二章ノ22 『嫉妬』
暗黒の大海に溺れる。海底に沈まんと藻掻き苦しむが、この世界に陸など存在しない。
見上げると、いくつかの光が点滅していた。掴もうと手を伸ばしてみるが、届くはずもない。
これ以上溺れないよう、水面で手足を必死に動かしている。だが、なんの音も聞こえない。
バタバタと暴れて上がった水しぶきも、不気味な無音で海に落ちた。
そんな静寂が支配する世界のどこかがひび割れ、漆黒の影と共に透明な音が侵入してくる。
──手に入れたい?
自分だけしか存在し得ないはずの世界に、いつの間にかなにかが浮いていた。
雑音がない世界で唯一の音。清明な声とは裏腹に、耳に入るのを拒絶したくなる。が、塞げば遥か暗黒の底へ落ちゆく。
魔法は使えないのになぜ空が飛べるのか、どうやって入ってきたのか、疑問は尽きない。
だが、死にかけている現状。とにかく助けてくれと願う。
すると、思わぬ疑問が返ってきた。
──助けられたいの?
当たり前だ。こんなに苦しいんだから。好き好んで苦しみたいと思う者など、一部の人種を除けばいない。
苦しむのは嫌だ。
──なんで苦しんでいるの?
呑み込まれそう。果てしなく続いている大海に。
沈みそう。深い、深い、先の見えない大海に。
──なにか勘違いをしているね?
勘違いなどしていない。助かりたい。苦しみたくない。呑まれたくない。沈みたくない。
すべて真実。この叫びに偽りは一つもない。
──そこは海じゃないよ?
なにを馬鹿なことを、とは思えなかった。
いつから勘違いをしていたのだろう。ここは底のない大海ではなく、自分が作り出した幻だ。
どぷんと海底へ沈んでいく。だが、海中でも呼吸はできる。どこかに行く必要などなかった。
奥へ奥へと常闇に溶ける。もうなにも見えない。目を開けている必要はなくなった。
そっと瞼を閉じ、輝く光の点から差し出された手を取らない。
──もう一度聞くよ? 手に入れたい?
さっきは質問の意味がわからなかった。だが、今ならわかる。
答えるまでもなく答えは決まっていた。
──君が欲しいものは君の海の底にある。
一方的にこちらの思考を読み、話しかけてくる存在がなんなのかもよくわからない。
だが、暗黒の世界でも際立つ漆黒のなにかの言葉を信じ、どこまでも続く深淵へと沈む。
その先に待っているものも知らず──。
◇◆◇◆◇
まるで時が止まったかのように、突如アムネシアの嘆き苦しむ絶叫が止んだ。
「アムネシア? どうしたの?」
抜け殻になったアムネシアへ、心配そうに眉をひそめるネクタールが手を伸ばす。
──場を満たす邪悪な魔力。
気絶するローランを亜空間へ避難させ、キョウヤたちは咄嗟に飛び退く。
「……マジかよ」
つい漏れ出たキョウヤの一言は、他の二人も同様に頭の中を浮かんでいた。
『呪剣』の禍々しさとはまた違う。魔族とも似て非なる気配。体験したこともない感覚が、不安と恐怖を煽る。
それを身体から発生させているアムネシアが、おぼつかない足取りで大地を踏み締める。
「……許せない。……わたくしからお兄様を奪うな。奪うのなら……奪ってやる」
ふらりと左右に体を揺らし、だらんと垂らす右腕を掻き上げる動作で前に出す。
「──避けろ!!」
嫌な予感がしたレークスが指示し、キョウヤとネクタールも急いで横に飛ぶ。
刹那──アムネシアの指先から前にある地面や民家が抉り取られ、鋼鉄の門をも斬り裂いた。
「なっ!」
完成から二十年間、ただの一度も壊れなかった門が綺麗な断面をあらわにし、レークスの驚愕もあらわになる。
自国の守りの要を裂くなど正気の沙汰ではない。事実、今のアムネシアはこれまで以上に異常だった。
「壊れろ。みんな壊れろ。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。全部奪ってやる──!!」
凄まじく強力な魔法だが、発狂したアムネシアは見えざる刃を絶えず無差別に放つ。
「まずいっ、このままだと避難所が」
頑丈な鋼鉄で造られた避難所も、アムネシアの魔法が当たれば切断されるだろう。そうなれば、中にいる大勢の国民の命が危うい。
「アムネシア止まれ──!!」
声は届きそうもないため、レークスは危険を承知でアムネシアへ突っ込む。
手をかざして<凍結>を使うが、アムネシアに変化はなかった。
逆にアムネシアが見えざる刃を薙ぎつけ、飛んでかわしたレークスを掬う動作で列断する。
「しまっ」
