奇妙な国
「ーーーーーっ!!?」
眼前に広がる凄惨な光景に掠れ声の一つ出せやしない。
実に唐突だが、生まれて初めて日本に来て一番最初に俺の身に起こった事を話そうと思う。
おいおい待てって、そう嫌そうな顔をするなよ。頼むから聞いてくれって兄弟。
目の前に男が落ちてきたんだ。
いや待ってくれって嘘じゃねぇよ。
それどころか何の誇張もない。
文字通りだ。
目の前にスーツ姿の男が落ちてきたのだ。
まあ、今となっては"男だった"が正解なのだろうが…。
ついでに言うと地面に激突した頭は、ピッチングマシンでトマトを壁に打ち出した跡みたいにペースト状になっている。
両の脚は元の間接がどうなっているのかまるで分からなくなっているし、手だったところに至っては殆どミンチ同然だ。
どこかで血管が破れたのか特有の生臭い鉄の臭いが赤黒い水溜まりと共に広がっていく。
俺は小心者だが兵役に就いたことがあるから死体自体は何度か見たことはあったが、それでもこれは思わず目を覆いたくなる。
大口径の狙撃銃で人間が撃たれたところで吹っ飛ぶのはせいぜい上半身か下半身かくらいの違いで、こうも全身を損傷したりはしない。
空爆だの無人機特攻だのならバラバラすぎて逆に実感も持てない。
…死ぬことに変わりはないにしても、戦争地域でもこんなに酷い死に様はそう見ないだろう。
つまり、吐きたくなるくらいには最低最悪の光景だったと言うことだ。
俺が急に降ってきた死体を前に立ち尽くしていると、そこに一人の足を引きずったアジア人女性がよってきた。
見ず知らずの目撃者に直ぐ近寄ってくる辺り突き落とした張本人と言う訳ではあるまいが、少なくとも関係者か或いは目撃者の一人には違いない。
「……あ…あの……」
「…!そうだ警察…!」
「…あの……それはもう喚びました…」
「…早く警察をーー」
「……ですから、警察は喚びましたから…」
混乱していたんだ。同じ事を何度も言っていたのは許してほしい。
しかし、俺が黙ったのは決して自分が馬鹿みたいに何度も同じ質問を繰り返したことに気恥ずかしさを感じたからではない。
女の顔を見てしまったからだ。
このおぞましい光景を目にしているにも関わらず、女は俺を見て"笑っていた"んだ。
俺は心の底から困惑した。
信じられない。
人が目の前で死んでいるんだぞ…?
それも他に類を見ないくらい惨たらしく。
それなのに、それなのに何故この女は笑っていられるんだ?
「…大丈夫ですか…?」
「……だ、だい……じょうぶです…」
心底心配そうな声を出す不気味に微笑む女。
その歪な在り方が今は何より恐ろしい。
この女が一体何を考えているのかまるで分からない。
俺は恐怖で女の顔に釘付けになった。
長い間日本語を勉強していたが、「蛇に睨まれた蛙」と言う諺はこう言う時の為にあったのだと思い知った。
ーーいや、今はそれどころではない。
うまく力の入らない身体を何とか動かして、死体の広間からじりじりと距離を離した。
何せ一刻も早くここから、あの頭のイカれてる女から離れたかったからな。
このままでは何か良からぬものに巻き込まれてしまうと言う漠然とした危機感がそうさせたのだろう。
「……どうかされましたか…?」
無感情な怪訝の目が俺をじろりと睨む。
関節が錆び付いた鉄製工具の様に軋んだ。
理解できないものと相対する時に感じる恐怖というものは、心臓を冷やした手でもって直接握られた様な感じに似ている。
おおよそ常人とは思えない女の笑った面には、亡者を思わせるような空虚な眼窩が穿たれている風に感じられた。
「………いえっ……何も…」
「……そうですか…」
答えた途端、急に女の顔からすうっと表情が消えた。
ーー”死ぬ”
「!!」
明るい昼から急に暗い夜になったかの様に何の前触れも無くそう感じた。
目の前の女に殺されそうになっている訳でも無く、ましてや自分の身に目に見える形で危険が差し迫っている訳でも無いにも関わらず。
女に対して感じていた感情と言っても”不気味”程度のもので、それ以上でも以下でも無い。
急に降って湧いた死への恐怖に、俺は訳も分からないまま身体を硬らせた。
おかげで呼吸もままならなくなりそうだ。
「………」
「………」
「………?」
しかしそんな急に自分が死ぬなんて物騒な事が起こる筈もなく、警戒対象だった女はその場に根差した木の如く直立不動となった。
勿論無表情のまま微動だにしない。
その目はシャキッとしている印象を受けるもののどこか虚で、会話が終わったとばかりに目の前を見つめるばかりとなったゲームのキャラクターの様だ。
「……え…」
困惑が擦れ声になる。
女の行動に理解が追いつかない。
自分の感情の推移すらも分からなくなりかけている。
「………」
急にこの身に降りかかったこの出来事は俺を混乱へと徐々に追い込むものでしか無く、思考停止も時間の問題であった。
だからこそ俺は…。
「狂ってる……」
呟く事しかできなかった。
「ーー全くだよなぁ」
後ろから何者かが俺の呟きに合わせるように硬直した肩に手を置いた。
吐き捨てる様に言った理性的な癖に野太い、そんな妙に落ち着く声を俺の耳は確かに聞いた。