98 クワルの暗号
グリムを追って宿を出たエイルは、目の前の光景に絶句した。
グリムが、石畳の道の上に、血を流して倒れていた。二頭引きの馬車が止まっていて、御者の男が血相を変えて降りてきたところだった。
悲鳴と、助けを呼ぶ人の声が交錯する。
エイルはグリムのもとに駆け寄った。
頭から血を流している。
――重症だ。
「おい、大丈夫か!」
「今、癒術師を呼んでくる!」
「大丈夫、私、癒術師だから」
エイルはそう言うと、ぐったりと意識を失っているグリムの横に屈み込んだ。
骨折に出血、腕や脚のじん帯もやられている。
まずは出血と、マナの流れを適切に処置しなくてはならない。
次に骨折だ。
折れた肋骨が内蔵に突き刺さっている。
骨を液化させて、内蔵の出血を止め、液化させた骨を元の位置で再び復元させる。
エイルの額から、汗がしたたり落ちる。
グリムの唇が、紫色に変色してゆく。
急性マナ欠乏の症状だ。
ヒールは、術者だけでなく、術を受ける方の体にも負担をかける。死ぬほどの怪我の場合、治療にはさまざまな種類の治癒魔法が必要となるが、患者がその負担に耐えられなければ、治療はできない。
唇が紫色になるのは、マナ欠乏の初期症状である。
重度になると、唇は白くなり、目から赤い涙が出てくる。症状は全身に現れ、黒い汗が流れ始めるほか、意識障害、頭痛や吐き気といった、多彩な症状が現れる。
グリムは、まだ唇の変色だけだ。
エイルは霊薬液をバックパックから取り出し、その一つを、グリムの唇に塗った。手の先や足の先、鳩尾にもかける。
症状の悪化は――見られない。
体に負担の少ないヒールで、筋繊維やじん帯を徐々に治療してゆく。
エイルの鮮やかな手並みに、周りの人々もいつの間にか見入っていた。
数分後、グリムは危険な状態を脱した。
一通りの処置が済み、エイルが汗を拭った。
「これで、大丈夫……」
エイルは、グリムの首筋から頬を、ため息をつきながら撫でた。
惜しみない拍手がエイルにおくられた。
「急に飛び出してきたんだ。だが俺もよそ見してた。その兄ちゃん、もう大丈夫なのか?」
御者の男は、震える声でエイルに訊いた。
エイルは、その男に睨むような鋭い視線を送り、
「はい、もう大丈夫です」
そう言った。
「本当にすまねぇ。後遺症なんかは、大丈夫なのか?」
「大丈夫です」
「悪いことをした。この通りだ、勘弁してくれ」
男は、エイルの前に土下座した。
エイルはその男の肩を叩いた。
「大丈夫です、彼は平気ですから。――部屋まで運んでもらえますか?」
御者の男と、その近くにいた男たちが、グリムを宿の部屋まで運んだ。エイルは彼らに礼を言い、その後、地面にこびり付いたグリムの血を、浄化の魔法をかけた水で洗い流した。宿の主人も、一緒に手伝った。
作業が終わると、宿の主人はエイルを労って、甘湯と目玉焼きを乗せたパンを御馳走した。エイルはそれを平らげて、二階の、グリムの寝ている部屋に戻った。
グリムが起きたのは、それから一時間ほど経った後だった。
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俺は、目を覚ました。
頭がぼおっとする。ベッドの上に寝ている。
天井までの距離が、いまいち掴めない。
「飲みすぎ」
傍らのエイルが、じっとりとした目で、俺を睨んでくる。
あれ……。
俺は確か、部屋を出たはずだ。階段を下りて、宿を出て、それからどうしたか。記憶がない。それからちょっと、頭と体が痛い。
「黒魔術は、今回は助けてくれなかったの?」
「……え?」
「馬車に轢かれたのよ」
「え!?」
俺は、両手両足を確認した。
どこも、失ってはいない。体の曲げ伸ばし、問題ない。ちょっと、筋肉が固まっているような痛みがあるだけだ。頭は、相変わらずぼやっとしている。
「死ぬような、怪我をしてた……?」
「ほっといたら五分で死んでたわ」
「……助けてくれたのか?」
「私癒術師だもの」
「……」
なんで、死にそうな怪我をしてるんだ……?
黒魔術が、守ってくれるんじゃないのか……?
「お酒には勝てなかったみたいね」
エイルはそう言って、笑ってくれた。
本当に、そうらしい。酒には勝てなかった。昔話や伝説には、ドラゴンや巨人も、救国の英雄が、酒に酔って人生を踏み外すような話がいくつもある。――あれは、本当なのだろうか?