直撃なら即死は免れなかったが、横から飛んできた水色の影がレークスを攫う。
刃は無数の民家と門を破壊するが、レークスは捉えられなかった。
「間に合って……良かった……」
途切れ途切れに息が乱れ、全速力で駆けつけてくれたのが容易に想像できる。
「エリザベス……どうしてここに」
「なんか、嫌な魔力を感知して……国民のみんなは、アリシアちゃんを筆頭に、聖騎士団が第四地区に案内してる」
ここは第一地区の端であり、さすがの見えざる刃も真逆の第四地区までは届かないはず。
途中にドームもあるため、最悪ライブ会場とレークスらの住宅がなくなるだけで済む。
「そうか。なら安心だな」
「体力残らないだろうし……今日はお預けかぁ」
「おまっ、こんな時になに言ってんだ!」
顔の赤い自分の両親に向けて手を振り被るが、弧を描く銀色の光をアムネシアは避ける。
光が激突した地面は粉々に砕けた。
「ごめ〜ん、待った?」
使う場面が完全に間違っている台詞を選択し、銀色の宝石が輝く剣を持って汗ばんだ金髪を揺らす。
「よっし、ここからは私も参戦するよ!」
ミスラは<光速移動>でアムネシアの真横へ。
五十倍の<ワズラ>が右手で止められた。
「──っ!」
左手から出る刃をくるりと回転してかわし、五十倍に遠心力をプラスして放つ。
しゃがんで回避されるが、瞬時に万倍にして叩き落とす。が、地面に直接当たった。
どこへ消えたのかと見渡すと、正面にいたアムネシアが左手を右肩から左へ動かす。
地に伏したミスラの頭上を風が通り、後ろにある数十軒の建物が斜めに崩れる。
「やばっ」
続けて下から上に手を上げてアムネシアから飛ばされる縦の刃を、ごろごろ転がって避けた。
建物の状態を気にしてる暇はない。殺傷能力は超級を有に超える魔法を連発し、さすがのミスラも自分の身を守るので手一杯だ。
まるでどこかから無尽蔵に魔力が送られているかのように、アムネシアの連撃は終わらない。
このままじゃ埒が明かない、とミスラは飛び出す。探知領域をあえて狭め、アムネシアと自分の間にだけ集中する。
それにより、高速で繰り出される見えざる刃を紙一重で避けていき、射程距離に入った瞬間に<絶対零度>を発動させた。
刹那のうちに一帯が凍りつき、キョウヤらは各自でなんとか凌ぐ。
アムネシアは防ぐ間もなく氷像と化す。が、空気に溶け込むように氷は消えた。
「えっ」
さらに魔法の残滓を取り込むことで、アムネシアの体内で魔力に変換し回復する。
「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」
その瞳から光は失われ、他の全てを壊しても手に入れたい『なにか』を想って唱え続ける。
それがなんだったのか、『嫉妬』と契約したアムネシアにはもうわからなかった。
「憎い。死ね。殺す。壊す。奪う。斬る。裂く」
なにが憎かったのか、なにを殺したかったのか、なにを奪いたかったのか、なにとなにを引き裂きたかったのか、覚えていない。
ただ、どす黒い感情だけが身を動かす。
全てを奪う。全てを斬り裂く。そんなアムネシアの前に、チカチカと点滅する微光が現れた。
「アムネシア──!!」
人生最大なのではないか、と自分で思うほどの大声をネクタールが叫んだ。
「お願い、もう止めてよ」
震える鼻声にピクリと反応を示し、アムネシアは手を下ろして振り向く。
「……第一地区だけじゃない。多分、第二と第三も半壊してる。ここまでの被害は、二日三日どころか何十日かけなきゃ直らない。その間も、国民全員分の食糧が必要になる。……守るべき国民の誰か一人でも、僕たちが殺しちゃ駄目だよ!!」
アムネシアが暴れまくったことで、第一地区で生きている建物は数えるほどしかない。
第二第三も避難所付近までほぼ全滅。第四に影響はないが、代わりにドームが犠牲になっている。
「アムネシアを殺すことなんかできない。だから……これ以上壊すのは止めて」
涙ながらに話すネクタールへと、大人しくアムネシアは歩いていく。
静寂の中を進んでいき、他を壊してでも手に入れたかった兄であるネクタールの真正面で止まる。
──左手を振り上げた。そして、下ろす。
海の底に外からの雑音は届かない。目を閉じた少女に差し伸べられた手は見えない。
真っ二つに割れた。ネクタールを横から押し飛ばした巨大な岩が。
ガラガラと崩れてなくなった。
「──」
完全に狂っているわけではないのか、なにが起きたのか確かめるように、アムネシアが首を横に向ける。
