってラシェルは混乱するセレナを置き去りに仕事へ出かけていく。意図がわからず、セレナは一晩中本を睨む羽目になった。
だがいつまでも恐怖に震えるつもりはない。帰宅したのなら真意を探ろうと構えていたセレナだが、訪ねてきたのはラシェルの方からだ。
「読んだか?」
「はい。何度も……」
「なんだと?」
「いえ何度か!」
低く問い質され、つい正直に答えてしまったセレナは言い直す。
この本をではないが、何度も読んだのは事実だった。
(というか書きましたし)
「そうか。それで?」
「それで?」
「どう思った?」
「どう!?」
やはりこれは尋問か。真意の読めない眼差しが続きを促してくる。
「それは……とても、素晴らしかったです」
当たり障りのない回答をすれば、足りないとラシェルの眼差しが語っている。
「ええと……契約結婚をした二人が、すれ違いながらも絆を深め、やがて心で繋がりお互いを必要とし、手を取り合う描写には深く感動致しました。やはり幸せな結末は心が温まるといいますか」
言ってやった。恥ずかしいけれど言ってやった。セレナは羞恥で顔が赤くなるのを感じていた。
しかしラシェルの様子もおかしい。
「そうか!」
「ひっ!?」
叫びにも近い声に顔を上げると強く手を握られる。荒々しく、感情のままに握られた力は強い。
「君にもわかるか。リタの素晴らしさが!」
無機質にセレナを見下ろしていた瞳が色めいている。
「リタ・グレイシアの物語はそこがいい。困難を乗り越え、苦難の果てに幸せが待ち受けている。君もわかってくれたか! あ、いや、すまない。つい取り乱してしまった」
夫の新たな一面に、取り乱してたのかと遅れて納得する。
「その、君もリタを気に入ってくれて嬉しかった。執事から何か贈り物をしてはどうかとすすめられたのだが、女性が喜びそうなものはこれしか思いつかなかったのだ」
「私を、喜ばせようと?」
本当だとしたら、気遣いのある夫に愛人疑惑を向けたことが申し訳なく思えてきた。
「どうした?」
「い、いえ! 他にも、おすすめはあるのでしょうかと……」
つい誤魔化してしまったが、どうやら成功したらしい。こちらへと、書斎に誘導される。
案内された書斎は可能な限り本棚を詰め込んだような内装だ。奥には立派な机が控えているが、そこで本を読むためのあつらえだろう。
「使用人たちにもこの部屋には近づかないよう言ってあるが、君は特別だ。この部屋に入ることを許そう」
そう告げるラシェルの纏う空気は柔らかい。優しく緩む目尻に、この人は誰だと言いそうになった。
「凄い本の数ですね」
同じ家に暮らしながらセレナは今日までこの部屋の存在を知らずにいたのだ。
「幼い頃から物語が好きでな。本を読んでいる間は孤独を忘れられた」
セレナにも、セレスティーナにもその感情には覚えがあった。
「俺は夫妻の本当の子どもではない。そのため心ない言葉を投げられることも多かったのだ」
セレナの沈黙を自分への疑問だと感じたのだろう。ラシェルは孤独を感じた自身の生い立ちを語ってくれる。
(で、その人たちに次々と報復して、社会的に葬り去ったから冷血公爵なんて呼ばれているのよね……)
だがセレナは知っていた。そのことを告げればラシェルはそうかと呟く。きっと彼の中ではそんなことも知らない妻だと思われていたのだ。
「こちらへ」
差し伸べられた手に従うと、リタ・グレイシアの名で埋まる棚が目に入る。
「凄い……」
同じ著者の名が本棚いっぱいに並べば壮観だ。しかもよく見れば同じ本が何冊もある。
「あの、同じ本が何冊もあるのですが」
「布教のためだ」
セレナが渡されたのもそのうちの一冊だったのだろう。
「ここにある本は好きに読んでくれて構わない。その代わり、一ついいだろうか」
「なんです!?」
妙にどきりとしてしまうのは隠し事のせいだ。
「俺の趣味友達になってはくれないか?」
「趣味友達?」
「またこうしてリタについて語りあえたら嬉しく思う」
緊張した口調で乞われるが、そんなことでいいのかとセレナは拍子抜けしてしまった。セレナの頭の中では、リタであることをネタに揺すられる所まで想定されていたのだ。それに比べれば気恥ずかしいが可愛いお願いである。
「旦那様さえよろしければ、喜んで」
「ありがとう」
不意打ちでくらう美丈夫の微笑に不覚にも胸が高鳴った。
妙な約束を取り付けてしまったとも思うが、不意打ちの衝撃に絆されてしまったのだ。
「旦那様、そんな風に笑うんですね」
ちゃんと表情筋ついてたんだと思ったことは内緒だ。
「おかしいか?」
「いいえ。とても素敵だと思います」
つられてセレナも微笑んだ。
もう妖精姫と呼ばれることはないけれど、それは確かにラシェルの心を魅了していた。
「友人として、これからよろしくお願いします」
セレナは夫に手を差し出す。サイン会の時とは違い、自分からその手を握りに行った。
すでに夫婦でありなが友達から始めようというのは不思議な関係だが、お互いを知ることもなかった自分たちにとっては丁度いいだろう。この人のことを知りたいという気持ちはセレナの内にしっかりと芽生えていた。
それはラシェルにも言えることである。
もう遅いからとセレナを部屋まで送ったラシェルは書斎に戻り、物言わぬ本棚相手に問いかけた。もちろんリタ・グレイシアの棚だ。
「俺は、何を……?」
あの時、無意識に伸びかけていた手を握る。我に返って押さえたが、妻の笑顔を目にした瞬間、触れたいという衝動をに突き動かされていた。
初めて握った妻の手は柔らかく、女性らしいもので、昨日握ったリタ・グレイシアの手を思い出させた。顔を見ることは許されなかったが、きっと妻のような華奢な人物なのだろう。
しかしリタに抱くのは強い尊敬と感謝だ。先ほどセレナ相手に感じた心の内から湧きあがるような強い衝動とは違う。
ラシェルはもう一度、本棚に向けて問いかけた。
「リタ・グレイシアよ、教えてくれ。君の本に登場した男たちもみな、このような感情を胸に抱えていたのだろうか」
身を焦がす初めての感情にラシェルは一晩中戸惑うのだった。
二人の間に芽生えたものが恋愛と呼ばれるようになるまであと少し――
交わることのなかった二人の関係はこの日を境に動き出す。
リタの書く物語に登場する恋人たちのように、心が通い合った本当の夫婦になる日も近いだろう。
一人で抱えるには大きすぎる怒涛の展開に、早く母に会って話したいとセレナはその日を楽しみにしていた。
読んで下さいましてありがとうございます!
本当は最後のラシェルが一人本棚に話しかけるシーンで
(いろんな意味で)本人に訊けよ! とツッコミを入れさせたかったのですが、本棚に喋らせるのもなと思いやめました。ぜひみなさんがツッコミ入れてやって下さい。
少しでもお楽しみいただけましたら幸いです!