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95 安らぎと襲撃

 俺たちはやっとの思いで、ソールハンまでやってきた。

 街道沿いの駅宿で馬を変えて、二日をかけてやってきたのだ。昼間は街道沿いの森に隠れて眠り、夕方から動き出す。まるで夜行性の動物になった気分だった。


 キーロから南に延びた街道は、二つに分かれた。

 一つは、そのまま南に延び、レゼを通り、その先の港町にまで続いている。もう一方は、南西に伸びて、鉱山地帯へと続いている。その鉱山地帯はイルグルと呼ばれているので、そこへ向かう街道は、イルグル街道と呼ばれている。


 俺たちは、そのイルグル街道でソールハンに来たのだ。

 ソールハンは小さな湖沿いの町で、石畳が敷かれ、ホペンやキーロに比べれば、随分都会である。日暮れを待って町に入り、宿を探した。ソールハンにも傭兵はいたが、キーロやホペンほどではなかった。


 宿も見つかり、俺たちは数日ぶりに、人間らしい生活ができることに浮かれた。水浴びさえできなかったエイルは、宿に荷物を置くと、さっそく公衆浴場に向かった。俺は一応、宿に残った。公衆浴場の終わる時間ぎりぎりを狙って滑り込む算段だ。


 とりあえず俺は服を脱ぎ捨てた。

 服は、脱ぎ捨てられると、ラリアンを出たときに着ていた普通の布の服に変わった。少し驚いたが、今は、そんなこと些細な問題だ。

 俺は、全裸でベッドに飛び込んだ。


「ぐふっ……」


 固いベッドに胸部を打って息が漏れる。

 だが――嬉しさが込み上げてくる。今日は眠れる。このベッドで。屋根のある部屋で。全身のこわばっていた筋肉が溶けてゆくようだ。ばたばたと、クロールをしてみる。次に背泳ぎ、平泳ぎ。

 すこしざらつくが、そんなことは大した問題じゃない。白いシーツの海の上で、俺は確かに、生きている。生きてここまでやってきた。トリンドル城塞跡地までは、順調に行けばあともう、三日ほどだ。


「あぁぁぁーー!」


 奇声を発する。

 気が狂ったわけじゃない。緊張の糸が切れたのだ。

 と、そこへ――。


「グリム!」


 バタンと、勢いよく扉を開けて、エイルが飛び込んできた。

 目が合う。

 俺は全裸だ。


 一瞬固まり、さっと掛け布団で体を隠す。

 乙女か、俺は。

 まぁそれはいいとして、エイルが、まだ固まっている。


「な、何してるの……」

「いや、ちょっと、解放してた……」

「何を……」

「抑圧さえた、精神?」


 はふうっと、エイルがよたよたと力を抜いた。

 エイルは、なんということだろう――湯上りだ。緑色がかった黒髪が、濡れている。いつもは頭の後ろで、ギブソンロールのように束ねていたからわからなかったが、エイルの髪は……綺麗だった。絹のようで、つい触りたくなってしまう。


「驚かさないで……」

「いや、こんな早く帰ってくると思わなかったから」

「何、あの声は」

「ごめんごめん」


 少し気を緩めすぎたか。

 しかし、平泳ぎをしている所で良かった。背泳ぎを見られていたら、これは最悪だったかもしれない。あの淫魔の話を信じるなら、エイルはまだ、男を知らないのだから。


 部屋に夕食が運ばれてきた。

 俺の部屋で、エイルも食事をとる。エイルは酒を飲まなかったが、俺は少しだけ飲んだ。俺も自分で言うのも何だが、結構真面目だと思う。だがエイルは、この生粋のA型日本人に輪をかけて、真面目だった。酒は、全てに決着がついてからだと言った。


