美しき世界
極東の島国日本。
その第二首都東京のとあるビル街の中の一つの高層ビル。
凍てつくビル風が吹き付ける外付けの階段を見ると、ふらふらと階段を上るスーツ姿の人影が一つ。
その足取りは少々ぎこちのないもので、一段一段じりじりと何かから逃げるかのような、忌々しいものを踏み締めるような、何とも奇妙なものだった。
片手にブラックコーヒーの缶を指先だけで軽々しく掴み、髭の生えた口許には煙の出ている煙草が見える。
ああ。なんて幸せなんだろう。
こんなにも科学技術が進歩した世界で生きることが出来るなんて、こんなに幸運なことはない。
僕はこんなにも恵まれた世界で生きることが出来て、とても幸せだ。
男は自分に言い聞かせる様にそう念じていた。
男は女とすれ違った。
女は笑って会釈をした。
男も笑って会釈を返した。
去り際の女顔は、屈託のない満面の笑みであった。
男もまた屈託のない笑みであった。
女は男と入れ違いで階段を下りていった。
その足取りは、矢張と言うかどこか覇気の無い少々ぎこちのないものだった。
女が見えなくなったのを確認してから男は暫し立ち止まり煙草は指に咥えさせ、缶の中身を一口また一口と飲みだした。
「…っあぁ……」
思いの外ブラックコーヒーが苦かったのか、三口目のあたりで一瞬だけ男は哀しげな眼をした。
こんなにも幸福だ何だと言っているにも関わらず、人生最後の一服と言わんばかりの味わいようだ。
なんとも可笑しな男である。
中身の無くなった缶を足元に静かに置いた。
徐に室外機の下に手を突っ込み錆び付いた大きめのニッパーペンチを掴み出し、男は物置と化している屋上の一角を目指してゆっくりと歩き出す。
風雨に晒され埃を纏った古い立看板達を横にずらした彼は一瞬ビクッと痙攣した。
男の目的地はこの先にある。
「…」
たばこを噛み縛りつつ千切れかけのフェンスの最後の繋ぎ目を断ち切った。
かしゃんしゃんと無機質な音をたててフェンスの破片が横たわり、空いた隙間から男はビルの縁へと這い出した。
唐突に男の動きは今まで以上にぎこちないものとなった。
その様はさながら全身の痙攣に近い。
元々男の持病なのかも知れなかったが、当の本人は気にする風もない。
「………幸せ…だ……」
呟きとほぼ同時に男の痙攣は先程ほどの深刻さが嘘のように和らいだ。
短くなった煙草を地面に落とし、赤茶色の革靴で踏みにじる。
この男は恐らくエリートなのだろう。
手入れの行き届いたとてもいいものを履いている。
男は徐にその靴を脱ぎ、上司の家にでも厄介になる時のように行儀よく並べた。
ビルの縁に腰掛け、スーツの内ポケットから何やら文字の刻印された小さな銅板を取り出し靴の中に入れた。
自ら”幸せ”と言う割にどこか不穏で奇っ怪な行動である。
一つ深い溜め息をすると、男はゆっくりと天を見上げた。
12月らしい、水分の無い渇き切った寒空。
雲一つ無い快晴だった。
白く輝く太陽が相変わらず地球を照らしている。
「………」
男は日光に目を焼かれ瞼を閉じる。
ビルの屋上、気が付くと男は体勢を倒し、縁から中空に身を踊らせていた。
「…」
その男はとても幸福だった。
それはきっとその通りだ。
何せ、本人もそう思っているのだから。
ーーいや、そうでなくてはならなかったのだから。
風が心地好い。
太陽が離れていく。
空が遠ざかる。
ーー白い羽が、視界の端でひゅるりと踊る。
「あ…あ」
昔読んだ小説に"天使"という存在があったのをふと思い出す。
今の時代では殆ど聞かなくなった言葉だ。
確か、人間の身体に鳥のような翼が生えていて…。
男にはそこまでしか考える余裕が無かった。
幸せに満ちていた男が自ら命を絶つのだから、どこかでふんぞり返って世界を見下ろしている神とやらが走馬灯を見ることを許さなかったのかもしれない。
いや、或いは神の使いがーー。
地面が近付く。
幸せな男にとっては、きっとそれすらも幸せなことなのだろう。
しかし、西瓜のように脳漿を飛び散らせるその瞬間、男はまるで親からはぐれた赤子の様に。
ーー"泣いていた"。