「飲みすぎた……」
固い枕の上に頭を乗せる。
この怠さはアルコールのせいなのか、それとも怪我のせいなのか。エイルが、スープも貰ってきてくれた。木のスプーンで緑のスープを掬い、それを、俺の方に差し出す。
「はい」
「……え?」
フーフー……。
「はい」
「……」
飲ませて貰った。
エイルも無言。無言で、二口目。
「……」
「……」
三口目。
なんだこの、無言の作業は。スープの味なんてわかりやしない。
「もういいよ……」
四杯目は遠慮しておく。
男子垂涎もののシチュエーションだが、こっちは、恥ずかしくて死にそうだ。介護してもらっているみたいで、惨めな気持ちになってくる。それくらいできるよ、と言いたい。言いたいのだが、そんなことをわかっていて、エイルあえとそういう風にしているのだから、それは男として、甘んじて受けて立つしかあるまい。
「もういいの?」
「いいよ」
エイルが、くすりと笑う。
完全に、遊ばれている。なんという小悪魔だ。
だが仕方ない、俺がいけなかった。怒鳴り散らして、瓶を投げつけて――いや、自分のことながら信じられない。俺のどこに、そんな荒々しい人格が眠っていたのかと思う。
「ジャンヌたちを探さないとな……」
ぼんやりそんなことを口にする。
三人はどこに行ったのだろうか。こうしている間にも、俺たちは、傭兵や賞金稼ぎに襲われるかもしれない。もしかするとジャンヌたちも今頃、追われているかもしれない。
なんで酒なんて飲んだかなぁ……。
スープを飲む。
今度は、自分でだ。エイルが何か言いたそうに口を開きかけたが、俺はそれを無視して、匙を動かした。
しかし、スープというのは、どうにも味気ない。
いや、この枝豆のスープは非常においしい。まろやかで、コクもあって、後味に豆の香ばしい風味もある。だが俺は、むしろこういう時は、テンプレ通り「お粥」がいい。怪我人、病人にはお粥と相場が決まっている。
ここに粥物はないだろうか。
南の方だから、米料理の一つくらいあっても良さそうなものだが……。
米、か……。
何か引っかかる。
「米……」
「米? そういえば、あの廃墟に、米の袋があったわね」
「米の袋……」
なんであんなところに米の袋があったのだろう。
米なんて誰が……。
「クワルたちか……」
きっとそうだ。
クワルは、米料理を作るようになって、米のファンになっていた。毎日米、パン派から米派に派閥を変えた。そんなクワルの事だから、トリンドルに身を潜めている間は、米を炊いて、ご飯を食べていたのかもしえない。
飯盒炊爨するクワルを想像すると、なんだか微笑ましい。
「何かの暗号なんじゃない?」
「暗号?」
「普通、米の入った袋だけ、置いていく?」
「それはまぁ……確かにな。でも、どんな暗号だよ?」
エイルは首を振った。
米が袋に入っていた。実際には小動物が袋を破って食べていたわけだが、あれか、「袋のネズミ」とか、そういうことか? いやいや、それじゃあ何の暗号にもなりやしない。
もしクワルたちが暗号を残したとすれば、それは、行き先だろう。
米と袋で、それを表現したというのか。考えすぎじゃないのか?
でも確かに、あの米は、不自然ではある。
「あの暗号は、たぶん……貴方にしか解けないわ」
「どうして?」
「米は、貴方のところの食文化なんでしょ?」
「うん。いや、でも、この国の南でも米の文化はあるんだろう?」
「あるけど、暗号なんだから、貴方が分かるようなことのはずよ」
考えるしかなさそうだ。
あれが本当に暗号だとしたら、それは一体どんな……俺に分かることで、米のこと、行き先……。
「エイル、この辺の町や村の名前が載ってるもの、持ってないか?」
「買ってくる」
そう言って出て行ったエイルは、三十分ほどで帰ってきた。
ベッドの上に買ってきた地図を広げる。
一つ一つ、名前をさらってゆく。
村や町だけではない。山や川や、湖、草原や丘、遺跡などの名前も全部。聞き覚えのある、あるいは見覚えのある単語があれば、それが正解の可能性が高い。俺が確実に知っている土地を、エイルはあの米の暗号の中に隠したに違いない。
だが俺は、五分、十分と単語を見てゆくうちに、もう二つの可能性を考えるようになってきた。即ち、米の暗号が示すのは土地の名前ではないという可能性。そしてもう一つは、やっぱりあの米は、暗号ではないという可能性。
目頭を押さえ、ため息をついた。
こんなことは、砂浜から砂金を見つけるようなものなのではないか。
「どうしたの?」
「あれは、本当に暗号だったのかな」
「そう考えるのが妥当よ」
「たまたま忘れていっただけかも」