「――どう決着をつける?」


 俺は、エイルに訊いた。

 俺自身、わかっていないことだ。ジャンヌとカールをどうするか。このまま逃げるのか、それとも別の事を考えるのか。

 しかしエイルは、驚いたことに、俺の質問にすぐに答えてくれた。


「エリーゼに行くのがいいと思うの」

「エリーゼ!?」


 聖都と呼ばれている町である。

 ラリアンの北東に位置するその町は、カカン王国における女神信仰の中心地だ。ベイフの就職先でもある。ここからは、だいぶ離れている。パトラッシュなら数日のうちにたどり着けるだろうが、俺たちは、合流すると五人のパーティーだ。パトラッシュには乗り切れない。


「エリーゼなら、騎士団の傭兵も入ってこられないでしょ」

「そ、そうなのか?」

「そう」

「ふ、ふぅん……」


 いや、ふぅんじゃない。


「でも、その後は?」

「ベイフを頼る」

「……大丈夫かな?」

「きっと大丈夫。それに、私ももう、カメス・メイスには戻れないから」


 あぁ、そうだった。

 エイルは、カメス・メイスから飛び出してきた形になるのだ。ジャンヌやカールと同様、エイルにも、もう帰る場所がない。事件がどういう顛末になろうとも、俺とクワル以外の三人は、新天地を探すしかないのだ。あるいは、ルノアルド王家と全面戦争をして居場所を勝ち取るという手もあるが、俺は御免だ。


「エイル……良かったのか?」


 質問すると、エイルは微笑した。


「良かったのよ。もともと私には、そんなに失う物はなかったから」

「元の生活は永遠に失われた」

「別に、今までの生活に愛着があったわけじゃないわ。貴方こそ、良かったの?」

「まぁ、俺は――ピカソ導師だし」


 この一件が落着すれば、俺は再び、ユランの魔術士グリムとして、ラリアンに帰って行ける。少し卑怯な立ち位置だ。エイルの覚悟に申し訳ない気がする。


「そういえば聞きそびれてたけど――」

「うん?」

「あの、騎士隊長に質問した、アレは何? 雨を罰するとか何とか……」

「あぁ、あれは……禅問答というやつだ。それっぽかっただろう?」

「ゼンモンドウ?」

「そういうのがあるんだよ」

「どういう意味だったの?」

「あれは――」


 説明するというのは、なかなかに恥ずかしいものだ。いや、決して出鱈目で、考えなくあんな質問をしたわけじゃない。ちゃんと考えはあった。だが、禅問答の難しいところは、その意図は、解いた者にしか解らないという点だ。


「例えば、川から木の枝が流れてきたとする」


 エイルは難しそうな顔で頷く。


「その枝は、良い枝か、悪い枝か」

「……え?」

「まぁ、そういうものなんだ。説明はしないよ。これは、そういうものなんだ」


 真面目なエイルは、椅子に座ってしばらくじっくり考えていたのであった。

 俺は考えるエイルを部屋に残して大衆浴場に行き、ぱっと体を洗って帰ってきた。湯船につかってゆっくりしようと思っていたのだが、エイルを一人置いてきているという状況が、落ち着かなかったのだ。

 エイルが早く帰ってきたのも、同じことを考えたせいなのかもしれない。


 俺が部屋に戻ると、エイルはどういうわけか、ベッドの横の床に、寝袋にくるまって横になっていた。エイルのいつも背負っている、緑のバックパックも、なぜか部屋の隅に置かれている。


「エイル?」

「なに?」

「いや……どうしてそんな所に?」

「ここで寝るから」

「え?」


 エイルの部屋は隣だ。

 これは、どういう風の吹き回しだ?