先には、瓦礫の影から手を出すキョウヤがいた。
「ネクタールさんでも駄目ってことはどうせ声なんて聞こえねぇんだろうが」
刃を撃たれて見つかったことを確信し、キョウヤは盾から離れてアムネシアの正面に立つ。
「俺が絶対! 殺さずに助けてやる!!」
方法もわからず本当にできる根拠もない。だが、自信満々に堂々とキョウヤは言い放った。
「──」
ネクタールより一層大きく発光する点と向かい、アムネシアを覆う邪悪な雰囲気が増す。
「壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す」
狂気に呟きながらの斬撃に、キョウヤは<侵食の闇>をぶつける。が、いとも簡単に斬り裂かれた。
災害級をも消す見えざる刃に驚きつつ、雷速でアムネシアの真横に着く。
だが、目視できない稲妻の曲線を捉えたとでもいうのか、キョウヤがかざした手をアムネシアの右肘がずらす。
左手から放たれんとする刃の直前──アムネシアは凍りついて固まった。
狙いを定める必要のない<絶対零度>で、動きを封じた隙にキョウヤは右手に魔力を籠める。
氷が消え去った刹那──キョウヤの右手のひらから放出された疾雷がアムネシアを襲う。
直撃した<稲妻疾雷>に押され、アムネシアは音速で民家の残骸に飛び込む。
体を起こす間に無音で発砲された弾丸を斬り上げ、一回転して見えざる刃を周囲に飛ばす。
だが、この場には探知領域を使いこなす者しかおらず、見えざる刃の速度に慣れてきていた。
次第に回避に余裕のできるミスラたち。一方、チラつく目障りな光を消せず、アムネシアは両手で自分の頭を掻きむしる。
「消えない、消えない、消えない、消えない、消えない。消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ──!!」
乱舞するように無差別に攻撃し始めた。
全く見当違いの方向にまで無駄撃ちする。
アムネシアの気は完全にとち狂った。
「あがぁぁ、あぁああァァァァァ!!」
藻掻き苦しんでやけになったのか、対象もなしにひたすら連撃。
だが、そんなものが当たるはずもない。
チャンスと思ったミスラが駆け出し、アムネシアの死角から百倍の<ワズラ>を叩きつける。
──運悪くアムネシアが振り返った。
勢いそのままに左手が振るわれる。
「──っ」
暴風で自分を巻き込んで放り、ぎりぎり刃の直撃は免れた。が、掠めた左腕を血が伝う。
「あぐっ」
掠っただけだが衝撃波で骨の間近まで抉れ、アムネシアから距離を取ってミスラは治療に専念する。
頭を抱えて膝を折るアムネシアを、レークスとエリザベスが後ろから押さえ込む。
「どうしたんだ!」
「アムネシア落ち着いて!」
両手両足を二人がかりで組み伏せるが、アムネシアの中で透明な声が囁く。
──邪魔な存在は消さないと、奪わないと。
視覚にはっきりと映る暗黒の靄がアムネシアを包む。消さなきゃ、奪わなきゃ、と思考を塗り潰す。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
なにがこんなにも憎いのか、そんな小さな疑問を殺意が塗り替え、自分に乗っかる二つの光を裂く。
封じられた両手を使わず、アムネシアは自身の体を見えざる刃で覆ったのだ。
感知し咄嗟に離れたが、レークスの胸と腹が斬り刻まれ、エリザベスの右手の小指が切り離された。
「あぁァァ!!」
レークスが凍らせて止血させるが、失った部位はいくら<回復>をかけても戻らない。
「エリザベス、大丈夫か」
「う……ん……大丈夫」
「ずっと凍らせておくのも危ない。応急処置する」
ビリビリと自分の服を引きちぎり、レークスは氷を解いて破損した箇所に巻きつける。
「これで死ぬことはない。じゃあ運ぶぞ」
「へ?」
エリザベスをお姫様抱っこし、瓦礫の山を踏み外さないよう、レークスは慎重に戦場から遠ざかった。
ドームの向こう側の第四地区まで来ると、エリザベスは優しく地面に下ろされる。
「エリザベスはここで休んでてくれ」
「あ……ありがと。……惚れ直しちゃった」
「それ、毎日聞いてるぞ」
「だって本当だから」
鞘に収まる氷の魔法剣<グラム>に手を掛け、フッとレークスが笑いかけた。
「俺もだ。行ってくる」
「うん。気をつけてね」
思いのほか血色のいいエリザベスに背を向け、レークスは暴走するアムネシアを止めに災害の中心へ戻る。