「たまたまあれを忘れると思う?」
「バックにしまう暇がなかった、とか」
「食事時以外で米を出す場面はある?」
「……ないんじゃないかな」
「米は、どうやって料理するの?」
「クワルなら飯盒を使って、炊くと思う」
「米を忘れていくような状況で、どうして他の物――例えばその、ハンゴウとか、そういうものが何一つないのかしら」
「……」
「あれは彼女が、意図的にあそこに置いて行ったものよ。そう考えるべきだわ」
エイルは断言した。
その自信はどこからくるのだろうか。だが、エイルがここまで言うのだから、そうなのかもしれないな、という気になってくる。
――もう一度探してみよう。
砂浜に砂金はあるらしい。それなら俺にできるのは、それを隅から手で掬うことだけだ。
いくつか、気になる名前があった。
ひっかかりを覚える単語が十ほど。
俺は、自分でピックアップした単語に、「米」を照らし合わせてみた。
だが――さっぱりわからない。
閃かない。
「頑張って」
エイルが応援してくれる。
だが、どう頑張れば良いのだろうか。力んで何とかなるようなことでもない。頑張れば頑張るほど、かえってダメなような気もする。
時間だけが過ぎてゆく。
もう夕方だ。窓から西日が差し込んでくる。こうしている間にも、追手は確実にせまってきている。そして今夜あたりまた、襲われるかもしれない。
「食事にする?」
エイルが訊いてきた。
俺は頷いた。「わかった」と、エイルが注文をしに行こうとした。
「米料理があればほしいんだけど」
「うん」
エイルは頷き、部屋を出て行った。
しばらくすると戻ってきて、それからさらに三十分ほどして、宿の女給が食事を運んできた。パンとスープとソーセージ。それに甘湯。もう酒は御免だ。暫くは。
結局米料理はなかった。なんとかという川が氾濫したせいで、米を扱う行商が、こっちに来られないのだという。ここではパンとスープが主だから、米が入ってこなくても、誰も困らない。だから備蓄米なんてないらしい。
日本人の俺にとっては、厳しい環境だ。
ラリアンを出てから、もうかれこれ――今は何日目だろうか。
白米が恋しい。あの、クワルが残していった白米を持ってくればよかった。もしかするとあれば、暗号とかではなく、クワルの気遣いだったのかもしれない。
ソーセージを齧る。
噛むと旨味の肉汁がじゅっと出てくる。
それをおかずに、ご飯が食べたい。パンは、味気なさすぎる。エイルにパンは似合っているが、俺は、パンが似合うような男ではないはずだ。
トリンドルから移動しなければならない状況になって、しかも目的地が決まっていないなら、俺だったら、米のある土地に向かう。
このあたりで米を作っているというとどこなんだ。ラリアンだと、米は行商から、結構な高値で買うしかなかった。ラリアンで俺が米を買っている行商は、オロンという村だか町だかで米を買い付けるのだと言っていた。
しかし地図を見ると、「オロン」なんていう地名はない。
あの行商は、いったいどこで米を買い付けていたのだろう。この地図にも載らないくらい、小さな村落なのだろうか。
「はぁ……」
思わずため息がこぼれる。
暗号は解けないし、米はないし、おまけに頭のぼんやりも取れないし――まぁそれは自業自得なのだが、とにかく、気分が萎えてしまう。
「どうしたの?」
「いや、米が食べたいなと思って」
「そんなに美味しいの? お米って」
「食べた事ないか」
「あるけど、あんまりおいしくなかった……テイシャンって料理だったけど」
「あぁ、テイシャン粥ね……テイシャンはまぁ、初心者には厳しいかな。あれは、やたらべとっとしている割に味が薄いから……」
「ふぅん」
「レゼの米はどうか知らないけど、オロンとかいう所から運ばれてくる米は、美味いよ。ちなみにエイル、オロンってどの辺りか知ってるか?」
エイルは、「え?」というような顔をして、それから、地図の南の端っこの方に指を置いた。地図の四角い枠の外側、余白の部分を、エイルは示している。
「地図の外じゃないか」
「オロンから米を買ってるの?」
「オロンから米を買い付けている行商人から買ってる」
「本当に!?」
「うん。何かおかしいことなのか?」
「――貴方のかわいい付き人も、そのことを知ってるの?」
「知ってるよ」
エイルは少し考えて、それから言った。
「それが答えよ」
「え?」
「貴方にだけ解ける暗号なら、きっと、そういうことになるわ。他の誰かに見られても、米とだけしかわからない。でも貴方は、米を見てオロン庄を連想できる」
「つまり――三人は、オロンに向かった?」
エイルは、力強くうなずいた。