「夜、襲われるかもしれないでしょ?」

「え、俺が、エイルを!?」

「は、はぁ!?」


 エイルは怒って、寝袋から上半身を起こした。

 顔が赤い。仕方がない、なぜならエイルは男を――それはまぁいいとして……。


「私たちが、傭兵とか騎士とかによ!」

「あ、あぁ!」


 なるほど、そういうことか。

 襲われる危険があるから、一つの部屋にいた方がいいと、そう考えたのだな。だがその場合、俺によるエイルの襲撃は、想定しないのか? そういう想定が全くないというのも、男としてちょっと、いや、結構傷つくものだ。


「それなら、二人で一緒に寝た方がいい」

「うん。だからそうしましょ」

「そうじゃなくて、このベッドに」

「……え?」

「二人で」


 ぽん、ぽんと、ベッドを叩く。

 エイルが、わなわなと唇を震わせる。


「馬鹿じゃないの! なんでそうなるのよ!」


 怒られた。


「嘘ウソ。俺が寝袋で寝るよ。エイルはベッドだ」

「いいの。私が寝袋で――って、ちょっと!?」


 エイルを、寝袋ごとお姫様抱っこして、ベッドの上に置く。エイルの体は、相変わらず軽い。そして寝袋越しからでも、柔らかかった。あと、いい匂いがした。

 これ、同じ部屋で大丈夫か?

 真面目に、俺によるエイルの襲撃、あるんじゃないのか? こればっかりは、「ない」と言い切れない男の性だ。


 俺は収納の杖から寝袋を出して、床に放り投げた。

 俺は、床で寝ることを決めた。


 エイルらしい判断だ。今夜襲撃があるなんてことは、さすがにないと思うが、勝負がつくまで隙を見せない、気を抜かないその姿勢は素晴らしい。それに、そういう事情がなくても、一緒の部屋で寝ても良いと思っている女子がいるのなら、それを追い返すなんて野暮な真似は、俺にはできない。

 破戒僧? 生臭坊主?

 いや、違う。まぁ、もともと坊さんではないが、俺は禁欲主義的な戒律には縛られないし、そういう神には仕えていない。俺の神は、あの適当な老人だ。常に自然であること、それが俺の、今の宗教なのだ。

 ――つまり男が、女性と寝たいと思うのは自然なことで、それを、そうしてはならぬと考える方が不自然なのだ。自然の摂理に反している。だから今日は、エイルと一つ屋根の下、というか、同じ部屋で、寝る。


「グリム――」

「男の見栄みたいなものだから、何も言わずにベッドで寝てくれ」


 俺がそう言うと、エイルは言葉を飲み込んだ。

 見栄と言ったが、本当は、邪な気持ちを抱いている自分への罰的な意味のほうが強い。あるいは、戒め。やっぱり、理屈を抜きにして、エイルのような美人が、同じ部屋に寝ても良いかなと思うくらいには心を開いてくれていることが嬉しい。


 今夜は、襲撃者よりも、自分が襲撃者にならないように、煩悩との戦いだ。


「おやすみなさい」


 エイルがそういって、ランプの灯りを吹き消した。

 その、吹き消す動作にもドキリとしてしまう。三十を前にして、我ながら初心なものだと思う。いや、だが――そういう感情を持たなくなったら、人生つまらないんじゃないだろうか。


「おやすみ」


 俺もエイルに応え、寝ることにした。

 ……眠れねぇ! なんていうのは修学旅行のようなお泊り会だが、女の子と同じ部屋でも、今の俺は、性欲より睡眠欲だ。いざ灯りが消えて横になってみると、もう、休む以外には考えられなくなった。

 ベッドの上で横になるエイルの、あのあどけない寝顔とか、シーツに広がる無防備な髪とか、服の裾から微かにのぞく細い足首とかを想像しながら、俺は眠りに落ちた。



「……っ!」


 ぱっと目を覚ました。

 俺の体は、目を覚ますと同時に自然と寝袋を飛び出していた。咄嗟に、エイルの安否を確認する。エイルは、ベッドの上で寝いた。

 月明かりが、エイルを照らしている。


 俺はエイルの首と腰の下に手を滑り込ませ、掛け布団毎エイルを持ち上げると、部屋の隅に逃げ込んだ。エイルが目を覚まし、まん丸い目で俺を見つめてくる。


 ――直後。

 窓ガラスの割れる音と、部屋の扉が壊されるのは同時だった。

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